第二章:黒い珈琲と白い砂糖
咲良さんの来店は、私にとって日常の中にぽつりと開いた、小さな穴だった。
毎日決まって午後三時。まるで時計仕掛けの人形のように、彼女は現れた。
いつも同じ窓際の席に座り、ただひたすらブレンドの苦い珈琲を飲む。
「プリンセス・ブレンドなんて、冗談でしょ?」
ある日、私が冗談交じりにそう言うと、彼女は静かに眼鏡の奥から私を見た。
その視線は、まるで私の夢見がちな心を、冷たいメスで切り開くかのようだった。
「珈琲に物語は不要です。味が、全て。」
その言葉は、私の胸にチクリと刺さった。私の店は、物語そのものなのに。
咲良さんは小説家だという。どんな物語を書いているのだろう?
きっと、私の絵本とは真逆の、冷たい現実ばかりを描いているに違いない。
そう思っていた。
ある夕暮れ時。
いつものように珈琲を淹れていると、店内に少しだけ高い声が響いた。
「あら、咲良ちゃん、今日も来てるのね!」
振り向くと、そこに立っていたのは、常連客の神崎律子さん。
80代を過ぎているとは思えないほど背筋が伸びていて、いつも上質な和服を身につけている。
白髪をきっちりまとめた髪には、季節の花を模した簪が飾られ、上品な香水の匂いがふわりと漂う。
その瞳はいつも好奇心に満ちていて、まるで子供のようにキラキラと輝いている。
律子さんは、私の喫茶店のオープン当初からの常連さんだ。
夫に先立たれてから、一人暮らし。
「この店に来ると、心が軽くなるのよ」って、いつも優しい笑顔で言ってくれる。
咲良さんが店に来るようになってからは、彼女に興味津々で、何かと声をかけていた。
「咲良ちゃんたら、いつも難しい顔して。たまには甘いものでもどう?」
律子さんは、ショーケースのプリンセスケーキを指さした。
咲良さんは、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「いえ、結構です。甘いものは苦手で。」
ツン、と突き放すような物言い。
でも、律子さんは全く気にしない。
「あらそう? 人生は甘いばかりじゃないけれど、たまには砂糖も必要よ。特に、あなたみたいに苦い珈琲ばかり飲んでる人はね。」
律子さんは、私の手元にあった角砂糖をいくつか手に取り、咲良さんのテーブルに置いた。
咲良さんは、それを一瞥し、何も言わなかった。
その日の夜、店を閉めて片付けをしていると、咲良さんのテーブルの上に、小さなメモが置いてあるのを見つけた。
走り書きで、たった一言。
『砂糖、ありがとう。』
私は思わず、笑ってしまった。
冷たいようでいて、律子さんの言葉に、少しは心を動かされたのかもしれない。
そんな些細な出来事が、私の胸に、なぜか温かい雫のように染み込んだ。
翌日、咲良さんが来店した時、私は何も言わず、彼女のいつものブレンドの横に、そっと角砂糖を二つ添えて出した。
彼女は、珍しく眼鏡を外して、その角砂糖を見つめた。
そして、そのうちの一つを、音もなく珈琲の中に落とした。
私の心臓が、ドキン、と鳴った。
珈琲の表面に、白い砂糖がフワリと溶けていく。まるで、冷たい現実に、ほんの少しの甘さが加わったみたいに。
その瞬間、私の頭の中で、絵本のページが、ぱらり、と風にめくられるような音がした。
物語は、ひっそりと、しかし確実に、新しいページを捲り始めていた。