触れる日記。
日常を覗いてください。
22歳。
私はまだ自分の名前の使い方がわからない。呼ばれれば振り向くし、書類には書ける。それでも、それが私を指しているとは思えなかった。それは多分、呼ばれるための名前で、生きるための名前でもなかった。
私は、季節のように移り変わる。大切が急に背景になる。失う感覚より、失う速さに慣れた。
愛を欲しがると共に、境界線を探す。踏み込んでも一緒にいてくれるか。試して、超えて、
壊して。壊して。壊して。
それでも残るものを愛だと言うなら本物の愛なら。22歳。まだ、愛を知らない。
空白は静かに膨らんで、触れると名前は薄くなる。満たされたいと強く願いながらも、何で満たされたいかもわからないまま、ただ私は愛というもののそばで見捨てられない形でいたかった。
可愛いは仕事みたいなものだ。私は田舎の普通の美容学生で朝はちゃんと起きるし、授業も出る。毎朝鏡の前で、髪を巻いてメイクをする。私らしい色味を選んでこれなら大丈夫と思えるまで何度もやり直す日もある。
笑うタイミング。黙るタイミング。大体覚えてる。
教室では、普通の話をする。バイトの愚痴、恋の愚痴、将来に不安。みんなと同じ言葉を選ぶ。少し遅れて、少しだけ薄く。
「最近さテンション高くない?」
昼休み、コンビニの前。コーヒーを持つ手に少し力が入る。
「そう?」
「いや、うん。いい意味でね。元気そう」
元気、という言葉をどんな顔で受け取ればいいかわからなくて少し俯いた。
「でもなんかたまに眠そう。寝てんの?」
「めっちゃ寝てる」
本当は、ほとんど寝てない。でも今は、それを言うタイミングじゃない気がした。
「大丈夫?たまにゾンビみたい」
「失礼なやつ」
横目で見て口を大きく開けて笑った。大丈夫な顔はもう完成している。
その日の夜は何もできなかった。シャワーの音がうるさい。スマホの光が痛い。世界が遠い。
私は、無理をして生きている。
次の日の朝、アラームは3回はなった。全部止めたけど体は動かなかった。制服は椅子にかけたまま、ハサミもウィッグも昨日と同じ位置にある。準備ができない理由は、何もなかった。
スマートフォンが震える音で、目が覚めた。また軽く寝てしまっていたみたいだ。
<今日、くる?>
<多分>
送信してから、その多分をどう処理していいかわからなくなる。
結局行かなかった。行けなかった理由を思いついたのは夕方になってからだった。
同じようなことを何度も何度も繰り返していくうちにメッセージは変わって言った。
<生きてる?>
<生きてるよ笑>
もう笑の位置が正しいかもわからない。
次の日の朝。駅まで行って改札で止まった。みんな私を避けて進んでいく。電車が入ってくる音が近い。金属が擦れる音、ブレーキの甲高い声、アナウンスの声が重なって、意味になる前に頭の中で砕ける。胸の奥を直接叩かれてる感じがして呼吸のリズムがズレる。周りの人は、並んで歩いている。誰も止まったりなんかしない。止まっているのは、私だけで。
このまま電車に乗ったら、学校について笑って、返事をして、また普通の日常に戻る。
その普通が、今はもうこんなにも遠い。どこで変わってしまったのか。それを考える前に改札に背を向ける。
人の流れから外れて、背中に電車の音を受けながら駅を出る。変わった理由も、改札を通れない理由も誰にも説明しなくてもいいところまで来て、やっと息ができた。
家に戻ると、部屋は朝のままだった。脱ぎかけの制服と使いかけのメイク道具。どれももう私には上手に扱える気がしなかった。
スマホが光り、通知音がうるさく響いた。
<学校、最近どう?>
高校の時の友達から。文章は軽くて私の足元から少し離れている。
<いけてない>
それだけ送るとすぐに既読がつく。返事が少し遅くて何か間違ったかと少し焦る。こういうのも少し疲れた。無視して目を閉じかけた時にまた通知音がなった。
<そーなんだ>
返事はやっぱり軽くて、その一言に慰めも攻めもなくて今の私には心地いいくらいだった。
<今日、時間ある?>
時間はあった。ただ、使い道がなかった。
夕方、駅前のカフェで落ち合う。夕方のカフェは学校帰りの匂いがして少し吐き気を催した。友達は窓際で少しだけ、派手な顔をしていた。
「久しぶり」
「…なんか、顔痩せた?」
「そうかな」
「そっちの方がいいよ」
いいという基準は聞かなかった。
「学校行ってないんだねぇ」
「いけてない」
言葉にするとそれだけなのに口が渇く。
「無理してない?」
無理、と言う言葉は簡単のようで少し難しい。私は無理だとしても世間は許してくれない時もあるし、無理を美談として扱う時もある。カップの縁を少し見つめて息を少しだけ吐いた。
「少しね。」
それだけで十分だった。
「無理していく意味あんの?」
意味という言葉に少し言葉が詰まって、わかんねーとらしくない言葉を吐いて窓の外を見た。
会計の時、財布を開くとやけにその音が軽く感じる気がした。友達はそれを横目で見て、相変わらずの口調で口を開いた。
「バイトしてないんだっけ、前のやめてから。」
「うん」
友達は、それ以上聞かなかった。聞かれなかったことに安堵する。私もそれ以上何も言わなかった。だんだんシフト表を見るのが怖くなったことも。
「美容学生とかさ、お金消えていきそうだよね」
消える、という表現が妙に正確で少し笑ってしまった。店を出て家の方向にゆっくり歩く。
「ね。一緒に働かない?」
「どこで?」
「よーる」
夜。という言葉が昼間の街に浮く。
「キャバクラだよ、そんな身構えなくて大丈夫。可愛いし余裕だよ。すぐ人気になるって。話すの得意じゃん」
得意というより慣れてるだけなんだけどな。なんて言葉は喉にまだつっかえた。
「飲まなくていいし、なんならまだ18じゃん?隣に座って話すだけだよ。時給いいし、週1でも平気だし、学校行かなくても」
その続きは言わなくても伝わった。ただその一言で胸の奥が小さく反応した。
帰り道、私は歩きながら計算をした。一日、いくら。一週間でどれくらい。学校を休んだ日数と比べる。どちらが正しいのか天秤にかけてもそんなこと考えるだけ無駄な気がした。
「面接だけでも行ってみよ。無理ならやめればいいし、」
友達の声が背中を押すというよりは横に並んでくる感じだった。無理のラインはもうだいぶ曖昧だった。
家に帰って、請求書の山を見つめる。
「話す、だけ」
小さく声に出すとなんだかもう、決まったことのように聞こえた。鏡の前で口紅の色を少しだけ足す。私らしい色味ではない濃い色。その色は未来を示す色というよりなんだか逃げ道のようだった。
店の前のネオンが一瞬視界を奪う。
「緊張してる?」
「してない、かな」
嘘ではなかった。私は、何も感じていない時の方がうまく笑える。
面接室は思ったより静かでソファが柔らかくて照明は優しくタバコの匂いがふんわりした。
「美容学生?」
「はい」
「うん、見た目は問題ないね。立って回ってみて」
問題という言葉は軽く処理される。言われた通り立ってゆっくり回る。
「いいね」
何がとは言われない。ただ、いいという言葉だけが残る。
「愛想もあるし、声も可愛い、大丈夫だね」
重ねられる言葉が次々に肩に乗る。重くない。軽い。少し暖かい。値段の話は、数字だけで済んで、高いのか低いのか比べる基準にはならなかった。でも、私にこれだけの数字がついた、という事実がなんだか眩しくてくすぐったかった。
「今日、体験してく?無理なら全然」
無理という逃げ道が用意されていることに安心してしまう。
「やります」
声は、思ったより自然に出た。
更衣室でドレスを渡される。
「これとかどうかな」
鏡の前で知らない自分がいる。
「似合うね」
通りすがりの知らない美人が言う。名前も知らない。でもその一言はちゃんと私に届いた。
笑う。相槌を打つ。少し首を傾げる。本当の気持ちは使わない。使わないほうが上手くいく。それが誰にも教わらないまま自然にできてしまうことに自分でも少し驚く。
「指名していい?」
その言葉が胸の奥で小さく弾ける。私を選ぶ理由なんて、なくてもいい。選ばれたと言う事実だけで。
「はいこれ。お疲れ様」
「ありがとうございます」
その言葉がちゃんと交換される。
外に出ると、夜の空気が冷たかったが心地よかった。
「どうだった?」
「…楽しかった」
でしょと友達は笑う。嘘じゃなかった。
自分の時間と、顔、声にちゃんと値段がついている。それが、少し誇らしい。改札を通る時、もう足は止まらなかった。電車の音は今日は遠い。
ここなら。ここなら、私でも息がしやすいかもしれない。生きていけるかもしれない。
確信じゃない。約束でもない。ただ、小さく光る感じ。
それだけで今は十分だった。
久しぶりに学校に行った。理由は特にない。いけそうな気がしただけだ。教室は、前と同じ匂いがした。少し湿った床と誰かの香水。なんだか少し臭かった。
「久しぶりじゃん、何してたの?」
「バイト」
それ以上、説明しなかった。どこで?と自然に聞いてくる。
「キャバ」
声に出すと思ったより静かだった。
昼休み、いつものコンビニの前でコーヒーをゆっくり飲む。
「将来さー、サロンどこ就職する?」
「決めてない」
「でもさ、せっかく専門きたんだしもったいなくない?」
せっかくという言葉は重い。悪意はない。心配からきている言葉だ。
「うん」
私は頷く。コーヒーを強く握りしめたらプラスチックがカコっと小さく音を立てた。
「雰囲気変わったね、大人っぽい」
大人、と言う言葉がどこを指しているのかはわからない。
「なんか遠くなっちゃったね」
その言葉に胸が少しだけ動く。でも引き止めたい気持ちは私にも友達にもきっともうなかった。
実習のこと。先生のこと。次の課題のこと。でも今はどれもわたしの足には合わなくて
「学校、やめないよね。」
「うん」
その「うん」は約束じゃなかった。
夜、ドレスに袖を通す。
「今日も出るの?えらーい」
えらいが軽い。でもここではそれでいい。
「待ってたよ」
その一言で、私の居場所が決まる。名前を呼ばれて、返事をする。ここでは笑えばいい。求められればいい。
将来の話をしなくていい。
帰り道、学校のグループチャットが光る。次の課題についての話だった。未読のまま画面を伏せる。
キャバクラで生きていくと声に出して決めたわけじゃない。ただ、ここにきて明日も来ると自然に思えている。先のことは考えない。今はそれが楽だった。
もう学校に胸は熱くならなかった。
学校に退学届を出したのはその次の月だった。
店になれるほど人との距離がわからなくなった。更衣室ではみんなドレスを着て同じ笑顔で笑っている。会話は軽い。でも目は少しだけ計算してるような独特の空気感。数字の話は、何よりも先に出てくる話で、
仲良くなったと思った翌日、視線が急に冷たくなる。理由は聞かない。聞かなくても大体想像がつく。ここでは信用は長く持たない。
お金は減らなくなった。封筒の厚みが月に一度の楽しみになった。
コンビニで値段を確認しなくなった。タクシーに迷わず乗るようになった。「ちょっと高いな」と思う感覚が少しづつ消える。今更、時給一千円に戻れる気がしなかった。それが現実なのか、ただの怖さなのかは区別がつかなかった。いや、つけなかった。
仕事終わり、一人で飲むことが増えた。グラスを重ねるごとに、アルコールは感情の輪郭をぼかす。誰に嫌われたか、誰に信用されたかどうでも良くなる。酔っている間だけは世界が平らで、私を安らかな眠りに誘った。
「あといっぱいだけください」
今日も、おやすみ世界。
救われたと思った夜ほど、あとで深く沈む。
今日は何だか酔っているはずなのに頭の奥は冴えていて、その冴えた部分が何故か私自身を責め続けていた。
更衣室で口紅をゆっくり引き直す。今日はこの後暇になるみたいみたいで久しぶりに早上がりした。
鏡の中の私の顔は、もう私ではないような気がして誰でもないような気がした。
「今日さ、ちょっとホスト行かない?」
友達はグラスを揺らしながら言った。目はスマホに目を向けてて私に向けられていない。ちょっとという言葉は軽くて責任がない。返事をせずに私もグラスを揺らした。
「無理ならいいんだけど、もう普通に呑むの飽きたでしょ?」
笑いながら言われたその言葉が胸の奥に正確に刺さった。図星ってこんな音がするんだ。最近、救われてはすぐ沈む。
「いっかい、顔だしてみよ。」
自分のグラスを見つめ透明な液体で自分の顔が歪んでいた。やっぱり私は私じゃないみたいでもうどうでもよくなった。
「たかい?」
「ぜんぜん!大丈夫!今のあんたなら余裕」
大丈夫という言葉に根拠がないことは私自身よく分かっているはずで私は学んでいたはずなのに。
外に出ると夜風が頬を撫でて、冷たくて、目が覚めるはずなのに逆に輪郭がぼやけていく。
ヒールの音が2人分重なって、私の音は少し遅れてついていく。
「たまにはさ、羽目外しちゃおうよ。人生間違えてもよくない?一緒に間違ってこ」
その言葉になんだか少し嬉しくなった。一緒に。
間違うことは魅力的じゃないはずなのに一緒なだけで少し安心した。
ネオンの前で立ち止まり胸の鼓動が早くなった。警告音のようにも聞こえたけど聞こえないふりをする。
扉の前。笑い声と音楽が漏れていて
友達が振り返ったて、私に向かって手を差し伸べた。
「いこ」
その一言で、私の中の戻るという選択肢は静かに消えた。
扉が閉まった瞬間、外の夜は引き離された。代わりに甘い匂いと、名前の無い視線が流れ込んでくる。
席に案内され腰を下ろすとソファが柔らかくて沈んだ。戻らなくていいと言われてるみたいと都合よく解釈した。そこからはあまり覚えてなくて友達は手馴れた様子で笑っていた。私はなんだか笑い方を忘れてグラスの水滴を見つめていた。……帰りたい。
「こんばんは、初めて?」
不意にかけられた声の方向を見ると、そこに、いた。
派手じゃないが目がうるさいくらい優しい。ちゃんと私を認識している目。
「お酒。無理しないで。大丈夫、怖くないよ」
無理をしているつもりはなかったけどなんだか見透かされてるような気がした。名前を聞かれる。私は少しだけ迷って答えた。本名じゃない、でも嘘では無い名前。
「かわい」
友達の笑い声が聞こえる。でもなんだか音は遠くてこのテーブルだけが世界みたいだった。そこから流石ホストで聞き上手だった。質問は軽いのに答える度、彼が聞いくれる度心の奥の隙間に入り込んできて優しく撫でられる。美容学校のこと。辞めたこと。お酒に溺れていること。途中で上手く話せなくなって少し俯いた。やっぱり間違っているかもしれない。こんな他人にお酒の勢いで。
「そうなんだ」
相槌をうって、少し慰めの言葉が並べられる。少しだけ沈黙かおちる。でも気まずくは無い。沈黙の中で私はやっと呼吸を思い出した。グラスが空になる。新しいお酒が運ばれる。酔いが回るより先に安心が回った。
「今日は出会えてよかった。ありがとう」
彼はどこかで見たことあるような顔で私に微笑んだ。なんだか懐かしい気がした。ずっと向けられたかったような笑顔だった。胸の奥で何かが解けるような音がして、この人なら。理由はなかった。理由はいらない確信があった。それを、きっと人は運命と呼ぶんだと思った。彼にとっては数あるひとつの夜でも私にとっては人生の向きを変えたような瞬間だった。
その夜、私はよく眠れた。体に残った彼の甘い匂いが消えるのが寂しくてそのまま眠った。
世界は知ってても私なまだ知らなかった。
運命は感じた側にしか存在しないことを。




