第四章:甘い毒と優しい魔法
緑川恵美さんが店のポスターとメニューのデザインを手伝ってくれることになった。
彼女は、私の描く「メルヘン」とは少し違う、もっと深みのある、大人のための「おとぎ話」を表現しようとしてくれた。
例えば、私が描いたシンデレラの絵を見て、彼女は言った。
「このドレス、もう少し破れた感じに描いてみませんか? 継母にいじめられて、それでも舞踏会に行きたいっていう、彼女の強い意志が見えるように」
私の頭の中のシンデレラは、いつも完璧なドレスを着ていた。破れたドレスなんて、想像もしていなかった。
でも、恵美さんの言葉には、妙な説得力があった。
彼女は、まるで絵を描くように、言葉でも感情の機微を表現するのが得意だった。
そう、恵美さんの絵は、美しさだけでなく、その裏に隠された痛みや葛藤を繊細に描いていた。まるで、私の心の奥底を覗かれているみたいで、少しだけ恥ずかしかった。
咲良さんは、そんな私たちのやり取りを、いつものように静かに見守っていた。
ある日、恵美さんが描いた新作のポスターを、咲良さんがじっと見つめていた。
ポスターには、森の奥で、一輪の花がひっそりと咲いている絵が描かれていた。周りには、嵐で折れた木々や、濁った川が描かれている。
私の絵本なら、絶対に描かないような、「現実」の厳しさがそこにはあった。
でも、その花は、どんな状況でも、確かにそこに存在し、凛として咲いている。
「…素晴らしい絵ですね」
咲良さんの口から出た言葉に、私は驚いた。
彼女が、感情を表に出して何かを評価することは、今まで一度もなかったからだ。
恵美さんは、少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。どんなに苦しい状況でも、希望は必ずある。そう信じて描きました」
その言葉を聞いて、咲良さんは、ほんの少しだけ、口元を緩めた気がした。
それは、私が見た中で、一番人間らしい、優しい微笑みだった。
私はその瞬間、ある直感が頭を駆け巡った。
彼女が「矛盾」を描く小説家だというのなら、この絵の中に、彼女自身の矛盾が映し出されているのではないか?
苦い珈琲を愛しながら、心の奥底では、甘い希望を求めている。
そんな、咲良さんの秘められた一面を、私だけが知ってしまったような気がした。
ある日の閉店間際、店に残っていたのは私と咲良さんだけだった。
「…藤原さん」
珍しく、彼女から私に話しかけてきた。
「あなたの店は、まるで甘い毒のようですね」
毒、と聞いて、私は少し身構えた。
「最初は、夢物語ばかりで、現実から目を背けさせているように思えた」
彼女はゆっくりと続けた。
「でも、ここに来ると、人々は、自分の中の隠れた部分と向き合わざるを得なくなる」
「それは、絵本が持つ優しい魔法に似ている。現実の厳しさを知っているからこそ、一筋の光を見つけられるような…」
彼女の言葉は、まるで私の心にそっと寄り添ってくれるようだった。
私が必死に隠してきた「矛盾」を、彼女は全て見透かしていた。
そして、それを「毒」だと表現しながらも、どこか肯定してくれているようにも聞こえた。
その夜、私は眠れなかった。
咲良さんの言葉が、脳裏を巡り続ける。
「甘い毒」。
それは、彼女が私に向けてくれた、初めての、そしてとても大切なラブレターのように思えた。
そして、私は決意した。
もう、絵本の中に閉じこもるのはやめよう。
現実の荒波の中で、私自身の力で、新しい物語を紡いでいこう。
そして、その物語の隣には、きっと、苦い珈琲を愛する彼女がいる。
そう、私は、そう信じたかった。