23:疑惑と苛立ち
「どのような状況か、説明していただけますか」
中の光景に呆気に取られていた僕は、明智さんの声で我に返った。
目が見えない(ことにしている)彼女は、この状況が分かっていない。もしかしたら薄目を開けて見ている可能性もあるが、尚更人のいるこの場では、見えていないふりをしないわけにはいかないだろう。
「……キャンバスやパレットが散らばっています。それで、部屋の奥に、頭から血を流して倒れてる如月君と、その隣に立っている黒野さんがいます」
「ふむ」
明智さんは部屋の中には入らず、杖で床を叩き始める。
早くも、彼女の灰色の脳細胞は事件解明に向けて動き出しているようだ。
であるならば、僕のやることは一つ。
散乱したキャンバスや石膏像を避けつつ、如月君のもとへ。
頭から流れた赤色の血と、それに反比例するように青ざめた肌。
最悪の想像を膨らませつつ呼吸の有無を確認する。
「……息が、ある!」
意外にも最悪の予想は外れており、彼は死んでいなかった。けれど意識は完全に失っているらしく、声をかけても肌をつねっても一切反応は見られない。本来なら動かさずに救急車を呼ぶ場面だが、この場でそんなことは期待できない。危険かもしれないが、一旦ベッドまで運ぶことにした。
色々と尋ねたいことはあったものの、僕は今も無言で立ち尽くしている黒野さんに声をかける。
「黒野さん。如月君を保健室まで連れて行きたいから力を貸してくれないかな。もし難しそうなら、誰か呼んできてほしい」
「……大丈夫です。やれます」
如月君に負けず劣らず青白い顔をしているものの、意識はしっかり保っているらしい。硬い声でそう返事すると、僕と一緒に彼の体を持ち上げた。
見た目からある程度分かっていたが、平均的な男子中学生よりも遥かに軽い。そこまで力に自信があったわけではないが、隣室の保健室までなら余裕で運ぶことができた。
ベッドに彼を寝かせつけ、常備されていたガーゼを使用して止血を試みる。
そこまで勢いは激しくないが、じわじわと血がしみ込んでいく。どうやら頭を怪我してから、まだそこまで時間は経っていないようだ。
「僕が止血してるから、黒野さんはこのことを皆に伝えてきて。それと、彼を病院に連れて行けないか使用人の人に聞いてきてくれるかな」
「……分かりました」
何か言いたそうな顔をしていたが、黒野さんは結局頷いて皆を呼びに行った。
一人になった僕は、改めて今がどういう状況なのか、何が起きたのかを思考し始める。
まず、揺ぎ無い事実として、如月君が何者かに襲われた。
美術室には物がたくさん置かれているが、人の背丈より高いところに物は全くない。つまり棚にぶつかって、その上にあった鈍器が頭に落ちてきて怪我をすると言ったことはあり得ないのだ。
一応可能性として、凄い勢いで足を滑らせて思いっきり壁に頭を打ち付けた、なんてこともありえるけど、それは今は考えなくていいだろう。現場の状況も明らかに異常なわけだし。何より――
とにかく、事故の可能性は限りなく低い。となれば必然、誰かに襲われたことになる。
そして誰がを考えると、容疑者はかなり絞られてしまう。
如月君の容態を見るに襲われたのは今からせいぜい十分前程度と思われる。そして十分前と言えば、僕と、異常聴力を持つ明智さんが図書室にいた頃だ。
図書室と美術室は隣同士。万が一争う音や言い合いが聞こえたなら、僕はともかく明智さんは気づいていただろう。
彼女が異変に気付かなかったということは、その時間に彼が襲われたわけではないということ。つまり、僕らが食堂に入ったのとほぼ同時刻に襲われていた可能性が高い。そして僕らが食堂にいた時間は一分にも満たないわけで、必然、彼を襲った犯人に逃亡時間はほぼなかったことになる。
「まあ要するに、黒野さんが犯人でほぼ間違いないんだよなあ」
なんか血の付いたキャンバス持ってたし。犯行について否定する気配も助ける素振りもなかったし。
ただ、彼女がそんなことをする動機がない。パニックになって少し頭がおかしくなりかけている姫路さんならともかく、今日の授業でも黒野さんは理性をしっかり有していた。
それに可能性はもう一つある。
「これが、二回目の模擬事件である可能性……でも」
この考えは違和感が強い。模擬事件はあくまでも名探偵としての推理力を向上させることが目的。肝心の名探偵候補を被害者にするのはどう考えても本末転倒だ。
それとも、どこかこの状況に慣れ始めてしまった僕らへの、警告の意味も兼ねているのだろうか。
「いや落ち着け僕。これじゃあ推理じゃなくてただの妄想だ」
先走る自身の思考を押しとどめ、僕はひとまず如月君の止血に努めることにした。
さて、それから一時間。
如月君を除く僕ら探偵たちは、会議室に集まっていた。
会議室は、長方形のテーブルがロの字型になるよう並べられたシンプルな内装。部屋の四方に一つずつホワイトボードが置かれている以外にはこれと言って物もない。
僕らが全員席に着くと、明智さんが口火を切った。
「早速ですが、本題に入りましょう。先ほど、如月さんが何者かに襲われ、後頭部から出血する怪我を負いました。幸い命に別状はなく、今は二神さんが呼ばれた闇医者さんに看てもらっています」
今回の事件が二神教授による模擬事件なのかは分かっていないが、少なくとも教授に如月君を殺す意図はなかった。黒野さんが使用人に救急車及び医者の手配を求めたところ、救急車こそ来なかったものの、医者は呼んできてもらえた――真っ白なひげを蓄えただいぶ怪しげな医者だったけど。
「彼が意識を取り戻せば、その時点で何が起きたかは分かるとも思いますが、それでも、このような事件が起きたこと自体が大きな問題です。それゆえ、まずはっきりさせておきましょう。彼を襲った人物は、名乗りを上げて下さい」
「……」
――静寂。
明智さんの呼びかけに応じる声はどこからも聞こえず、気まずい沈黙が続く。
そうなることを予想していたらしい彼女は、「やはり、そうですか」と小さく嘆息した。
「非常に残念なことに、如月さんを襲った人物は、明確な悪意を持ってことに及んだようですね。であれば、私たちも対応を――」
「は。そんなこと分かり切ってんだろ」
明智さんの話を遮り、裏社会探偵が声を上げる。
仲間が殺されかけたというのに、彼に関しては緊張感も驚きも見られない。まるでそうなって当たり前という様子すら窺えた。
「この場にいる全員、事件現場は見てんだ。まさか気づいてない奴がいるとは言わねえよな。現場に残された真ん丸の、スフィアのマークに」
「まあ、やっぱり偶然ではないよね……」
そう。運ぶときに気付いてはいたのだが、如月君が倒れていた壁のすぐ近くに、『〇』のマークが描かれていたのだ。
それが何を意味するのかまで考える余裕はなかったものの、改めて理由を考えると、少々ヤバい事態であることには察しがついていた。
裏社会探偵は席から立ち上がると、ホワイトボードにさらさらと可能性を書き出した。
「事件現場にスフィアのマークが描かれてたってことは、ざっくり次の三つの可能性が考えられる。
①スフィアを捕まえる訓練目的で、スフィアが起こすのと同様の事件を二神が起こしている。
②二神への当てつけに、俺らの中の誰かがスフィアそっくりの事件を起こしている。
③俺たちの中にスフィアが紛れており、皆殺しを企んでいる。
つう感じだな」
「いやいや、待つでござるよ! 一つ目の案はともかく、残りの案は筋が通らないでござろう! この状況に嫌気がさしたとしても、それで仲間を傷つけるなんてそんな愚かな真似するはずがないでござる! 特に三つ目の拙者たちの中にスフィアがいるなど年齢的にあり得ぬではないか!」
「そうか? 俺はスフィアってのは、個人じゃなくて集団だと考えてるからな。別にどっちも十分あり得ると思ってるが」
「うぬぬ、集団説か……」
群青さんは悩まし気な声を上げると、眉間に皺をよせ口を噤んだ。
十年以上もの間、警察に捕まることなく殺人を続けた伝説の殺人鬼。その犯行方法や対象には一切の類似性がなく、犯人像を全く掴ませない。
この二つの要素から考えられる、最も単純にして有力な説が、『スフィア=殺人グループ説』だ。
殺人方法や対象に一切の共通点が見いだせないのは、犯人が一人ではないから。証拠を全くと言っていいほど残さないにもかかわらず、『〇』という自身の犯行を仄めかすメッセージを残すのは、世間でなく仲間に伝えるため。動機が不明な点から、交換殺人グループなのでは、という説も根強いという(群青さんが語ってくれた都市伝説級隠れ犯罪掲示板での意見参照)。
そしてこの説であれば、僕らの中にスフィア関係者や、スフィア自身がいる可能性も否定できなくなる。
「まあ、今はスフィアの正体が何かなんてどうでもいいんだがな。ひとまずは目先の事件解決だろ。つっても、犯人なんてほぼ決まってるようなもんだが。なあ、学級委員長」
「……」
裏社会探偵がわざとらしく声をかけたのは、やはりというべきか黒野さんだった。
皆には、既に彼女が第一発見者であったこと。事件発生の直前まで僕らが図書室におり、争うような音を聞いていないことは話してある。
そこから導き出される答えは、先に僕が推理したものと同じだったようだ。
「二神の寄こした闇医者の言葉が真実なら、如月が怪我をしたのは事件発覚からせいぜい三十分前。そしてそのほとんどの時間、隣室には盲目女がいて、異音を聞いていない。となれば犯人は実質一人しかいないわけだが、なんか反論はあるか?」
「……私は、気付いたらあの部屋にいたんです」
「それは、誰かに眠らされ、あの部屋に連れ込まれたということか」
裏社会探偵からの一方的な糾弾を嫌ってか、相馬さんが尋ねる。
黒野さんは青ざめた表情のまま、「はい」と首肯した。
「授業の後、喉が渇いたから食堂でお茶をもらって……。最初は何ともなかったんですけど、気付いたら眠くなって……」
「次に目を覚ましたらなぜか美術室にいて、目の前には如月が頭から血を流して倒れていたと」
「……はい。それで悲鳴を上げて、何が起きているのか確認しないとと思って近づいて」
「はん。血流した野郎見ただけで悲鳴とは随分軟弱だな。普通に探偵なんて向いてなんじゃねえのか?」
相変わらず思いやりの欠片もない裏社会探偵の言葉。
流石に言い過ぎだと、僕はむっとして言葉を挟んだ。
「探偵とか関係なく、目覚めた時に血を流した知り合いがいれば悲鳴ぐらい上げるだろ。それに彼女だって被害者かもしれないんだ。さっきから言葉が過ぎませんか」
彼は僕をちらりと見ると、小さく鼻を鳴らした。
「死体見ても冷静さを失わず事件解決しなくちゃいけねえのが探偵だろうが。何甘っちょろいこと言ってやがる。それにお前、一個勘違いしてねえか」
「勘違いって、なんのことですか」
「俺が疑ってんのはそいつだけじゃねえ。お前と盲目の二人も怪しいと思ってるし、何だったらスフィアの一員なんじゃないかって疑ってるってことをだよ」




