第三話 恋の閃光
『毎週月・水・金・土。場所は旧校舎三階、廊下突き当たりの三○二号室、時間は午後四時から六時。
要予約。予約には下記のメールアドレスに——』
* * *
「ふわぁ、暇だなぁ」
水曜日の夕暮れ。誰もいない教室で大あくび。旧校舎なんていうからには寂れた洋館を想像したのだが、扉を開ければ埃まみれで薄汚れコンクリートの建物。とはいえしっかりと整備すれば最低限の学校としての機能を果たしそうだ。わたしが時々迷う程度には広いし、下手すれば窮屈な都心の学校より快適かもしれない。
こんなのでも学園の本館ができるまで一時的に使用していた仮校舎というのだから、学園都市の懐の広さが計り知れない。
わたしが転入してくる前の話、滅多なことで人が寄りつかないここらは学生にとって秘密の溜まり場、もとい都合がいい場所。まだ部活に志保が一人だった頃、何度も「よからぬ現場」に遭遇したらしい。
……あの純真無垢の志保に汚いものを見せつけるなんて絶対に許せない。もしもわたしが見かけたらちょんぎって土に埋めてやる。多少の見せしめも必要経費。粗末な棒も地の肥やしになるなら世のためだ。
そんな経緯もあり、少し前にここらを警邏すると申し出たのだが「危ないからいけません」と頑なに拒否されてしまった。危険ならこんな場所から使わなきゃいいのに。そう反論すると「旧校舎って浪漫があるでしょ」と返されてしまった。強い意思の前には従うしかできなかった。
習わしといえば先日厄介な依頼を受け継いだばかり。暇な時は学園の図書館に行ったり、洞窟があった場所の周辺を歩いてみたりと、わたしなりに調べてはいる。しかしまったくと言っていいほど手がかりがない。もしかすると畑で見つけた本も因習も時間に埋没してしまったのかもしれない。
ならば「聖女の遺体」はどこにいったのか。少なくとも蒼月のデータベースには「聖女」という単語は見当たらなかった。他の場所に移されたとしたら聖女の遺体は今もどこかに隠されている。
手当たり次第に探すのは不可能だ。一つの都市、いや、小さな国の中を一人で調べるなんて正気の沙汰ではない。少なくとも目星を付けるか、あるいは情報が舞い込んでくるのを待つ。土地勘のないわたしに前者は不可能。後者なら万が一がある。
この部屋は迷い人が足を踏み入れる救済の地。有力な情報を待つにはうってつけの場所である。結果的にはこの部活に所属したのは正解だったのかもしれない。
胸元のポケットからガラス玉を取り出す。
人間から溢れた『感情』をガラス玉に集めることがわたしの使命。透明なコレを真っ青に染めてようやく第一ステージクリア。でもその頃には天塚凛の寿命は尽きているかもしれない。そもそも色に染めるには途方もない量が必要。それに溜めても使ってしまっては後戻り。現に数日前はうっすらと青く濁っていたのに、ちょっと力を使うとすぐ空になってしまう。
おかげでリスタート。たった一人を救うのも大変である。
……それにしても、なんで今、自分は一人寂しく待機させられているんだっけ。今日の予約はないって言ってたのに。
志保がいればよかったが、緊急の学園祭の打ち合わせが入ったとかで不在。このままサボろうと鞄を背負うも、ついこの前もアイツから日頃の行いがどうとか言われたばかり。
アイツに従うみたいで癪だけど今日だけは大人しくしようかな
*
「でも今日は予定入ってないんじゃ?」
「うん。でも飛び込みが来る人も結構いるからね。部室は開けとかないと」
「ポスターに要予約って書いてあるのに?」
「そううまくいくものじゃないんだよ。世の中はね」
*
ま、もうじき志保も帰ってくる。それまで昼寝でもしようかな。それか宿題でも……
——コンコン
ん? 誰か来た?
志保がノックするわけないし、もしかして——
「はい、どーぞー」
ガラリと扉が開く。
現れたのは長身痩躯、それも八頭身の女子生徒。女として焦がれる理想的なプロポーション。もちろん顔も美人さん。鼻がスラっと伸びていて腰まで伸びた長髪もギラギラと光沢を放っている。ただ髪色はグレー。これだけの美人さんだから女優なのだろう。撮影で髪を染めているなんてここではよくある話である。
彼女はわたしの顔を見るや否や怪訝な表情を浮かべた。
「結月は?」
「志保は学園祭の委員会——」
「あ、そっ。ならあなたでいいや。ここ座っていい?」
……落ち着け、天塚凛。
こういう場面は越してくる前からイメトレしたじゃないか。今日まで部活で鼻につくような人間に出くわさなかっただけ奇跡。どころかイメージと一寸の狂いなく出てきた相手に感謝するべきだ。
彼女はソファーに座り、ジッとわたしの顔を見てくる。値踏みしているのだろうか。とりあえず長年培ってきた笑顔をにっこり浮かべた。
「ぎこちない笑顔。赤点ね」
さりげなく嫌味を言われる。さりとて挫けず笑顔をにっこり。
「ご用件は?」
「声が震えてる。感情を殺せてない。二十点」
ダメだ、堪えろ天塚凛。こんな状況、イメトレに比べれば屁でもないだろう。彼女の言うとおり、感情を押し殺さないと。一度笑顔を崩し、大きく息を吸う。そしてもう一度にっこり。
「ご用件は?」
「ん、ちょっとはマシになった。でもまだまだ合格点じゃ……って今はいっか。それより依頼内容を話すわね」
すると彼女は鞄の中を弄る。ナニカを手に取り、わたしに渡してくる。
「ん? コレ……」
「カッコいいでしょう、彼。それはとっておきのコレクションの一枚。こちらの依頼はズバリ、彼の浮気調査!」
「う、浮気調査!」
おぉ、ちょっと面白そう。しかし依頼者の前で大手を振って喜ぶことはできず。はやる気持ちを押し殺して話を聞いた。
「最近の彼、ちょっと様子がおかしいの。付き合い悪いし、裏で何かコソコソやってるみたい」
あ、そういうの漫画で観たことある!
あの人に限ってあるわけがない、と思ったら要注意。隠れてランデブーしてるとか。急に行動パターンが変わったら赤信号。それが「彼」にもあったのだろう。
いいだろう。この面倒くさがりの天塚凛が本気で依頼に取り組むなんて初めてだ。その相手がまさか——
「詳しく聞きましょう。彼——いや、春夏冬雅の隠し事を暴きます」
◇
「ところであなた見かけない顔ね」
「二学期から学園に入った天塚凛です」
「転入生……あ! あなただったの。噂は予々。来て早々、大変な目にあったそうね」
「あはは、その件に関してはノーコメントで。一応、公にしてないので」
「あら、ごめんなさい。あたしは龍閃鞠沙……って、説明しなくても知ってるか」
……ごめんなさい。わたしが無知で。あまりテレビとかネットを観ないんだ。馬鹿正直に言おうものなら、高飛車な性格をしてそうな彼女は激怒しそう。喉から出そうな言葉をグッと堪える。
「その顔、知らないって心ね」
「えっ、どうしてわかったんです?」
「小さい頃から続けた人間観察が講じてね、人の腹が読めるようになったの」
「へぇ、すごい。わたしって結構、感情がわかりにくいって言われるんですよ」
「今の本心? 天塚って変わってるわね。普通なら愛想笑いか、気味悪がるのに」
えぇっと、お茶っ葉は戸棚……飲料水は冷蔵庫っと。
いつもはパパッと志保が用意するから準備に手間取ってしまう。バタバタとしながらも龍閃との会話に集中した。
「紅茶に緑茶にコーヒー、硬水と軟水。いろいろありますけど、こだわりあります?」
「硬水と軟水って……あの子、変なこだわりがあるわね。なら硬水のコーヒー……砂糖とミルクは抜き抜きで」
「硬水のコーヒー、砂糖ミルク抜き抜き……っと。お湯沸くまで少しお待ちを。でも感情を読めるなら雅くんの腹の内を探ればいいのに」
「あくまでも浮気は結論ね。わたしが感じ取ったのはなにか隠し事してるって雰囲気。だから白黒つけてほしいの」
存外によく話す子だった。準備に手間取っていても怒鳴ることはなく、むしろここぞとばかりに饒舌だから大助かり。高飛車に見えるせいか上品に見えるし、なによりも美人。
なんだあのやろう、こんな美人の彼女いるくせに浮気なんかするのか。美人は三日で飽きるから捨てるのか。何もしなくても女が言い寄ってくるから満足なのか。失望した。ろくな男ではないと思っていたがここまでとは……、悪魔に魂を売ったのか。
「あなた、本当にあたしのこと知らないのね。牢獄で暮らしてた?」
「中学になるまで外国を転々としてたんです。アメリカ、カナダ、ギリシア、トルコ、ベルギー……えぇっと、他は——」
「その割には日本語達者で」
「両親が普通の日本人で、母国語が日本に固定されてまして。色々な国に住んだって言う割には英語もままならないから周りに呆れられるんです。恥ずかしいので秘密にしてください」
「ふぅん、転入してきた時期といい、あなたも数奇な人生を送ってるのね」
「と、言いますと龍閃さんも?」
「鞠沙でいいよ。『龍』ってゴツくて好きじゃないの。天塚ばかりに話させるのも悪いね。あたしと雅との出会いは——」
うんうんと頷いて耳を傾けているとタイミング悪く、ピーとやかんが悲鳴をあげる。あぁ、いいところで遮ってくれるな。急いでコーヒーを用意してテーブルに置く。
しめしめ、今に見てろ、春夏冬雅。今からお前の弱点見つけてやる。金輪際、わたしに楯突かなくさせてやる。
「あたしと雅は一歳の時、テレビコマーシャルの撮影で初めて会ったの。あの頃の彼ったらほっぺたぷにぷにで可愛かったんだから。あの頃は泣き虫で情けないなって思ってた。でもね、撮影で会うたびに背が伸びてカッコよくなるんだから捨てたものじゃないわね。あ、勘違いしないで。あたしだって一目惚れでコロリと逝く単純な女じゃないから。だけどやっぱ幼馴染って特別な関係でしょ? 周りにいた子もカッコいい子だったり賢い子もいたけど、同年代の他の子とはちょっと違うというか、『あー、あたし、お母さんがいなくて泣いてた雅を知ってるんだよね』って思うと誇れるというか、自分が特別な存在と思えるというか。弟、とはちょっと違うんだよね。毎日は見てないし撮影で顔を合わせるくらいなんだけど、過去のプライベートを知ってしまったという背徳感がたまらないの。営業用のとびきりスマイルなんて所詮はガラクタ。真に価値ある笑顔は夏のロケで休憩してる時にアイスを差し入れした時の無垢な笑顔。あれを見せられたら、どんな女の子もイチコロだね。油断したあたしが悪いのかな……いや、雅が罪作りなだけ。神様があげた美貌を振り撒くのが悪いの。だからね、雅に惚れた女の子には罪はないの。だけど雅にも罪はないの。あたしが徹底的に、雅を支配してコントロールしなきゃいけないの。雅の笑顔は国宝級。誰かが制御しなきゃ雅の笑顔の犠牲者が増えるだけ。もちろん、あたしは雅に愛している。だけどそれ以上に全人類から雅を守る使命があるの。……ふふっ、愛が世界を救うなんて残酷な運命だと思わない?」
「あ、はい」
よくわからなかった。
え、今どこで息継ぎしてた? その演説をいつ考えた? ちょっとまってちょっとまった。
ただでさえ話がわからないんだ。話をまとめることもできない。
……で、結局のところ、
「鞠沙と雅って付き合ってるの?」
「いずれ結婚するわ」
……ドッと疲れた。ソファーでヘナヘナと干からびる。
正論を言う気にもなれない。だが今は力を振り絞ってこう言おう。
「浮気じゃないじゃん! 浮気ってのは恋人以外とのイチャイチャでしょう。恋人がいない状態だったら浮気じゃないの!」
「でも小学校四年生の時、あたしと付き合うって訊いたら『んー、そのうちな』って答えてくれたの! これってプロポーズでしょ!」
真向かいに座る鞠沙が立ち上がり、わたしの手をぎゅっと握る。希望に満ちた彼女の瞳に意識が吸い取られそうになる。
が、待て! こういう時こそ冷静になるんだ。人に呑まれて冤罪を作るんじゃ雅も可哀想……本当に可哀想かな? ここは一度、痛い目に合わせた方がいいかもしれない。浮気相手……と呼んでいいのかわからないけど、浮気相手(仮)の正体が気になる。
アイツはどんなやつが好みなのだろう。これでもし浮気自体が勘違いならこの話はおしまい。本当は相思相愛ならハッピーエンド。誰もが不幸にならず幸せな現実が待っている。
うん、となれば鞠沙からも雅からも『感情』が溢れそう。なくなった分を補給できるビックチャンスだった。
「とりあえず彼の調査をすればいいですね。浮気じゃなくても、何か変わったこととか様子がおかしいところとか、気になったことは報告します」
「本当! 実はね、周りの子に相談しても信じてくれなかったの。真摯に聞いてくれたの天塚が初めて。ありがとっ!」
喜びのあまり唐突に立ち上がって座っているわたしをムギュッとハグしてくる。
や、柔らかい。スレンダーに見えて女性らしいところはしっかり女性。それに甘ーい香りがして——ふわあぁあ、いい香り。思考がぼんやりしてくる。
「わたしも凛って、呼んでくださいー」
「そっか、なら改めてよろしくね、凛」
「おまかせをー、———すぅ」
「あら、ちょっと恥ずかしいよ。凛もなかなか可愛いわね。そんなんで雅の調査できるの?」
「アレとは同じクラスなのでー、一日中、観察しますー」
「それは好都合ね。あたしの見立てではクラスで何か起きているみたい。だから同じクラスの結月に頼もうとしてたのだけど凛の方が適任かもね。ならよろしくね。あたし、明日からヨーロッパで撮影なの。だから報告は帰国後に訊きにくるね」
「あいさいさー、志保にも伝えておきますね」
「ふふっ、なら百人力ね。でもあたしは凛にも期待してるから。あと……来た時に高圧的だったから気を悪くしてたらごめんなさい。少し見直した。お土産買ってくるから楽しみにしててね」
鞠沙はそのままカバンを持って、身体にまとったラベンダーのいい香りを残して部屋を出ようとした。
「じゃあね、凛。コーヒーごちそうさま。美味しかった」
「それはよかったです。また来てください」
志保の言うとおり、本当に飛び入りの依頼者が現れた。
志保が一人だった時、わたしがサボっていた時、全部志保が応対して情報を集めて、学園祭のまとめ役もやって……面倒なんて言ってる暇じゃないな。
感情を貯めることも最優先。だけどせっかく人間として生まれたからには青春を謳歌することも大事。志保ばかりに仕事を押し付けられないね。
◇
「留守番ごくろうさま。ジュース買ってきたよ」
鞠沙が帰って三十分くらいだろうか。すっかりと日が暮れ、帰り支度をしていると志保が両手にファイルを携えて帰ってきた。随分とお疲れに見えるので紅茶を淹れてあげる。本日二回目となると自分でも手際良くなった気がした。
「凛ちゃんが紅茶を淹れてくれた!? 大丈夫? 熱でもある? これから病院行こうか、救急でやってるところは……」
わたしを怠け者と勘違いしてない?
むぅと頬を膨らませて否定の意を表す。「もう、冗談やめて」
「あはは、つい嬉しくって。……誰か他に来た? ほら、飲み終えたコーヒーカップが出てるから」
「龍閃鞠沙さんがいらっしゃって」
「鞠ちゃんが? へぇ、珍しい。どうしたんだろう」
「依頼ですって」
「え、意外! だけど大丈夫だった? 鞠ちゃんって言葉は悪いけど『人を選ぶタイプ』だから」
「ふふっ、わたしを甘く見ないでほしいです。なんと、ハグされちゃいました」
「すごいね凛ちゃん。これならわたしがいなくても安心だ。で、依頼内容は?」
「聞いて驚かないでくださいね。春夏冬雅の浮気調査、です!」
キッパリと言い放つ。依頼者の前でははしゃげなかったが、クラスメイトのスキャンダルに飛びつかない女の子はいない。加えて相手があの元人気子役の春夏冬雅。一つの正義として暴かないわけにはいかない。
その証拠に志保の手が止まった。ふふっ、よほど衝撃的だったに違いない。
「……詳しく、教えてくれない?」
あれ、志保の顔が渋い。詳しくと言われても、わたしとてあの呪禁を暗記できるほど賢くない。
ちょっと様子がおかしいこと。付き合い悪いこと。裏で何かコソコソやってること。あとは鞠沙が雅を大好きなこと。ざっくばらんに説明した。
「どう思う? わたしは十中八九浮気だと思うのだけど」
わたしなりに仮説を立ててみたが、志保は口を半開きにしたままポカンとしている。
結月志保は体質的に周囲から頼られる傾向にある。クラスの学園祭の委員然り、この部活然り。訊けば「昔からそう」らしい。本人は「周りからチョロいと思われているから」なんて言ってたが、志保はホワホワとしていて話しやすいし、しっかりと相槌を打って愛らしい反応をしてくれる。つまるところ聞き手として優れているのだ。
人間観察の鞠沙もだが、幼い頃からの積み重ねは成長すると進化する。志保もいろんな話を耳にするうちに洞察力も鍛えられたとか。所謂、探偵としての腕前もなかなかのもの。
本人曰く、解決率は六割ほど。ただこの数値も根の葉もないデマや、それこそ「お化けのタレコミ」だったり、いろんな話に首を突っ込んでは無駄足に終わるケースも多い。
この前の「探し人」の件だって依頼者が正直に話していれば志保が解決していただろう。わたしも彼女にお世話になった身。結月志保の実力は目を見張るものがある。
「うんとね、えぇっと……」
百戦錬磨の結月志保が唸ってる。うめき声をあげる彼女を見るのは初めてだ。それほどわたしの仮説が間違っていたのかな。
「凛ちゃんはこの依頼、どこが終着点だと思う?」
「浮気相手を見つける!」
「二人は付き合ってないでしょ」
「あ、そっか。だったら雅くんの秘密を暴こう!」
「私たちはお悩みを解決するのであって、無理やり人の秘密を暴くわけではありません。解決するためなら何をしたっていいわけではありません!」
怒られた。
「う、ごめん、なさい」
ようやく身体の縛りが解けた志保は背伸びしながら部長用のデスクに腰掛ける。
「まぁ、まだ未遂だからね。これから気をつけてこう。わたしから鞠ちゃんに説明しとくから、この件はもう忘れてね」
「なんで? 何もなければ何もなかったで、鞠沙に報告しようよ」
間違ったことを言ったつもりはない。やり方が間違っていたなら修正し、正しいやり方で依頼者を安心させる。それが一番大切なことではないのか。
しかし志保はまたも唸る。頭を抱えたり天を仰いだり、その様子だけ見ていれば動物園でパンダを観ているみたいで微笑ましいのだが。悩んでいるのかと思えば額に汗、そしてデスクをたんたんたんとリズムよく叩き、あーでもないこーでもないとブツブツ。
これにはわたしも「面倒な依頼を引き受けてしまった」とひどく後悔した。近頃は部活に手が回らなくなるほど忙しいのに。
「ごめんなさい。自分だけでできると思って、志保の負担を考えてませんでした。そうだよね、一週間もあんな奴を張り込むなんて時間の無駄ですよね。まだ賽の河原で石積みした方が有意義か」
「いや、そうじゃなくてね。灯台下暗しと言いますか、あぁっと、えぇっと……あぁもう! 凛ちゃん!」
「は、はい!」
突然、声を張り上げる。凛々しい声に釣られて無意識に姿勢を正し、敬礼をしてしまう。
「こういうのは直接本人に訊きましょう。明日の昼休み、色仕掛けでもなんでもいいから雅くんと二人きりになって!」
「でもこういう聞き取りは志保ちゃんの方が……」
「いいからっ! いい? 人間ってご飯食べてる時が油断するんだから、さりげなく訊くの。で、もしも雅くんが何か言いそうになったらジッと目を見つめるの。逸らしちゃダメだよ。相手がイケメンだろうと負けないで! 兎に角、ムードを作るの。いいね?」
「はぁ」
捲し立てる志保に終始圧倒されてしまった。へぇ、なるほど。情報ってこうやって仕入れるのか。ドラマでしか見たことがないから実践的な手段はタメになる。その後も有益な方法を教えてもらい、明日への憂いは無くなった。
◇
「雅くん、一緒にお昼食べましょう」
春夏冬雅は休み時間になるといつもふらりと姿を消す、らしい。だから先手必勝。授業終わりのどさくさに紛れて約束を取り付けろ。
「どういう風の吹き回しだ。……別にいいけど」
「別にいいけど」の部分が声が小さくなって微妙に聞き取りづらい。面倒だと言わんばかりに後頭部を掻いているけれど足取りは軽そうに見える。屋上でいいかと訊くと素っ気なく返事した。
わたしとて貴重な休み時間をコイツと過ごすなんて不本意だけど、すべては依頼のため。
頑張れ、わたし。怯むな、わたし。
天塚凛の秘密基地の一つ。本館の屋上。転入してきた初日に見つけたとっておきの場所。天気がいい昼休みは大体ここで過ごしている。華やかなクラスメイトたちとワイワイガヤガヤ和気藹々と過ごすのはちょっと苦手。なぜこの学校を選んだのだろうと悔やむくらい。いい人ばかりなんだけどね。
扉を開ければキノコのような形をした換気扇と室外機がお出迎え。地面は配線だらけで座れるスペースは限られている。外周は柵で囲われているものの腰の高さしかない。もたれようものなら地上に真っ逆さま。あっという間にお陀仏だ。
「ようこそ、わたしの秘密基地へ」
「ここ、本当は立ち入り禁止なんだけどな」
そうなの? 鍵かかってないからいいのかと。もしも立ち入り禁止なら悪いのは施錠しない、見回りしない、注意喚起をしないセキュリティであって、事情を知らない一般学生が怒られるではない。わたしの責任はナッシング。最悪、今見つかったら全部雅に丸投げしよう。
「誘って何もしないなんて忍びないですから、今日はなんと! おいしーメロンパンを買ってきましたよ。雅くんにもあげる」
「あんまり甘いもの食わないんだけど、せっかくだし……ん、うまい」
ここだ。ご飯を食べてる時が油断する一瞬。志保に言われたとおり、さりげなく訊く。
「雅くんって付き合ってる人いるの?」
んぐぅと悲鳴に近い声を出し、突然ドンドン胸を叩き始める。見かねてわたしの飲みかけの紙パックのりんごジュースを差し出す。躊躇なくそれを手に取り、ごくごく飲んだ。あっという間にペッコリと潰れてしまった。
「急に変なこと訊くな! いねぇよ、悪いか」
「そんなにモテるのに?」
「モテるのと誰かと付き合うのは別。相手がこっちを好いてくれても、俺が素っ気なかったら可哀想だろう。俺はなんというか……世界に一人しかいない運命の相手を見つけたいんだ」
「性格の割にはロマンティック。でもそんなことしてたら一生かけても見つからないだろうね」
「何が言いたい?」
「運命の相手は案外、近くにいるかもよ?」
その相手は当然龍閃鞠沙。幼馴染とは身近な存在すぎて、すれ違いなり一方通行で成就しないことが多い、とのこと。実は雅は鞠沙を大変好いているけれど、芸能界という表舞台がある以上、玉砕して仕事に影響が出るのは避けなければならない。
鞠沙は雅が大好き。対して雅も鞠沙が好きだけど告白する勇気がない。もしくは鞠沙の仕事の影響が出ることを恐れ、あえて関係を曖昧にしているだけかもしれない。
だったらわたしが恋のキューピッドになればいい。雅自身に鞠沙への恋心を自覚させ、アンストッパブル状態にさせちゃえばいい。恋の素晴らしさ、恋人と過ごす幸福感。この手の話は結構得意だったりする。
こちらもメロンパンをひと齧り。饒舌になるにもまずはエネルギー。甘いものをしっかり蓄えて脳みそに力を蓄えないと。パクパクもぐもぐ、……一瞬で食べ終えてしまった。
あぁ、雅のやつ、せっかくあげたのに一口しか食べてない。食べないなら欲しいな。
「……そんなに煽るなら、いいよ、困らせてやるよ」
「はい?」
メロンパンを片手にまっすぐな眼差しをぶつけてくる。ふふん、こうなることも予想済みだ。志保の千里眼も大したものだね。確かこの後は彼の目を逸らさずジッと見て、ムードとやらを作るんだっけ。
地上の常識って難しいね。よくわかんないや。とりあえず成り行きに任せよう。
「いいか、よく聞け」
「はぁ」
「確かに見つからないと思ってたさ。今までどれだけ綺麗な子が集まろうと心は動かなかった。だけどな、見つけちまったんだよ」
「へぇ、よかったですね」
「俺が見つけたのは——」
雅が何かを言おうとした瞬間——扉から物音が聞こえた。
「まって雅」
雅の口元に手を当てて言葉を制する。むぐぅと苦しそうな声が聞こえたが、扉の方に全集中。いざとなれば雅を差し出せばいいなんて思っていたが、誰かに目撃されて屋上を封鎖されるのが最悪のケース。絶対に見つかってはいけない。
「んぐぅ、むがむが」
物音に気づいていないのか抵抗してくる。うっさいな、このバカ。力づくで振り解こうとするので、こちらも無理やり、口を塞いだ。するとどうだろう。一瞬触れただけでたちまち静かになった。
「誰か外にいる。おとなしくしてて、見てくる」
忍び足で扉に近づく。静かだけど確かに物音が聞こえ——
「あ、あはは、やっほー凛ちゃん」
「ここで何してるのさ。心配なら堂々と入ってくればいいのに」
物音の正体は志保だった。志保以外に誰もいない。その手にはスマホ、おまけにカメラモード。この子もしかして……や、思い過ごしだろう。わたしを出しにして依頼を解決するなんて腹黒いやり方、ゆるふわを顕現した志保がやるわけない。
とりあえず志保を招く。志保が声をかけても雅は強張ったまま。変なところで律儀だな、コイツ。
「ほら、志保が邪魔するから固まったじゃない」
「ごめんね渚くん。ついスマホ落としちゃって」
「で、何話してたっけ。えぇっと……、ロマンがなんとか」
「それは随分前の話だ! もっといろいろ話したろう?」
お、戻った。確かになんか言ってたけど、中身がないから覚えてない。
「大体これなんだ。ドッキリか、ドッキリなのか? おい結月、説明しろ」
「いやぁ、実はね」
*
「はあぁああぁ、アイツ、そんなこと言ってきたのか。それはうちの身内がご迷惑を」
「身内って認めた! これは結婚ってことだよね」
「凛ちゃん」
「アイツ迷惑しなかったか? ツンとしてて態度は悪く見えるけど、女優って職業柄仕方ないんだ。自分の身は自分で守る。たとえマネージャーであっても心の底から信用できない世界だからさ」
「わっ、妻の仕事先に頭を下げる旦那みたい」
「凛」
「俺が向こうを説得するからさ、なかったことにしてくれない? 一つ貸しってことで」
「だったら早く鞠沙ちゃんと——」
「はい天塚ぁ、そこまで」
今度はわたしが口を塞がれる。むぐぅむぐぅと抵抗するも、見た目によらず力強い志保は話そうとしない。息が苦しくなったので抵抗はやめた。
「凛ちゃん、ちょっとひとっ走り、飲み物買ってきて。そうしたら離したげる」
無駄な抵抗はせず、静かに頷く。おとなしく解放してくれた。
ま、よくわからないけど、これにて『Q.E.D.』。めでたし……めでたし?
◇
「今日はごめんね、せっかく勇気出してくれたのに」
「や、結月のおかげで正気に戻れた。むしろ助かった」
なぜ彼が謝るのだろう。凛ちゃんがえらく聴覚がいいのはこちらの予想外。細心の注意を払って登ってきたのに、その足音で気づかれたようだ。
「さっきの俺、とんでもないことしてたよな。あの前後の記憶が飛んじゃってて覚えてないんだよな。俺、何しようとしてた?」
わかるわけがない。覗く前に気づかれてしまったのだから。
「ううん、何にも見てないよ」
「そっか。ま、いいや。よくわかんないけどフワフワしていい気持ちだったし」
「頭打った?」
「や、大丈夫。痛みはどこもない」
春夏冬雅は芸能畑ではまともな方。龍閃鞠沙も雅絡みでなければまともな方、頭のネジがぶっ壊れたやつは捨てるほどいる。会話ができるだけこの学園では優秀だ。
しかし雅もあれだ。こんな焦ったいことしないでサッサと決めればいいのに。凛ちゃんみたいな変化タイプは直球ど真ん中で勝負するべきだ。こんなイケメンのどストレートの告白で堕ちない女はいない。
「ところで助かったって?」
「だって勢い余ってその……、言おうとしちゃったろ」
「言えばいいのに」
「ダメだろう、そりゃ。道徳的に反してる。
はて、道徳? なんのこと?
「アイツ、彼氏いるだろう」
————はぁ?