44:業と絆
「……もう、大丈夫だ」
少し照れを含んだ声と共に、赤嶺さんはそっと僕の肩を押す。
背中に回していた手を下すと、彼女はすぐさま僕から離れ、反対側の壁に背を付けた。
相変わらず顔を俯けているが、それでもわかるくらい頬が赤く染まっている。
気まずい雰囲気は変わらず。さてどうしたものかと頭を掻く。
今度こそ場所を変えるよう言おうと口を開くが、またも赤嶺さんの方が一瞬早かった。
「この状況は一体何なんだろうね」
「それは僕の方が聞きたいところなんですけど……」
「二神教授は僕らがスフィアを捕らえられるよう教育するのが目的だと言っていた。しかし、この状況がそこまで僕らを成長させるだろうか?」
「あ、そっちの話……」
赤嶺さんは今僕と二人で女子トイレの個室にいることはあまり疑問に感じていないらしい。まあ女性からすれば女子トイレは日常的なものだし、そこで会話するのに違和感はないのかもしれない。だとしても多少の配慮はしてほしいが。
僕のそんな気持ちは届くことなく、赤嶺さんは話を進める。
「この場が、普段の事件現場とは別次元の緊張感に包まれているのは認める。これに耐え、事件を解決することができれば、一つ高みに登れるかもしれない――だけど、それは本当か?」
「本当、ではあるんじゃないですか? 殺人鬼がいる建物に監禁され、命がけで事件を解決する。もし成し遂げられればかなりの自信に繋がりますし、実際少しのことじゃ動じなくなるでしょうから」
「そうだね。それはその通りだ。だけどその程度の効果しかないともいえる」
「それはつまり?」
「人生は連続的であり、ゲームのように一つの出来事で大きくレベルが上がったり覚醒したりはしないってことだよ」
頬から赤味はだいぶ抜けたが、彼女は僕から顔を背けている。
かくいう僕も、正面から彼女を見ることはできず、便器に目を向けているけれど。
「何度でも言うが僕はこれまでにも数多くの事件を解決してきた。事件を解決すればするほど色々な経験値が増えるし、自信もついて容易に挫けなくはなる。だけど当然、どれだけ経験と自信をつけても解けない事件は解けない。この探偵館での試練を乗り越えたとしても、それは同じだ」
「二神教授が望むスフィアを捕まえられるほどの探偵にはなれないと」
「スフィアがどうかは知らないけどね。ただ僕らが憧れる、どんな事件も解決する名探偵にはなれないって話さ」
自嘲気味に吐き捨てる。
彼女とは違い、大した実績のない僕は何も言えず次の言葉を待つ。
それを察したのか、赤嶺さんは気まずそうにガリガリと髪を掻く。そしてそっぽを向いたまま、「こんな姿を見られた後で言っても強がりにしか聞こえないだろうけど」と呟いた。
「僕にとって、今の状況は大したことないんだよ」
「それはその、説得力のないことを言いますね」
さっきあんな泣き顔を見たし、抱きしめて慰めた側からすると、流石にはいそうですねとはならない。今も頑なにこっちを見ようとしないし。
しかし冗談のつもりはないようで、「だけど事実なんだよ」と赤嶺さんは口にした。
「これまでも、事件に関わる中で命の危機に晒されたことは何度もあるし、実際に監禁されたことだって一度や二度じゃない。この状況自体は、僕にとって特別苦しいものじゃないんだ。だけど――」
赤嶺さんは一度言葉を切り、天井を見上げる。それから髪をかきあげ、「少し話は変わるけど」となぜかカッコつけながら言った。
「僕はもともと優秀でね。何をやってもそこそこ以上にできたんだ。そんな優秀な僕は、何をすれば自分の優秀さを世界に知らしめ、そして金も稼げるか考えた。その結果選んだのが探偵だ」
「随分俗っぽい理由だったんですね」
「幻滅したかい?」
「いや、今更特には」
探偵館で初めて会った時に聞いたら幻滅していたかもしれないが、彼女の自尊心の高さや功名心にはやる言動を聞いてきた今では、特に驚きもない。むしろ正義感から探偵をしているなど言われた方がよほど驚いただろう。
そんな僕の態度が気にくわないようで、赤嶺さんは「それはそれで腹立たしいね」とぼやく。しかしすぐに気を取り直し、話を戻した。
「まあとにかく、僕は自分の才能を最大限世に知らしめる手段として探偵を選び、そして実際に成功を収めてきた」
「それだけ聞くと自慢みたいでちょっとイラっとしますね」
「事実なんだから仕方ないだろ。ただ、探偵を始めた最初のうちはおおよそ理想通りに進んだが、ある程度有名になってから流れが変わってきた。
事件は解決して当たり前。
手間取ったり、事件解決までに新たに被害者が出れば、たとえ解決しても責められる。完璧に事件を解決したら、警察から何をでしゃばっているんだと敵意を向けられる。
たまに事件を解決できなければ、被害者だけでなく世間の良く知らない奴から無能だ屑だと責め立てられる。警察からはほら見たことかと嘲笑される。
事件に臨んだ時点でどんな結果を出してもバッドエンドに落ちるクソゲー。僕にとっての探偵業はそんな底辺の行いに変わってしまったんだ。しかも今更下りることも許されない。過去に事件で関わってきた人たちの人生は当然続いていく。そして彼らは、僕に探偵としての生き方を強制してくる」
「自分たちの人生に踏み込んだ責任を取れってことですか……」
「黒野君も言ってたけどね。探偵活動には明確なリスクがあり、それを受け入れられる人じゃないと続けていけない。そう言う職業なんだよ」
「……」
声はあっけらかんとしており、悲壮感は一切ない。けれどそれがより一層、彼女のこれまでの苦難を想起させ、僕から言葉を失わせた。
反応がないのを気にかけた様子もなく、赤嶺さんは「でだ。話を元に戻すが、人生は連続的なんだよ」と続けた。
「事件を解決したからと言ってそれでその物語は終わらない。今後も続いていく。むしろ事件と事件の合間の方が辛く苦しい。被害者の声、加害者の声、世間の声に向き合わないといけないから。彼らが勝手に僕という偶像に背負わせる責任を果たしていかないといけないから。
そして、僕にとってはこの探偵館での出来事は、事件と事件の合間に起きてることなんだよ。僕の意思とは関係なく、これまでの探偵人生が引き寄せた業。
人死にが出ていなかった時はまだ気楽でいられたが、いよいよ殺人まで起き始めた。つまりは、僕が探偵をするという意思に関わらず、これからはいくらでもこんな殺人が起きる異常事態に巻き込まれうるということ。今後僕の人生に安息が来ないことを察して、少し疲れが出てしまったわけなんだよ」
「……成る程。だから探偵館での事件自体は特別ストレスなわけじゃなく、泣いていた理由ではないと」
「その通りだね」
「なんというか、随分と長い言い訳でしたね。そんなに恥ずかしかったんですか?」
「その問いは人の心を軽視した最低の質問だよ」
「それはすいません」
僕はペコリと頭を下げる。まるで反省しているように見えない態度に、赤嶺さんが盛大に鼻を鳴らす。
それからお互いしばらく無言でいたが、僕はつい、クスリと笑ってしまった。
僕の笑い声が聞こえたのか、赤嶺さんは不快そうに顔を歪める。そして「笑われるようなことを言ったつもりはなかったんだけどね。それとも弱っているのが滑稽だったかい」と詰め寄ってきた。
僕は笑みを保ったまま静かに首を横に振る。
彼女には悪いが、今僕はとても嬉しくなっていた。すっかり忘れていた、非常に簡単な事実を思い出せたから。
「実は僕、姫路さんが死んだことにかなり責任を感じてたんですよ。僕なんかが出しゃばって推理して、彼女を追い詰めたばかりに、あの殺人は起きたんだって。だからもう、推理なんてすべきじゃないんだって」
「いや、それは――」
咄嗟にフォローしようと赤嶺さんは口を開くも、こちらの表情を察してすぐに口を閉じる。
天井を見上げながら、僕は続けた。
「でもそこで緑川さんに言われたんです。辛いなら、結論は後回しにしちゃえって。だから、僕はずっと推理をするかどうかから目を背けてきた。流れで推理をすることはあっても、積極的に事件を解決しようとは思ってなかったんです。
でも、今決めました。僕は推理をする。これからも探偵として活動するって」
「……それは僕への情けかい」
顔を正面にも戻すと、赤嶺さんも顔を上げまっすぐ僕を見つめていた。
お世辞にも綺麗な顔とは言えないが、先に弱音を吐き出したことで戦う覚悟が戻って来たのか、逞しさを感じさせる顔つきだった。素人からの同情はいらないと、そう訴えかけるような力強さ。
それはもともと僕が彼女に抱いていた理想の姿に近く、またも口が緩んでしまうのを感じる。
ここには、僕なんかより遥かに経験を積み、心身ともに逞しく、推理力にも長けた優秀な探偵がいる。推理をしない言い訳に使っていたが、むしろ逆なんだ。
壁から背を離し、狭い個室の中、一歩だけ彼女に近づいた。
「同情のつもりはありません。ただ、探偵の苦しみは探偵にしか分からない。探偵の苦しみを分かち合えるのは、少しでも和らげられるのは探偵しかいないんです。だから僕も探偵として戦って少しでもみんなの、赤嶺さんの負担を減らせるよう頑張りたい。そう思ったんです。
それにすっかり忘れてましたけど、この場の探偵たちは敵でも疑うべき容疑者でもない。本当は同じ苦しみを分け合える最高の仲間であり師なんです。今この場以上に、僕が遠慮なく探偵活動を行える場所なんてない。だってどれだけ失敗しても、それをカバーしてくれる、カバーできる仲間がいるんですから。赤嶺さんも、素人探偵一人の尻ぬぐいなんて朝飯前ですよね?」
「あ、ああ。それは勿論」
「ですよね。そうだ。だとすると、赤嶺さんのさっきの話も逆なんじゃないですかね」
「さっきの話?」
「はい。探偵館での事件を解決しても、名探偵にはなれないって話です」
「それはどういう……」
困惑した表情を浮かべる彼女に対し、僕は自信満々に答えた。
「これまでの探偵活動を通して、既に僕らは名探偵になるための条件を満たしている。だけど、あと一つだけ何かが足りていない。その何かを掴ませるために、二神教授はこの試練を用意したんじゃないかって」




