暗い夜が明けて
「ふぅ、やっと終わった」
ベッドに寝転び、大きく伸びをしながら発したエルフィスの声が、ひとり部屋に寂しく響いた。
あれから寮母ミカ・ジェネシーの手伝いをいつものようにして、お風呂に入り、ようやく荷造りを終えたのが今だ。
時間はすでに深夜になっていて、朝には出ていかなけれはならないため、まとめた大きなふたつの鞄は扉近くに並べて置いてある。
1年近く過ごした部屋を見回し、もともと衣類以外に大した荷物はなかったが、まるっきり生活感を失った空間に虚無を感じた。
わたしはいったい、何ならできるのだろうか。
どうすれば役に立てて、必要とされるのか。
前世でも、唐突に何度も職を失った。
会社の倒産から、社長の夜逃げ。事業縮小のため自主退職を促されたり、願われた。
バイトの時はもっとひどかった。シフトに入れる回数が日に日に減り、気づけば0になって、店長に確認を取っただけで『気に食わなければ辞めれば?』と、陰湿な解雇の仕方もあった。
今世ではその経験を活かして、必要とされるため積極的に周りの手伝いをした。多くの人との関わりで知った気の使い方や、同僚や先輩が何を欲しているのか常に考えた。
自分の中では、よく頑張ったと思う。
ちゃんと出来ていたと思う。
なのに、どうして身にならないのか。
もう仕事で悩みたくなかったのに。
この思いは、別の世界でも報われることは、やはりないのだろう。
自分はいらない。
代わりはいくらでもいる。
特別になりたいわけでもないけれど、ここにいていいと思えるくらいにはなりたかった。
どうして、たったそれだけのことができないのか。
自分に合う仕事なんて、どこの世界にもないんだ……。
ぐるぐると蘇る前世の遠い記憶と、鮮明に覚えている今世の苦い思い出が、綯い交ぜになって濁流のようにエルフィスの脳内を駆け巡った。
「家の仕事もダメだったら、どうしよう……」
こんなに落ち込んで、将来が不安になったのは初めてだった。
明るい未来が想像できなくて、エルフィスは毛布を頭から被り、現実から目をそむけるようにして、長い時間をかけて、どうにかこうにか眠りについた。
◇
早朝から寮の玄関先をうろうろとジョー・ジェラルディは歩き回っていた。すでにもう2時間近くは経過している。
エルフィスが翌朝には寮を出立するとバラバから聞いたので、早くから待機していた。昨晩にでもエルフィスのもとを訪れ、時間を確認しておけば良かったのだが、ジョーには仕事終わりにどうしても行きたい場所があった。その用事とはエルフィスへ渡す贈り物を買いに行くことだった。
ジョーはそわそわしながら、最近になって新調したジャケットの両ポケットを何度も確認する。
右のポケットには、黒色のベルベットのリングケース。中には光沢のある火の魔石を使用した指輪が入っている。
この国で火の魔石付きの指輪を送るというのは、求婚を意味する。
真っ赤に燃える炎のような愛情を内に秘めていることを示すのだ。
対して左のポケットには、小さな袋とリボンで梱包したネックレス。トップに水の魔石があしらわれていて、これは友情をあらわす。
水に流されることのない固い絆。
遠く離れようとも切れない友情を伝える庶民の習わしだ。
昨日、バラバに焚き付けられたからではないが、告白半分見送り半分の、なんとも情けない心持ちでジョーはエルフィスが出てくるのを待っていた。
日が少し高くなってきた頃、ようやく寮の玄関が開いた。
「エル。気をつけるのよ。あたしもここで頑張るから、王都にきたら顔出してね」
玄関先から、寮母ミカの声がした。
エルフィスのお見送りだろう。
ジョーは慌てて塀に身を隠し、息を潜めた。
「短い間でしたが、ありがとうございました。大変お世話になりました」
いつもの明るいエルフィスの声を耳にして、ジョーは少しだけ安堵する。
なにせ、唐突な解雇で退寮なのだ。
エルフィスが落ち込んでいるのではないかと心配していたので、贈り物をふたつ用意した。弱っているエルフィスに漬け込むような真似はしたくない。最後になるかもしれないので、元気そうであるならば、勢いで告白してしまってもいいだろう。そう考えていた。
トントンッと、小さな足音が近づいてきて、横を通り過ぎて行った時、ジョーはエルフィスの背中に声を投げかけた。
「おはよう。エルフィス」
いつも職場で見るエルフィスは髪をひとつに結んでいるが、今日は下ろしていた。毛先がややはねた感じは変わらないので、見慣れてはいないがホッとした。
くるりと体を翻したエルフィス。
こちらの存在に気づくと、いつものパッと花が咲くような快活な笑みを見せた。
「おはようございます、ジョーさん。あれ?お仕事の時間ではないのですか?」
「半休をもらったんだ。エルフィスの見送りをしたかったからさ」
「嬉しいです。わざわざありがとうございます」
ジョーは彼女の顔を見て、自分の軽率さを悔いた。エルフィスの目の下には、くまが薄ら浮かんでいた。常日頃から薄化粧の彼女だが、昨日までそんなくまなどなかった。
きっと眠れなかったのだろう……。
泣いていたのかもしれない……。
前向きで、言葉遣いが丁寧で、清く明るいのが常のエルフィスでも、突然の解雇はさすがに応えた。夜な夜な悩みながら荷造りをしたに違いない。
ジョーは自分の迂闊さに、右ポケットをジャケットの上から強く握りつぶした。
「実家に帰るんだって?バラバ工房長に聞いたよ」
「すみません、ちゃんと挨拶もせずに……」
「仕方ないよ、急だったわけだし。エルフィスが謝ることじゃない」
「そんなことありません。わたしが何の役にも立てなかったのが悪いーー」
「それは違うよ、エルフィス」
堪らずジョーはエルフィスの言葉を遮った。
それ以上は辛くなりそうで聞きたくなかった。
「僕ら班員はずっと君に助けられてきたし、ずっと君を頼ってきてしまった。もっとエルフィスが自分自身に時間を割けれれば、こんなことにはならなかったと思う。すまない、僕がしっかり管理できていれば……」
「……ジョーさん」
左のポケットをまさぐり、ジョーは手のひらに載せた小袋をエルフィスに差し出した。
「これは班のみんなからだ。僕らはエルフィスを大切な仲間だと思ってる。これからの活躍をみなが祈ってるよ」
「えっと……もらっていいんですか?」
「もちろん。もらってくれないと、僕がみんなから怒られちゃうからね」
今のエルフィスには、みんなからだと言うのがいいと、ジョーは咄嗟に判断した。
彼女の『何の役にも立てずに』というような自分を卑下する癖を、ジョーはすっかり失念していた。
下心を込めた物など、エルフィスは絶対に受け取らない。自分にはもったいないと、頑なに断る未来が容易に想像できた。
「開けても、いいですか?」
おずおずと尋ねてくるエルフィスに、ジョーはできるだけの笑顔で頷いた。
「わぁー!とっても可愛いです!今つけてもいいですか?」
「……もちろん」
一瞬、つけてあげる。と言いそうになった。
もう下心は封印したはずなのに、それをすぐさま解いてしまいそうになったのは、今目の前にいるエルフィスの表情のせいだ。
嬉しい時に本当に嬉しそうに笑う太陽のような笑顔に、ジョーは惚れたのだ。
差し入れでお菓子を渡せば、もらった瞬間にあけて、『おいしー』とびっきり美味しそうに頬を緩めて食べる。
夏場に冷たいジュースをあげれば『つめたーい』と額にあてながら、だらりとした顔になる。
礼儀正しいのに時折垣間見える天真爛漫なところが、ジョーは大好きだった。
エルフィスの首元でネックレスが揺れた。
トップの水の魔石は一滴の雫のように象られていて、光に照らされて水色にキラキラと反射する。
「ジョーさん、ありがとうございます!みなさんにも感謝をお伝えください」
「喜んでくれてよかった。とてもよく似合ってるよ」
「ふふっ。本当に……嬉しいです」
「……エ、エルフィス……どうした?」
突然、エルフィスの頬を涙が伝った。
ジョーは慌ててハンカチを取り出し、エルフィスに渡した。もしかしたら自分が泣いてしまうかも、と思って用意しておいたものが役立った。
「あっ!すみません!つい、嬉しくて」
「いや、いいんだ……大丈夫かい?」
「わたし、職場の人からこういう形で何かをもらうのが初めてだったので、とっても嬉しいんです」
エルフィスのいう『こういう形』とは、きっとクビになった後に、ということだろう。
そう悟ったジョーは腹を括った。下心は完全に捨てた。
「エルフィスはずっと僕らの大切な仲間だ。君がいてくれると心強かった。何より楽しかった。今日まで本当にありがとう」
「……こちらこそありがとうございました」
嬉しそうに、どこか満足気に笑うエルフィス。
その頬を伝う嬉し涙は、首元で煌めくネックレスよりも綺麗だと、ジョーは心から思った。