第10話 ウサ耳の新人を預かったら、心に穴を空けられました
その日も、会社は平常運転だった。
つまり、地獄である。
朝の満員電車で押しつぶされ、改札を抜けるころには、もう一日分の体力の三割を失っている。
会社に着けば、課長の声が降ってくる。
「相川ァ。昨日の件、まだ終わってないの?」
責めるでもなく、怒鳴るでもなく。いちばん嫌な、当たり前みたいな声。
俺は「すみません」と言いながら、頭の中で自分を少しずつ切り離していく。
(終わってないのは、俺が無能だからじゃない)
そんな正論は口から出ない。出した瞬間、面倒が増えるのが分かっている。
画面を見つめる。指を動かす。深呼吸。
昼休憩? あるけど、休んだ気はしない。
定時? そんなものは幻想だ。
夜、帰宅して玄関で靴を脱ぐのが、たまに儀式みたいに重い。
部屋の灯りをつけて、冷蔵庫を開けて、何もないのを見て閉める。
静かすぎる部屋は、嫌だった。
静かなだけで、頭の中の課長がよみがえる。
(なんで、こんなことしてるんだろう)
ふっと、真面目に思う。
退職届の書き方を検索した夜が、ここ最近で何回あったっけ。
辞めたい。
でも辞める元気もない。
だから俺は、いつものようにテレビをつけた。
♪テレレレッ♪
「あー、はいはい」
軽快すぎるBGM。派手すぎるテロップ。
画面の中央に、ピンク髪の猫耳娘――ミルフィが立っている。
『さあさあ始まりました〜!
スペシャル企画!異世界通販のお時間ですにゃん!』
「こっちは死にそうなんだよ」
『本日は! あなたの心を癒しますにゃ!
ラブリーペットの“ラビちゃん”はいかがですにゃ〜!』
「ペット……?」
画面が切り替わる。
柔らかい光の中で、白っぽい髪の、長い耳の女の子が小さくお辞儀をした。
白くてふわふわの耳が、垂れている。うさぎなのか。
その耳が、ふわっと揺れるだけで、ちょっとだけ空気が柔らかくなる気がした。
『癒しの存在! おっとり系! しかもマッサージも得意ですにゃ!』
「……いや、雑。てか、生きてる人をペット扱いするなよ」
『さらに! 人間界留学も兼ねてますにゃ! 新人研修なのですにゃ!』
「え」
俺が眉をひそめた瞬間、ミルフィはあっさりと白状した。
『本当は、異世界通販の新人を人間界で勉強させたいのですにゃ。薫さん、優良顧客。意外とお人よし。下宿先にピッタリですにゃ』
「言い方」
『お願いしますにゃ!』
「無理。俺、自分の生活で精一杯。人一人増えたら死ぬ」
『死なないですにゃ! ラビちゃんが癒しますにゃ!』
「癒しって何」
『帰宅したら“おかえりなのです”が待ってますにゃ! 孤独に効くのですにゃ!』
……これは、ずるい。
心が弱っている時に、そこを押すのは卑怯だ。
でも俺は、まだ抵抗した。
「……絶対、面倒起こすだろ」
『起こしませんにゃ! たぶんにゃ!』
「たぶんて何だ」
ミルフィはにっこり笑った。
『では、留学手続きを進めますにゃ!』
「待て、同意してない!」
『薫さん、“結構いいかも”って顔してますにゃ』
図星だった。
俺は口を開けたまま止まって、最後に小さく言った。
「……一週間。お試し。一週間だけ」
『やったにゃ!!』
こうして、俺の部屋に“うさぎの獣人”が来ることになった。
新月の夜。
部屋の中央が、いつもの荷物到着みたいに淡く光った。
光が収束し、そこに現れたのは――
小柄な女の子。白っぽい髪。ふわふわの長い耳。
目が合った瞬間、俺はなぜか息を止めた。
『はじめましてなのです。ラビなのです』
口調が、おっとりしていて、やさしい。
でも俺は、ちょっと距離を取る。
「相川薫。……よろしく。えっと、靴はここに。お風呂は、こっちで――」
『あ、あの、ラビ、役に立つのです。薫さまを癒すのです』
「“さま”やめて。普通に呼んで」
『薫……さん、なのです』
耳が、ぴょこと持ち上がる。
それが少し可愛くて、俺はむず痒くなる。
可愛いと思ったら負けな気がした。
俺は今、誰かに依存するのが怖い。
「……とりあえず、今日は寝る。俺、疲れてるから」
『はいなのです。お布団、温めておくのです』
「え、いいよ、そんなことしなくて」
言ったのに、ラビは小走りで布団に向かって、つまずいた。
『あっ……!』
ころん、と派手に転ぶ。
長い耳が、床にべちゃっと落ちた。
「……大丈夫か?」
『だいじょうぶなのです。耳はクッションなのです』
「そんな機能ないだろ」
俺は思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
ラビは転んだまま、にこっと笑った。
『薫さんの顔が、ちょっと柔らかくなったのです』
「……気のせい」
その夜、俺は久しぶりに、眠りに落ちるまでの時間が短かった。
ラビのいる生活は、じわじわと侵食してきた。
侵食、というのは悪い意味じゃない。
でも俺は最初、それを認めたくなかった。
朝、俺が出勤準備をしていると、背後で小さな声がする。
『コーヒー……これは飲んで良い色ではないのです……』
「あー、コーヒーは大人の飲み物だからね。ラビには早い」
『……ラビは大人なのです。……地獄の味なのです』
「無理して飲まなくても」
帰宅すると、部屋に微かな匂いがある。
ほっこり、温かい匂い。
「……何してんの」
『お味噌汁を、温めておいたのです。きのこを入れたのです』
俺の好きな、きのこ系。
なんで知ってるのか聞いたら、
『冷蔵庫に、きのこが多いのです。きっと好きなのです』
観察が雑に鋭い。
俺は「ありがとう」と言って、味噌汁を飲む。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
今日の“刺さった言葉”が薄まる感じ。
ラビはマッサージも得意だと言っていた。
最初は断った。
でもある夜、疲れが限界で、ソファに沈んで動けなくなった時、ラビがそっと言った。
『薫さん、肩、石なのです』
「石じゃない……ただの肩こり……」
『石、ほぐすのです』
小さな手が肩に触れた瞬間、熱がじんわり広がった。
痛いのに、気持ちいい。
その不思議さに、俺は息をつく。
「……これ、魔法とかなのか?」
『癒しの手なのです。危なくないのです。たぶん』
「たぶん、って言った」
ラビは、ふんわり笑った。
『ラビ、ちょっとドジなのです。でも、薫さんが倒れないようにするのです』
倒れないように。
そんな言葉を、誰かに言われたのはいつぶりだろう。
翌朝。
俺は目覚ましより少し早く目が覚めて、ぼんやり天井を見た。
肩が軽い。
それに、胸の奥の、あのギュッとした塊がない。
仕事は変わらないのに、“戻ってきた時に待ってる空気”があるだけで、こんなに違う。
(……あ)
気づく。
ラビは、ただ居るだけで、俺の心の隙間を埋めている。
仕事が楽になったわけじゃない。
課長が優しくなったわけでもない。
それでも、帰る場所が“静かなだけの部屋”じゃなくなると、心が回復する。
その事実を、俺は認めたくなくて、でも少しずつ認めるしかなかった。
まるで、薄い氷がゆっくり溶けるみたいに。
休日。珍しく予定のない、ちゃんとした休日。
俺は昼前に起きて、台所でぼーっと冷蔵庫を開けた。
「……餃子、作ろうか」
金曜の夜に爆食いしてたあれ。
町中華の味には敵わないけど、作れたらちょっと嬉しい。
ラビが耳をぴょこと持ち上げる。
『ぎょうざ……! 薫さんの幸せの食べ物なのです?』
「幸せっていうか、救い。にんにくと油は明日への活力」
『ラビも、作るのです!』
「危ない。包丁はまだ早い」
『ラビ、指、五本あるのです』
「そこじゃない」
問題は外出だった。
ラビの耳は長い。パーカーのフードじゃ隠せない。帽子でも無理。
俺は玄関で腕を組んで悩んだ。
「……どうするかな、耳」
『切るのです?』
「だめだろ!」
ラビは本気で困った顔をして、耳を抱えた。
その仕草があまりに“うさぎ”で、俺は笑ってしまう。
「……夢の国のカチューシャみたいだから、たぶん大丈夫」
『夢の国……? 月の国なのです?』
「違う。……いや、まあ似たようなもんか」
ラビは鏡の前で首をかしげた。
『耳、丸出しで大丈夫なのです?』
「たぶんね。この国は寛容なんだ」
俺たちは買い物袋を持って、商店街へ出た。
キャベツ、ニラ、豚ひき肉、餃子の皮。
帰り道、空を見上げると、昼でも薄い月が見えた。
ラビが、ふっと足を止める。
『薫さん。月には、うさぎが餅つきをしていると聞いたのです。行ってみたいのです』
「それは、おとぎ話。うさぎは月にいない」
『でも……薫さんと一緒なら、行けそうな気がするのです』
言い方が、ずるい。
俺は笑って誤魔化した。
「月は遠いよ。電車でも行けない」
『なら、次は空を飛ぶ商品を買うのです』
「やめろ。死ぬ」
それでも、二人で月を見上げた時間は、妙に静かで、温かかった。
俺の胸の奥に、小さな灯りが残る。
(この時間が、ずっと続けばいいのに)
そんなことを思うなんて、俺はどれだけ弱っていたんだろう。
弱っているからこそ、強く願ってしまう。
その日の空気は、やけに澄んでいて――だからこそ、嫌な予感がしなかった。
事故は、突然だった。
子どもが飛び出した。
買い物袋を抱えた母親の手から、袋が落ちる。
トラックのブレーキ音が、耳を裂くように響く。
――間に合わない。
俺は、見た瞬間に分かった。
これは、助からない。
その場にいる誰もが、分かってしまう類の傷だった。
赤が、じわじわと、道路に広がっていく。
「……っ」
母親の悲鳴が、空気を引き裂いた。
声が裏返って、泣きながら叫んで、縋り付いて、名前を呼ぶ。
誰かが救急車を呼ぶ。
全てがスローモーションで見えた。
俺の頭の中が真っ白になる。
ラビが、隣で小さく震えた。
『……薫さん』
俺はラビを見てしまった。
見てはいけないのに、見た。
「……ラビ。治せないか」
言葉が勝手に出た。
自分でも驚くほど、必死だった。
『……ラビの癒しは……』
「頼む!!」
ラビは一瞬だけ目を閉じ、子どもに近づいた。
長い耳が、風で揺れる。
そんな些細なことが、やけに現実的で、怖かった。
ラビが子どもの手に触れる。
指先が光る。淡い、優しい光。
次の瞬間――
傷が、消えた。
血が、止まった。
壊れたものが、元に戻るみたいに、時間が巻き戻るみたいに。
「……うそ」
母親が息を吸う。
子どもが、小さく咳をして、泣き声を上げた。
生きてる。
「よかった……! よかったぁぁ……!」
母親が抱きしめる。周囲が泣く。誰かが「奇跡だ」と言う。
俺は膝が笑って、地面に手をついた。
「ラビ……!」
言いかけた、その時。
ラビが、ふらっと倒れた。
――いや、倒れ方が違う。
人の形が崩れて、白い毛の塊になる。
「……え」
そこにいたのは、動物のうさぎだった。
小さくて、白くて、長い耳だけがやけに目立つ。
呼吸が弱い。胸が、かすかに上下するだけ。
「ラビ……ラビ!!」
抱き上げると、体温が低い。
俺の指が震える。
周りの喧騒が遠のいて、キーンと耳鳴りがする。
「どうしよう、どうしよう……」
俺は買い物袋も何もかも捨てて走った。
抱えたうさぎが軽すぎて、怖い。
家に着く頃には息が切れて、喉が痛い。
「ミルフィ……!!」
テレビに向かって叫ぶ。
リモコンを掴むが手が震えて上手く押せない。
♪テレレレッ♪
『お困りですかにゃ?』
ミルフィが映った。
今日ほど、その顔が憎いと思ったことはない。
「ミルフィ!! ラビが!! ラビが!!」
俺はうさぎの姿のラビを抱えたまま、画面に突き出す。
『……っ!』
ミルフィの耳が、ぴくっと動いた。
いつもの余裕が消える。
『それは……生命力が枯れている状態ですにゃ。今すぐ戻して治療を――間に合わないかもしれません』
「そんな……俺のせいだ……俺が治してくれって――」
その時、棚の奥が目に入った。
箱。小瓶。請求書。
三か月分の給料。
エリクサー。
(ちゃんと効けよ)
俺は箱をひっくり返すみたいに開けた。
小瓶を掴む手が震えて、蓋がうまく開かない。
「くそっ……!」
ようやく開けて、ラビの口元に当てた。
でもラビは、飲み込む力がない。
唇も動かない。
「……飲めよ……飲めったら!!」
自分の声が、泣き声みたいに掠れている。
俺は必死に、ほんの少しずつ液体を流し込む。
こぼれる。手が震える。うまくいかない。
「頼む……ラビ……!」
ラビの耳が、ぴくりとも動かない。
俺は、呼吸を数えるみたいに見つめる。
一秒が長い。
十秒が永遠みたいだ。
――その時。
ラビの胸が、大きく上下した。
『……っ、薫さん……泣かないで、なのです……』
声が、かすかに聞こえた。
動物のうさぎの姿のまま、ラビが目を開けた。
「……っ!!」
俺は、堪えきれなかった。
喉の奥から、声が爆発する。
「よかったぁぁぁぁ!!」
大声を上げて泣いた。
みっともないほど泣いた。
鼻も涙も止まらなくて、呼吸がぐちゃぐちゃになって、床にへたり込んだままラビを抱きしめた。
『薫さん……苦しいのです……』
「ごめん!! でも!! でも!!」
ミルフィが画面の中で、珍しく真面目な顔をしていた。
『薫さん。エリクサー、効きましたにゃ。ですが、ラビちゃんは異世界で回復させた方が安全ですにゃ。今すぐ門を開きますにゃ』
部屋の中央が光る。
転送門が、いつもより大きく、開いた。
それから数日。
ラビは異世界で治療を受け、回復した。
……ただし、人の姿に戻るには時間がかかるらしい。
そして、俺は取り残されたまま、留学が終わる日が来た。
転送門の光が、部屋の中央で揺れる。
そこに現れたのは――
『薫さん……お世話になったのです』
ラビ。
人の姿に戻っていた。
長い耳がふわっと揺れて、俺はそれだけで胸が痛くなった。
「……もう終わりなんだ」
『はいなのです。ラビ、留学は終了なのです。次は、もっとちゃんとした研修なのです』
「ちゃんと……できそう?」
『たぶん……なのです』
「そこ、たぶんなんだ」
笑って言ったのに、喉が少しだけ詰まる。
ラビは小さく手を伸ばして、俺の袖をつまんだ。
『薫さん。薫さんは……ひとりで大丈夫なのです?』
「……大丈夫だよ」
嘘じゃない。
でも、強がりでもある。
『ラビがいない部屋は、広いのです』
「……言うなって」
ラビは困った顔をして、それから、いつものおっとりした声で言った。
『薫さん、月に行けなかったのです。でも、月を見ると、思い出すのです。薫さんと買い物したこと。私を、すごく心配してくれたこと』
「……そうだよ、心臓が潰れるかと思った」
胸の奥が、ぎゅっとなって、俺は目を逸らした。
ここで泣いたら、ラビが困る。
だから、泣かない。
「……向こうで、元気でな」
『はいなのです。薫さんも……無理しすぎないのです。頑張りすぎると、倒れるのです』
「倒れたことある人に言われると重いな」
『ラビは、ドジなのです。でも、薫さんが泣くのは、いやなのです』
その言葉が、最後の一押しだった。
俺は笑って頷こうとして、でも。
ほんの少しだけ、目が熱くなった。
涙が一粒、落ちた。
「……くそ。泣かないって決めてたのに」
ラビはふわっと笑った。
『ちょっとだけなら、いいのです』
光が収束し、ラビの姿が消える。
部屋は、また静かになった。
俺は台所に立って、冷蔵庫を開けて――
餃子の材料が残っていないことに気づいて、笑ってしまった。
「……あの日、全部投げ捨てて走ったんだった」
月明かりが、窓から薄く差し込んでいる。
俺はそれを見上げて、小さく息を吐いた。
(――「わたしを月につれてって」、か)
そんな大それた願いは、叶わなかった。
でも、月を見上げる理由が、ひとつ増えた。
月は遠い。けど、俺は確かに呼吸しやすくなった。
この異世界通販は、相変わらず非常識で、危険で、たぶん人間向けじゃない。
それでも――
たまに、ちゃんと人を救う。
少なくとも、俺の心の穴を、少しだけ塞いでくれる。
俺は目元を指でこすって、声に出して言った。
「……またな、ラビ」
返事はない。
でも、胸の奥が少しだけ温かかった。




