第44話
「…よし、これで生地は出来たわね」
「ヨランダ様、オーブンのほうは予熱できております」
「ありがとう。じゃあこれから成形するわ」
それから数日後。
セシルがお休みだという今日、私はキッチンに立って生地を練り上げていた。
小麦粉にバター、砂糖、卵をよく混ぜて練り上げる。
作ろうとしているのはシンプルなクッキーだ。
(よく、昔はこうして作っていたものね)
発端は今朝のこと。
セシルが何気なく呟いたことがきっかけだ。
「久しぶりに、ヨランダの作ったクッキーが食べたいな」
期待するような笑みでそんなことを言われたら、応えないわけにはいかないわよね?
そうして早速シェフにキッチンを貸してもらい、クッキーづくりを始めたというわけだ。
アミッテレ侯爵家に嫁ぐ前、お菓子作り…いえ、料理は私の趣味だった。
貴族令嬢が料理をするのは、シェフの仕事を奪うということで忌避されがちだけど、リリバメン伯爵家ではその辺はおおらか。
私がキッチンに立って、晩餐の一品を作っても文句は言われず、むしろ家族は喜んで食べてくれた。
お菓子なんかはディカータ伯爵家にもお裾分けし、特にセシルは喜んで食べてくれた。
(喜びすぎるから、他の人の分まで独り占めしようとするから『待て』を躾けないといけなかったのよね)
小さいセシルが『全部ぼくが食べたい!』と目で訴えかけつつ、自分の分が配られるのを待つ様子は、まるで可愛らしい子犬のようでほほえましい光景だった。
今思えば、あれは子犬ではなく子狼だったのかもしれない。
今も、キッチンの入り口に立ってクッキーが焼き上がるのを今か今かと待ち構える彼の姿は、その端正な顔立ちと相まって立派な白銀の狼のようなのに、しっぽをぶんぶん振っているのを幻視してしまう。
そんな彼に、困ったように微笑みながら声を掛ける。
「これから焼き始めるから、もう少し待っていて頂戴ね」
「ああ、分かった」
声はそっけないように聞こえるけれど、期待を表に出しすぎるのを恥ずかしがってぶっきらぼうになっているだけ。
そんな彼の様子を仕方ないなぁと思いつつ、そこまで期待してくれるのが嬉しくてたまらない。
成形した生地をオーブンにいれ、しばし待つ。
(数年ぶりだけど、うまく焼き上がってくれるといいわね)
生地の出来上がりにはシェフが太鼓判を押してくれたから大丈夫だと思うけど、誰よりも期待してくれるセシルのために失敗したくない。
つい、ジーッとオーブンの前で焼き上がるのを待っていたら、デディに苦笑いされてしまった。
「ヨランダ様。もうお一方も待ちきれない様子ですよ?」
「えっ?」
デディの声に振り返ると、すぐそこにセシルの顔があった。
「ひゃぁ!?」
(い、いつの間に後ろの来てたのよ!?)
驚く私をよそに、セシルは碧眼を細めながら真剣な表情でオーブンに視線を釘付けにしていた。
「ヨランダ、あとどれくらいで焼ける?」
「も、もうちょっとよ」
「もうちょっとか、待ちきれないな」
全身から待ちきれないオーラを発するセシルを見て、今度は私が苦笑してしまった。
(デディから見た私も、こんな感じだったのかしらね)
ここまで楽しみにしてくれるのなら、彼に言われる前に作ってあげれば良かったと、少し後悔の念が押し寄せる。
アミッテレ侯爵家では、お菓子も料理もできなかった。
エロールに『料理なんてみっともない真似をするな』と怒鳴られたからだ。
彼にとって、料理とは下賤な者の務めなんだろう。
だから、ディカータ伯爵家に来てからも、料理をしようという気持ちは湧いてこなかった。
でも、やっぱりお菓子作りは楽しいし、セシルのように喜んでくれる人がいると思うと作り甲斐もある。
(これからは、もっと作るようにしましょう)
オーブンをじっと見つめるセシルの横顔を眺めつつ、私はそう誓った。
焼き上がったクッキーをオーブンから取り出し、熱々に手を伸ばそうとしたセシルを窘めつつ、冷めるのを待った。
「味見はぼくがしよう」
と言い出したセシルをなんとか抑え、数年ぶりに焼いたクッキーの味や焼き加減を自分の舌で確かめる。
(万が一生焼けだったり、焼きすぎだったりしたら嫌だもの)
かじるとサクッとした歯ごたえに、ほろほろと崩れていく柔らかさ。
バターと小麦粉の香りが鼻を抜け、ほんのりとした甘みが舌に優しい。
(うん、上手くできたわ!)
我ながらブランクを感じさせない出来に嬉しくなりつつも、隣で次は自分の番だと目を輝かせる人型の狼の口元にクッキーを差し出した。
「はい、あーん」
「あーん」
出来立てのクッキーを大きく開けたセシルの口の中へと放り込む。
サクサクと軽い音が響き、一口ごとに彼の顔はほころび、とろけるような笑みに変わっていった。
それを見ていると、本当に作って良かったと思う。
「…うまい、美味いよ、ヨランダ」
「そ、そう…」
なんだか今にも泣きだしてしまいそうなくらいしみじみと言われると、ちょっと怖い。
1枚目をゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ彼は、再び期待に目を輝かせながら私を見る。
その目は、「もっと食べていいよね?」と訴えていた。
「いいわよ、先に食べて。私は残りの分を焼き上げておくから」
そう言うと、見るからに彼は(幻視の)耳をぺしゃりと下げた。
何か気に入らなかったかしら?
「…ヨランダ、ぼくはあなたと一緒に食べたい」
(はぅ!)
切なそうな瞳で見つめられ、一瞬で心臓をわしづかみにされたかのように高鳴る。
普段の大人びた表情や態度に忘れてしまいそうになるけど、彼は年下の、まだ20歳にも満たない青年と少年の境なのだ。
そんな彼の年齢相応の表情は、どうしようもないほどに私の母性を刺激する。
「わかったわ、じゃあ待っていてくれる?全部焼き上げたら、一緒に食べましょう?」
「…ああ!」
彼は先に焼き上がった分をお皿に乗せ、意気揚々とキッチンを出ていった。
私はそんな様子をほほえましく思いながら、残った生地の成形を急いだ。
クッキーを全て焼き上げると、追加の分とお茶の準備を整えたデディと一緒にリビングへと向かった。
冬場にはうれしい陽の光と、暖炉の火が部屋を暖めてくれている。
中央のテーブルとソファーには『待て』をされたセシルが大人しく座っていた。
ちゃんと待っていてくれたようで、皿からは1枚のクッキーも減っていない。
そんな律儀な所もかわいいなと思いながら、追加のクッキーを置いて彼の隣に座った。
「お待たせ」
「…いいや、待ってないさ」
(ふふっ、その一瞬のためらいは何かしら?)
ちょっとだけ見栄っ張りな彼を愛おしく思いながら、デディが紅茶を用意してくれた。
「ではどうぞ、お二人でお楽しみを」
そう言ってデディは出ていった。
ちなみにクッキーはこれで全てではなく、1/3は使用人たちにお裾分けしてある。
味見してくれたシェフが美味しいと言ってくれたので、大丈夫だろう。
「じゃあ、いただきましょうか」
「ああ」
クッキーを一つつまみ、セシルの口元に近づける。
彼は何の抵抗も示さず口を開き、そこにクッキーを入れる。
「美味い」
「うん」
今度はセシルがクッキーをつまみ、私の口元へと運んでくる。
私が口を開くと、彼はそっとクッキーを入れてくれた。
「美味しい」
「だろう?」
クッキーをほおばりながら、二人で笑った。
(昔は、私が食べさせる側だったのに)
子どもの頃のセシルは、まるでひな鳥のように私に向けて口を開け、お菓子をねだったものだ。
それが今では彼から食べさせてくれるようになった。
彼の成長と、食べさせてもらえる嬉しさが、顔を綻ばせてくれる。
「ヨランダ」
私の名を呼んだ彼が、クッキーではなく自分の顔を差し出してくる。
それに私も目を閉じて、唇を寄せた。
「ん………」
軽く触れあうだけのキスはすぐに終わった。
目を開くと、とろけるような笑みを浮かべたセシルの顔がすぐそこにある。
この状況に、私の心にはどんどん温かい何かが満たされていく。
「幸せだな」
「ええ、私もそう思うわ」
人は、それを幸せと呼ぶのだろう。
セシルとのささやかなこのひと時が、私にとっては間違いなく幸せと呼べる瞬間だ。
「ねぇセシル」
「どうした?」
私はいたずらっ子な笑みを浮かべて、彼を見上げる。
「あなたが、私に土下座して頼んできたこと、覚えてる?」
「ああ、もちろんだ」
彼は柔和な笑みで私を見返し、うなずいた。
彼にとってはあまり思いだしたくない過去であり、恥ずかしがると思ったのにそうではない反応が返ってきて、ちょっと困惑だ。
「恥ずかしがらないのね?」
「ああ。確かに、そんなことをした自分を殴り飛ばしたいと思ったこともあった。だけど、あのときの自分の決断が今に繋がるかと思えば、殴り飛ばした後に賞賛の言葉を贈りたい気分だ。『最低だなこの野郎、良くやった』とな」
「なによそれ」
私は笑った。
でも、確かにその通りなんだ。
セシルの土下座から始まって、今私たちはこうしている。
始まりこそ不純ではあったけれど、
「セシルって、頭はいいのに時々バカになるわよね」
「最高の誉め言葉だな」
口角を上げたセシルは、自身の言葉を全く疑わず、受け入れている。
褒めたつもりはないのに、そう受け取る彼が面白くて、ますます愛おしくなる。
「セシル、好き」
「ああ、ぼくもだ」
お互いにそっと、顔を寄せる。
「ん……」
軽く触れた彼の唇からは、バターの香りがした。




