第十七話 おいしージュース
「これまでどうやって生きていけたのか不思議でしょうがない。今朝できたことがどうしてできなくなる」
「得意不得意は誰にでもあることですし。あ、着きましたからもう大丈夫です」
ぐちぐちと小言を云われながらもなんとか「東風公園」まで到着。さすがのわたしでもここから迷子になる自信もなく、モノレールに乗ったまま解散することにした。けれどもお節介な春夏冬は昨日と違って改札を通り過ぎてもついてくる。
「新手のストーカーにしては堂々としてますね」
「今日は暗くなってきたしな。別に部屋の中まで入る気はないけど、マンションの前まではな。結月に頼まれたし」
「ならスーパーで買い物してこうかな。食材はなにも運んできてないし。えっと、砂糖塩醤油、割り用の氷に炭酸と……お米も買わなきゃ」
「もしかして部屋まで運ばせようとしてる?」
「当たり前でしょう。あ、荷解きも手伝ってもらおうっと」
せっかく舞い込んだ貴重な男手だ。この際クタクタになるまで使い倒してやろうと思い、つい億劫になって先延ばしにしていた買い物を手伝ってもらった。しかしスーパーのビニール袋の限界で米は後日。しばらくはインスタントご飯生活になりそうだ。
「どうもぉ、こんばんわ」
「……ども」
電灯を頼りにマンションの前に到着するも、そこには二度と見たくない顔があった。獲物がやってきたといわんばかりに顎を撫でてニヤけるちょび髭が警察だということが本当に信じられない。
「もうお友達ができたんですか。最近の若者は早いですね。しかも春夏冬さんとはお目が高い」
「知り合い、ですか?」
後ろにいた春夏冬の名前を言い当てた。
「少し前にちょっとな。幕部さん、でしたっけ。どうしましたか」
いつも話すより抑揚をつけ、芝居がかった声で応じる春夏冬。初めて生で見る本物の役者の演技に恥ずかしながら言葉を失ってしまった。
「いえ、今日はただの見回りですよ」
「見回り?」
あっと思った時には既に手遅れ。節々に転がっていた不穏な言葉を繋げていけば自ずと真実に辿り着く。この時ばかりは頭の回転が早い彼を恨んだ。
「わたしの友人に変なことを教え込まないでください。……いこっ」
春夏冬の腕を引っ張ってそそくさと連れ込む。
「お、おい、どうしても行かなきゃいけないか?」
「なにびびってんのさ。安心しなよ、フローリング綺麗だから」
「そういう問題じゃない!」
春夏冬雅の迫真の悲鳴がフロアにこだました。さすがは役者、まるで心の底から叫んでいるみたいだ。
◇
「お前ってあの殺人事件の関係者?」
「いいえ、なーんにも関係ありません」
「だったらどうしてこんなところに住んで」
「引っ越そうとしたら、どこも空いてなかったんですよ。わたしとて好んで選んだわけではありません。ですから玄関で突っ立ってないで入ってきてくださいよ」
玄関で足をガクガクと震わす元子役に促す。演技力と整った面は認めるけど中身が性格が悪くてビビりなんて情けない。面倒くさがりのこのわたしが持て成そうとしているのに。戦々恐々とした足取りで、ごちゃごちゃとした室内で唯一まともに座れるソファーに腰掛けた。お茶かコーヒーを用意しようとしたが湯を沸かすやかんがまだダンボールの中。買ってきたばかりの炭酸水しかない。コップと氷とを用意している間も春夏冬はキョロキョロと落ち着きがない。
「乙女の住処をジロジロ見ないでもらいたいですね」
「いやだって……、その、遺体がどこにあったのかとか」
「さっき袋を置いてくれたところ」
既に現場を通り過ぎていると知って「ひぃ」と情けない声をあげる春夏冬。わたしにも一抹の嗜虐心があるようで、昼間の腹いせも含めて追撃してみる。
「ベランダを背にしてって云ってたから……こう、かな」
実際に再現してみた。シンクの真横で血溜まりができていたと聞いている。犯人から逃げるところを背後から狙われたのだろう。
内見を終えた後もこの事件のことが気になってしまい個人的に調べていた。
『四月二十七日、午後五時ごろ、連絡が取れないと知り合いの男性が自宅に向かったところ、女性が首から血を流した状態で発見された。この部屋に住む古賀純連は死亡、犯人は現在逃亡中。現場から凶器は見つかっていない』
ここまでは信頼できるニュースサイトの情報筋。しかし電脳世界には出所不明、根拠なしの怪しい情報がいくつも転がっていた。
警察は発見者でもある被害者の婚約者が犯人だと目星をつけているようだ。近所の住民によれば数ヶ月ほど前から口論が絶えず、一度だけ警察沙汰になったこともあるとか。犯行の動機としては充分。だが古賀純連を殺した証拠がなく二の足を踏んでいるようだ。
個人的にはこれが一番有力だと思った。『上からの圧で捜査が止められた』とか『学園の生徒が関わっている』など、妄想に等しい推理に比べれば納得できるだけ及第点だ。
「脚本にありがちな痴情のもつれってやつか。でもどうもスッキリしないね」
コップに注がれた炭酸水を一気に煽る。再現した時は止めてくれと目を背けていたくせに、調べ上げたことを話していくうちにだんだんと神妙な表情になっていた。
「というと?」
「カッとなって手を出したにしても、わざわざ狙いにくい首を『刺す』なんてな。凶器が見つからないなら犯人が刃物を持ち込んだってことだろうけど、それなら端から明確な殺意があったとしか思えない」
「わたしはもともとキッチンにあった包丁で刺したと思ったんだけど」
「だとしたら立ち回りがおかしなことになる。犯人は一度キッチンで包丁を取り出して、わざわざリビングに回って刺したってことになる。刺される方も油断していたとしてもこんな悠長な事にならなかったはずだ」
云われてみるとそうかもしれない。一度は包丁を置いて話し合いをしたものの、不意を突いて殺したとか考えられる可能性は無数にある。どちらにせよ犯人に殺意があったのは明白だ。
「ま、犯人を捕まえてくれるなら、なんでもいいですよ。わたしたちは探偵じゃない。警察の邪魔をしようとするだけ敵を増やすだけですし」
「そうだな」
意外にもすんなりと手を引く春夏冬。てっきりこういう謎とか事件に首を突っ込む性分かと思った。子役上がりにしては常識的な考えで安心した。
グラスを空けた春夏冬は手早く帰り支度を整えて家を出た。「また明日」と笑顔で見送ったが苦虫を噛み潰したような顔で返される。多分、コイツの中でわたしは戦力外の足枷とでも数えられているのだろう。今に見てろ、それが過ちだと後悔させてやるんだから。
気合いを入れようとダンボールにしまっていた「おいしージュース」を飲もうとするも、ボトルを手に取った瞬間にあの刑事の顔を思い出す。……今日はやめておこう。明日は早いし。
寝る前のシャワーを浴びながら先ほどの会話を振り返る。春夏冬の推理は的外れではない。時間を置いて考えてみてもやっぱり犯人の行動が意味不明だ。
犯人には明確な殺意があり、不意を狙って首を切りつけた。
……どうしても理解できない。婚約者だろうと別の人物だろうと、なぜ彼女を殺したのか。
ただでさえ人間の行動に理解できない時がある。まして殺人犯の思考を理解しようだなんて思えるわけもなかった。