43:黒髪と赤髪2
緑川さんの部屋から出た僕は、少し休もうと自室に向かう。
満足感がある一方、うまいこと話しを有耶無耶にさせられたというか、結局緑川さんの意見を何も聞けてないなと気付く。僕らの中で事件解決数がトップだという彼女の実力をそろそろ見てみたい気もするのだが。
まあ無理強いは良くないなと首を振り、部屋の前に立つ。中に入ろうとドアノブを掴んだ直後、なぜか扉が内側から勝手に開き、黒野さんが姿を現した。
目の前に僕がいたことに驚き、目を見開いて彼女は固まる。
それ以上に驚いていた僕は、ほぼ思考停止で瞬きをしながら、「なんで黒野さんが僕の部屋に?」と無意識で尋ねた。
「え、、、、、、、、と、今志方さんに話があって」
「あーうん、それでどうして部屋の中に?」
「ノックをしても反応がなかったから、もしかして寝ちゃったのかなって」
「そっか……、それでどうして部屋の中に?」
「ね、寝てるんじゃなくて倒れてる可能性もあるかなって。そしたら助けないとって」
「成る程……。でもさ、そもそも僕が緑川さんに今日の経緯を話しに行ったの知ってるよね」
「ご、ごめん、聞いてなかったかも……」
「……」
これ以上話しても誰の得にもならない気がして、僕は追及を止める。
眠いから追い出そうかとも考えたが、大事な話の可能性もあるかと思い、部屋の中に招き入れた――まあ既に入っていたわけだが。
「話って何? 今しないといけないような大事なこと?」
ベッドに腰掛けた僕とは対照的に、黒野さんは立ったままもじもじと体を揺らした。
「その、さっきは成り行きで私のことを色々話しちゃったから」
「ああ、僕の部屋に呼び出して尋問しようとした時か。その件は改めてごめん。騙すようなことして」
黒野さんはぶんぶんと首を横に振って否定する。
「それはいいんです! むしろ嬉しかったので!」
「嬉しい……?」
「そ、そんなことより! 私はあの提案、まだ有効なつもりなんですけど。どうですか?」
「提案って、なんかされてたっけ?」
「協力関係のことです! 犯人を捕まえるための!」
色々と想定外のことが起きたせいで、すぐには思い出せない。十数秒考えて、ぼんやりと記憶がよみがえる。
「そう言えばそんな話もあった、かな。でも、もう黒金の策は失敗――というか一つの着地点を迎えたわけで、今更協力してもらうこともないんだけど」
「まだ犯人が捕まったわけではありません。今からでも何も遅くないかと」
「……黒野さんは、黒金が犯人じゃないと?」
思ってもいなかった言葉に、緩んでいた気持ちが正される。
彼女も僕の意識が変わったのに気づいたのか、真剣な表情に切り替わった。
「姫路さんを殺したのが彼なのかという件であれば、正直黒だと思っています。ですが、彼の態度からして、この殺人には裏があるはずです」
「事件の裏?」
「はい。彼のような頭の切れる探偵が、考えなしに人を殺すとは思えません。まして犯人として指摘され拘束されることを、大した抵抗もせず受け入れるなどあり得ない。ここまでが計算のうちだったんじゃないかでしょうか」
「捕まることまで計算のうちって、部屋に監禁されたら身動きが取れなくなるのに?」
「だからこそ、裏に黒金さんを殺害に走らせた黒幕がいると考えています。彼に皆の視線を集めさせ、陰で企みを進めているのだと」
「企みって……いや、何でもない」
反論しかけた口を閉ざし、僕は思案に沈む。
彼女の考えに対し突き詰めたい点はたくさんあるが、如何せん僕自身の考えがまとまっていない。
ここまで誰が姫路さんを殺したかについて推理してきたが、なぜ姫路さんを殺したのかについて棚上げしていた。しかし今、黒金が犯人かどうかを判断する状況で、この問題について答えが曖昧なのは致命的な気がした。
先の如月襲撃事件は、この監禁生活を終わらせるための一手だった。では、姫路さんを殺した人物の目的は一体何なのか? 仮に黒野さんが言うように黒幕がいるとして、その人物の最終的な目標は何なのか――。
黙り込んでしまった僕を前に、黒野さんは小さく息を吐く。それから、
「この事件は、私と今志方さんが解決すべき事件だと思っています。また後で会いに来ますので、それまでにどうするか決めていただけると嬉しいです」
そう告げ、部屋から出て行った。
本当に彼女がこの提案をするためだけに部屋に不法侵入したのか疑問は残るが、推理の指針を得ることができた。
誰もいなくなった部屋で、感謝の言葉を呟く。その直後、僕の脳は限界に達し、睡魔に体を乗っ取られた。
目を覚ましたのは午後四時だった。
疲れていたとはいえ随分寝てしまったものだと反省する。しかも鍵もかけずに爆睡。殺人が起きている場所であまりに無防備な状態だ。
しかしまあ、無事なのだから気にしなくていいかと切り替える。
ひとまずお風呂に入ってさっぱりしたいと思うも、あいにく部屋の中に浴室はない。軽く顔を洗い歯を磨き、最低限の身だしなみを整えてから部屋を出る。
寝すぎた影響でややぼんやりする頭の中階段を下り二階へ。
浴場に近いのは右手側の階段からだったなと歩き出したところで、女子トイレから赤嶺さんが出てきた。
なぜ部屋のトイレでなくここから出てくるのか疑問に思うも、すぐそんな思考は塗り替えられる。
目の前の彼女は、顔面がびしょびしょに濡れており、頬をしたたる水がワイシャツの首元までぐっしょりと湿らせていた。加えて目元はやや赤く腫れ――と、そこまで観察した時点で彼女とがっつり視線が合った。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔を浮かべた後、赤嶺さんは声にならない声を上げ両腕で必死に顔を隠そうとし始める。
慌てふためく彼女とは対照的に、僕は状況が分からず、止めることもせずにぼーっと彼女の姿を見つめ続けた。徐々に見るのは失礼にあたるんじゃないかという思考に辿り着き、そっと歩き去ろうと決める――が、時すでに遅し。
普段の王子様然とした優美さを完全に消し去り、恥ずかしさから真っ赤に顔を染めた赤嶺さんは僕の腕を痛いほど強くつかむ。それから無言のまま女子トイレの個室に無理やり連れ込んだ。
「いや、あの、ここ女子トイレ――」
「しばらく黙ってろ」
赤嶺さんは凶暴な声でそう告げると、荒々しく服で自分の顔を拭き始めた。
さっきから何が何だか分からない。ただ一つ間違いないのは、とにかく気まずい。
人生初の女子トイレだし。狭い個室の中に女の子と二人で入ってるし。なんか泣いてたっぽいし。
彼女の言いつけを素直に守り、黙って過ごすこと約一分。
目つきと口元だけは普段の姿に戻した赤嶺さんは、「ここで見たことは忘れること。いいね」と強気に迫ってきた。
僕が必死に顔をそらしながら何度も頷くと、赤嶺さんはなぜか顔を俯け黙り込んでしまう。
……何度でも言うが気まずい。この状況で黙られて、一体僕にどうしろというのだろうか?
取り敢えず場所を変えてもらおうと声をかける――直前に、赤嶺さんが小さく声を漏らした。
「君は、元気そうだね」
「えっと、そう見えますか?」
「ああ。随分と、余裕に見えるよ」
顔は上げず、視線だけが僕を射抜く。
これまでずっと輝き、探偵としての矜持を宿していた瞳。しかし今は濁ったどぶのような色で、見る者を絶望に引き込む闇を宿していた。
背筋がゾクリと震える。
咄嗟にこの場から離れようと体が動くも、狭い個室の中。壁にぴたりと背を張り付けることしかできない。
加えて赤嶺さんは逃げ道を塞ぐように、僕の顔の両側に両手を突き出してきた。
いよいよ身動きが取れず、冷や汗を流していると、彼女はぼそぼそと喋り出した。
「姫路君の死体を見た直後は、もっと絶望した表情を浮かべていたよね。緑川君のせいかな? 今、希望を取り戻しているように見えるのは?」
「だとしたら……何か問題がありますか?」
「あるさ。あるとも。君のような底辺の探偵が、僕よりも優秀だったら困るじゃないか」
「何を言って……」
唐突に、赤嶺さんが顔を上げる。正面から目と目が合い、僕は思わず口を噤んだ。
正面から見た彼女の顔は、今にも泣きだしてしまいそうなほど、歪んでいた。
王子様探偵としての仮面はほとんど全て剥がれ落ち、事件に巻き込まれた、ただの被害者としての顔が漏れ出ている。
薄々気づいてはいた。放送室の件で僕を呼びに来た時。部屋に呼び出して尋問した時。
彼女の顔は、声は、明らかに助けを求めていたのだから。
刹那の迷いの後、僕は彼女の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。
突き飛ばされる覚悟もしていたが、びくりと震えただけで抵抗はされず。しばらく黙って抱きしめられた後、「何のつもりだい」と弱弱しい声が返ってきた。
「今は、話すよりこっちの方がいいかなって。嫌だったら止めますけど」
「……今だけは許可するよ」
それから数分間、僕らは一言も話さずそのままでいた。




