最後の寮生活
工房を後にしたエルフィスは寮へ帰宅した。
玄関をくぐって食堂へ顔を出すと、キッチンで夕食の準備を進める寮母が忙しなく働いていた。
「おかえり、エル。今日は残業なかったの? いつもより早いじゃない」
エルフィスを一瞥しても手を止めることなく料理を続けているのは、寮母ミカ・ジェネシーだ。
長い青髪を高い位置で結って、紺瑠璃色の切れ長の目が強い女性を印象付けるとともに、内面も負けず劣らず勝気である。
寮母と聞くと年配を想像しがちだがミカはまだ25歳で、エルフィスと歳もそう遠くないことから愛称で呼び合うほどに仲がいい。
「ただいま、ミカさん。あのですね……わたし、クビになっちゃいました」
トントントンッと子気味よく鳴っていた包丁が、ぴしゃりと止まった。
ミカはささっと手を洗い、大雑把にタオルで拭いて、エルフィスの肩をガシッと掴んだ。
「嘘でしょ?! あたしの仕事増えちゃうじゃん!」
「えっ……そっちの心配が先ですか?」
「冗談に決まってるでしょ! エル、ちょっとこっちおいで」
ミカは冗談だと笑って言ったが、エルフィスには本音と建前の半々に聞こえたのは無理もない。
2人が仲良くなれたのは、エルフィスが仕事帰りでも寮母として朝から晩まで頑張るミカの手伝いを買ってでたのがきっかけだった。
男だらけなので放ったらかすとすぐに不衛生になりがちな寮全体の掃除に、汚れた大量の作業着の洗濯。朝晩の栄養を考えた食事管理に支度など、エルフィスは自分の仕事に支障の出ない範囲でできる限りミカの手伝いをしていた。
それに、エルフィスにはミカのような強くて明けすけな女性がいて何より安心できたので、大変な手伝いではあっても楽しく快適に生活できていたのだ。
縦長の食卓に互いに座って、ミカは盛大なため息を吐いてから、眉間を指で押さえた。
「あのバカ社長……もう我慢ならない」
「ミカさん!誰かに聞かれたりでもしたら大変ですよ」
「いいのよ。どうせ、辞めてやる!って思ってたんだから……エルが入寮してくるまではね」
「……ミカさん」
ミカは給料の良さで寮母としての仕事を始めたが、休み無しの重労働に、1年前は辞めようとしていた。
そんな時、エルフィスが入寮してきて、大変助かったのを今でも忘れていない。
真面目で気の利くエルフィスを、妹のように可愛がりながらも結構頼っていたので、彼女がいなくなると考えただけで元の激務が嫌になる。
それに何より、ミカはエルフィスと一緒にいる時間が好きだった。エルフィスからはいつも元気がもらえて、なぜだか体が軽くなる。
「次の仕事どうするの?」
「……ここの仕事を見つけるのにも一苦労で、次が見つかるかどうかわからないので……実家に帰ろうと思っています」
「あんた、動物嫌いなんじゃなかったっけ?」
ミカはエルフィスの実家が畜産農家で、動物に苦手意識があることを知っている。
「嫌い……ではないんですが、苦手?」
「どっちも一緒だって。そう言えば聞いたことなかったけど、何で嫌いになったの?」
「……」
エルフィスは黙り込む。昔を思い出して、言いにくそうに目線を逸らすと、ミカは詰め寄った。
「そんなんで、実家でやっていけんの?それとも地元で別の仕事探すわけ?」
「小さな村なので、家業以外の職に就いている人はほとんどいません。ですから……実家の仕事を手伝うほかないと思います」
「なら、なおさら嫌いな仕事なんて無理じゃないの。嫌だから実家を飛び出してきたわけなんだし」
「……その通りですが」
実家のあるスコルティシュという町は、緑豊かな田舎だ。ひとつひとつの家の敷地が広く設けられ、ほとんどの家が農業に従事している。王都から馬車で半日と、そう遠くないので出荷先に困ることはなく、災害の少ない地域でもあるので安定した、悪く言えば代わり映えのしない生活を送っている。
家業以外に仕事はなく、王都も近いことから若い衆は出稼ぎに行くことも多い。
「で、何で嫌いなのよ?」
ミカの追撃からエルフィスは逃れることができそうにない。
「エルはあんまり愚痴とかも吐かないし、最後くらい胸のうち晒してみたら?そしたら案外すっきりして、前向きに帰れるかもよ」
確かに、ずっと燻っていたものを口にしてみるのもいいかもしれない、とエルフィスは思った。
それにミカの言う『前向きに帰れる』という言葉は頷けた。やる気がなければ、きっと母は許してくれないだろうから。
それはさておき、動物が苦手になった理由は実際たいしたことではないので、エルフィスはただただ恥ずかしいだけなのだが。
「あの、笑わないでくださいね?」
「もちろん!」
にこにこと元気よく答えたミカ。
笑う準備万端のようだ。
「地元の初等部に通っているとき、クラスの男の子に『お前ん家、う○こ臭い』とずっとからかわれていたんです」
「……畜産農家なら仕方ないじゃない」
「子供のいたずらだとわかってましたが、6年間言われ続けるとさすがにへこみました。しまいには『お前の体臭が臭い』と変換されていました」
「それって、男子にありがちな好きな子や可愛い子にちょっかいかけるみたいなもんじゃなかったの?」
意外にも、本当に笑わずに聞いてくれたミカに、エルフィスは驚きつつも思い返しながら答える。
「それはありませんね。わたしは全然可愛くないですし、町一番の美人と呼ばれる子がいつも隣にいましたから」
ヴェライズと話している時にも思ったが、外見は普通だと自負している。
今も地元にいる幼なじみは、子供の頃から本当に美人だったので隣にいた自分はモブもいいところだった。むしろ美人の横ではブスに見えたかもしれない。
「ふーん。でもまあ、あんたがそう言ったことを気にするなんて意外だわ」
ミカの言葉に、エルフィス自身も頷く。前世の記憶があって、精神年齢なら同級生とは比べものにならないほど歳をとっているはずだ。なのに、いまだにトラウマのように抱えているのだから、自分もまだまだ子供なのだと気落ちする。
「情けない話をしました」
「いいじゃない。いつかきっと、笑い話になるわよ」
ニカッと快活に笑う寮母の前向きさを見て、ここでの生活が快適で安心だったのは彼女のおかげだと、改めてエルフィスは実感した。
「ねぇねぇ、エル。あたしもあんたの実家で雇えないかな?」
「はい?何を言ってるんですか、いきなり」
「あたしもここ辞めたいー!」
この会話の着地点はここだったのか。
エルフィスは呆れながらも和やかに答える。
「まだ親に何も言ってないですし、そもそもわたしが働かせてもらえるかもわかりませんよ」
「やだやだー!エルと一緒にいたいー!」
急にだだをこね始めた年上女性に、エルフィスは困惑するも誠実にミカの目を見返す。
「仕事があるうちは、体を壊さない程度に働いてください。もしクビになったら、ダメもとでうちを訪ねてきてください」
「……そうね。そうする」
エルフィスという少女はこういう子だった、とミカは反省した。
愚痴や弱音のひとつも吐き出させて、前を向く活力を与えてあげたいと思ったのだが、かえって気を使わせ、現実を突きつけてしまったようだった。
「さあ、ミカさん!夕飯の支度、手伝いますから終わらせてしまいましょう!」
「そうね!いつもありがとう、エル」
「……はい。頑張りましょう」
ミカから何気なく言われた『いつも』という言葉が、エルフィスの脳内に残響した。
今日で最後なのだと、痛く身に染みた。




