第五話 光あれ
「この前の世界史の小テスト返していくぞ」
月曜一限、世界史の担当、比叡は開口一番苛立ちを見せていた。いつもなら学生を夢に誘う魅惑の声の持ち主の癖に、今日は口調が刺々しい。
世界史に限らず、蒼月学園では一日のどこかに小テストが行われるといっても過言ではない。英単語、漢字の書き取り、古文単語……、一日に二つあることもザラにある。頭がいいやつにはどうってことはないし、しっかり勉強すればそつなく点数が取れる難易度だ。くどい復習も芸能の仕事で授業を受けられない人への配慮だったりする。なんでも特待クラスはもう大学入試レベルの問題を解いているとか。
対して我がクラスは一般受験で入学した内部生と学力以外の推薦で入学した外部生がごちゃごちゃしている。
少し前のホームルームで担任の赤城は「テストばかりで大変なのは仕方ない」と一定の理解を示した上で、「ダメなところは仲間同士で助け合え」と叱責した。
真面目に担任の話を覚えているのはわたしくらい。そんな話をしたホームルームの後もクラスメイトはいつも通り賑やかで、じゃあね、と軽い挨拶が交差した。
今更ながら思う。仲間同士で助け合えなんて随分と無責任なんじゃないかと。このクラスのほとんどがポンコツ側なのだし。
ま、せいぜい頑張ってくれ。転入ホヤホヤの得体のしれない生徒に助けを求めるクラスメイトなんていないだろうし、そもそも頼まれたところで「面倒」だって断っちゃいそうだけど。
学生らしく大人の小言を耳に入れつつ、今し方受け取った満点のテストをクリアファイルにしまった。
「今日もまた部室でお留守番してくれる?」
その日の昼休み、屋上でカレーパンを食べていると志保がやってきた。みなまで言わずともわかる。学園祭の委員会なら仕方がない。
ただ前回の鞠沙の件もあったばかり。わたし自身、この変な名前の部活に入ったはいいにしろ、活動内容が「人助け」という曖昧なもののため、改めて部活の活動内容を尋ねた。
「困ってる人が来るから、志保ちゃんは話を聞いて、解決してあげて」
前回鞠沙も言われたとおりにした。でも報告した時の志保の様子がおかしかったし、あたかもわたしが間違っているような口ぶりだった。これは明らかに矛盾している。
「あれは……特例中の特例。間違ってはないから今日も頑張って!」
ま、頼られるのは悪くない。だいぶ蒼月の生活にも慣れてきたし、部活に足を運ぶことでうるさい奴からうるさいことを言われることもないだろう。廃墟同然のオンボロ校舎にわざわざ相談に来る物好きなんて限られている。依頼者が来なければ宿題を片付ければいいんだ。そうしたら晩酌の時間も睡眠時間も増える。一石二鳥。蒼月の暮らしは楽勝かもね。
そのせいかしばらく廃校舎の部室で過ごしたせいで屋上ほどではないものの居心地が良くなってきた。なんといっても静けさと天候に影響されずにゆったりできるところが最高。それに屋上は稀に地上でぎゃーぎゃーと楽しそうにはしゃぐ声でうるさくなる。
対して部室なら来客者ゼロかつ志保が不在という限られた条件だが、屋上に引けを取らない極楽。そうだ、ここに秘密基地二号の旗を立てることにしよう。
さぁ今日はコーヒーでも飲みながら小テスト勉強っと。明日は……うげっ、化学だ。
なぜ人間は無理やり中身をこじ開けようとするのだろう。地上の発展のためなら多少は目を瞑ろう。ただ専門的な話は専門的な機関でやってもらいたい。あれは学生が学ぶ知識じゃない。
HだかOだか分子とかよくわからないけども、水がありますね、で終わる話じゃないか。創造主だって細かいことは考えてないぞ。
「天塚って難しい顔するのな」
「うひゃ!」
見上げるとそこには男子生徒と見間違えそうなショートヘアーで快活な女の子、クラスメイトの瀬戸杏奈が立っている。い、いつの間に。一応いつ来てもいいように扉には警戒していたのだけれど。
び、びっくりしたぁ。心臓が止まるかと。
「あはは、いいリアクション。驚かせるコツ、志保から教えてもらったんだ」
ん、にゃろう。帰ってきたらとっちめてやる。
「なにかわたしに用ですか? それとも依頼?」
改めて平静を装う。ここでは、というより天塚凛として生きている限りは清楚正しく敬語キャラでいかねばならないのだ。敬語キャラは他人からの印象がいいと聞く。
するとクラスメイトなんだし固くなるなよといいながら、瀬戸は鞄からノート教科書筆記用具を取り出した。
「勉強、教えて?」
「はぁ」
瀬戸は大きな勘違いをしている。
ひとつ、ここはお悩み相談部屋であって勉強部屋じゃない。
ふたつ、わたしは教師ではない。勉強を教えるのは教師の役目だ。
みっつ、わたしたちはそこまで仲良くない。
懇切丁寧に教えてあげようと思うも、それは余計なお世話なのかもしれない。わたしがあーだこーだと教えるより、自らの過ちを気づくことこそが教育の本質ではなかろうか。
志保にはよく「ここは部室であって勉強部屋ではない」と口を酸っぱく言われているが、帰ってくるまで時間がかかる。かといって自分も勉強用具を広げている。
告げ口されるのも面倒だ。瀬戸には志保が戻ってくる前に終わらせることを条件に、二人だけの勉強会を始めた。
「実は天塚の世界史の答案、見えちゃって。すっごいな、あの小テストで満点なんて!」
「や、テストといっても二〇点満点だし」
「転入してきたばっかで知らないと思うんだけど、中身は特待クラスと同じなんだよ。普通に予習しても難しくて……、ねっ、世界史の勉強のコツとかあるの? よかったら教えてくれない?」
コツ、か……、世界史に限らず勉強だったら授業中に覚えるだけ覚えて、よくわからなかったら復習しているだけ。暗記科目なら何度も反復して頭に焼き付けている。(理系は除く)
ただ世界史はちょっと例外。あれは覚えるというよりも……
「体験、かな」
「ん? どういうこと? たとえばナポレオンになりきれってこと?」
「あぁ……、ん、そーそー。登場人物になりきって思考を妄想してみるの。でもわたしなりのやり方だから効果があるとは保証できませんが」
「んー、軽くやってみるか」
瀬戸は腕を組んでしばらくの間思案。や、適当に言っただけなのに信用しないでほしい。真っ当に反復して頭に叩き込むのがなによりの近道かと。
しかし今更本当のことも言えず。ま、こんなやり方がうまくいくとは思えない。
「はっ! これだ。天塚、ちょっと手伝って」
なりきるにピッタリの相手が見つかったのだろう。
そのまま立ち上がると部室内をキョロキョロ物色し、ボロボロのロッカーの中から先端がボロボロのモップを手にした。
この子は小物を使ってでも役になりきろうとしてるのだろう。
斬新な勉強法に興味を示しただけなのか、ただのおバカなのか真面目なのか、付き合いが短いわたしには判別できなかった。
でもたまにはお遊びに付き合ってやろうかな。
「これであってるか見てて」
瀬戸はモップを身体の正面に突き立て仁王立ち。なんだろう、剣士かな。
世界史といっても範囲は広い。騎士ならアーサー王伝説? でもアレは伝説であって歴史じゃない。なら……ジャンヌダルク?
さらに瀬戸はモップの先端を地面にカンカンと叩く。うん、剣じゃなくて杖? 誰だろう。ちょっと難しい。
世界史の小テスト満点のわたしが困ってる姿がさぞかし愉快だったのだろう。調子に乗ってもう一個ヒントをくれた。
「光あれ」
「おバカっ!」
新約の内容なら兎に角、旧約は歴史より伝説に近い。現代では歴史としての証拠が乏しく、ほとんどが教科書に含まれていない。そもそも世界史の教科書に天地創造なんてあったか?
……兎に角、心臓が悪い。数ある出来事から「光あれ」を選んだのはセンスあるとは思うけど。
「おバカって……うち、間違ってた?」
「世界史で旧約の伝説は出てこないです! 新約ならまぁ、何人かの名前は覚えておくといいですけど」
「そう、なら次は……」
「モーセもやらないでくださいよ。あの辺は人間でも真似しやすいから定番ネタなんです」
「うっ。先読みされた。やるなぁ、天塚」
「勉強しないなら帰ってくださいよ」
「はいはーい、ここからは真面目にやるよー」
心を入れ替えた瀬戸はモップを片づけ、今日返却されたばかりの世界史のテストの復讐を行なっていた。教科書と資料集を何度も睨めっこしながらブツクサと独り言をこぼし、赤ペンで間違いをノートにまとめていた。
ふぅん、明るめの茶髪でギャルのイメージがあるけど真面目な子じゃないか。
蒼月は芸能関係者が多いから身なりに関する校則はかなり緩い。芸能人じゃなくても髪を染めたりパーマをかけたり、目立たないならピアスも許容されている。
わたしはあまりオシャレに興味ないから目立つのは生まれつきの白髪混じりのグレーだけ。一応地毛証明書は学校に提出していた。
しばらくはノートにカリカリと書き込むシャーペンの音と紙が擦り切れる音、それから消しゴムを使う時に揺れる机の音。静けさという旧校舎の利点がこの上なく発揮された空間だった。
「ね、ね」
「なんですかぁ」
必死に化学式を頭に叩き込んでいるところに邪魔が入る。
「天塚って前の学校で部活入ってた?」
「前の学校、良くも悪くも単調で面白いと思った部活がなかったんです。だから帰宅部でした」
「ふぅむ、なら部活のいざこざがあって前の学校を辞めたわけたじゃないと」
口に当てながら新妙な顔で考え込む瀬戸。急に何を訊くのかと思えば、そんな理由か。
「前の学校を辞めた理由、知りたかったら教えますよ」
「本当!?」
勢いのあまり机を両手で叩きつけていた。その音に少しだけビックリした。
「……いや、でも嫌のことだったら言わなくてもいいよ。みんな天塚が悪いやつじゃないって知ってるからさ」
はぁ、そりゃどうも。
わたしが前の学校を辞めたのは、平穏な日常を脅かす危険な存在がなぜか学校にいたからだ。しかも最悪なことに学校中でいろいろと噂になって、いずれ接触は避けられないと判断して転校を決意した。それだけの話。
実家の協力もあって、成績も問題なかったことから蒼月学園への転入はあっさり決まった。だけど引っ越し先が夏休みになっても見つからず、面倒なことに巻き込まれたのは別の話。
ま、端的に言えばわたしが逃げてきたのだ。事情を知らない人には家庭の事情と説明している。
「そっか、大変だったんだね。だけどこの学園を選ぶなんて……すごい度胸」
「せっかくだし学園都市に通ってみたかったですし、なにより――」
「え! もしかして芸能人の追っかけ?」
「や、そんなんじゃなくてですね……あまり自分らしい答えではないのですが、ここならわたしが望む青春を送れると思ったんです。勘ってやつですけど」
「見た目によらず、ロマンチスト!」
胸の前でパンと手を合わせ、わたしに向かって手を擦り合わせる姿が信徒みたい。
一応天塚凛は信仰の対象じゃないぞ。ま、悪い気はしないけど。
「あぁ、羨ましいな。ちゃんとした目的があって学校に来てる人。外部生にしたって将来芸能界で生きることを見据えて蒼月を選んだわけじゃん。内部生にだって将来を考えてる人はいるんだろうけど……うちは違うからなぁ」
シャーペンを机に放り出し、嘆息しながら天を仰ぐ。
「瀬戸さんは違うんですか?」
「複雑な家庭の事情でもない限り、高校に行くのは普通でしょ。うちの場合は実家が学園都市になる前からあったから蒼月に馴染みがあっただけ。でも蓋を開けてみたらさ、みんなギラギラ輝いてさ、すごいのなんの。芸能人の風格? おまけにクラスメイトに春夏冬雅がいてさ。向こうは主役、ヒロインは別にいて、一般人は『クラスメイト その1』ってね」
自嘲しながら言葉を吐き捨てた。その表情に暗がりが覆っている。よくない兆候だった。
「そんなことないです」
瀬戸はうんともすんともしない。でも言葉を続けた。
「青春にモブキャラなんているものですか。評価するのは第三者ではなく自分自身。自分がやりたいようにやればいいんです。それにわたしたちは今、青春のど真ん中に立ってるんですから、いくらだってやり直せます。未来の自分が後悔しなかったら合格です」
彼女にどれだけ通じたのかわからない。決して慰めようと思ったとか、えらい立場からの説教とか、そんなくだらない言葉ではない。ただの天塚凛の本心だ。
「……あーあ、これだからギラギラしてるやつは」
そう言いながら勉強道具を鞄に仕舞い始めてしまった。「そうだね」とか賛同してくれると思ったが、どうやら効果がないどころか怒らせてしまったようだ。
急に姿を現した彼女は撤収も早かった。謝ろうとしたものの、バタバタと慌ただしく動いていたのでタイミングを掴めなかった。
「あ、あの」
瀬戸が部室の扉に手をかけた最後のチャンスだと思い、勇気を振り絞って声をかけた。
でも、慰めの言葉なんて思いつかず、何も言えなかった。
重い空気が漂う中、瀬戸の後ろ姿がブルブルと震え、突然「あはは」と笑い出した。そして軽快に身を翻して笑みを浮かべながらこう言った。
「ごめんね。別に意地悪するつもりじゃなかったんだ。ただ天塚の言葉が心に響いただけ。あんたの言うとおり、うちらは青春のど真ん中にいるんだ。だったら勉強なんかしてないで遊んだ方がいいよね」
吹っ切れた顔をしながらこちらに手を振って去っていった。なんというか「嵐」みたいな人だな。
でも、ま、わたしの言葉で道が見えたならなにより。思春期の悩みは近しい間柄でも、教師のように立場が上の人でも解決は難しい。あえてそこまで仲良くない人の方がいい時もある。
これにて『Q.E.D.』 依頼(?)はおしまいだ。…………でも勉強はしっかりした方がいいぞ。
わたしも他人ばかりに構ってないで、勉強しようっと。えっと、イオンがどーのこーの、すいへーりーべー……、うぅ、見るだけで頭が痛くなってきたぁ。
なんだこんなの。わざわざアルファベットに置き換えて数式にする必要なんて人間の正気を疑う。あと、光の速さとか。すっごくどうでもいい。
苦戦していると机の上に置いていたスマホが揺れた。電話かな。相手は……お父さんだ。