第15話
(何だったのかしら、今の)
私はエロール様が情けない悲鳴を上げて走り去るのを、信じられない気持ちで見ていた。
入浴を済ませたあと、どうしても片づけておきたい書類があったので取り掛かったら、こんな夜遅くになってしまった。
ようやく片付き、部屋に戻ろうとしたところで、ばったり帰宅したエロール様に出会ったのだ。
(また嫌味でもいうのかしら)
うんざりした気持ちで階段を上る夫を見ていたところ、あちらもヨランダに気付いた。
わずかに届いたランプの灯りが、彼の顔が烈火に染まるのを映し出していた。
しかし、その次の瞬間には一気に蒼白になり、彼は駆け出していた。
あまりに早い二面相に、ヨランダの理解のほうが追い付かない。
まるで、何かを恐れて逃げるような走り方だった。
屋敷の中では傍若無人な夫にしては、ありえない動きである。
彼の消えた方向を、私は茫然と見送った。
エロール様の奇行は気になるが、さして気にするほどでもないと思い直す。
ただでさえエロール様のせいでストレスが溜まっているのだ、嫌味一つ言われないでも全然違う。
(まぁ、寝る前にエロール様の情けない姿を見れたから、少しは溜飲も下がるってものね)
面白い物が見れたと思い直し、一人頷いていると喉奥から何かがこみあげてくる。
「ふわ…ぁ……ん」
こんな時間まで作業していたせいで、眠気は限界だ。
誰にも見られていないからとあくびをすると、自室へと廊下を歩み始める。
暗い廊下に、私の歩く音だけが響いていた。
時折、窓を叩く音が聞こえる。
外はずいぶんと強い風が吹いているようだ。
(この風で枝が折れて、窓ガラスが割れる…とか勘弁してほしいわ)
侯爵夫人にあるまじき心配をしている自分のことがおかしくなり、つい笑いがこぼれた。
早く寝よう…そう思い、足は自然と急ぎになった。
****
夫が深夜に帰宅してから1週間。
私は執事のヘクターと調度品などの資産管理をしていた。
屋敷内の有形資産を把握し、いざという時には足しにするためだ。
できれば取りたくはない選択だけど、背に腹は代えられない。
屋敷内を回り、調度品や絵画をチェック。
めぼしいものは一度古物商に鑑定してもらう予定になっている。
ヘクターは突き飛ばされた時に打った腰が、幸いにして骨にヒビは無かった。
後遺症も無かったため、現場に復帰してもらった。
既に高齢とはいえ、やはり彼がいるのといないとでは大きい。
その最中、私はついヘクターにあの件について聞いてしまう。
「…あれから、ずっと出てこないのよね?」
「…はい、一歩たりとも部屋から出ようとしません」
私とヘクターは顔を見合わせ、同時に首をひねった。
話の主役はエロール様だ。
深夜に帰宅して以来、なぜか彼は一切出歩かなくなった。
それどころか、自室からすら出ようとせず、食事や生理現象以外の時は引きこもりとなっている。
入浴すら、お湯の入ったタライを持ってこさせ、自分で拭いているようだ。
「何か心当たりはある?」
「全く。奥様は?」
「私も……あ」
「何か心当たりが?」
「……多分」
思いだしたのは、深夜に帰宅したときのことだ。
あの時、エロール様は私を見てから何かに怯えるように足早に自室に入っていった。
あれから外に出ていないのだから、あれが原因…なのかしら?
それをヘクターに話してみるけど、やはり彼にも分からないようで、目を閉じて唸っている。
「うむむ……それだけですと、まるで奥様を恐れて出てこないように思えますが…何かされました?」
「全然。皆目見当もつかないわ」
エロール様の自室は、外から見ると全てカーテンで閉じられており、すっかり引きこもりになってしまったようだ。
(まぁ、外に出てどこかにお金を使ってくるわけじゃなくなったから、こちらとしてはありがたいけれどね)
レストランにも顔を出さないので、スタッフの機嫌も幾分マシになっていた。
良くなるほどではないが、右肩下がりの状況がちょっとだけ緩やかになっている。
今はそれでよしと思うところだろう。
「この壺、どうかしら?売れそう?」
廊下に並べられていた壺の一つを、ヘクターがそっと持ち上げ、底を確認する。
よく分からないサインが掘られていた。
「……わかりませんね。ですが、状態はいいのでこれも鑑定していただきましょう」
「そうね」
****
夫が引きこもりになって3カ月が経過した。
相変わらず部屋の中から出てこようとしないし、誰とも顔を合わせようとしない。
まぁ生きてさえいるなら、私としては何も言うことは無い。
たまにヘクターや使用人の前には姿を現すようだけど、毛が伸び放題になってすっかり熊のような様相になっているとか。
ただ、ことさら私のことを避けているようで、使用人たちの間でも「奥様が何か旦那様にトラウマを植え付けたのでは?」という根も葉もないうわさが立っている。
(トラウマだなんて、本当に何もしてないのよね…)
全く心当たりがなく、首をかしげるしかない。
もちろん使用人も本気で言っているわけではないから、あまり神経質に否定する気も無いのだけれど。
暑くなり始めた陽射しの中、私は久々に刺繍に取り組んでいた。
本当に久しぶりな、夫人らしい趣味である。
やっと空き時間らしい空き時間が出来たので、ちょっと始めてみることにしたのだ。
自室の窓際から少し離れた、日光が直接当たらない場所に椅子を置き、中庭を眺めながら始める。
(得意って程ではないけど、それなりに形にはできる…はず。ちょっとブランクが長いけど、大丈夫よね)
こんな時間が持てたことに、つい笑みがこぼれる。
今回は肩慣らしにバラの刺繍を始めてみた。
ついついと糸を通していると、久しぶりに心が穏やかになっていく気がする。
そうしていると、不意にセシルの事が頭をよぎる。
糸を通す手を止め、ぼんやりと外を眺めた。
(セシル……今頃どうしているのかしら)
自分から手紙を拒絶したのに、それでも彼のことを考えてしまう私は、とても女々しいと思う。
それでも、弟のような存在だった彼が、あれからどうなったのかが気になってしまうのだ。
(もう完全に女性恐怖症を克服できたのかしら?それなら、きっと今頃は引っ張りだこよね。その中に、彼を大事にしてくれるお似合いのご令嬢がいれば……あれ?)
ふと、頬に手を当てる。
手に雫が付いていた。
それが自分の涙だと気付いた時、次から次へと涙は溢れ、やりかけの刺繍へと降り注いでいた。
「ぐすっ……私……なんで……」
ハンカチを取り出し、涙をぬぐう。
とめどなく溢れる涙を拭き取りながら、私の心はセシルの隣に自分以外がいることへの悲しみに暮れていた。
私では彼にふさわしくない。
歳の差があるとか、既婚者だからとか、彼にはお似合いの人がいるとか散々言い訳しておいて、それでも本心は、彼と共にいたかった。
騙されたと思った時も、別に女性恐怖症を治すためだけなら構わないはずなのに。
わざわざ手紙を拒絶する必要はなかった。
ただ、もうしなくていいよねと、それだけで済むことだ。
そうではなく、騙されたことがショックだった。
セシルと共にありたいからこそ、ただ身体だけを望まれているのが嫌。
(私……セシルのことが好きになってたのね)
遅すぎる恋心に、おかしな笑いがこみあげてきた。
先に重ねたのは身体だったけれど、あれほどまでに自分を求めてくれる存在に、惹かれないはずがない。
真面目で、正直で、とてもかっこいい。
エメラルドのように透き通った美しい碧眼に覗き込まれるたび、私の心は彼に囚われていた。
でも、もう取り返しは付かない。
一方的に断ち切ったのだから、彼も憤慨しただろう。
彼は優しいけど、礼儀知らずにまで優しくするほど寛容ではない。
「会いたいよぉ……セシル」
一人しかいない部屋。
私のつぶやきは、どこへともなく消えていった。




