第六話 春夏冬雅の謎めいた一夜 前編
「はぁ、今日は家でのんびりしようと思ってたんだけどな」
春夏冬雅はため息をつきながらエレベーターに乗る。急いでいる時に限って途中で止まるのに、気乗りしない今日はノンストップで地上に到達した。
重い足取りのまま、マンションを出る前にエントランスに設置された姿見を一瞥。蒼月学園入学前に事務所の社長にスーツを買ってもらっていたが、着るのは今日が初めてだった。
子役として一斉を風靡した春夏冬雅も「学業に力を入れたい」と、現在活動休止中。休止中とはいえ人前に立つ以上、元役者というプライドを捨て切れず、自分の顔を見ながら小さく息を吐いてヨシと頷いた。
「や、おつかれさん。悪いねぇ、急に呼び出しちゃって」
マンションを出ると真っ赤なクラウンが停まっていた。運転席から顎髭を蓄えた男が笑顔を向けながら声をかけてくる。
金美嶺二――雅が所属する芸能事務所の社長である。名は体を表すように彼もまた金の亡者……なんてことはなく、強面のくせに人情家で心から信用できる数少ない大人。
高校生の間は休止したいという訴えを真摯に受け止めてくれたのが社長だ。その上で復帰後も面倒を見ると約束してくれた。彼には一生足を向けて寝られない。
……だからといって活動休止中の人間をマネージャーのように扱うのはいかがなものか。
今回の件然り、この前の夏休みだって会社で雑務を手伝っていたら「転職したんか」と先輩に笑われてしまった。
お疲れ様です、と挨拶して助手席に座る。すぐに車はゆったりと走り出す。
「今日、オレいりますか?」
出発早々、当然の疑問を投げかける。
今日だって突然だ。昼休みに急に社長から着信があったと思えば、「パーティーに出席しない?」なんて軽口で誘ってきた。
当然断った。そんなの面倒……あぁ、これだとアイツみたいでヤダな。
……そう、自分はあくまでも休止中なのだから公の場に行く気にはなれないと伝えた。
だがそんなのは社長の想定内。こちらの反論に対して「春夏冬雅としてでなく、秘書として手伝ってほしい」と返してきた。
というのも、稼ぎ頭である春夏冬雅が休止中で事務所はピンチ。でも代わりに入ってきた新人が軌道に乗ってきて、最近は猫の手も借りたいほど忙しい。人手不足の遠因は自分。秘書としてならばと受け入れた。
「今日のはすごいんだ。来年から撮影が始まるドラマの、ほら、鞠沙ちゃんが主演の……」
「どっかの少年漫画の実写化、でしたっけ。王国のお姫様と冴えないオタクの恋愛群像劇とかなんとか」
「ほぉ、しっかり確認してるんだね」
「茶化さないでください。それと今日になんの関係が」
「その監督が職人気質で凝り性でさ。お姫様が主役ならチャチなティアラは許せないとか言い出して、本物のティアラを借りることになったんだ」
「はぁ」
「時価うんぜんまん。なんて言ったっけな、持ち主の名前。アンティークコレクターの間では有名みたいで……」
「結局、パーティーってなんです」
「今日は関係者を集めた前祝い。撮影地が蒼月で、うちの事務所からも何人か出るから呼ばれたってわけ」
「それならもっと早く言ってください」
「本当は呼ばれたのは僕だけだったんだけど、きみにご指名があって」
芸能界休止中の人間を指名してくる人間。思い当たるのはたった一人。
思わずため息が溢れた。まさかお姫様を演じる人間が現実で我儘を振る舞うとは。別に会おうと思ったら会えるし、なんならクラスは違えど学校でいつでも会えるのに。
まぁ今に始まったことじゃない。それに最近は向こうも忙しくて会えなかったし、こちらも直接言いたいことがあった。
「今日のきみはあくまでも秘書。ついでに春夏冬雅の名前を売ってこい」
社長はこういうところに抜け目がない。基本的に人使いが荒いけれど、将来を見据えて動いてくれるから助かっている。
それから一転、学校の話になった。
学校の話なんて本当は家族にも言いたくないが恩義がある以上、社長にはなるべくたくさん話すようにしている。
夏休みが明けてからの話だと学園祭関連。学園都市総出で連日行われる祭りは日本全国が注目する。蒼月で注目されれば一年間の宣伝費を賄える、なんて実しやかに囁かれている。条件は個人も同じ。承認欲求が高い人間にとって自分の名前を売る絶好のチャンス。この日のために蒼月に入った生徒も少なくはない。普段おとなしい文学少女もこの日だけは夢見る乙女に変身できるのだ。
「他には?」
「と、言いますと?」
「色を知ったね」
「はぁ?」
信号が赤になる。車は減速し、ゆったりと停車した。前しか見ていなかった社長がこちらを向いた。
社長の前では隠し事はできない。この人の眼力はなんというか、たいそうな言い回しだけど全てを見通す力強さと、正否を瞬時に見極める鋭さがある。
* * *
自分がまだバリバリ現場に出ていた頃、事務所でオーディションがあった。すでに売れていた自分はそのオーディション前に一言挨拶してくれないかと頼まれた。自分より年上の受験生にあーだこーだと偉そうに喋り、次の撮影まで見学することになった。
受験生の一人目がまた綺麗な女性で、振る舞いも上品でハキハキ喋っていて、この人なら芸能界でも負けないと思った人がいた。自分なら即決で合格させていただろう。でも社長は――
「薬、やってるね」
躊躇ない一言に場が凍えた。例外は言い放った社長と、隠し事を暴かれた人物だけ。知っているのは反論せず、そそくさと会場を出て行ったことだけ。風の噂ではあの後、現行犯で逮捕されたとか。
* * *
あの事件は脳裏に焼き付いている。
でもあの時と今では条件が違う。あの女性は素人。対して自分は混沌とした芸能界で培った演技力がある。
「前見てください」
信号が青になる。素っ気なく突き返した。
別に犯罪したわけじゃないのだから隠す必要はないけれど、そこまで打ち明ける義理もない。高校生なのだから恋の一つや二つ当たり前だろうに。
「むかしより感情を殺すのがうまくなった。近くにお母さんいないと泣いてた子とは思えない」
「そりゃ鍛えられましたから」
名伯楽に褒められるなら嬉しい話。とて、戦線を離れた今はまったく嬉しくない。これで誤魔化せたなんて思わないし。
しかし社長がこちらの交友関係を全部把握しているわけもなく。思い当たる節があるとすれば龍閃鞠沙くらいなものだろう。
車は順調に進み、渋滞なくあっという間に会場のホテルに着いた。
ブルームーン・ホテルは学園都市蒼月で最も高級なホテル。お偉いさんが宿泊する時は必ずここ。地下駐車場にするりと降り、エントランスに近いスペースに停めた。
車から降りれば元子役だろうと休止中だろうと春夏冬雅を演じなければならない。助手席を出ようとすると社長が一度制した。
「おっとそのまえに、秘書くんにプレゼント」
すると社長が後部座席にあった丁寧に梱包された四角い箱を渡してきた。
「世間体でいえばきみは休止中。秘書として活動する時はソレを使うといい。スーパーマンも愛用するとっておきだ」
よく分からないが、梱包をペリペリと剥がす。
「……へぇ、高そうな眼鏡ですね。ありがとうございます」
シックな雰囲気の黒縁の丸眼鏡だった。自分に似合うかはさておき、撮影でもプライペートでもかけたことがなかった。
春夏冬雅は快活に外を走り回っている、という世間の印象を逆手に取った代物だった。確かにこれなら十分変装になりうる。さすが社長だ。すごく気が利く。
◇
蒼月学園に通う芸能人の盗撮、週刊誌のすっぱ抜き、その他日常の脅威になる行為は禁じられている。ここはあくまでも学生の教育機関であり、とあるビジネスを除いて厳格に守られている。
例外とは学園祭や蒼月学園を舞台にするドラマ……平たく言えば学園都市の利益になることは暗黙の了解として認められている。
ホテルのコンシェルジュに会場の場所を尋ね、エレベーターをいくつか乗り継ぐ。会場の前で受付を行って観音開きの扉の向こう側に進んだ。すでに会場内はわんさか。入るや否や社長はすぐさまいろんなお偉いさんに話しかけていく。俺はその後ろで突っ立っているだけ。秘書のノウハウなんて知らないけど、おとなしくしていればいいのかな。
社長が誰かと話し込んでいるうちに周囲をキョロキョロ。ドリンクが置かれたテーブルの周りではピカピカなスーツを着た大人たちが群れをなし、大人の世界を作り込んでいる。
眺めていてふと思った。今までなら俺の顔を見ると瞬時に大人たちが囲ってきた。でも今日はそれがない。不思議と誰にも話しかけられなかった。もしや、この眼鏡の効果? 変装の神器に思えた。
「雅! あらそうだ、雅だぁ。久しぶり!」
白々しい口調で聞き馴染みのある声が聞こえる。
漆黒のドレスを見に纏い、そんじゃそこらの大人より気品ある面立ちをした同業者で幼馴染の龍閃鞠沙が立っていた。
「久しぶりっていっても一週間だろう。まぁ、いいや。俺も会いたかったんだ」
「えっ、雅があたしに? ……時と場所は選んでよ」
「変なこと考えているだろうが、そうじゃない。お前、うちのクラスのやつに変な依頼したろ」
「あら? 夫の浮気調査は妻の務めでしょう」
「まだ結婚も付き合ってもない! ……はぁ、それより、まだドイツじゃなかったのか?」
「ついさっき帰ってきたの。あたしもすこぉしティアレに興味あってね」
鞠沙は世間離れしていてツンツンしているところがあるが、コイツも年並みの女の子というわけか。
大人しかいない空間に顔見知りがいて少し安心。気が楽になった。だけどよく考えれば俺がここにいるのは、どこぞの誰かさんからご指名があったからだし、なければ家でゴロゴロできていた。
ここは安心ではなく、敵意を向けるべきでは? なんて気づいても手遅れだった。
「ドラマの主役がこんなところにいていいのか? 言問さんはどこいった」
「ん? あの人なら今……どこだろうね」
「ったく」
言問十香は鞠沙のマネージャー。若手トップ女優の面倒を見ているからか、ずっとピリピリしていて個人的にはちょっと苦手だったりする。苦手な人と手を焼く人が組めば鬼に金棒というやつで実に厄介。いないならちょっとだけ楽になれる。
俺たちがワイワイと話している最中、唐突にパンツスーツの女性がゆったりと近づいてくる。
「お話中のところ申し訳ありません。わたくし白亜出版の編集をしております橘という者で……鞠沙さんにちょっとしたインタビューを」
「あぁ、はいはい。じゃ、また後でね」
そう言いながら鞠沙はひらひらと手を振ってどこかへ行ってしまった。
賑やかな人間が離れると一抹の寂しさはある。なにもやることがなくなり、再び金美社長のところに戻った。先ほどとは違う顔ぶれだが、そのうちの一人の禿頭の男がこちらを見てニヤニヤと笑う。
「金美さんの新人くんもなかなかやるねぇ。若手ナンバーワン女優に粉かけるとは」
はぁ、言っている意味がわからない。先ほどの会話を見ていたのだろうか。
盗み見も気味が悪いが知り合いと話して何が悪い。というか今回は向こうから話しかけてきた。粉かけるなんて言い方やめてもらいたい。
「ま、きみみたいな素人が手を出すと痛い目を見るよ。そこんとこ、よぉく教育しないと」
「ははっ、よぉく言っておきます」
社長は乾いた笑いで対処していた。その後、こちらも会話に混ざり秘書として振る舞ってみた。スパルタで鍛え上げられた演技力は大人の世界でも通用するようで、会話は滞りなく流れた。
「金美さんとこも頑張ってよ。なんせ、稼ぎ頭が休止中なんだから」
「肝に銘じておきます。ですが安心してください。休止明けの彼は逞しくなってますから」
「そりゃ頼りになりますな。そこの秘書さんもそう思うだろう? あんた、名前なんて言ったっけ?」
へ、名前? なにを今更。こんな話をしておいて春夏冬雅の顔を見たことないなんて……あ! この神器のせいか。てか、本当に気づかれていないことに驚きだ。
眼鏡を取ろうとするも、社長に肘で押された。こちらが怯んでいる隙にこう言った。
「彼は最近、秘書の仕事を手伝ってくれている秋入くん。いつもは事務所にいるんだけど、僕が無理言って来てもらったんだ」
「秋入?」 思わずそう呼ばれた本人が頭を傾げてしまった。
「あぁ、そうか。なら秋入くん、鞠沙ちゃんに手を出すのはやめておけ。春夏冬くんが戻ってくれば間違いなく彼女と付き合うだろうから」
「……はい?」
すると会話に混じっていたもう一人の男が笑い出す。
「そうですね。なんたってあの二人はもはやファン公認の仲ですから。いつかの雑誌のお似合いカップル番付で堂々の一位ですから」
「…………は?」
「ま、きみも身の丈にあったお付き合いをするんだね」
と、反論の隙もなく、二人は違うところに向かった。
「えっと」
何からどう話せばいいのかわからない。呼吸するのも忘れ、とりあえず社長に一つ訊いてみた。
「俺の身の丈にあった恋愛って?」
「うーん、龍閃鞠沙かな」
「……勘弁してぇ」