手乗り入道雲
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「ゆう君、六歳の誕生日おめでとう! はいコレ、プレゼント」
「やったー! 開けていい?」
「もちろん!」
お母さんが満面の笑みを浮かべて言う。
僕はペリペリと最初は丁寧に、だけど中身の正体に気付いてからは、ベリペリと荒々しく包装を剝がしていった。
中から姿を現したのは──
「手乗り入道雲だ!」
「うふふ、コレが欲しかったんでしょ?」
「うん!」
確信の籠ったお母さんの問いに、僕は大きく頷いた。
一辺二十センチくらいの、いかにも高そうな桐箱の上面には、『手乗り入道雲』というシンプルな六文字だけの焼印が入っている。
コマーシャルの言う通りであれば、箱の中には手のひらサイズの入道雲を生成するキットが入っている筈だ。
あの広い空を、夏の空を、たった一個で埋め尽くさんばかりに伸び伸びと浮かぶ入道雲。そんな入道雲を、掌の上に浮かべることができる時代になったらしい。とんでもない時代になったものだ。
──最先端の科学技術の結晶、なのだそうだ。詳しいことは知らないし、多分、僕には理解できないと思う。でも、そんなことは些細な事なのだ。僕にとって大事なことは、ただ一つ。
入道雲が──あの空の恐竜が、僕の掌の上に現れるということだ。
何の変哲もない箱を飽きもせず眺める僕を見て、お母さんがクスクスと笑って言う。
「出さないの?」
「まさか」
慎重に、丁寧に箱を開けると、桐の匂いがフワリと僕の鼻をくすぐった。
中には四つに折り畳まれた説明書と、小さなリモコン、そしてリモコンに入れるボタン電池。あとは、透明で薄水色の、綺麗な金魚鉢が入っていた。僕は真っ先に金魚鉢を手に取り、胸元に抱え込む。
この小さな金魚鉢の中に僕の夢がプカプカと浮かぶのだと、想像するだけで胸が高鳴った。
「よし!」
待ちきれないとばかりに、僕は椅子から立ち上がる。目指す先は、言うまでもなく台所だ。
「あら、説明書は読まないの?」
お母さんの優しいお節介に僕は、
「読まなくてもわかるよ。CMで百回は見たからね」
と、自信満々に返した。
……というより、説明書なんて読まなくてもわかるようになっているのだ。
中に入っていたリモコンには、『成長』と『停止』の二つのボタンしかない。『成長』を押せば入道雲の生成が始まって、最大で十センチまで大きくなる。『停止』を押せば、好きなタイミングで入道雲の成長を止められる。たったそれだけだ。
「それもそっか」
にこりと微笑むお母さんの側を小走りで抜けて、台所に向かう。金魚鉢を流し台の上にそーっと置き、冷蔵庫をガチャリと開けて、未開封の天然水を取り出す。
「え、水道水じゃダメなの?」
お母さんが小首を傾げる。一瞬ドキリとしたけれど、お母さんの目を見て、僕を責めているわけじゃないとわかった。純粋に、水道水では何か不都合があるのかと気になっての質問だったらしい。
「ダメじゃない、けど……」
僕が言い淀むと、
「……そっか。綺麗に育つといいね」
お母さんはそれ以上何も聞かず、ニッコリと笑った。お母さんの優しさが心に沁みる。
多分、どっちにしても生まれる入道雲は同じなのだ。僕だってそれくらいはわかる。
それでも、水道水よりは天然水がよかったのだ。
キャップを開けて金魚鉢の半分まで水を注いだら、テーブルまで金魚鉢を運ぶ。慎重に、ゆっくりと。そしたらあとは、『成長』ボタンを押すだけ。たったの、それだけ。
ボタン電池をリモコンに入れて、パチッと蓋を閉める。
「じゃあ、押すよ?」
僕は、お母さんの目を見て言う。
「うん、押してみて」
お母さんは、真っ直ぐに僕の目を見返して言った。
心臓がバクバクと言っているのがわかる。うるさいくらいだ。
「……えい」
ポチっと、ボタンを押す。
じっと、穴が空くほど金魚鉢を見つめる。何の音も鳴らない。
「…………」
数秒が経っても、見た目には何の変化もない。途端に、不安になる。
大丈夫かな? とお母さんに尋ねようかと思った、その瞬間だった。
「見て!」
「あっ!」
お母さんに言われて金魚鉢に目をやると、五ミリメートルくらいの入道雲が、水面のすぐ上に生まれていた。まだ小さくて、人形から飛び出た綿にしか見えないけれど、それは確かに、僕の大好きな空の恐竜だった。
「はぁ、最高」
掌に乗る、七センチメートルの入道雲。窓に向けて真っ直ぐに腕を伸ばせば、僕だけの入道雲が空に浮かんだ。それを眺めるだけで、心が躍る。
「……おっと、危ない危ない」
細心の注意を払って、勉強机の上に置かれた金魚鉢に入道雲を戻す。この小さな海から取り出してしまうと、入道雲は空気中の水分を吸って大きくなってしまうらしい。
それ自体は特に悪いことではない。
だけど、入道雲の大きさが十センチに達したとき、入道雲は成長限界に達し、“雨”へと変わってしまうのだ。
僕からすれば、地面に向かって降り注ぐ雨は出血と同じで、入道雲の消失は、死と同じだった。
「ずっとずっと、変わらなければいいのに」
金魚鉢をツンツンと優しくつつきながら、僕は誰に言うでもなく呟いた。
「はぁ……」
大きなため息が金魚鉢にぶつかる。机に突っ伏す僕の目の前には、大きな大きな入道雲が浮かんでいる。九・五センチメートルくらいだろうか。
金魚鉢の『停止』機能は、完ぺきではなかったらしい。もう二週間は狭い金魚鉢の中に閉じ込めたままなのに、僕の入道雲は空気中の水分をほんの少しずつ吸収し、じわりじわりと大きくなっていた。
要するに、僕の入道雲は、着実に死に向かっている。
……何が最先端の科学技術だ。ぶつける場所のわからない怒りを机に向けようとして、僕はゆっくりと拳を下ろした。
「綺麗だなぁ」
終わりへと向かっているにも関わらず、入道雲は鮮やかな白さを僕に見せつけるように、堂々と浮かんでいた。
ぼーっと、金魚鉢の中の入道雲を見つめる。十数分ほど眺め続けたそのとき、ふと、入道雲が苦しんでいるように見えた。勘違いに決まっているのに、じわりと、後ろ暗い感情が滲み出す。
──このまま、この狭い金魚鉢の中に閉じ込めていても良いのだろうか?
こんなことをお母さんに言ったら、きっと「考えすぎだ」って笑われちゃうだろう。だけど僕は、胸が張り裂けそうなくらいに辛かった。
「…………」
暫く考えた後、僕は覚悟を決めて、うっすらと埃の積もったリモコンを手に取った。
「ごめんね」
そう呟いて、『成長』のボタンを押す。
じっと、穴が空くほど金魚鉢を見つめる。我慢して、我慢して。入道雲が大きくなっていくのを見つめる。
「……やっぱり、入道雲はこうでなくっちゃ」
ポツリと呟いた瞬間、僕の上擦った声が聞こえたのか。入道雲が泣いた。つられて、僕も泣いた。
入道雲は、一つも雷を降らさずに泣いた。
何かが決壊したように耐え切れなくなって、僕は声を上げて泣いた。驚いたお母さんが部屋に入ってきた。すぐに何が起こったのかを察したのか、お母さんは僕の頭を優しく撫で続けた。
一ヶ月近く一緒にいた入道雲は、たったの二分で、虹を遺して消えた。生まれて初めて見る悲しい虹から、僕は目を逸らした。
「……ねぇ見て」
「いやだ」
「でも──」
「見たくない」
「違うの」
「違くない!」
「もう! 違うったら!」
意固地な僕に呆れたお母さんが僕の頭をわしっと掴んで、回れ右させながら言う。
「ほら、入道雲」
「あ……」
小さくて、人形から飛び出た綿にしか見えない入道雲が、金魚鉢の海の上に浮かんでいた。
「説明書、読んだら?」
「……うん」
説明書の一番下には米印付きで、
『成長限界へと達した入道雲は虹を残して雨へと変わりますが、その後、自動的に新たな入道雲を生み、また成長を始めます。』
と、ハッキリ書いてあった。
「良かったね」
小さな小さな入道雲の浮かぶ金魚鉢に、くすりと笑うお母さんの顔と、耳まで真っ赤な僕の顔が反射していた。
他にも『定食屋を継ぎたかった勇者』という長編なども書いております。是非ご一読ください。
第一話URL:https://ncode.syosetu.com/n7408jd/1