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第三五話 一生分の呪い


「さて、打ち合わせを始めよう」


 教室はもう祭りに備えて準備が整いつつある。とはいってもこのクラスはテーブルと椅子の配置替えと飾りつけだけで済むから楽だ。一方でお隣の二組は周囲の反対を押し切ってお化け屋敷、有名人ばかり集う三組は私物展示会で秀才クラスの四組は学園を舞台にした謎解き。こうして並べてみればクラスの特性が色濃く反映される結果となった。適度に各々が役割を持ち、尚且つやりごたえがあり、祭りのあとの惨劇を最大限に抑えた我がクラスが最もバランスがいいのではなかろうか。

 発表当初こそは戸惑いの声と阿鼻叫喚の嵐だったが、準備期間になればクラス総出で動いている。こんな奇天烈な出し物を考えぬいた結月志歩に感服だ。

 忙しない教室、準備の邪魔にならないように教室の隅に代表者が集められる。その様子はさながら円卓会議。志歩が景気良く柏手を打てば会議が始まった。


「ディーラー役三人、投票係、受付係、列の整備係、最低でも教室に六人いてほしいけど大丈夫?」

「雲雀班異常なし」

「東雲班も同じく。今更なんだけど呼び込み役も欲しいよね。せっかくチラシも用意したんだし」


 シフトは四つの班に分けられた。開場の九時から閉幕の十七時を二時間ごとに受け持ち、東雲女史、祖父江、瀬戸、菊田がそれぞれの時間帯の責任者になっている。その他の生徒は希望のシフトを提出し志歩が均衡になるように完璧な調整をしている。ただ例外は学園祭委員の結月志歩と学園祭のメインステージの裏方になってしまった春夏冬雅。この二人は己の仕事の優先しつつ、隙間時間に教室を手伝う「リベロ」のような役割。これもクラスでの信頼があるからこそできる我儘だ。


「チラシを配るなら派手な看板もいるね。なら手先が器用な杏奈ちゃんと飛鳥ちゃんにお願いしてもいい?」

「あいよ、それくらい朝飯前。そうだ飛鳥、一個ずつ作ってどっちがウケがいいか勝負しよう」

「望むところだ。だけど本番はどれくらい混むんだろう。誰か去年の学園祭に来た?」


 飛鳥の問いに一同がかぶりを振った。途端に焦燥に駆られる。想定外の人数が押し寄せてきてパニックなんて目も当てられないぞ。そしたら仕事を放棄して逃げるから。


「なんで内部のお前らが知らないんだ」

「だって本館まで入ったことないもの。入学決まってたし毎年混むし。てかそれこそ学校選びで学園祭に来ててもおかしくはないと思うんだけどね、一般入試の雲雀、くん?」

「……あ?」


 おっと、なんだか怪しい雲行き。

 菊田飛鳥は運動部に所属しているせいか優しさをベースにした体育会系。たとえ先輩だろうと教師だろうと食ってかかるタイプ。基本的に仲間意識が強くて内部や外部を気にしない……のだけれど、どうも祖父江に対しては違うようだ。


「こらこら、お祭り前に争わないの。それより先に呼び込みをどうするか考えよう。どうせ呼び込むをするなら一日目と二日目に集中してやってもらいたい。午前組は余裕ありそうだけど午後組が……」

「あー、俺らのところは大丈夫。雅がステージの空き時間にちょくちょく顔見せるって言ってたから、その行き来でチラシ配ってもらうわ。下手に学園回るよりか効果的っしょ」

「おぉ、それは心強い。なら増刷した方がいいかもね」


 心強いなんてもんじゃない。一応、アイツが有名人なのはわたしでも理解した。休止中の有名芸能人がチラシ配りなんて偶然通りがかった一般人でも放っておかない。となれば下手するとここは戦場になりかねない。ま、わたしはもっぱら受付専門。どんなに教室の外で大行列が生まれようが整理係がいる。絶えず遊戯をするのもディーラーのお仕事。たんまりと溜め込んだ投票券を管理するのは投票係の役目。つまりわたしは入り口で椅子に腰掛け、流れ作業のように誘導するだけ。今回だけは遊戯恐怖症に感謝……、


「ちょっとまって。あたしらは二日目は問題ないけど初日がキツいなぁ」


 困り顔でぽりぽりと頭をかく東雲女史。初日は彼女と同じ班。しかしキツいことはないと思う。だって午後に学園内を回りたい人が多くて、初日の東雲班は他と比べて人数が多いのだから。


「ん、だって女史のところは十人もいるよ?」

「名前をよく見てみろ。白南風(しらはえ)(かおる)阿佐美(あざみ)羽留(はる)がいる。今日も欠席してるアイツらを頭数にしたくない。だから計算できる戦力は七人、みんな初日で不慣れだろうから呼び込みに回す余裕がない。志歩は入れる?」

「初日は……十時までなら大丈夫。午後なら十六時から入れるかな」

「それだけでもありがたい! だとするとあたしと志歩は運営に回るとして……」


 シフト表を広げて細かい調整をしていく東雲女史と志歩。その間、祖父江と菊田は顔を合わせようとせず、瀬尾がまぁまぁと仲裁に入っていた。面倒くさがりのわたしとて、こんなグダグタした会議も悪くない。この無駄な時間も青春の一ページなんだろうか。


「ん? ちょっと待てよ」

「どしたの杏奈ちゃん」

「初日の女史の班って十人なんだろ? 白南風と阿佐美は戦力外としても八人いるじゃないか。呼び込みに回せる余裕あるじゃないか」


 ……確かにそうだ。つい二人が自然な流れで話をしていたが、よくよく考えればその通りだ。

 なぁんだ、要領がいい二人揃って凡ミスなんて。ふふん、こういう時はしっかりものの出番だろうか。鋭い瀬尾の指摘。なのに志歩も東雲女史も「あちゃ」と頭を抱えている。


 ――え、この間、なに? すごく怖いんですけど。


 今度は瀬尾を交えた三者会談、もとい密談。こそこそこそと瀬尾に耳打ちすると、今度は瀬尾も「あちゃ」と同じように額を叩いた。三人の意図がさっぱり分からない。

 というか、今更なのだけど、教室の隅に集められたのは各班の代表者と学園祭委員の志歩、それと何故か呼ばれた一般生徒のわたし、天塚凛。ここに呼ばれた理由も意味不明だ。


「ね、凛ちゃん。トイレ行きたくない?」

「ん、全然」

「天塚さ、便意ってのは不意に来るわけであって予防は悪くないんだ」

「だから全然ですって」

「二人ともダメだ。こういうのは正面から言う方がいいんだ。な、五分……いや十五分ほど校内回って他クラスの偵察してこないか?」

「偵察、ですか。ま、それくらいなら……」

「あぁ! それはナシ、ノーカン。一旦作戦会議するから大人しく待ってて」


 ……ここまで無碍な扱いされればわたしとて薄々勘づく。へぇ、そうなんだ。わたしという存在は要領がいい人らを悩ませるほどの悩みなのか、ふぅん。


「やっぱりちょっとトイレ」

「お、いってらぁ」

「時間は余裕がありますよね。ついでに学年中……いや。学園中の出し物の偵察してきまーす」

 すくっと席を立って華麗に身を翻し教室の扉へと向かう。が、すぐさまわたしの腕を何者かが掴んだ。

「い、いやぁ、塚ちゃん。三人の話を聞くまで待とうよ」


 ちぃ! 菊田までも勘付きやがったか! 振り解こうとしても菊田は離さない。わたしが足掻く様を必死に抑える菊田とよくやったとピースする瀬尾。くそぉ、こいつらアイコンタクトで指示しやがったな。さすがは運動部だけあって並大抵の握力ではなかった。為す術もなく観念した。


「うんと、初日の一コマ目、九時から十一時の間、呼び込みをしてくれる人いるかな。女史のところは人数は多いんだけどその……呼び込みは二人がいいかなーって。初日だし」

 四人で内密な会議をしているところに無理やり顔を覗かせた。

「その役目、不肖私めが引き受けましょう。わたしは遊戯ができませんからこれくらい。看板持ってビラ配るだけでしょう? かんたんかんたん」


 ちょっとした嫌がらせのつもりだった。とて変なことを口にしたつもりはないのに、祖父江を除く全員から鋭い眼光が飛んできた。


「あのね塚ちゃん、人間には得意なこと不得意なこと、不可能なことがあるの」

「この前みたいに手を引いてビラ配りならまだしも、リードなしで天塚一人を放牧するわけにはいかないの。分かってくれる?」

「そ、そんな大袈裟な」

「私は凛ちゃんのこと信じてる。お助け部だってイヤイヤと言いつつこなしてくれてるし、頼りにもしてる。けどね、不可能なことは他人に任せるべきなの。お助け部の占いの館との送迎は私がするから、凛ちゃんは大人しく椅子に座りながら来客者を楽しませて、ね?」


 ジョーダン…………には聞こえなかった。慣れない場所なんだから方向音痴は当然だろうと反論するところなのに、悲壮感溢るる彼女らの訴えで何も言い返せなかった。


「えぇーと凛ちゃんは置いておいて十時からの呼び込みは……」

「その次の雲雀くんのところは雅くんがやってくれるんでしょう?」

「だけどやっぱ看板持ってコスプレしながらビラ配りも面白くない? だったら十時から十三時までうちと菊田で交代交代やるさ。どうせお互い暇でしょう」

「みんな……ありがとっ」

「それなら午後はあたしと……ねぇ大河原、ちょっと来てくれる?」


 …………わたし、いらないみたい。ぐすん。お邪魔ならほんとにトイレ、行ってこようかな。


「な、天塚」


 先ほどのこともあるからか隣にいた祖父江雲雀はあの輪に加わろうとせず、わたしと同じように椅子に座って傍観していた。こうして彼と二人きりで話すのは初めてだ。彼がわたしの名前を覚えてくれていたのも意外だった。


「お前、雅と仲良いよな? この前の昼休みだって呼びつけてたし」

「あれは部活動の一環で」

「まぁいいさ。はたから見ててもお前ら気が合いそうだし」


 は? どこが?

 

「それでちょっと頼み……うわぁっ! わ、分かった。茶化したのは謝るからそんな般若みたいな顔しないでくれ」

「――っと、申し訳ありません。ですが、もう二度と、茶化さないでくださいね」

 うんうんと赤べこのように頭を振る祖父江。反省したようなので彼の頼みを聞いた。

「アイツ探してきてくれない? 学校は来てるみたいなんだけどほら、教室にもいないだろう? 最近ちょっと様子がおかしくてさ。俺みたいな腐れ縁より天塚みたいな新参の方が話しやすいってこともあるだろうし、探すついでに愚痴聞いてやってくれない?」


 ったく、アイツは何をしているんだ。この前の鞠沙と同じ頼みごとをされたではないか。

 一人で塞ぎ込む余裕があるなら誰かに話せ。お前の理解者はお前が思っているより遥かに多いんだぞ。それなのにアイツは……「昔のわたし」を見ているみたいでイライラしてくる。一度性根を叩き直さないといけないか。


「あ、天塚、ちょっと怖い」

「あの野郎にはこれくらいがベストですよ。では探しに行ってきます」



    ◇



 普段は閑静な職員室周辺も出し物の確認を取りにくる生徒や業者の出入りで賑やかだ。そんな職員室を素通りし、空中を歩行できる渡り廊下を通って部室棟。どこぞの研究室のような真っ白な廊下を進んでいくと時代から忘れ去られたタイムカプセルにたどり着く。


「やっぱここですか。電気くらいつけてください」


 扉を開けた瞬間にむせかえるような紙の香りと埃とが襲いかかってくる。ホワイトボード、「コ」の字に並べられた机、壁に敷き詰められた書類棚、あの頃となにも変わっちゃいない。どころかろくに換気されていない空間に辟易してしまう。

 真っ暗な「名ばかり生徒会」の拠点に明かりを灯せば見知った顔が一人、春夏冬雅がパイプ椅子に腰掛けていた。


「――なんの用だ」


 声が重い。鞠沙や祖父江が言ってたのは事実のようである。

 とはいえわたしに策があるわけではない。志歩のように優れた聞き手でもなければ優れた技術があるわけでもない。親切心で頼みを引き受けたもののどうしよう。これはちょっと手強そうだ。


「ただの報告ですよ。雅くんが移動する時にビラ配りを頼みたいそうです。引き受けてくれませんか」

「……どうしてここが分かった」

「簡単な二択です。人目を避ける傾向のあなたが行く場所なんてここか本館の屋上くらい。ですが残念なことに屋上は施錠されているので、残るはここ、名ばかり生徒会の跡地だけ」

「そう」


 わたしが声をかけても一瞥もくれず、どこを見つめているのやら、ぼうっと天を仰いでいる。埃まみれの空間のせいか、あの春夏冬雅がくすんで見えた。いつもの嫌味が飛んでこないだけで善人に思えるけれど……却って調子が狂う。


「お隣、失礼します。よっこらしょ」


 頼まれたからには是が非でも成果をあげよう。中身はなんだっていいんだ。たとえば最近テレビで引っ張りだこのイケメン俳優に嫉妬してるとか、この前の数学のテストの点数が悪かったとか、そんなどうでもいい話だっていいんだ。だけど自我が感情に支配されるのはよろしくない。

 人類は神の最高傑作。設計図通りに創られれば創造神を超えうる器となる。

 しかし結果はごらんの通り、不純物のせいで人類は歪な形になってしまった。

 ま、わたしはこれで良かったと思ってる。この世には幾許の不確定要素があった方が面白い――が、創造神が危険視した事実には変わりない。地上には聖典が残されているのに、それを理解していない人間は数多いる。人類が思っているほど感情は優しいものじゃない。

 

「前から気になってたこと聞いても?」

「……」


 無言の肯定と捉えよう。本当ならこう、地上らしからぬエンジェリックなパワーでビビっとできれば手っ取り早いのだが、生憎わたしは天塚凛。特権は持ち合わせていない。めんどくさいけど地道にコツコツとやるしかない。


「役者って儲かるんですか?」

「…………」

「役者といってもピンキリじゃないですか。雅くんとか鞠沙みたいな超一流が一体どれだけ稼いでるのか気になるんですよ。もうかりまっか?」

「……ぼちぼち」

「その『ぼちぼち』が気になるんじゃないですか。具体的な数字を、さ」

「悪い、少し黙ってくれないか。喋りたいなら教室に戻れよ」

「ね、ね、そういえばこの前、志歩と三人で行った喫茶店――」

「なぁ、ほんとに黙ってくれないか」

「そういうわけにもいかないんです。あなたを心配している人がいるんです。確かにわたしたちは付き合い短いですけど頼りないですか? こう見えても口の堅さは定評があるんですよ」

「いい加減にしろ!」


 名ばかりの教室に雅の怒号が響き渡る。その声は一線を超えた合図だった。ちょこんと礼儀正しく膝上に置いていたわたしの両手首を力任せに押さえつけ、鳶色の澄んだ瞳で睨みつける。それが演技ではないのは一目瞭然。いつもの調子で語るのは困難だと悟った。

 そこにわたしが知る春夏冬雅の姿はない。

 遠い遠い異国の地。距離においても時間においても遥かに遠く離れたあの場所で、わたしは似た人間をたくさん目にしてきた。イコンに祈りを捧げる迷える子羊はなぜこうも同じ目をするのだろう。あの頃のわたしは無力だった。助ける義理も権限もなかったけど、天塚凛の今なら目の前の彼だけは救えるだろう。そう思っていた。


「……雅、いたい」


 平和ボケした考えを真っ向から否定するように彼の手に力が籠る。こちらの訴えも虚しく散った。たとえ顔見知りのクラスメイト相手だろうと束縛されれば争うのが人間の道理。でもわたしはなにもしなかった。そもそもか弱い女の子が力でどうこうできる相手ではないのだけれど、逃げるつもりなんて最初からなかった。結果として彼を刺激しなかったことが功を奏した。


「お前の、せいだ」

「わたしのせい、ですか」

「お前が学園に来てからおかしくなったんだ! なんでここに来た。なんで俺と出会った。特別な才能を持ったお前なら相応しい舞台はいくらでもあるだろう。それなのに、どうして――」

「特別な才能……前世の記憶?」

「その飄々とした態度、気に食わないな。なんでこんな状況で平然としていられる。それも前世の経験ってやつか?」

「こんな状況に慣れてる人生なんて一日も早く忘れたいけど」


 彼は大きな勘違いをしている。ここは正しい道を教えるべきだろうか。間違った道を進む人間には親切心を向けるべきかもしれないが、あれは遊戯の代償。

 あの時は彼に励ましてもらった。その見返りとして地上の人間には知り得ない神秘を、知るチャンスを与えた。あれはわたしにできる最大限の謝礼だ。だけど真実を告げること、地上に散りばめられた神秘を正すことは誰であろうと許されることじゃない。人間一人くらい、大した信仰心を持ち合わせていないやつに教えたって世の摂理は変わりやしないが、わたしの独断で許したって、わたしを景気良く送り出してくれたやつらに顔向けできない。


 さすがの男子高校生とて次第に握力に限界がくる。今なら容易に逃げ出せるだろうが、わたしの意識は彼の眼から逸らさない。


「なんで逃げない」

「それであなたの気が晴れるなら」

「気が晴れるならなんでもしていいのか」

「……ま、あなたの気が済むなら」


 決して彼を焚き付ける意図はなかったと説明しよう。彼はバカではない。平常心を失えど言葉は届く。そう信用しようとしたわたしはバカだろうか。

 しめた、手が離れたぞ、なんて思っていれば標的が変わっただけ。

 彼は痺れたわたしの手を無理やりこじ開ける。そして未踏の地を練り歩く冒険者のように手のひらをゆっくりなぞる。すごく妙な感覚だ。だけどそれ以上の感想もない。果たして「手を繋ぐこと」で彼を満足させられるのだろうか。あまり理解できない思考だけどしばらく様子を窺ってみた。

 だが存外にも早く彼の興味は別の場所に移った。か細い彼の指先は腕を伝って首、それから頬に。荒れ果てた感情に反してその手つきには繊細だ。


「なんで抵抗しないんだ」


 らしくない。あなたは「なぜなぜ」と、オウムみたいに同じ言葉を繰り返す人間だっただろうか。嫌いなやつとて心が弱っている隙をつけ込むほど、わたしは果敢じゃない。しかしわたしが知っている「春夏冬雅」から遠くかけ離れた、「春夏冬雅」の皮を被った能無し人間に優しくできるほど辛抱強くなかった。


「何度も同じこと言わせるな。気が済むならいい、と何度も言ってるだろう」

 彼は目を丸くした。無理もない。これでは逆に「早くしろ」と急かしているみたいじゃないか。

「きみが苦しんでるからこそ抵抗しないのがどうして分からない。いっときの感情に流されるのも人のロマン。ロマンは否定しない。だけどきみに僅かな良心が残されているならばあえて助言しよう。これ以上は絶対にやめた方がいい。この部屋に充満した古紙の香り、きみが触れている肌の感覚。きみが見据えている天塚凛の顔、これらが全部生涯の呪いになる」

「呪いなんて子供じみたことを」

「それはどうだろう? 人間ってのは見かけ以上に精巧に創られている。きみがどんなに薄情な人間で『今日』を忘れたとしても、遠い未来で古紙の香りを感じれば『今日』がフラッシュバックするんだ。匂いだけじゃない。わたしの言葉、声、表情、天塚凛がきみの後悔のシンボルになる。それってきみにとって好ましいことか?」

「……うるさい」

「ならお好きに。わたしは口が堅い人間なんだ。今日のことは墓まで持っていくさ。あまり大きな声で言えないけど、リビドーに駆られた人間は嫌いじゃない。でもさ、わたしが知る春夏冬雅は実直で聡明で周囲の人間を虜にする魔力があるんだ。呪いで苦しむ姿は見たくない」


 あぁ、危機的状況とはいえこのわたしが「春夏冬雅」を褒めてしまった。他人の前ならまだしも本人に直接……こんな恥ずかしいこと、もう二度と言いたくない。


「なんだそれ」


 悪態ばかりつくわたしが柄にもなく彼を褒めたからか、彼はぎこちなく表情を崩した。頬を包み込んでいたガラス細工のような細い手も静かに堕ちていく。もうわたしを襲うつもりはないみたい。「はぁーーー」と長い長いため息を終えた彼の顔はいくらか「春夏冬雅」に近づいた。でもまだまだ全然程遠い。


「なんか、お前の素の顔で褒めてもらっただけでも救われた。……あとその、ごめん、なさい。もう全部が全部、自暴自棄になってた。許してくれとは言わない」

「口が堅いって何度も言わせるな。いいよ、気にするな。これでも多くの人間を見てきたからな。言葉が届くだけ、きみは立派な人間だ。誇るといい」


 感情を支配するのと支配されるのとでは人間の価値は大きく異なる。わたしが見てきた人間は圧倒的に後者が多かった。聖典だの道義だのと都合のいい言葉を使って感情に飲まれる悪党が蔓延った時代もあった。見るに耐えない惨劇に……ちょっと介入した時期もあったけど、たった一人を変えたところで時代が動くわけもなく。

 人間は見かけ以上に賢くできている。あの時の凄惨な過去と向き合って学び、惨劇を繰り返さないと努力する人間の姿は美しい。

 ――と、感傷に浸っている場合じゃない。先ほどよりドス黒いオーラがマシになっているが、まだ彼の悩みを解決どころか話さえ聞いちゃいない。

 後悔に苛まれている彼が喋り始めるまでしばしの時を要した。却ってこの待ち時間が着崩れた身なりを整えたり、胸の高まりを鎮めるにはちょうどいい時間でもあった。

 彼は大きく息を吐き、静かに息を吸ってから本題を切り出した。


「二倍の人生を歩んでいるお前に聞きたい。自分に課せられた責任、それとも己のプライド、どちらかを捨てなきゃいけないならどちらを捨てる?」

 真剣な顔でなにを聞いてくると思えば簡単なこと。悩む余地なんてどこにもない。

「そんなの責任だ。プライドを否定するようなことがあれば己を捨てることと同義だ。……あと、責任なんて糞食らえだ。面倒になったら捨てるか逃げるかした方が得策だ」

「……そうか、そういやお前はそういうやつだった、な」


 そりゃ悪かったな。そう答えようとしたけれど雅は穏やかに笑っていた。こんなので少しは気が晴れてくれただろうか。あとの尻拭いは愛しい妻である鞠沙にやってもらうことにしよう。家に帰ったら報告、なんだけどいつも長電話なんだよなぁ。その面倒さえなければ万事解決。依頼完了だ。


「さ、教室に戻りましょう。こんな埃だらけのところに長居したくありませんから」

「あ、ちょっと」

「……なんですか?」

「そのさ、今の今で申し訳ないんだけど、まだ俺の気が晴れてなかったり、しちゃって」

「はぁ? なら正式に交渉前の交渉を始める気で?」

「い、いや、そんなつもりじゃなくて、その……さ、俺と二人でいる時は敬語を取ってつけた他人行儀じゃなくて素のお前でいてくれないか。その方が俺も話しやすいし楽なんだ」

「……ま、それくらいならいいよ。ただ素のわたしは気性が荒いから、ぐずぐずしてるお前のケツを蹴っ飛ばすかも」

「えぇ!」

「ふふっ、うそうそ。みんなの憧れの春夏冬雅くんにそんなことしないって」


 天塚凛は他人との境界を明確にしている。その牽制の一つが敬語とか、いわゆる接し方。

 別に瀬戸や菊田が嫌いだから敬語を使っているわけじゃない。あくまでもこちらに入れ込まないための予防線を貼っているだけ。この予防線を解くのはほぼあり得ないことだった。

 だけどこの学園に来て二人、結月志保と春夏冬雅、奇しくも最初に出会った子に予防線を解くなんて出会った頃は考えもしなかった。

 まったく、この学園都市に来て良かったのやら悪かったのやら。


 ……そういや、さっき雅が「お前が学園に来てからおかしくなったんだ!」とか言ってたっけ? 確かに夏休みのあの一件や、ところどころで春夏冬雅を雑に扱ったことは少々あるが、激怒されることをしたつもりはない……と思う。彼の悩みがわたしにあるのならここで清算するべきだ。名ばかり生徒会室を出ようとする雅に訊いてみた。


「全部――学園祭が終わって全てが片付いたら全部言う。絶対に」

「うん、楽しみにしてる」


 学園祭二日前。これから四日間、学園都市全体が活気に包まれる足音がもう目前だ。


次章から学園祭編に突入します。

学園祭編は終わりまで書き上げたいので次の投稿日は未定となります。

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