第15話 猫の声が聞こえるアイテムを買ったら、思ったより毒舌だった
相変わらず、俺は社畜をやっている。
朝、目が覚めた瞬間から疲れている。
布団の中で体を起こす前に、すでに一日分の気力を使い切っているような感覚がある。
重い頭を枕にめり込ませたまま、溜息をつく。
溜息は幸せが逃げるそうだ。俺に逃げる幸せは残っているのか。
歯を磨き、顔を洗い、スーツに袖を通す。
また溜息をついて、ドアを開ける。
なんで空はこんなに青いんだ。
仕事は今日も定時では終わらなかった。
気づけば終電の時刻で、周囲の様子をうかがいながら、ようやくパソコンを落とす。
達成感はない。ただ「今日も終わった」という事実だけが残る。
電車の中は、思った以上に混んでいた。
つり革につかまりながら、俺はぼんやりと窓に映る自分の顔を見る。
最近、うまく笑えない。
それに気づいたのは、いつだっただろう。
改札を抜けると、夜の空気がひんやりと肺に入ってきた。少しだけ息がしやすくなる。駅から家までの道を、考え事もせずに歩く。
信号の色も、街灯の明かりも、どこか遠い。
玄関で靴を脱ぐ。
上着を脱ぎ、ハンガーに掛ける。その動作だけで、ひどく怠い。
顔を上げると、ハチがいた。
餌皿の前で、前足を揃えてきちんと座り、こちらを見上げている。
丸い瞳と視線が合う。
――早くご飯を出せ。
そう言われている気がして、顔が少し綻ぶ。
こいつは、暗い部屋で一人、腹を空かせながら、俺を待ってくれていたんだ。
テレビも点けず、時計の針の音だけが響く中で。
「……悪かったな、遅くなって」
靴下のまま台所に立ち、カリカリを皿に出す。
謝罪の意味も込めて、かつお節をひとつかみ振りかけた。
「今日もさ……あのヅラが余計な仕事増やしたせいで……」
「ニャン」
「アイツは真顔で押しつけてきやがる。イエス以外は死刑だ」
「ニャー」
「……少しくらい、人間扱いしてくれてもいいと思うだろ?」
ハチは何も答えない。ただ、カリカリを噛み砕く音だけが、小さく続く。
それが、今はありがたかった。
正論も、慰めも、今日はいらない。
ただ、ただ、聞いてほしい。
皿が空になると、ハチは満足そうに立ち上がり、今度は猫じゃらしを咥えて戻ってきた。遊べ、ということだろう。
本当は一秒でも早く眠りたかった。それでも、俺は床に腰を下ろし、猫じゃらしを受け取る。
猫じゃらしを振る。
ドタバタとハチが跳ぶ。
その単純な動きに、なぜか救われる。胸の奥に溜まっていた澱のようなものが、少しずつ薄まっていく気がした。
「聞いてくれよ……あのクソ課長がさ……」
「ニャー」
「そうか、お前は分かってくれるか」
「ニャー」
「……俺も猫になりたい」
そのとき、俺は気づいた。
自分が、ハチの返事を待っていることに。
軽快すぎる音が、部屋に響いた。
♪テレレレッ♪
派手なテロップ、やけに明るいBGM。
画面には、ピンク髪の猫耳娘――ミルフィが映っている。
『今日の薫さん、いよいよお疲れですにゃん』
「放っといてくれ」
『ハチの相槌、欲しくなってきてますにゃ?』
否定しきれず、俺は黙った。
『そこでこちら! 翻訳玉こんにゃくですにゃ!』
「おい、それはアレだろ! 完全にアレだろ! ポケットから出るヤツ!」
『ち、違いますにゃ! これは丸いですにゃ!
たまたま雰囲気と、弾力が似ているだけですにゃ!』
「弾力の問題じゃねえ!」
『で、では正式名称!
人獣翻訳デバイス《まるっと教えて》ですにゃ!』
隣でアシスタントのラビが、玉こんにゃくそっくりのそれを握りしめていた。
「こちらを、むにゅっと握るのです!」
『違うのにゃ! ラビ、そーっと優しく握るのにゃ!』
「はわわ……中身が……出そうなのです……」
耳を垂らして慌てるラビを横に追いやり、ミルフィが画面いっぱいに身を乗り出す。
『薫さん。これを使えば、ハチの声が聞こえるにゃ。
ちゃんと、“お疲れさま”って』
――その一言で、俺は負けた。
正直、異世界通販の商品は安くない。
1Gあたり100円。
でも、ハチの“お疲れさま”のためなら――買うしかなかった。
深夜に届いた箱を開ける。
中身は、どう見ても玉こんにゃくだった。
そっと握り、ハチに話しかける。
「ハチ……いつも遅くなって、ごめんな」
『ほんとだよ。飢え死にさせる気?
それにカリカリも安物だしさ。せめて、かつお節くらいトッピングしてもらわなきゃやってらんない』
「……え?」
『まあ、金なさそうだし、仕方ないけど。
あ、あと、いびき。うるさいから気をつけて』
思っていたのと、違う。
優しい言葉を期待していた自分がちょっと恥ずかしい。
優しさも、慰めもない。
でも、それが逆に胸に刺さった。
俺はそれを、そっとポケットにしまう。
これは良い買い物だったような気がする。
ポケットのこんにゃくもどきが、少し温かく感じた。
翌日。
それをスーツのポケットに入れたまま、仕事に追われていた。
いつも通り、昼食はエナジードリンクだ。
いつもと違ったのは、終業時間直前、同期の田村が声をかけてきたことだ。
「よ、相川。この後、暇か?暇だろ?」
「んなわけねーだろ。見ろ、この山を」
「そんなもん、やらなくったって誰も死なねぇよ」
田村がにやりと笑う。
「てことで、付き合え」
帰り支度をして、エレベーターに乗り、一階のエントランスに向かう。
そこには、やけに気合の入った、新品のスーツの田村が居た。
いつもぼさぼさの髪がきれいにセットされている。
無精ひげがない。
眼鏡をコンタクトに変えたせいか、少し赤い目をしていた。
「どうしたの、お前。どこ行く気なんだよ」
「婚活パーティ」
「はぁ!?」
「お前だって欲しいだろ、彼女!奥さん! 俺は寂しいんだよ!」
「お前なぁ……」
「頼むって! 一人で行くの、なんか嫌なんだよ」
田村の気持ちが分かるような気がして、俺は断り切れなかった。
会場は、眩しいほどきらびやかだった。
皺ひとつないスーツ、色とりどりのワンピース、笑顔。まぶたの裏が痛い。
プロフィールカードを書く。
アピールポイントの欄は、白いままだった。
女性との会話は一人五分。
俺は必死に笑顔を張り付けて、会話を試みる。が、続かない。
相槌が「へぇ~」しかない。
あからさまではないが、みな自分に興味がないことは分かった。
ぐるぐるとテーブルを回る。
――パドック。
俺は品定めをされる、駄馬だ。
心が擦り切れた俺は、壁際に用意された軽食コーナーへ移動する。
もういい、せめて腹を満たそう。このカナッペで。
終了のベルが鳴るまで、俺は、表面が乾いたカナッペを食う。
手を拭こうとハンカチを取り出そうとしたとき、むにゅり、とそれを掴んだ。
途端にあちこちから声が聞こえてくる。
「年収三百万で婚活とか……」
「趣味がない人ってつまらなそう」
「身長は百八十センチ以上が理想」
「将来性がちょっとね……」
(おいおい、心の声、翻訳しちまってるじゃねーか)
うんざりした俺は天を仰ぐ。
(これ以上はハートが潰れる)
「田村、悪いけど帰るわ」
会社とは別人のように、快活に談笑する田村を見つけ、俺は声を掛ける。
「え、良さそうな子いなかった?」
「あ―……そうだな」
「俺は二十八番の子といい感じなんだよ! LINEも交換できた!」
「そうか、良かったな」
視線を感じたのか、二十八番がこちらを見て微笑む。
「う~ん、年収低いし、出世もなさそう。ナシかな」
(田村、ドンマイ)
「……まあ、頑張れよ」
「おう!今日は俺に風が吹いてるぜ!」
俺は田村の肩をポンと叩くと、会場を後にした。
いつも以上に疲れて帰宅する。
ハチが近寄ると、小さな鼻をヒクヒクさせた。
『なんだよ、香水くさいな。早く風呂入れ。
その前にカリカリ。かつお節トッピングで』
「……もうちょっと、優しくしてくれてもいいだろ」
『あんたさ、要領悪くて、報われないタイプだよね』
少し間を置いて。
『でも、優しいのは知ってる。僕を拾ってくれたんだから』
肉球が、俺の鼻にそっと触れた。
『今日は特別。匂い、嗅いでいいよ。
明日は、まぐろ出してよ』
香ばしくて、懐かしい匂いがした。
分かっている。
俺は要領が悪いし、出世もしない。
それでも、分からないままでいたいこともある。
風呂から上がると、ハチが俺の布団の真ん中で寝ている。
起こさないように注意して、そっと隣に入る。
狭い。
でも今度は太陽の匂いがして、俺は一度大きく深呼吸をする。
――明日は今日より少しだけマシなんじゃないか。ハチの温もりが俺にそう言った。




