三十六話 消失
今回からまたアイリス視点に戻ります。
「クラウド様……今、なんと……?」
私はクラウド様の言葉が信じられなくて、反射的に聞き返す。
けれど、クラウド様の表情はとても真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
「すまない、君の格好を見るに、君は恐らくどこかのご令嬢だと思うのだが……。私は君のことを覚えていないんだ」
____覚えて、いない?
そんなことがあっていいの? 私達、少し前まで確かに……愛し合っていたというのに。
クラウド様の言葉の意味がわからず、呆然としてしまう。
でも、私は気付いてしまった。クラウド様の一人称が「私」になっていたことに。
____私の前では気を許していたから、一人称はずっと「俺」だった。でも、クラウド様は確かに「私」と言ったんだわ。
つまり、私との会話を公的なものだと思っているということ。
私のことを……妻だと、認識できていないということ。
……あぁ、私は覚悟ができていなかったのだ。
私がクラウド様を失ってしまうかもしれない、そんな想像はしていた。
でも、クラウド様から私の存在が消えるなんて、考えてもいなかったのだもの。
生きて、再び会話を話せて嬉しいと思うべきなんでしょうけど……とてもそんな気分にはなれそうにない。
「……ご令嬢? 顔色が悪いが……どこか具合でも悪いのか?」
私の様子を見たクラウド様が、優しく声をかけてくれた。
あぁ、やっぱりこの人は優しい人だ。少し不器用で勘違いされやすいだけの、私の大好きなクラウド様。
なのに、クラウド様の中に私はいない。
「……えぇ、問題ございませんわ。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そうか、ならいいが……。貴女の名を聞いても良いか?」
ぐ、と息が詰まる。
それでも、私は話さなければならないのだ。私を知らない、クラウド様に。
「……はい。私は……アイリス・グレンウィルと申します」
「…………グレンウィル? どういうことだ」
「私は、あなたの妻なのです。クラウド様は覚えていらっしゃらないようですが……」
「私の……妻だと?」
クラウド様の目が厳しいものになる。
こんな視線を送られたのは初めてで、胸の奥がズキンと傷んだ。
重い沈黙が流れる。
それでも何か言わなければと、口を開いたその瞬間。
セーラがノックもせずに、いきなり部屋へ入ってきた。
「た、大変ですお嬢様! 今さっき、公爵邸にお客様が……」
「……知らない使用人だが、客というのは本当か?」
「え? ク、クラウド様!? 目を覚まされたんですね……! でも、知らない使用人なんて、どういう……」
セーラはすっかりパニックになっているようで、目を見開きながら口をぱくぱくさせている。
「……セーラ、今のクラウド様は……少し、記憶が曖昧になっているようなの」
「え!?」
セーラが驚いたような……いや、ショックを受けたような反応をする。
そうよね、セーラだって、クラウド様のことを慕っていたものね……。
「……それよりセーラ、お客様とはどういうこと?」
「は、はい。その……コーニッシュ侯爵令嬢のマリアンヌ様がお越しです」
「マリアンヌだと?」
私より先に、クラウド様が反応した。
____マリアンヌ様のことは、覚えているのね……。
その事実に、胸の痛みが酷くなる。
……それでも、私は公爵夫人よ。ちゃんと、気丈に振る舞わなければ。
「マリアンヌ様がいらっしゃるなんて、私は聞いていないのだけれど……」
「それが。数日前にお手紙を送ってくださっていたみたいです。そんな中、クラウド様の容態を知っていてもたっても居られなくなったようで……」
「あ……」
手紙……! すっかり失念していた。
ここ数日は、ずっとクラウド様の側にいたから……最低限の仕事をして、後は全部侍女たちに任せてしまっていたのだわ。
私……公爵夫人、失格ね……。
「……わかったわ。それでは私がマリアンヌ様を迎えに行くから____」
バンッ!
大きな音を立てて、扉が開く。
中に入ってきたのは、当然……。
「クラウド様っ!! 目を覚まされたのですね!?」
マリアンヌ様だった。
妻帯者の公爵閣下の自室に勝手に入るなんて、無礼なこと極まりない。
だが、それほどまでに彼女も必死だったのだろう。クラウド様のことが好きで、心配だったから。
その気持ちだけは、私にもよくわかった。
マリアンヌ様がクラウド様に駆け寄る。
クラウド様は少しだけホッとしたような、それでいて少し複雑な表情をしていた。
「マリアンヌ、久しいな。……だが、なぜ君がここに? 俺達はもう四年程会っていなかっただろう」
「え? 先週お会いしたばかりではないですか……! それに、私たちがお会いしていなかった期間は、五年ですわよ……? クラウド様、もしかして……」
マリアンヌ様が、ぴたりと動きを止める。
そして私は、ようやく理解することができた。否、理解してしまった。
……クラウド様には、この一年の記憶がない。
つまり……私と出会ってから過ごした数ヶ月の記憶は、何もないのだ。
その事実に、目の前が真っ暗になる。
マリアンヌ様も驚いていたようだったけれど……突如振り返って私の手を包み込んだかと思うと、決意したように口を開いた。
「状況は……なんとなくですが、理解いたしました。でもご安心なさって。クラウド様のことは、私が支えます」
「…………え……?」
____この方は、一体何を仰っているの……?




