娘の帰り
冬のスコルティシュの日の入りは早い。
まだ16時だというのに、西の山々に隠れていく真っ赤な太陽を眺めながら、ボルドフ・フェーブルは一日の終わりを実感する。
広大な土地を照らす夕陽。
風になびき燃えているかのごとき牧草。
厩舎から聞こえてくる馬や牛、鶏の鳴き声。
今日という日が無事に終わっていくのを堪能するのが、ボルドフの日課だ。
「あら、こんな時間に誰かしら?」
後ろで妻のユリス・フェーブルが不思議そうに呟いた。
彼女の視線の先、遠い敷地の入口に、1台の馬車が止まっていた。
幌の中から人がひとり、ゆっくりと下車したのち、牧場の間の細道をよろよろとこちらに向かって歩いてくる。
「あれって、エルじゃないか?」
「あなた、よく見えるわね」
「最愛の娘なんだ。すぐにわかるさ」
ボルドフは目を輝かせ、久しぶりに帰ってきた娘を嬉々として待つ。
対してその娘は、大きな鞄を両肩に担いで、うつむきながらとぼとぼと歩いてくる。
「あら、ほんとにエルだわ」
近くにやってきて、ようやくユリスも納得した。
3年ぶりの再会を母も喜ぼうかと思ったが、
「あの子……」
母は異変に気づいた。
元気のない娘。
きっとまた冬眠準備で解雇されてしまったのではないか。
手紙のやりとりで2度解雇されたのは知っていたが、まさか今年も……。
「エル!おかえり!」
ユリスの思案を尻目に、ボルドフが弾んだ大声で迎えると、エルフィスはようやく顔を上げた。小走りに近寄ってきて、引きつった笑顔を作る。
「ただいま。お父さん、お母さん」
「エル、どうしたんだい急に。今年はなかなか手紙が来なかったから心配していたんだよ」
鈍感な旦那にユリスは気づかれぬよう小さくため息をついて、エルフィスが答えるよりも先に口を開いた。
「仕事はどうしたの、エル」
「…………クビに、なり、ました」
「そんな……また……」
横で旦那が嘆いているが、ユリスは娘の表情や雰囲気からすぐにすべてを見透かした。
「そんな大荷物で帰ってきたってことは、もう王都には戻らないってこと?実家に帰ってきたってことでいいのよね?エル」
「……はい」
「あんた、ここの仕事はしたくないって言って出て行ったの覚えてるわよね?」
「……はい」
「じゃあ、これから仕事はどうするの?こんな地方に他の仕事なんてないわよ」
「まあまあ、母さん。エルは帰ってきたばかりなんだから、中に入ってゆっくり話そうよ」
「ダメよ。これはケジメなの。この家の敷居はそんなに低くない。だからあなたは黙ってて。で、エル、どうなの?」
娘を思って間に入ったボルドフだったが、妻に睨まれ口を噤む。
母ユリスは厳しく、父ボルドフは甘い。
こうなるとエルフィスはわかっていたことだが、気持ちを奮い立たせ、覚悟を決め、母の目をしっかり見据える。
「家の仕事を手伝わせてください。もう逃げ出したりしません」
「私たちと同じだけ仕事はしてもらうわよ。いいわね?」
「はい。よろしくお願いします」
「よし!じゃあ夕飯の準備するから、あなたは手伝って!エルの部屋はそのままになってるから、また好きなように使いなさい。荷解きできたらご飯にするから」
「ありがとう、お母さん」
力なく笑う娘の背を押して、ユリスは家の中へみなを誘った。
夕食の準備を進める夫婦は、キッチンに並んで立っていた。
「ユリス、あんなにキツい言い方しなくたってよかったじゃないか」
「それではダメなのよ、ボルドフ。傷ついてる時ほど甘やかされてしまっては、女は立ち直れなくなってしまうものなの」
子供の前では『母さん』と『あなた』だが、ふたりの空間では互いに名前で呼んでいるおしどり夫婦である。
「それにしてもエルは大丈夫なのか?あの子、動物苦手じゃなかったっけ?」
「それでも帰ってくるしかなかったのでしょう。だから普通に、私たちは今まで通りに接しましょう」
「そうだね。ここはエルの家なんだし」
「そうよ。エルがいると家が明るくなるもの」
両親はとても喜んでいた。
娘が心配で仕方なかったが、やりたくないことはさせたくない。だからこそ、家を出ることを許した。
今は元気がなくとも、健康で帰ってきてくれた。
それだけで十分だ。
◇
廊下を突き当たって右の部屋。
そこがエルフィスが長らく自室としていた場所だ。
反対側は2つ上の兄の部屋である。挨拶をしようと思ったが物音がしないので、まだ仕事中なのかもしれない。
3年ぶりに帰ってきた家。家業が嫌だからと出て行ったっきり、気まずくて帰りずらくなっていた。
変わらぬ間取りに懐かしさを覚えて安心し、ゆっくり部屋の扉を閉めて、入口の壁に設置された火の魔石に触れると、部屋に明かりが灯る。
夕焼けと相まって、より赤く染まった室内。
窓際の机。
壁際のベッド。
入口脇のクローゼット。
出ていった時と、何一つ変わらない。
そして、床を1歩2歩。
歩いて気づいた。
埃ひとつない床。
皺ひとつないベッドのシーツ。
誰も住んでいなかったはずの部屋は、隅々まで綺麗に掃除が行き届いていた。
「……ありがとう、お母さん……」
あなたの居場所はここにある。
そう母が言っている気がした。
エルフィスはベッドに顔を埋め、母の愛を噛み締めた。
荷解きを済ませ、生活感が少し戻った部屋を後にして、リビングへ向かった。
廊下を歩いていると、香ばしいパンのかおりが鼻腔をくすぐり、空腹を刺激した。
「エル、ちょうどいいところに来たわね。今呼びに行こうと思ってたの」
「今日は母さん特製のクリームシチューのパイ包み焼きだよ。早く座って、エル」
ニコニコしながらエルフィスを食卓に促す両親。
椅子に座ると、目の前にこんがりときつね色の焼き目をつけてふっくらと膨らんだパイ。隣には、鳥のもも肉がドンッと一本並んでいる。
エルフィスはふと思い出した。前世のクリスマスという催事を。
「今日は何かのお祝いだったの?」
「いいや、そんなことはないよ。でも娘が帰ってきたからお祝いみたいなもんかな」
ボルドフは料理を配膳しているが、頬は常に緩みっぱなしだ。よっぽどエルフィスが帰ってきたことが嬉しいのだろう。
「さぁ、食べましょう。大地の恵に感謝して」
「恵に感謝!」
母の声掛けに、父が続く。
この世界では「いいだきます」とは言わず、何かに感謝を告げてから食べるのだ。
「感謝します」
エルフィスは内心で両親に感謝を捧げ、スプーンを持ち上げて、パイをつつく。
ザクザクと気持ちのいい音を奏でて、パイをクリームシチューに沈めていく。割った瞬間に湯気がぶわっと舞い上がり、牛乳の甘い香りが立ち込めた。
スプーンでシチューを掻き回し、具材を確認する。
鶏肉にブロッコリー、ジャガイモに人参。
底からコーンが現れた。
エルフィスは迷わず緑が映えるブロッコリーを掬い、ふぅふぅと息を吹きかけてから口に運ぶ。
牛乳とブロッコリーの甘みが口の中に広がり、冷えた体に染み渡る。冷ましたはずが、パイ包みのシチューは非常に熱い。はふはふと口の中が火傷しないように、エルフィスは懸命に転がしながら咀嚼する。
「……おいしい……なつかしい味」
ごくりと呑み込んでから、ぽつりと言葉が漏れた。
母はよく冬になるとこのシチューを作ってくれた。
何度食卓に並んでも嬉しくて、自分の大好物だったのを今になって思い出す。
お袋の味は何かと問われれば、エルフィスは必ずこのメニューをあげる。
母は何でもお見通しなのかもしれない。
向かいからパイを割る音や、スプーンが食器に当たる音など、何もしない。不安になって目線を上げると、両親はまだ料理に手をつけていなかった。何やら2人して生温い眼差しを、こちらに向けている。
「あれ?食べないの?」
「エルは絶対にブロッコリーから食べると思った」
「熱いのによく食べれるわね」
父と母が目を細めて、各々感想を口にする。
どうやら、エルフィスが食べるのをずっと眺めていたらしい。
「そう言えば、お兄ちゃんは?」
「仕事でトラブルがあったようで、まだ帰ってきてないんだ。マークのことだから心配はないだろうけど、あまり遅くならないといいんだけどね」
エルフィスの2つ上の兄マークリフ・フェーブルは、初等教育を終えた12歳のころから家の仕事を手伝っている。もう8年もここで働いているので、両親は信頼しきっているようだ。
「マークは大丈夫よ。それよりエル、朝は早いからね。4時には仕事始めるわよ」
「……4時……頑張ります」
「ねぇ、母さん。エルは半日も馬車に揺られて帰ってきたばかりなんだから、1日くらい休ませてあげようよ」
「……それも、そうね」
父の気遣いに、母は少しだけ口ごもるも理解を示した。
「ううん。大丈夫!明日からよろしくお願いします!」
しかしエルフィスは力いっぱいに拳を握り、頑張ることを宣言した。
父の優しさ、母の温もり。
それらがもうエルフィスの元気となり、明日への活力になっていた。
明日からどうなるかまだわからないけど、帰ってきてよかったと、エルフィスは心から思えた。