第一章:ガラスの靴と珈琲の泡
ようこそ、私の世界へ。
私の名は藤原あかり、32歳。
この世界には、まだ王子様が実在すると信じている、ある意味で奇妙な女。
いや、奇妙なんて失礼ね。純粋、と呼んでほしいわ。
だって、子供の頃から読み聞かされた絵本の中では、ガラスの靴は必ず誰かにピッタリとハマり、かぼちゃの馬車は最高の夜会へ誘ってくれたじゃない? シンデレラは確かに王子様と結ばれたし、眠れる森の美女はキスで目覚めた。
私にとって、世界はそういうものだったの。だから、今もこの「メルヘン喫茶フェアリー」を営んでいる。
町の商店街の、ちょっと奥まった場所にある、こぢんまりとした店。
パステルカラーの壁には、私自身が描いたおとぎ話の挿絵が飾られ、アンティーク調の家具が並ぶ店内は、まるで絵本から飛び出してきたみたい。
ショーケースには、プリンセスをイメージしたカラフルなケーキが並び、紅茶の香りにはいつも薔薇のフレーバーを選んでいる。
ええ、そうよ。ここは、私が夢見る世界そのものなの。
でもね、現実は、魔法の粉なんてどこにも降ってこない。
毎月の家賃の支払い、食材の仕入れ、パートさんの給料。それらがまるで巨大な怪獣みたいに、私を追い詰めるの。
「王子様、助けてー!」なんて叫んでも、誰も来やしない。
だって、私がこの年齢になっても恋愛経験ゼロだって、誰にも言えない秘密だもの。
30代にもなって、恋人がいない。結婚の予定もない。それどころか、まともに手すら握ったことない。
そんな私が、どうしておとぎ話のハッピーエンドを信じていられると思う?
それはね、信じないと、心が砕け散りそうだから。
現実は、いつも私を裏切ってきた。両親は、私が小学生の時に、絵本の中の夫婦とは程遠い、酷い喧嘩ばかりしていたわ。
「もう嫌だ、こんな現実!」って耳を塞いで、必死に絵本の世界に逃げ込んだ。それが私のトラウマ。
だから、私は理想の世界に生きている。完璧な王子様が、いつか私をこのつまらない現実から救い出してくれるって。
そんな、ある日の午後。
「カランコロン」と、店のエントランスベルが鳴った。
いつもの常連さんかな、と思って顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れない女性だった。
黒のストレートの髪は肩まで綺麗に切り揃えられ、どこか都会的な空気を纏っている。
高すぎないヒールを履いたシンプルな黒いパンツスーツに、白いブラウス。
無駄のない洗練されたスタイルで、まるでファッション雑誌から抜け出してきたみたい。
顔立ちはすっきりとしていて、眼鏡の奥から覗く瞳は、まるで深い湖の底みたいに静かで、全てを見透かすような冷たさを宿している。
彼女は、店の中を見回し、私の描いた絵を見て、フッと鼻で笑った気がした。
「いらっしゃいませ!」
私の声は、少しだけ震えた。
彼女は何も言わず、店の一番奥、窓際の席に静かに座った。
まるで、このメルヘンな世界を拒絶するかのように。
「いらっしゃいませ、何になさいますか?」
私は緊張しながらメニューを差し出した。
彼女はメニューを一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。その声は、驚くほど低く、涼やかだった。
「…ブレンド。苦めのやつで。」
そう、彼女こそが、橘咲良だった。
彼女の珈琲は、私の甘いおとぎ話とは、あまりにも対照的だった。
苦い。とてつもなく苦い。
けれど、なぜか、あの苦みが、私の世界を少しずつ変えていくことになるなんて、この時の私は知る由もなかった。
窓の外は、もうすぐ夕焼け色に染まろうとしていた。