第二三話 Light of the lamp
「殺人というのは特定の個人を否定するための暴力です。ですから今回なら古賀純連さんを抹消したいだけの強い感情が向けられたと考えられます。憤怒、怨恨、痴情、動機はいくらでも考えられますし、なにも直近の出来事ではなく過去の感情でもありえるのです。ですが、近隣住民の話によると近頃婚約者との喧嘩が絶えなかったと聞きます。疑われるべきはその婚約者……ま、こんなの誰だって当たりが付きますし、警察だってバカではありませんから厳しい追求をしているでしょう。ですが、それでも犯人は捕まりません。決定的な証拠がないんでしょうね。犯人はうまいことやったと思います」
「ほぉ、じゃあ、シャーロック・ホームズでも現れない限り解決できないと?」
「いえ、きっとホームズでも解けないと思います。なぜなら……最初から殺人という前提が崩れているのですから」
そう、この事件は考えれば考えるほど通常では考えられない出来事が散見している。
「古賀純連さんは首から血を流した状態で倒れていたそうです。彼女に殺意があるのにわざわざ狙いにくい首を狙いますかね?」
「首なら即死すると思ったんじゃない? 人を殺するなら迅速に済ませたいだろうし」
「その通りだと思います。が、実際はどうだったんでしょう」
おもむろに立ち上がったわたしはゆったりと足を進め、遺体があった場所に横たわり当時を再現する。以前こんなことをした時は春夏冬に嗜められた記憶がある。でも八月朔日会長はわたしの一挙手一投足に真剣な眼差しを向けている。
「発見当時はこんな感じだったようです。会長なら分かりますよね。この状況の不自然さに」
「その倒れ方なら尚更だ。おそらく犯人は後ろから不意をついて刺したんだ。的確に急所を狙えても不思議じゃない」
「いいえ、不自然なのはそこではありません。犯人はどうして後ろに立てたのかってことです。犯人はどうやってこの部屋に入れたんですかね」
「ははぁ、つまりきみはこれは殺人事件ではなく強盗事件だったと? 犯人はベランダから侵入したんだ」
「それはありえません。ベランダは施錠されていて荒れた痕跡もなかったようです。ということはつまり――殺された古賀純連さん自身が犯人を招き入れたんです」
大人しく傾聴していた会長も「ミステリー小説の読みすぎだ」と嘆息する。その反応から察するに、古賀純連さんがあらかじめ危険人物だと認識して部屋に入れた、と勘違いしているのだろう。
「仮にその推理が当たっていたとしたら必然的に犯人は被害者の知人だ。なおのこと婚約者の線が濃くなるね」
重くのしかかる重力に対抗してなんとか身体を起こす。奇行に加えて的外れの推理を披露するわたしに蔑んだ視線が向けられるも気にせず進める。
「ですが婚約者が犯人だという証拠が未だに見つからない。となると犯人は別にいるんです」
「となるときみは、なにか犯人に繋がる証拠を見つけたんだね」
その問いに口を固くする。肯定も否定もしなかった。できなかった。
なぜならまだ、の証拠をこの目で見ていなかったから。
「実は他人の部屋に上がり込むのって簡単なんですよ。そもそも事件が起きたのはオートロックですし、純連さんもまさか凶器と殺意を秘めた人間が玄関の前に来るとは考えてもいなかったでしょう。突然の来訪者に驚くまもなく『この部屋のベランダに怪しい人影がいた』とかなんとか言われたら平常心を欠くに違いありません。まんまと家に上がり込んだ犯人はベランダに向かいます、が、当然そこには異変なんてありません。そして『なにもありませんでした』とか適当なことを言って彼女を油断させ、後ろを見せたその隙に刺したんです。脱出に関してはあらかじめ下調べして監視カメラがないところを通ったんじゃないでしょうか。それができる人間はマンションに立ち入る誰でも用意です。わたしに言わせれば未解決事件というには容疑者が数多くいて、殺人後の痕跡もお粗末なチープな事件だったんです」
再びテーブルの前に腰を下ろしたわたしは炭酸が抜け落ちたジュースを一気にあおぐと、やるせない感情を吐き出すように大きくため息をついた。
「まさに今回の事件は完璧とは言い難いですけど、犯人が行方をくらませるには十分で、殺人動機も分からない、意味不明な事件なんですよ」
と、ここまでは妄想の領域を脱しない、綻びだらけの推理だ。真実かどうかも分からないと前置きしたから言質を盾にして文句は一切受け付けないつもりである。
「……で、犯人は?」
どうやらこの陳腐な推理を受け入れてくれたようだ。その目は眼前に餌をちらつかされた獅子のよう。
「ここまでは順調に妄想の中で組み立てることができました。ですがわたしも犯人に繋がる証拠が見つからなくて……だから適当に当たりを付けてみたんです。空を飛べたらいいのにな、過去に戻れたらいいのにな……この人が犯人じゃなかったらいいのになって」
そう、これはわたしの妄想だった。
だが不幸にもこの推理が正解してしまった。我ながら不幸の星の下で生まれたんじゃないかって気味悪くなった。
「わたし、ずっとずっと考えていたんです。この推理が真実だとしたら、犯人はなぜ殺意を抱いたのかって。でも全然答えが分からなくて……教えてくれませんか、会長。どうして人を殺したんですか?」
もうみなまで言わずとも悟っていた。真実に踏み込めば、会長の顔から仏のような優しさが消え、人形のような無機質な表情が宿る。わたしでさえもう、目の前の彼の感情が読み取れない。
犯人と名指しされているにも関わらず、淡々と食事を進める。
彼の心境が分からない。こんな時、人は動揺するんじゃないのか。パニックになって自暴自棄になるんじゃないのか。どうして彼は堂々としていられるんだ。
「さすがに証拠もないのに、犯人呼ばわりされるのは不快だね」
違う。不快なんてこれっぽっちも思ってない。
「僕が犯人だって証拠はあるの? あるならさっさと警察でも呼んで突き出してくれないかな?」
「……今はありません」
「なら金輪際、不用意な決めつけは止めることだな。まだ学園に来たばかりの子だから多めに見るけども」
怒りも感じられない。淡々と事実を羅列しているだけ。正論の壁を築き上げて自分の優位になるように立ち回るんだ。八月朔日会長は怒りを滲ませているように思えて中身は存外にクレバーだった。だが内心焦っているはずだ。鉄仮面とはいきなり犯人呼ばわりされたら必ず綻びが生じるはず。わたしは真っ向から立ち向かう。
「あなたが早朝ランニングしていたことは知っています。この辺りをコースにしていたのだと思います。純連さんがあなたの嘘を簡単に信じてしまったのも、ジャージ姿で息が切らし汗が出ていたから。もしかすると会話こそなくても、事故現場の周囲のマンションを走っている子だと知っていたから信用したのではありませんか? それに殺人犯の気持ちなんて理解したくもありませんが、犯人が会長だとしたら犯行動機の一つがなんとなく分かるんですよ」
「ほう」
「――電灯の色が違ったんですよ。他は夕日のような暖かな色、対して現場はこの部屋のように昼白色で真っ白で爽やかな色なんです。マンションの大家に確認したところ、ちょうど去年の二月ごろに純連さんが変えたようです。
ですが、それがあなたには気に入らなかった。
毎日、ランニングコースでマンションの前を通るとベランダから統一された灯りがうっすらと見え隠れしていた。なのに純連さんが電灯を変えたことでマンションの灯りが均一ではなくなった。だから殺した。なんともくだらない動機ですが、几帳面すぎるあなたならやりかねません」
「あのさぁ!」
と、紙コップをいきなり床に叩きつけた。挙句、テーブルを怒り任せに蹴り上げ、寿司桶もチキンもひっくり返って床に落ちた。
「だから証拠を見せてみろ? まさか僕が几帳面だからって、いい加減な理由が罷り通ると思ったのか」
突然の物音でもわたしは動じない。こうなることは端から予想済みだったから。
「先ほども言いましたが、証拠はここにありません。ですがもう確保して警察に……」
「はぁ? 矛盾してないか? どこにあるんだよ」
「春夏冬です。さっきの連絡は雅が生徒会室で凶器と思われる血のついたナイフ、犯行当時着ていたと返り血のついた学園のジャージを発見したそうです。もう彼の知り合いの刑事の手に渡り、すぐに鑑定が始まるでしょう。なぜそんなところを探した、なんて聡明な会長ならもう気づいているはずですよね。生徒会室がある学園本館の警備はネズミ一匹通さない最高レベルの警備。加えて生徒会室は滅多なことで誰かが立ち入ることはないでしょう。うってつけの隠し場所で、尚且つ自分が生徒会室の番人をすれば見つかる道理がありません。思えば片付けの間も昼休みもずっと部屋にいましたものね」
物的証拠が見つかった。会長が捕まるのは時間の問題だろう。
ほぼ詰んでいる状況と思われたが、やはり会長から感情の色が漏れない。やっぱりこの人は春夏冬の言うとおり、感情がないんだ。他人を傷つけることを厭わないサイコパスなんだ。なんとかこの話し合いで会長の真意を探ろうとしたけれど、それも叶わぬ夢かもしれない。
「だとしても、学校関係者が僕を嵌めるために行ったんだ。そうに違いない」
「事件があったのは四月の……二十六日でしたっけ。確かに会長以外にできたかも分かりませんね」
「おいおい、頼むよ。探偵役をするならそれくらい覚えててくれなきゃ」
「これは失礼。えっと、遺体が発見されたのは二十六日の午後五時、三○三号室で第一発見者が……」
「いい加減にしろ! きみはバカか? 自分の部屋も覚えてないのか」
長い沈黙が訪れた。
会長は訂正してやったりとご満悦。急にハハハと声高らかに笑い出す。
率直なことを言えば、ずっと「疑ってごめんなさい」と謝罪するつもりだった。それこそ決定的な証拠、犯人の自白がなければ最後まで庇うつもりだった。
感情が希薄な人間だからなんだ。ガラス玉が反応しなかったのは予想外だけど別にわたしは嫌じゃない。春夏冬は兎に角、志保だって会長を好いていた。きっと他の生徒からの信頼も厚いのだろう。人付き合いを上手くやれていたならそれでいいじゃないか。
……笑顔で見送るつもりだった、のに、それを言ってしまったらもう終わりだ。
「どうしてあなたはここが殺人現場だって知ってるんですか?」
古来より犯人を特定するには、犯人しか知り得ない情報を自白させるのが鉄則だ。いくら聡明だろうと平常心をかき乱せばボロが出る。無関係の人間から隠された真実が明るみになることは絶対にありえないのだ。
鋭い指摘に小さく舌打ちをして唇を噛み締める会長。どうやらこれでゲームエンドのようだ。
「志保や赤城先生、それと春夏冬は事件のことは知ってました。けれど蒼月での初めての殺人事件ということもあって、警察は情報公開を絞っていたんです。ですから春夏冬なんか、この部屋にあげた時はびっくりしてました。この家の秘密を知っているのはわたしと春夏冬、それから警察とご近所さん、不動産屋……って数えてみると意外と多いですね。学園に提出した書類にはここの住所を書きましたが、ここが殺人現場と知る人は学園にいないかと」
「……あぁ、春夏冬くんに聞いたんだっけな」
「それはありません。春夏冬が知ったのは日曜日の夜、月曜日の午前中は春夏冬とわたしが一緒でしたし、午後は会長とわたしが一緒でした。月曜日に春夏冬と会長が二人きりになる時間は絶対にありませんから、知る機会なんてなかったはず」
「め、メッセージで送られてきたんだ」
そこまで足掻くか、会長。わたしはここまで粘られるとは思わず、男らしく観念すると甘く見積もっていた。
だがそんなチープな言い訳なら簡単に否定できる。ダメ押しを準備したのは他ならぬ春夏冬雅だ。彼から託されたスマホの画面をなめらかになぞる。
「このスマホ、見覚えありませんか?」
「……春夏冬くんのか」
「えぇ、芸能人は二台持ちが基本らしいですよ。うーん、見た限り、メッセージでやり取りした記録はないですね。ですからもう観念してください。直に警察が来るので大人しく捕まって――」
自分の落ち度だ。油断してスマホに目を奪われていると唐突に、ズドンと凄まじい衝撃が頭に走った。
痛みを感じる間もなく、意識が強制的に遮断される。
あぁ、なにかで殴られたのか、と気づいた時には眼前はフローリング。悲鳴を上げるにはなにかも手遅れだった。
意識が遠のく中、最後の力を振り絞って頭を上げる。その目線の先ではスマホを奪取した会長が床に叩きつけ、棒のようなもので徹底的に壊し続ける。
そんな顔、今まで見たことない。本気で苛立ってる。
なぁんだ、会長は、ちゃんとした人間……じゃないか。