第2話 阿修羅社畜の誕生と、給料三ヶ月分の対価
「ふひひ」
自分でも正気じゃない笑い声だと思った。
だが止まらない。
止める必要も、今は感じない。
視界が、冴えた。
世界が、くっきりと見える。
眠気が、消えた。
疲労? 何だ、それ。
「行かないと……」
なぜか、立ち上がっていた。
靴を履いていた。
「走れる」
いや、違う。
「今、走らなきゃいけない気がする」
理由はない。
ただ、体がそう命じていた。
夜の街を、全力で走る。
疲れない。
息が上がらない。
今なら空だって飛べる気がする。
猛烈に叫びたかった。
「俺は……自由だぁ!」
雄叫びに応えるように、
近所の犬が、一斉に吠え出す。
「ありがとう!オーディエンス!」
声を張り上げた瞬間、
胸の奥が、さらに熱くなった。
帰宅後も、目はギンギンだった。
シャワーを浴びても、眠くならない。
そのまま、走って出勤。
「俺について来られるかな!ふひひひ!」
ご近所さんが顔を見合わせ、何かひそひそ話す姿を尻目に、
俺は住宅街を駆け抜けて行った。
その日から三日三晩。
俺は不眠不休で働いた。
資料作成。
電話対応。
クレーム処理。
「課っ長ぉ!俺はまだやれますよ!」
「さぁ、もっと持ってこぉい!」
「コンピュータだって、ついてこれねぇぜぇ!」
周囲が引くほどの仕事量を、血走った目と笑顔でこなした。
「すごいな……」
「あの調子、三日目だろ?」
「阿修羅像が見える……阿修羅社畜」
阿修羅社畜。
……悪くない。
俺はこの溢れる万能感に満足していた。
四日目の朝。
出勤すると同時に、突然、視界がブラックアウトした。
「……あ」
糸の切れた人形のように、俺は崩れた。
――食べすぎ注意ですにゃん――
遠くでミルフィの声が聞こえた気がした。
気がついた時、病院のベッドで丸二日が経っていた。
診断は過労。
支払いを終えた俺は、
軋む身体を引きずって退院した。
「いっ、ぎぎぎぎ……」
玄関で靴を脱ぐだけで、太ももが悲鳴を上げる。
尋常じゃない筋肉痛。
ベッドに倒れ込み、そのまま眠った。
夜、暗くなった部屋で目覚める。
身体は鉛のように重く、腕を上げるだけで激痛が走る。
「どうしてくれんだよ、これ。明日も仕事行けねーだろ」
溜息をついて、手元のリモコンでテレビを付けた。
♪テレレレッ♪
一瞬。
あの軽快な、聞き覚えのあるBGM。
「……え」
体が、ぴくっと反応する。
テレビ画面が切り替わる。
派手なテロップ。
明るすぎる笑顔の司会者。
『さあ始まりました!
本日もスペシャル企画、異世界通販のお時間ですにゃん!』
「…………おい」
幻聴じゃない。
見覚えのあるシルエット。
動く猫耳。
「……ミルフィ?」
画面の中で、
ミルフィがくるっと一回転して、
こちらを向いた。
『こんにちはですにゃ〜!
皆さま、お加減いかがですかにゃ?』
俺はソファに沈んだまま、目を細める。
「……タイミング、悪くない?」
『悪くないですにゃ』
即答。
『むしろ、ちょうどいいですにゃ』
「……」
軽快なBGMが続く。
ミルフィが、
いつもの調子で続ける。
『前回、ちょっと元気になりすぎた皆さまに!
今回は“治す”やつですにゃ!』
「ちょっとじゃない」
思わず突っ込む。
『今回は!
幻とも言われるこの商品を
ご紹介しますにゃ〜!』
画面が、
ぱっと切り替わる。
光に包まれた小瓶が映る。
『万能薬・エリクサーですにゃ〜!』
「……エリクサー」
ファンタジー小説でよく出てくるやつ。
名前だけは聞いたことがある。
『万病に効きますにゃ』
『怪我、病気、衰弱、呪い』
『不治の病でも、治りますにゃ』
「……万能すぎだろ」
体が痛い。
動かすたびに悲鳴を上げる。
「……正直、今すぐ欲しい」
そう思った自分に、
少しだけ驚く。
『副作用は、なし!』
『飲みすぎても、もったいないだけですにゃ!』
『お値段以上の効果ですにゃ!』
ミルフィが言った、その直後。
ほんの一瞬、
目を逸らした。
「……何、また何か訳アリ商品なんだろ」
ドラゴンの肉の時と同じだ。
重要な注意事項を、
軽く流す時の癖。
でも――
今の俺には、
考える余裕がなかった。
軋む体。
全身筋肉痛。
明日、仕事に行けそうにもない。
「……買おう……」
『ありがとうございますにゃ!
こちらはお電話注文のみですにゃ〜』
表示された番号に、
そのまま電話をかける。
迷いは、なかった。
「エリクサー、一つ」
『すぐにお届けですにゃ』
次の瞬間。
部屋の中央が、ふわりと淡く光った。
光が収束して、
どさっという音。
そこに、
無地の箱が現れる。
「……前と同じだ……」
慎重に近づく。
前回より箱は小さい。
中を開けると――
小瓶。
そして、紙。
請求書。
メッセージカードが一枚、添えられている。
『デビットカード決済が
通りませんでしたにゃ』
『お手数ですが、
お振り込みよろしくお願いしますにゃ〜』
「……」
請求書を見る。
手が震え始めた。
冷や汗が流れる。
「え……ちょっと待て……は??」
桁を、数える。
もう一度、数える。
「……給料、三か月分?」
一瞬、
本気で息が止まった。
「……婚約指輪でも買ったのか、俺……?」
小瓶を見る。
また、請求書を見る。
体は痛い。
でも――
「……これは、使えない」
筋肉痛ごときで使う値段じゃない。
慎重に、
本当に慎重に、
小瓶を箱に戻す。
そして、
棚の奥へ。
「……いざという時のために取っておこう……」
自分に言い聞かせる。
このエリクサーは、
もっと切羽詰まった場面で使うものだ。
錆びた体を引きずりながら、
ソファに戻った。
(……しばらく、もやし生活だ)
そう思いながらも、
今は何も映さないテレビ画面から、
目を離せなかった。
俺は悟った。
――この通販番組、
絶対に人間向けじゃない。




