第二十話 ハロー、ネイバー
疑問は晴れぬまま春夏冬と別れて家路につく。
またなにか気づいたことがあればと約束したものの、わたしとしてはガラス玉は無事ならそれで良かった。会長は異国の地に旅立つし再会するかも分からない。
モヤモヤとした気持ちはゴミ箱に捨てて、残り半月と少しの休日を堪能することにした。
なぜか山盛りの宿題を課せられたけれど夏休みは夏休み。せっかく東京を離れて学園都市にやってきたのだから存分に満喫したい。どこへ行こうか、志歩に訊いてみようか、などと考えながら軽快にマンションのオートロックを解除し部屋まで向かう。家の鍵を取り出しながら夜はどう過ごそうかと考える。今日のご飯は駅前のスーパーで鯵の刺身が安かったから、これで一杯……
「あの、すいません」
「いえ違うんです! 一杯といっても酢飯のことで、決してアレではなくて」
「……ええっと?」
咄嗟に反論したものの、よくよく考えればわたしの思考が他人にバレるわけもなく、己の行動に違和感を抱く。声が聞こえた方を向けば狼狽える美人の女性と、ぽかんとした顔を浮かべる少女。
「あの、もしかして最近引っ越してきた方?」
「あ、はい。ちょうどここに」
「あら、よかった。挨拶できなくて申し訳ありません。隣に住んでいる山本です。この子は娘の紅葉。ほら、挨拶の練習したでしょう」
「紅葉、です」
偶然遭遇した隣人に自己紹介をする。どうやらわたしが挨拶した時は留守にしていたようで、事故物件だからと距離を置かれたわけではなかった。梓は母親らしいというより大企業の令嬢のような落ち着きのある印象。話していても非常に礼儀正しく隣人として安心できた。対して紅葉はまだわたしに警戒しているようで恥ずかしそうに梓の後ろに隠れていた。
梓は蒼月の繁華街の喫茶店で働いていて仕事上生活は不規則。休みの今日は紅葉と一緒にお出かけをしていたようだ。
「学生が一人暮らしなんて大変でしょう、よかったら家でお茶でも飲みません? ちょうど茶葉を取り寄せたばかりなんです」
「ならお言葉に甘えて」
隣人との付き合いは大切だ。こんなご時世、こんな場所で暮らすのだからなおのことだ。お誘いに甘えて人付き合いに励んだ。
「ん! いい香りですね」
「気に入ってくれた? お気に入りのブレンドなのだけど、周りには良さを理解してくれる人がいなくてね」
その気持ち、よく分かる。わたしも以前は似たような立場だったから。
特段、的外れの発言はしてないのに、コイツなに言ってるんだと訴える視線が大嫌い。無知に囲まれると賢人が愚者に思われるのだ。この世界ってすごく不思議。賢い者がバカになるなんて。いつもふとした時に昔を思い出すとムカムカとイラついてくるのに、フルーティな香りのおかげか平静を保てた。やっぱり食ってすごく大切だ。どこで買ったのかあとで教えてもらおう。
紅茶が好きと自称するだけあって、香りにも強いこだわりがあるのだろう。家に足を踏み入れた途端、別の国のような香りが押し寄せてきた。壁を一枚隔てただけなのに世界が違う。温かみがあるというか、白と黒で家具が統一されていてシックな大人の雰囲気。子供と暮らしているとは思えないほど部屋も綺麗だ。
「ね、これから凛お姉ちゃんとお話するから部屋で大人しくしてて」
せっかくのお母さんとの時間を邪魔しちゃって申し訳ないね。
でもこれも梓の親心。血生臭い話を幼気な子供に聞かせるわけにはいかない。とてとてと可愛らしい足取りでリビングを出た。
「どれだけ風変わりのお隣さんなのかと思ったら、普通の蒼月の生徒さんなのね」
あははと愛想笑いで誤魔化す。自分では変わっているなんて微塵も思ってないけれど、殺人現場に住む人間を警戒するのは当たり前だ。されど勘違いされるのは御免なので切実な過去を打ち明けた。「それは大変だったわね」と強く同情してくれた。
「ここらは学園からも繁華街からも離れてて静かだったのだけど、あの事件以来、騒がしくなっちゃって。今でもたまにマンションの前でマスコミが張り付いてたり」
「みたいですね。この前は帰ってきたら刑事が張り込んでましたよ」
「もしかしてあの横柄で無愛想な刑事さんですか? ちょうどこの前も……月初めも『変わったことはないか』ってわざわざうちに」
へぇ、幕部も一応は職務に励んでいるのか。だったらもっと愛想良く振る舞えば好かれる警察官になれるのに。性根を犠牲に警察としての能力を高めているなら仕方ないけども。
「その、事件があった時って大変だったんですか? 東京にいた頃はあまり情報が入ってこなくて」
「ちょうどあの日はシフトが日勤で、仕事帰りに学童に紅葉を迎えに行って帰ってきたらマンションに規制線が貼られてて。まさか殺人事件が起きてると思わないじゃない、ましてお隣でなんて。警察もわたしに話を伺いと言い出すし、犯人が捕まっていない殺人現場の隣に帰るわけにもいかず、事情を話して学童で面倒見てもらうことにして、わたしはそれから夜中まで事情聴取。終わったのが午前様で近くのホテルで紅葉で一泊したの。でも現場検証とかなんとかで、この部屋が開放されたのは一週間後。紅葉はホテル暮らしで喜んでたけど、お金がね……もう大変だった」
それはご愁傷様。その恨みは早く犯人逮捕しない警察を恨むべきだ。
灯台下暗しなんて言葉のように、実は隣人が殺人犯……なんて考えたこともあったが、梓にはアリバイがあるようだし、これだけ自由にできるのも警察にシロとして見られているからだろう。ひとまず信頼できる隣人とみなしていいようだ。
と、もしも隣人に会えたなら聞きたいことがあったんだ。
「あの、事件前によく口論が聞こえたってネットに書かれていたんですけど、本当ですか?」
「結構でかい声の言い争いが絶えなかったよ。殺された――純連ちゃんには婚約者がいてね、古谷正一さんていうのだけれど、結婚式が六月だったのに……二月くらいからかな、急に口論が絶えなくなってね」
「それって言い合いだけです? 女性の悲鳴とか」
「喧嘩だから悲鳴っぽいのは何度か聞こえたね。ヒートアップした喧嘩なのは間違いないのだけれど、殴る蹴るの暴行まではいかなかった。あ、これは警察には話してる」
ふむふむ、日頃から喧嘩が絶えなかったならカッとなった犯行も否定できない。
けれど、この前の春夏冬との推理とわずかながら食い違いがある。
わたしの部屋、つまりは殺人現場だけど、平静を保った婚約者が背後を明確な殺意で殺した。
「……でも、その婚約者って警察に捕まってますよね」
「現在も勾留中かな。警察も証拠らしい証拠がなくて悪戦苦闘してるみたい」
このまま婚約者が犯人なら丸く収まる話。だがこれが冤罪なら、本当に面倒なことだ。犯人が捕まらず、犯人の目星がない状況、さらに殺された理由に見当がつかないので、次の犯罪を防ぐのは難しい。だからこそ警察は慎重なのだろう。これで次の事件が起きれば警察の面目は潰れる。
「純連さんの遺体が発見されたのは午後五時、連絡が取れずに様子を見にきた婚約者が第一発見者。その後、彼は警察に通報し、実況見分が行われた。彼女の死亡推定時刻は午前七時から午前五時。半日以上が経っていた。マンション中のカメラを捜査したところ、たった一人、蒼月学園のパーカーを被った怪しい人間が写っていた。警察は重要参考人として捜査しているが、そのパーカーの姿が……帰りに消えたんだって」
「とすると、監視カメラのない場所を記憶してすり抜けたと」
「そう、ゴミ捨て場に通る裏口にはカメラがなかったんだ。だから犯人はそれを知っていた人間、注意深く計画を立てられる人、となると消去方で同棲までしていた婚約者になるよね」
そう、それが警察の推理なのだろう。ただここで婚約者が犯人の証拠を掴めないからこそ泥沼になっている。ま、素人が考えたって埒が明かない。犯人が自白するまで待つだけだ。
捕まるのも時間の問題でしょう、と梓も同じことを言っていた。婚約者が捕まったから生活もすっかり元通りに戻っているという。
なら大丈夫、心配はない。
けれどふと、会長のストーカーについての話も思い出す。今回の事件だって喧嘩という前触れがあったのだ。会長は気にしていないようだけど、些細なことが大きな事件の前触れになりうる。殺人事件の衝撃が残るからこそ些細な出来事に気を配りたい。刑事の真似事ではないけれど、日常で気になることはなかったかと尋ねてみた。
「うーん、異変はないけれど、変わったことはあるかな」
「変わったこと?」
「前まで毎朝……五時くらいにランニングしてた子が来なくなったの。公園の方から走ってきてこのマンションで引き返すから印象的でね。ちょうどあの事件を区切りにぱったりと見なくなったな」
「その話は警察に?」
「あの無愛想な刑事さんには話したかな。でもそれ以上は訊かれなかった。その子、学園の生徒だって言ってたしアリバイを証明できたのかな」
「え、面識あるんですか?」
「一度だけね。夜中に紅葉が熱を出しちゃって病院から帰ってきた時、その子が転んで足を擦りむいたみたいで絆創膏を渡したの。その時に一言二言」
話だけを聞けば怪しい人物。しかしそんな存在を警察が逃すわけがない。梓の言うとおり、その人は事件に関係ないのだろう。
「ご馳走様でした。紅葉ちゃん、またね」
山本親子に別れを告げて部屋に戻る。梓曰く、反対側のお隣さんはご近所付き合いを一切しない家のようなので気にしなくていいと言われた。
すっかりと日が暮れ、生徒会室もひと段落し隣人もいい人だって分かった。不安から解き放たれたわたしに怖いものはない。お米をレンジでチンしながら小皿と醤油を用意……って、わさびがないじゃないか。買いに行くのはたいそう面倒ではあるけれど、口はもうしょっぱい醤油とわさびの辛さを欲している。はぁ、しょうがない。買いに行こう。幸いにもスーパーは目と鼻の先なのだから。
「あぁ、なるほど。どおりで別世界だったわけか」
駅前のスーパーは公園を挟んで向こう側。公園からベランダが筒抜けなのがこのマンションの難点なのだが、なるほど、他の家庭はウッドフェンスで対策しつつオシャレにしているのか。
引っ越してきたばかりだから仕方ないけれど、四〇四号室は殺風景。すぐ帰ってくるからと部屋の電気をつけたまま出てきたけれど、カーテンから昼白色の灯りが漏れていた。それに今気づいたが、他の家の灯りは温白色。わたしの部屋だけが昼間の日光みたいで存在感が際立っていた。どおりで山本家の部屋は夕焼け色で温かみがあると感じたんだ。これまではインテリアなんて微塵も興味なかったけれど、これを機に挑戦してみようかな、なんて。
命と使命に関わらない限り、この面倒くさがりのわたしが率先して勉強なんてするわけもなく。こういうのはセンスのある人間に丸投げするのが最善だろう。センスがある人間を知っている人は誰だろう。コミュニケーション能力が高い志保ならいい人、知っているだろうか。「おいしージュース」を浴びるように飲みながらあとで連絡してみよう。