第31話
「では、包帯を取りますぞ」
医務室で医師の手により、セシルの右手に巻かれた包帯がほどかれていく。
事件から3週間が過ぎ、ようやく怪我も完治というところ。
今日、包帯を取って医師がチェックし、問題無ければ完治ということになる。
私はその立ち合いをしていた。
包帯が取り払われ、その右手の手のひらにはナイフによる傷跡がしっかり残っていた。
セシルの剣だこの付いた手に付いた傷痕は痛々しく、つい眉間にしわが寄る。
「ヨランダ」
私の名を呼んだ彼は、左手の人差し指を私のしわへと乗せ、ぐりぐりと押し付けてくる。
私が彼の傷痕を見てしわを寄せる度、彼はそうしてしわを伸ばせと要求してくる。
(だって……セシルが何と言ったって、私を守ろうとしてついた傷痕なんですもの)
自分のせいだと思い、悲しみと怒りが湧いてくる。。
セシルは否定して、自業自得だというけれど、なかなかそう割り切ることはできなかった。
医師は右手に触れ、傷痕や指をチェックしていく。
「痛みはありますか?」
「ない」
「指を動かすのに違和感はありますか?」
「……ない。少し動かしにくいな」
「ずっと固定しておりましたからな。いきなり剣を握るようなことはせず、違う何かで慣らしてください。さもないと、剣がすっぽ抜けます」
「わかった」
(今、さらっと怖いこと言わなかったかしら?)
一通りチェックし終えた医師は、傷の完治を宣言。
ようやく彼の不便な生活に終止符が打たれたのだ。
それはつまり、右手が不便でいろいろと大変な彼のために、何かしてあげていたことが終わりだということを示す。
食べさせてあげたり、拭いてあげたり、そういったことがもうできなくなるかと思うと、少し寂しさを感じた。
(セシルに食べさせていると、ひな鳥にいっぱいご飯あげたくなる親鳥の気持ちになっちゃうのよね)
セシルは右手を開いたり閉じたりして、具合を確認していた。
そして、一度ぎゅっと強く握りしめると、「よし」と小さく呟く。
何が「よし」なのかしら?
疑問に思っていると、椅子から立ち上がったセシルがこちらへと振り向いた。
すると次の瞬間、体の浮遊感とともに視点が上に向く。
「えっ?」
それがセシルによって抱き上げられてしまったのだと気付いたのは、数秒経ってからだった。
慌てるのは当然である。
「ちょ、ちょっとセシル!?何を…」
「婚約だ」
「えっ?」
「こ・ん・や・く。待ったんだぞ?ちゃんと今日まで。そういう約束だったよな?」
「……そうね」
そうだ。
婚約していたのは、彼のために何かするには客人ではセシルが受け入れないから暫定で婚約者になっていたにすぎない。
しかもただの口約束だ。
傷が完治した以上、それは解除され、私は今はただの客人になっている。
それをセシルは、今度こそ正式に婚約者として私を迎えたいということだろう。
(だからって、急ぎたい気持ちは分かるけど抱きかかえなくてもいいんじゃないかしら!?)
鼻歌を歌いだしたセシルはどこへ向かっているのか、道行く廊下で使用人とすれ違うたびに何事かと見られる。
それが恥ずかしくて、つい手で顔を隠した。
「フフッ、やっとまたあなたを抱き締めることができた」
「……落とさないでよ?」
恥ずかしくて、そんな憎まれ口しか出てこない。
それすらも、セシルにとっては楽しそうだった。
「もちろんだとも。愛しい人を落としたとあっては、ぼくの恋心までも落としてしまう」
そうしてたどり着いたのは執務室だった。
ソファーに座らせられ、彼は一枚の書類を取り出した。
よく見なくてもそれが何なのかはすぐに分かった。
婚約証書だ。
その証書を渡され、よく見るともうサイン済みだった。
セシルの父であるディカータ伯爵のものと、私の父リリバメン伯爵のサイン済み。
(えっ、何でもうお父様のサインが記入されているのよ!?)
セシルは右手の怪我を負ってから、ずっと屋敷に居た。
もしかしていつの間にか郵送で父の下へ送っていた?
これはどういうことかのかと目で問いただすと、セシルはこともなげに答えた。
「ああ、ちょっと前に父上とリリバメン伯爵の下に行って、書いてもらってたんだ。あとはあなたの意思さえ確認できれば、いつでも提出できるようにね」
それはつまり、セシルの父も私の父も、セシルと私が婚約することを了承していたというわけで。
これを出せば私の意思など関係なく、婚約者になれたのだ。
それでも、私の意思が決まるまでは出さないでいてくれた。
(ちゃんと私の意思を尊重してくれたのね。でも、本当によくもまぁ、準備したものだわ)
気になるのは、どうやって父を説得してこのサインを書かせたかだ。
上昇傾向がある父は、爵位が上の家との結婚を私に求めていた。
その父が、同じ家格のディカータ伯爵家の嫡男との婚約を認めたことが信じられない。
「セシル、どうやってお父様を説得したの?」
「なに、ちょっと交渉しただけさ」
「交渉?一体何を…」
「秘密♪」
セシルは口に指をあて、ウインクをした。
格好いいから様になるけど、それで誤魔化せると思われるのは釈然としないわ。
なお聞き出そうと詰め寄ったら、するりとセシルにかわされてしまった。
「それじゃあ、改めて確認したい。ほんとうに、ぼくの婚約者になってくれるんだな?」
「ええ、もちろん」
私は即答した。
もう迷わない。
彼には好きだという自分の気持ちを伝えているし、婚約することも、当然その先のことも望む。
順番が前後しているけど、この気持ちは本物だ。
「じゃ、ぼくは早速これを教会に提出してくるから」
「えっ?」
言うが早いか、私の手から証書を奪ったセシルはあっという間に部屋を出ていった。
あまりの早さに、私は紙を持ったままのポーズで固まってしまった。
(…早すぎるでしょ)
心の中で突っ込みつつ、それだけ楽しみにしていたというのは、悪い気がしない。
(でも、これで本当に彼の婚約者になったのね)
婚約者。
その響きにどうしてこんなにも心が浮足立っているんだろう。
初めて婚約者という立場になったときは、不安と心配しかなかったのに、今は期待と嬉しさしかない。
相手が違うとこんなにも自分の気持ちも違うのかと驚くとともに、思った以上に私も婚約者になれることを楽しみにしていたということを思い知った。
****
セシルが婚約証書を提出した翌日。
晩餐を終えた後、彼は一通の手紙をもって私の部屋にやってきた。
「それは?」
「もうすぐ社交シーズンが始まる」
「……ああ、そういうことね」
それだけで察した。
それはつまり、招待状ということであり、私とセシルが婚約者として正式に表舞台に姿を現すことになるということだ。
自然と手に力が入り、姿勢を正した。
それにセシルが苦笑する。
「そう身構えなくても大丈夫だ。あなたはいつも通り、ぼくの隣で堂々としていてくれればいいから」
「あなたの隣で堂々としていた覚えはないのだけれど?」
そんないつも通りの覚えなんて無いわよ。
そう言ってにらみつけると、彼は「そうだったかな?」ととぼける。
手紙を受け取り、中を読むと一月後に開催される王宮での舞踏会の招待状だ。
王都に徐々に地方の貴族たちが集まり始め、賑やかな時期となる。
あちこちで茶会や小規模の夜会が開かれるようになり、貴族同士の交流が最も盛んになる時期だ。
「楽しみだな、ヨランダを妻として紹介できるのは」
言葉通り、セシルの顔はにやけっぱなしだ。
でも、ちゃんと突っ込むべきところは忘れない。
「妻じゃくて婚約者でしょう」
「ぼくの中ではもう妻になっている」
「気が早いのよ…」
呆れて息を吐く。
セシルが嬉しそうなのは私もうれしいし、妻というのも悪い気はしない。
でも、私にとっては離縁した後、初めての公式の場だ。
しかも、元夫が私を殺しに来て逮捕されたということは、耳の早い貴族ならとっくに知っていてもおかしくない。
そんな私は、10歳も年下のセシルの婚約者として参加するのだ。
奇異な目で見られるのは覚悟しなければならないだろう。
知らず力が入り、手を握り締める。
そんな私を見かねてか、セシルは努めて明るい声を出した。
「じゃ、早速ドレスを用意しよう。ヨランダの晴れ舞台だからな、最高の一着を用意しなければ」
「い………うん、そうね」
セシルの笑顔に応じるように、私も笑顔で応じる。
要らないと言いかけた口を、全力で押しとどめられて良かった。
本当は、私のためにそんなにお金を使ってほしくない。
それでも、彼の隣に立つなら、手持ちのドレスでは心もとないし、地味な私が隣では彼に恥をかかせてしまうかもしれない。
(せめて、ドレスくらいは彼の隣でも恥ずかしくないようにしましょう)
我ながらずいぶんと後ろ向きだと呆れつつ、改めて彼の隣に立つ自分の地味さに、人知れずこっそり息を吐いた。




