第三章:ガラスの城とヒビ割れた心
咲良さんが、珈琲に砂糖を入れたあの日から、私の胸には、小さな蕾が芽生えたような気がした。
それは、おとぎ話の王子様とは違う、もっと現実的で、それでいて繊細な期待だった。
彼女は相変わらず多くを語らないけれど、時折、私に向けられる視線には、以前のような冷たさだけでなく、何かを測るような、探るような光が宿るようになった。
私は、彼女が小説家だということを思い出し、ある時、勇気を出して聞いてみた。
「咲良さん、どんな小説を書かれているんですか?」
彼女は、カップを置く手を止め、少しだけ考えるように沈黙した。その静寂は、まるで世界の音が止まったみたいで、私の心臓の音がうるさく響いた。
「…主に、人間の矛盾を描いています」
そう言って、彼女はまた珈琲に目を落とした。
矛盾。
その言葉は、私の心に深く響いた。
私は、まさに矛盾の塊だ。王子様を夢見ながら、現実から目を背けている。完璧な愛を求めながら、自分自身が不完全なことを恐れている。
咲良さんは、私のことを見抜いているのだろうか?
そんなことを考えていると、店の奥から、聞き慣れない声が聞こえてきた。
「あら、ここかしら? メルヘン喫茶フェアリーって。」
見ると、スラリとした長身の女性が立っていた。
肩にかかるほどの長さの、ゆるいウェーブのかかった栗色の髪。
上品な花柄のブラウスに、ゆったりとしたガウチョパンツ。
その手には、大きなスケッチブックが抱えられている。
彼女の顔には、どこか夢見るような表情と、同時に深い諦めのようなものが混じり合っていた。
瞳は大きく、しかしその奥には、使い古された絵筆のように、少しだけ色が褪せたような影が落ちている。
彼女は、キョロキョロと店内を見回し、私の描いた壁の絵に目を留め、フッと微笑んだ。
「はじめまして、私、緑川恵美と申します。イラストレーターなんです。」
彼女は、少し緊張した面持ちで、私に挨拶をした。
そして、スケッチブックを広げ、何枚かの絵を見せてくれた。
それは、まるで生命が宿っているかのような、繊細で力強いタッチの絵だった。
花、鳥、森の動物たち。どれも、私の絵本の世界と似ているようで、でも、もっと深く、生命の喜怒哀楽が描かれている。
「実は、お店の新しいポスターとメニューのデザインを、と思っていたんですが…」
彼女は、言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。
「…私の作品は、少し暗いと言われることも多くて…」
その言葉の響きは、まるでガラスがヒビ割れるような音だった。
暗い。そう言われてしまう。
私は、彼女の絵の中に、どこか自分と同じような葛藤を感じた。
理想と現実の狭間で揺れ動く、そんな感情が、彼女の筆からは溢れ出ていた。
咲良さんは、そんな私たちのやり取りを、ただ静かに、目を閉じ、珈琲の香りを深く吸い込むことで、見守っていた。
この店は、まるでガラスの城。
外からはキラキラと輝いて見えるけれど、内側には、私や恵美さんのような、ヒビ割れた心を持つ人間が隠れている。
そして、そんな私たちの前に、咲良さんは、真っ黒な珈琲を静かに置いてくれる。
それは、甘い夢の終わりを告げる、苦い現実の象徴なのだろうか?
あるいは、その苦みの中に、まだ見ぬ、別の甘さが隠されているのだろうか?