第九話 二人だけの秘密
* * *
海は真っ青だった。負けじと空も蒼かった。ざぁざぁと波の音がさんざめき、ほんのりと磯の香りが漂ってくる。
曖昧な意識のせいか、ろくに思考が働かない。この後なにをすればいいかも分からないまま、ただただ浜辺に突っ立って地平線の彼方を眺めていた
少女は生まれて初めて一人になった。
初めての孤独を堪能しようとするも、足元を真冬の海水が押し寄せてくる。
「つめたっ!」
記念すべき地上での第一声が情けない声だった。今の自分は一糸纏わぬ非力な人間。これ以上濡れる前に安全な場所に避難しないと。四肢に力を込めてみると、右手に小さなガラス玉が収まっているのに気がついた。
これは「わたし」が「わたし」である証左。どんなことがあろうと手放すつもりはない。
一歩踏み出すとジャリジャリとしたきめ細かい砂浜が足の裏をくすぐる。最初の数歩はムズムズとして落ち着かなかったが、次第に慣れてしまった。人間の適応力は目を見張るものがある。
最初の場所から数十メートル離れた場所で再び静観。しばらく人が来ないことは織り込み済み。裸体の少女が一人で砂浜に座っていても、すぐには問題にならないはず。
彼らを待つがてら、眼前に広がる壮大な自然をぼうっと眺めていた。
どれだけの時間が経ったのか定かではない。初めのうちはなんてことはなかった冬の海岸も、長らくいるとさすがに身体が冷えてきた。ブルブルと身体が震える。早速地上の洗礼を味わう。
……や、もう生き残るとかそういう次元じゃない。まだ身体と精神が馴染んでいないから死なないだけで、死と直面している事実は変わらない。苦労したのにぽっくり死ぬとは笑い話にもならない。
浜辺で一人、頭を抱える。孤独は十分堪能した。あの場所に戻りたいとは思わないが、いつも近くに五月蝿い奴らがいたから音が少し物足りない。なんだかんだと言っても賑やかな雰囲気は嫌いではなかったし。しばらく地上で暮らしたら孤独にも馴れるのだろうか。
移動した方がいいのかな。でも下手に動いたらいけませんと念押しされている。
どうしよう、どうしようと路頭に迷っていると、どこからかビュうと風に乗ってなにか飛んできた。飛翔物の存在に気づいたものの反応が遅れ、顔面直撃。
「ぶへぇ」
白い布だった。厚みはないが随分と長い。試しにぐるぐると身体に巻いてみると不思議と寒さに耐えられた。か弱い少女のもとに、程よい大きさの綺麗な布が飛んでくる奇跡なんて地上にあるわけない。まして汚れ一つとない純白の布だ。彼らからの贈り物であるとすぐにわかった――まったく、あれだけわたしに関わるなって釘を刺したのに。
とはいえこれはありがたい。彼らからの最後の親切に甘えることにした。
それからまもなく、心地よい波の音に割って背後からブルルルると猛スピードで車が突っ込んでくる。少女のすぐ近くで急停車。そして勢いよくドアが開いた。
待ちくたびれたと文句を言ってやりたかったが、焦った顔で車から飛び出す二人の顔を目にすると不満は引っ込み、前もって用意していた言葉がするりと飛び出た。
「はじめまして。しばらく世話になる」
* * *
この前の騒ぎ然り、放課後の麻雀然り、精神的肉体的の疲労が積もりに積もって爆発してしまった。帰宅してちょっと気だるくてソファーで横になって、少し経って目が覚めたら全身がだるくて動けない。
体温計なんて家にないし、薬の類もないから容態をしっかり把握しないでもう一度目を閉じた。寝れば良くなるだろうと楽観的だったが、翌日目覚めると体調はさらに悪化していた。
人間の身体は難儀なものである。
熱が少しあるだろうか。喉は痛くない。頭はズキズキする。食欲なし。ひとまず学校に連絡を入れ、再び意識を落とす。
昔はそれなりの風邪っぴきさんだった。一夏に二回スペイン風邪にかかったこともある。その度にお母さんが故郷の味だと、卵粥を作って看病してくれたことを思い出す。
おそらくは疲労だろう。海外を渡り歩いていた頃は日常茶飯事だった。一日じっくり休めば良くなるはず。お父さんは娘をこき使うだけ使って日本を離れたし、お母さんは今頃日本の真裏にいる。これくらいで弱音は吐けないし、風邪を引いたと伝えたら飛んで戻ってきそう。仕事中なのに呼び出すわけにはいかない。
あー、汗かいてきたかも。だけど身体が動かない……また寝よう。
「……んあ」
物音が聞こえた気がする。気のせい、かと思うと現実だった。再びピンポーンとチャイムが鳴り響いた。
……誰だろう。
身体を起こすと寝汗でパジャマもソファーもぐっしょり。重い身体をなんとか起こしてインターホンを覗く。
「志保? ……おまけもいる」
そこにはクラスメイトの結月志保と春夏冬雅の姿があった。なぜ二人がここに、というか学校は? 部屋の時計を見るともう午後三時を回っていた。い、いつの間に。
「あ、凛ちゃん。お見舞いに来たよ。ついでに今日一日、落ち着いてなかったイケメンも連れてきた!」
「いらない」
ピッ、インターホンを切る。無駄な体力を使ってしまった。服を着替えてまた寝よう。
――ピンポーン、……誰だろう。
「凛ちゃん凛ちゃん、今日は優秀なシェフを連れてきたよ。腕によりをかけて、うどん作るって」
「食欲ない」
ピッ、インターホンを切る。上半身を真上に伸ばしてストレッチ。体調が悪いのに嫌なものを見てしまった。お見舞いに来てくれるのはありがたいけれど、今は対応できる気力はない。
――ピンポーン、……勘弁してくれ。
「つめたいこと言わないで。雅くん、すっごく落ち込んでる」
「あぁ、もう! 散らかってるけどどーぞ」
結局二人を通すことに。トイレに行って着替えようとしたのだが、想像よりも早く玄関のチャイムが鳴ってしまった。
「大丈夫? 一人暮らしって聞いてたから看病しに来たよ」
「ん、ありがと。ただの疲労だと思う。明日、病院に行ってから登校するつもり」
無理しないでねと優しく微笑む志保の陰で、ビニール袋を持ってモゴモゴしてるもう一人のクラスメイト……こんな性格じゃないだろう。いつもみたいに嫌味を言ってこないのか。
「う、うどん。ざいりょう かってきた」
……なんでカタコトなのだろう。これで一世を風靡した子役と言われても説得力もない。まぁ好意だけはありがたく頂戴するとして、二人を部屋にあげることに。
雅は来て早々、台所を借りるぞと言ったっきり言葉を発さず。どころかわたしを見ようともしなかった。
「着替えどこ? 背中拭いたげる」
「そこまでしなくても」
「その、なんというか……透けてるし」
透けてる? ……ははぁ、確かに言われると人に見せる格好ではなかった。風邪で寝込んでいて着替える暇なかったから仕方がない。とて見せてしまったものは仕方ない。
なるほど、どおりであの反応だったわけか。意外と紳士的じゃないか。
「じゃ、お言葉に甘えようかな」
志保は駅前の薬局のロゴが描かれたビニール袋から身体拭きシートを取り出した。宝石でも愛でるような手つきで優しく拭いてくれた。
「相変わらずこの家は米もないのか。材料買ってきてよかった」
志保からのど飴やら経口補水液やら手渡されてソファーで寝ていると、一言嫌味を添えながら器を持ってきた。深皿の中央にはドカンと卵。香ばしい出汁の香りが腹の音を鳴らす。見るからに麺よりも野菜の方が多い。栄養をつけるためだろうか。
どれ、わたしはこう見えて味にうるさいんだ。優秀なシェフの料理を採点してやろう。
「……ん! おいしー」
意外だった。芸能界で持て囃された男の手料理なんて期待していなかったのに、想像を遥かに飛び越えて美味しかった。風邪気味だからと気を使ってくれたのか味が濃い。知ってか知らずか、濃いめが大好きなわたしの好みにピッタリだった。
「ならよかった。まだ汁はあるし、麺は冷蔵庫の中にあるから」
「おかわりしたいな」
「しょうがないな、ったく」
とか言いつつ口元がにやけている。誰だって料理を褒められれば嬉しいのだろう。他の料理はどうなんだろう。体調が良くなったら、今度は別のやつも食べてみたい、かも。
「ね、これから毎日、お昼のお弁当作ってくれない?」
しかし「お前のおかんじゃない」と即刻却下されてしまった。
なんだ、ケチ。せっかく腕前を評してやったのに。もういい。金輪際頼まない。
志保もそう思わない? 料理がうまい人に弁当を頼むのは普通でしょう。
ほら見たことか! ため息ついてる。
わたし悪くないよね? というか乙女の根城に踏み入れたんだから、入場料としてそれくらいやってくれないと。
「雅くんもバカだね。せっかくの口実を台無しにしてさ」
◇
食事も終わり、ついでに雅が台所に溜まっていた洗い物を片付けてくれた。入場料はそれでチャラにしてあげよう。満腹状態でソファーになっていると、志保が「あ」と手をポンと叩いて自分の鞄の中を弄った。
「忘れないうちに……はい、学校のプリント。明日は英単語のテストがあるよ」
「うげぇ、最悪。改めて思うけど、ひと月の平均点が七割下回ると朝テストって厳しい」
「ただでさえシノセンに目をつけられてるんだから頑張らないと」
あの人、まーだ居眠りしたこと、根に持ってるのかな。教師なのだから生徒の失敗の一つや二つ忘れてもらいたい。けど無理だろうな。キツネみたいな鋭い目して性格キツそうだもの。女子生徒には当たりが強いくせにイケメンと分類される男子には猫撫で声だし。
たとえばうちのクラスだと雅がそれに当てはまる。被害を受けてない本人は心当たりがないようだ。
「でも来週の定期考査さえ乗り切れば下り坂。学園祭まで忙しくなるよ! 出し物は決まってもシフト決めに係決め。衣装の採寸だってしなきゃいけないし……私の方が倒れちゃいそう」
「治ったら協力するから頑張って」
「だったら、部活は学園祭終わるまでぜーんぶ任せよっかな」
「か、考えておきます」
「それより採寸って……誰がつくるんだ?」
「その辺は抜かりないよ。手芸部総出で協力してくれる。それとなく頼んでみたら喜んで引き受けてくれたの。四十人分の衣装作りなんてすごいよね」
「ま、いい衣装を作れば手芸部の名前も売れるからな。その手のプロを目指す生徒もいるだろうし」
わたしが蒼月の学園祭は想像するよりはるかにスケールが大きいようである。雅のスマホに去年の映像が残っているようで、強請る面倒もなくあっさりと見せてくれた。
そこは蒼月にあるスタジアムだった。わたしはまだ入ったことがないけれど、時々体育の授業で使用するらしい。学園祭のために設けられた特設ステージから観客の様子を映していた。
見渡す限りびっしりと敷き詰めらて、ゆらゆらと揺れる人の頭。こちらに向かって色とりどりのペンライトを振り、黄色い声援を飛ばしてくる。もはやなにを言っているのか聞き取れない。
たった一分半の映像。起承転結の「起」も感じられない中身だけれど、その熱気は時を超えて画面越しに観てもびりびりと伝わってきた。
「去年のメインステージに立ったんだっけ?」
「推薦が決まってたからゲストでな。この時は休止直後だったから、たくさん人が来てくれて……運営に散々迷惑かけたな」
「ふーん、雅って人気なんだね」
わたしがみるに、春夏冬雅という人間は実に面倒くさい。
最初は才能がないやつが蒼月にくるな、みたいな空気で冷たく接してきたし。かと思えば突然雅の方から話しかけてきたり、やけに突っかかってきたり。おまけに余計なお節介を焼いてくる「面倒」そのもの。
俳優という役職柄か、キャラがコロコロ変わる。それに合わせるだけでも面倒で極力関わらないようにしている。けどなにか頼めばコロっと引き受けてくれるので使い勝手は悪くない。そこに至るまでの道中と処理が大変なのだ。
それが天塚凛が抱く「春夏冬雅」の心象。
だけど志保や鞠沙、その他諸々の人からの話を聞くと、彼はどうやらすっごい人……らしい。
雅はクラスに溶け込んでいるから友人も多い。目を向けると常に誰かと言葉をかわしている。同性からは気兼ねなく話せる人気者。異性からは憧れの的。鞠沙や清霜のような有名人が集う三組もあるから、瀬戸や菊田のような一般人も有名人の扱いに慣れてきたのかもしれない。
とはいえ入学当初はそれなりに困ったことだろう。瀬戸たちも、もちろん当の本人も。
けれど過去は過去。過去の栄光は散々と聞かされたものの、なにも知らないわたしには天地創造と変わりない。この目で見たことのない不確かな話は神話も同然だ。
個人的には褒めたつもりだ。ちょっとばかし名が売れたアイドルでも、あの声量を集めるのは困難だ。それに画面越しだけど「人間の感情」が漏れているのが見て取れる。
わたしはガラス玉を通じて道端に転がっている感情を採集できる。もしくは人から感謝されたり喜ばれると、溢れ出た感情のおこぼれをもらえる。
人の感情を動かす難しさは身に染みている。だからこそ、この映像に映っていた感情の量に驚愕と賛辞を述べることしかできなかった。
それなのにどうしたことか、雅はがっくしと項垂れている。
「……それなりに有名だと思ってたんだけどな」
鞠沙の話を聞かなければ自意識過剰だと一蹴していただろう。が、これが有名人なのは周知の事実。わたしの方が世間知らずなのだ。気を利かした言葉を投げてやろうとするが、先に志保が励ましてくれた。
「ショック受けないでよ。凛ちゃんが世間知らずなのは最初からでしょう」
……うん、合ってる。わたしが思っていることを一言一句こぼさず言ってくれた。間違っていないのだけれど……、もっとオブラートに包んでくれないか。さすがのわたしとて少し傷つく。
「そう、なんだけどさぁ、なんか悔しい」
「わかる、わかるよ、雅くん。私も最初は結構苦労したもの。本人が悪気ないのがタチ悪い」
「ね、わたし、病人なのだけど。病人の精神を削るつもり?」
「あ、ごめん。つい癖で」
「癖って、いつもなの?」
本人の前で滔々と文句を言うものだから、ついわたしも笑ってしまった。それに釣られて二人も笑っていた。まったくもう、志保は容赦がない。
◇
「ま、元気そうでよかったわ。でも明日は無理すんな」
一時間くらい経っただろうか。気づけば空はうっすらと暗くなり、公園の街灯がつき始めた。それを見計らったように雅が志保に「そろそろ」と声をかけた。
二人が来てくれて不思議と元気がみなぎってきた。明日の朝イチで病院に行こうかと思ったけれど、この調子なら問題なさそうだ。
一階のエントランスまで見送るつもりだったが、病人に歩かせるわけにはいかないと断られる。
「ごめん、その前におトイレ借りても?」
「どーぞ」
と、志保は少し慌てた様子で廊下に出た。
扉を開けて一つ目の扉がトイレ、ということを教える前に飛び出したから「あれぇ」と困惑した声が聞こえる。バタバタと扉を開けては閉め、三つ目でようやくトイレを引き当てたようだ。
「やっぱり、一人暮らしにしちゃ広くないか?」
「他は全部物置にしてるから不便じゃない」
「別のところに引越した方が……、ほら、今ならいい物件がありそう……」
「なぁに? 心配してくれてるの?」
「あんな事件があったんだ。心配の一つや二つするさ。ここはセキュリティだって優れているわけじゃ……」
「大丈夫だって。もう、終わった話なんだし……それよりも志保にはコレ、だかんね」
志保がいない隙に、口元に人差し指を立てる。「わかってる」と小さな声で返事をするあたり、知らぬが仏という言葉は知っているようだ。
雅も最初のうちはこの家にも抵抗があったようで、部屋に入るのにも躊躇っていた時期もあった。だが何度も回数を重ねていくと、だんだんと慣れてきたようだ。人間の適応力はほんと恐ろしい。