【イラスト付き】失恋令嬢はお仕事に生きるッ……つもりでしたが、恋愛おまけ付きでした
誤字脱字報告、いつもすみません、本当に助かります。ありがとうございます!
(ご感想・ご評価・レビューなどもいつもありがとうございます)
前書きとして一言:イケメンが仕事に絡んだら、それだけで頑張れる……と開き直った作品です……
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これはあの日の記憶。
バラ園の茂み。あなたは珍しい色の薔薇に触ろうとして棘で指を切った。私は慌ててハンカチであなたの指を覆う。棘なんてたいしたものじゃないから傷口はすぐにふさがった。だけど真っ白なハンカチには一点の赤い染みがくっきりとついた。あなたは困った顔をして「新しいハンカチをプレゼントするから」と汚れたハンカチをポケットにしまおうとした。でも私はプレゼントという言葉に恐縮して「気にしないで。これはただのハンカチだから」とハンカチをさっと奪い取った。ちょっと気恥ずかしかった私にあなたは優しく微笑んだっけ。
それは何ともないただの日常の一コマだった。
ただあなたの横にいると少しドキドキして、何かをしてあげたい気持ちになるだけ。
洗濯してもハンカチには茶色い染みが残った。別にハンカチは他にもたくさんあるから、わざわざ染みのついたハンカチを使う理由もなく、そのハンカチは奥にしまい込まれたままになった。私もすっかり忘れてしまっていたし。
やがてあなたがあんなことになり私の前からいなくなって、それでも私は気丈に振る舞っていたけど、それからふとした時にそのハンカチが奥から出てきた。
「このハンカチなんだっけ」と広げたら茶色い染みがついていた。「ああ、あの時の」と思い出してから急に胸が締め付けられた。……思い出すものなのね。
今は茶色いうすぼんやりとした染みも、あの時は鮮やかな赤だった。
今もこうしてたまに夢に見る。そうしてあなたを失ったことを再確認する。
だからどうというわけじゃないんだけどね。私だってとっても忙しくしているし。
でもやっぱり切ない。あの時の気持ちは本当だったから。
◇
父親の書斎に呼び出されたブレイクスピア伯爵家の一人娘、ステファニーは、話を聞いて面食らった。
父ブレイクスピア伯爵に「コンウォール侯爵家からモレールダ地方のブドウ畑を買わないかと打診された」と相談されたのだ。
「モレールダ地方? たいしていい話に聞こえませんけど」
とステファニーは即答したが、父は困った顔をした。
父はため息をつきながら
「そうなのだが、コンウォール侯爵家は少しお金に困っているようでね。いい返事をもらえると嬉しいと念を押された」
と言い添えた。
父ブレイクスピア伯爵は昔コンウォール侯爵から進退を迫られる場面で世話になったことがあり、多大な恩があったのだ。
ステファニーは呆れた顔をした。
「では私に相談する必要もないではありませんか。断れないのでしょう」
そして同時に絶望的な顔をする。
モレールダ地方のブドウ畑かあ……。それを押しつけられるとは(しかもこっちがお金を払って!)だいぶ厄介な……。
「いや……絶対に断れないというわけでもないのだ」
そう言いつつ、父はかなり弱気だ。
「そりゃ買い取ったせいで家が潰れるとなれば断れるだろう」
「ほら、そういうレベルですよね」とステファニーはため息をついた。というか『家が潰れる』……実際なくはないぞ。
『ブドウ畑』というと聞こえはよいが、モレールダ地方のブドウ畑には問題があった。
モレールダ地方というのはワインの一大産地! 一帯が大規模なブドウ畑となっていて、ここのブドウは品質も良く『モレールダ地方のブドウ』というだけで値が付いたものだったが、最近は見たことのないブドウの病気が広がってたいして収穫できない状態になってしまっているのだ。現時点ではおそらく利益を出せていないんじゃないかと思えるほど。
モレールダ地方はこれまでずっとコンウォール侯爵家に多大な収益をもたらしていたのだが、数年前から徐々に広がり始めたこの病気に打つ手がなく、今となっては収益が出ないどころかむしろお荷物(赤字)になっている可能性がある。少々経営難に陥っているコンウォール侯爵家からしたら、「ここまできたら、もう売ってしまえ」ということなのだろう。
しかし、そんな惨憺たる状況のブドウ畑だとしても『モレールダ地方のワイン』という強力なブランド名は残っているわけで、ステファニーの父が買い取るとしたら、どれだけ値切り交渉をしたところでかなりの額を要求されることは間違いない。
しかも、買い取った後も問題は山積みだ。
これからブドウの病気をなんとかして、病気にやられた畑のブドウを根こそぎ除いて、また新しいブドウを植え直して……必要なら土地を改良して……、とやっていたら安定した品質のブドウが収穫できるまでどれくらいかかるだろう。そもそもまた良いブドウが穫れるようになるかも分からないのだ。いっそ何もしない方が損失が増えなくていいかもしれないとまで思えてくるほど。
……だが、実際はそんな弱気なこともたぶん言わせてはもらえないだろう。ブドウ畑はこの地方の産業の要なのだ。再建しなければ地方の産業が丸々一個つぶれることになる。だからそうならないように責任をもって再建しなければならない……。
さて、そうすると立て直しにいくらかかる? その人件費は?
かなり悲観的な状況だ。
だが、もちろん全てが呆気なく簡単にうまくいくかもしれない。
ブドウの病気は解決法がさくっと見つかり、新しく植えたブドウはぐんぐん育ち、なんなら枯れかかったブドウも一気に元気を取り戻して植え直す必要がないかもしれない!
そうなればステファニーのブレイクスピア伯爵家としては労せずとも『モレールダ地方のワイン』を丸々手に入れることができ、かなりの事業になることが想像できる。
ステファニーはここでまた大きくため息をついた。そんなにうまくいくわけはない。
そして恨みがましい目で父親を見た。
「ちょっと規模が大きすぎる話ですわね。一地方再建のお話ではないですか。たいへんですわよ、お父様、本気?」
「そうだよ。だから相談しているんじゃないか」
父ブレイクスピア伯爵は気弱な声で答えた。もちろんステファニーに相談する前に、名だたる事業家や銀行家、専門家にも相談した。だが答えは……『前途多難』。……少なくともコンウォール侯爵家はこの未知の病に太刀打ちできなかったのだから『甘い見通しは禁物』。だから買うとしたら家の没落も見据えた相当な覚悟が必要で、一人娘のステファニーにも確認を取るべきだと思ったのだった。
ステファニーは父の顔を鋭い目つきで見た。
「相談ねえ。私が断れと言ったら断るんですか?」
「そうだな、断るよ。おまえに従う」
父ブレイクスピア伯爵はしおらしく答えた。
ステファニーは父の言葉に少しイラついた。
「私に丸投げってことーっ!?」
父は慌ててかぶりを振った。
「あ、違う違う! 私の考え抜いた結論は、もうどっちに転んでもいいってことなんだ」
「だから、それって私に決断を投げたんでしょーっ!」
ステファニーは責任の重さに宙を仰いだ。
◇
とまあ、そんなこんなで、それからステファニーの毎日はブドウ漬けになった。毎日毎日ブドウの人と会い、お金の人と会った。父も同席していてくれたが、父は最終判断をステファニーに委ねると決めてからは、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔をしている。
ステファニーはそんな父に渋い顔を向け、父がそんな態度なら断ってしまえと思ったが、まあこういう話はあまり感情的にならない方が良い。考えても仕方のない父のことは頭から締め出し、また「買う? 買わない?」を頭の中で繰り返す。
うまくいったら多大な利益が出る。でもうまくいく保証はないし、少なくともかなりの苦労を背負むことになる。そんな博打は敢えて打たなくてもよい気がするが……ただそうすると父に「恩人に報いられなかった」と後ろめたい思いをさせることになる。(というか父は買う気だ。ただ私がこの事業の立て直しにどれだけ本気になれるかを見極めているだけな気もする)
「やってみて失敗したらそのときよ」と言うには……歴代ご先祖様の肖像画の顔が怖い……。
来週には、ブレイクスピア家の資金力のおかげで伝手ができた外国の銀行家が視察に来てくれることになった。その銀行家がブドウの病気の第一人者と呼ばれる外国の専門家を紹介してくれ、わざわざ外国から訪ねてきてもらう段取りになっているし、外国の新しい品種のブドウの苗木も取り寄せた。とりあえずやるのなら少しでもうまくいきそうな方法を考えるしかない。
こんな感じでステファニーはブドウで頭がいっぱいだ。
麦わら帽子をかぶって自らブドウの苗木を植えているところを夢でまで見るようになったころ、ついにステファニーは張り詰めた糸がぷつんと切れた気がした。
「やってられるかーっ! 私はお年頃の令嬢だっつの。お父様も私もそこんとこ忘れすぎだわ。今日は暴飲暴食、ぱーっと舞踏会で踊り明かしてやるっ! 誰か~!!! 今日開かれる予定の舞踏会、知ってる~?」
ステファニーが急に大声をあげたので、侍女たちはびくっとなって顔を見合わせた。
ふさぎ込んでいたと思ったらついにストレスで狂った!?
侍女たちが「誰か舞踏会調べて!」とざわめきだしたのをよそ目に、ステファニーはまだ掌を握りしめてしょうもない一人芝居を続けていた。
「ってゆかコンウォール侯爵家にはイケメン令息がいなかったっけ? 婚約者がいようがいまいが関係ないわ、イケメンて評判なら今日くらいダンス相手してもらわなくちゃねっ!」
連日根詰めてきたから、爆発した後の気が大きいこと。
「っていうか、婚約者って何だーっ!? 他人様んちに厄介な土地売りつけようとして、自分は美人な婚約者でもいるってか!? 世の中不公平だろーっ! こっちは売れ残りかかってるっていうのに!」
さらにステファニーのやっかみが噴出する。
ステファニーはかつての婚約者を思い出した。身分年齢共に釣り合いの取れた青年、ネイサン・ロズウェル伯爵令息だ。
お互い大事に思っていて礼を欠かしたことはないと思っていたのだが、この婚約者、ある日急にどこぞの男爵令嬢とふらっと消えた。ネイサンの方は書置きとかは何も残さなかったが、一緒に消えた男爵令嬢が「駆け落ちします、探さないでください」と書置きを残していた。
ネイサンの実家のロズウェル家も、ブレイクスピア家も、駆け落ち令嬢の男爵家も皆が総出で捜索を出したが、結局見つからなかった。
正直、ステファニーは打ちのめされた。何が何やら理解が追いつかず、ブドウの酒樽に自分が押し込められたような、先行きの見えない息苦しい思いにしばらく悩まされた。
ステファニーの方はネイサンを心から慕っていたから。
でもまあ、こんなどうしようもない現実、ステファニーは受け入れるしか方法がない。そしてそれ以来できるだけ考えないことにして、何かと忙しくするようにしていた。
今もまた思い出しかかって、ステファニーはぶんぶんと首を振った。
「違う違う、思い出しちゃいけないことは思い出さないこと! え~っと私はイケメンが好き、イケメンが好き、イケメンが好き……(念仏)。そうよ、だから、今日はイケメンにちやほやされましょ! そりゃ少し色気が足りないけど、胸元の開いた服だって着ちゃうんだからね。私だってイケメンが大好きなんだから! ああ、イケメンが私を取り合ってケンカとかしてくれないかしら。なんならストーカーとかだってされてもいい! 残念ながら地味過ぎてセクハラの一つも受けたことないけどっ!」
ストーカーもセクハラもないに越したことないのに、婚約者の一件以来男性にご縁がなさ過ぎたせいか、なんか変な方向に拗らせてしまっているステファニーだった。
そのときステファニーは(自分的に)いいことを思いついた。
「ああ、そうよ。コンウォール侯爵んとこのイケメン令息の顔見て決めよう、ブドウ畑。タイプだったら買う、タイプじゃなかったら買わないっ! イケメンに恩を売ることくらい許してよね」
これは完全にやけくそだ。
ここんとこずっと難しい顔をしたオトナと顔を突き合わせて、甘くない未来(ブドウ畑の)を語り合っていたのだ。
もはや、ステファニーには「こんな決め方をしては、一生懸命相談に乗ってくれた専門家さんたちに申し訳ない」という冷静さは残っていなかった。
とそのとき、まるで神様が見ていたかのようなタイミングで、父ブレイクスピア伯爵がステファニーの部屋に入ってきた。手には何やら華やかな招待状が握られている。
「コンウォール侯爵家からの舞踏会の招待状だ」
ブレイクスピア伯爵は苦い顔をしていた。コンウォール侯爵家からはブドウ畑の件で再三の返答の催促が来ていたが「まだ検討中」と答え続けていたのだ。この招待状はしびれを切らしたコンウォール侯爵家がブレイクスピア伯爵を呼び出す口実だ。面と向かって圧力をかけようとしているに違いない。
が、予想外にステファニーはにっこにこだった。
「あ、お父様、ナイスタイミングぅ♡ 行くわっ!」
てっきりステファニーは「直に呼び出しか、困ったわね」とでも言うかと思っていたので、ブレイクスピア伯爵は意外な反応に呆気にとられた。
◇
「お父様、ブドウ畑、買わないことにする……」
コンウォール侯爵家の舞踏会会場にて、ステファニーは横に立つ父ブレイクスピア伯爵に向かって、小声で、だけれどもはっきりと言った。ステファニーの視線は、少し離れたところで美しい令嬢を数人侍らせ談笑しているコンウォール侯爵家の嫡男、ヘンリーにしっかりと注がれている。
「はい?」
父ブレイクスピア伯爵の方は娘が急に何を言い出したか意味が分からず、困惑して聞き返した。
「だから。モレールダ地方のブドウ畑よ。コンウォール侯爵家から買えと頼まれたやつ」
ステファニーは遠くのヘンリーから目を逸らして言った。その目にはがっかりの色が漂っていた。
父ブレイクスピア伯爵は声が上ずっていた。
「は? なぜ今その話? っていうか、買うのやめるって?」
ステファニーは至極真面目な顔で父親を振り返った。
「お父様。コンウォール侯爵のイケメンご嫡男様が思ってたのと違うので、この取引辞めます」
「イケメンご嫡男様? おまえ何の話をしているんだ?」
しかしステファニーは父ブレイクスピア伯爵の質問には答えず、失望の色を隠さないままくるりと踵を返して舞踏会会場を後にしようとした。
だって違うんだもの。
コンウォール侯爵のイケメンご嫡男、ヘンリー殿は全然タイプじゃない。
ネイサンは黒髪だった。ヘンリーは金髪。ネイサンは少し癖のある長い髪を後ろで束ねていた。ヘンリーは短い巻き毛。ネイサンはがっしりとした長身だった。ヘンリーは長身は長身でも体の線が少し細い。ネイサンは優しい微笑を湛えていて控えめだった。ヘンリーの笑顔からは自信が満ち溢れていた。
こういうときに、ステファニーは元婚約者のネイサンを思い出してしまうのだった。
ネイサンの一件以来、そりゃまったくそういう話がなかったわけではない。でも、たまに舞い込んでくる婚約打診について、話ばっかりは「いいお話ね」とステファニーも熱心に聞くのだが、いざお相手を見ると一気に気持ちが萎えてしまってお断りする、ということがずっと続いていたのだった。
どうもこびりついた染みのように、ネイサンの面影がステファニーの胸の内でちらつくのだった。
ステファニーは心の中で首を振った。
そりゃ、コンウォール侯爵のイケメンご嫡男って言ったってさ、別にヘンリー殿とどうにかなろうなんて思ってたわけじゃないし。婚約者がいるかどうかも知らないし、あんなに美人の令嬢に囲まれちゃってるしさ。イケメンならダンスしてもらおうかと思ってたけど、でも、全然ダンスしてもらいたいと思わなかったんだもの。
『タイプだったら買う、タイプじゃなかったら買わない』で言ったら、これは全然『買わない』だわ。
そう、ステファニーがため息をついたときだった。
「やあっ! 来てくれたのかい?」
と野太い声がした。恰幅の良いコンウォール侯爵だった。
ステファニーとブレイクスピア伯爵が振り返ると、コンウォール侯爵は両腕を広げた。
「来てくれて嬉しいねえっ」
口元は笑顔だが、目は全然笑っていない。
ステファニーは儀礼的に丁寧に挨拶をした。
その少し愛想のない感じを父ブレイクスピア伯爵は少しハラハラした顔で見ていた。
コンウォール侯爵はわざと威圧するように胸を張って
「ブレイクスピア伯爵、モレールダ地方の話は考えてくれているかな?」
と聞いた。
「はあ。考えてはいますよ。でもなかなか簡単に答えが出ませんで。なにせ我が国の傑物コンウォール侯爵ですら手放そうとなさる土地ですから」
ブレイクスピア伯爵は恐縮して背を丸めながら答えた。
コンウォール侯爵は意地悪くステファニーの方を見た。
「君がブレイクスピア伯爵の相談に乗っていると聞いたよ。女ながらにたいへんだねえ」
その口ぶりには「女のくせにでしゃばるな」というニュアンスが滲んでいた。
ステファニーはムッとした。
「一人娘ですし。結婚も叶わぬかもしれないので、将来を思うと私にとっても大事な決断なのです」
コンウォール侯爵はさらに意地悪そうな顔をした。
「ああ、そうだったねえ! 君は確か婚約者に逃げられたんだよねえ? 可哀そうにね。それからずっと縁がないのかい?」
ステファニーは腹が立ったので厭味を言った。
「はあ。コンウォール侯爵のご子息とはわけが違いますのでね。おモテになりますよねえ」
そのときステファニーの背後から声がした。
「僕がなんだって?」
コンウォール侯爵のイケメンご子息、ヘンリーだった。
「おおっ」
コンウォール侯爵は自慢げに声をあげた。
「ヘンリー。こちらの令嬢がね、おまえがモテると褒めていたよ。一曲踊って差し上げたらどうかな」
「いりませんっ!」
ステファニーは「厭味が通じてないっ」とぎょっとして慌てて断った。
しかしヘンリーは自信満々にニコニコしている。
「なんだ。踊ってほしいの? 仕方ないなあ、いいよ、一曲ね」
「いやっ、私は……」
固辞しようとするステファニーをヘンリーは無理に腕を引っ張って舞踏の輪に連れて行く。
ちょうど新しい曲が始まるところだった。
ステファニーでも聞いたことのある流行りの音楽家のワルツだった。
ヘンリーは得意満面の顔をしてステファニーに微笑みかけた。
その自信たっぷりの態度にステファニーは仕方なく観念して、いやいやながら一曲踊ることにした。
ヘンリーのパリッとした真っ白な手袋。微かに揺れる妖艶な香水の匂い。ステファニーは思わず誘われるようにヘンリーの首筋に目が行った。少し筋張った男の人の首筋。……今も思い出すネイサンの首筋とはだいぶ様子が違うけれど。髪の毛の襟足が一部かかってダンスの動きに合わせて揺れていた。
発色のよい上等な上着はヘンリーの顔を華やかに際立たせ、優美な笑顔が舞踏会の光を受けて眩しかった。
確かに、イケメンと騒がれることはある。
軽い足取りで刻むワルツのステップ。
ダンスに合わせて二人とも少し息が弾んでいた。うっすら汗ばんで頬がピンクになっている。
そのときステファニーのステップが少しずれて、ヘンリーの肩に預ける白い手に少し力が入った。ヘンリーは微笑んで、そっとステファニーの腰を支えた。
「だいじょうぶ?」
ステファニーは思わず恥じらうように微笑むと、ヘンリーは耳元で甘く囁いた。
「こんなに控えめに可愛らしく踊る人は初めてだよ。ねえ。僕たち、息ぴったりだと思わない?」
ステファニーは少し甘い気分だったのだが、その言葉に思わずぎょっとして仰け反った。
「思いませんっ!」
「ええー」
ヘンリーは残念そうに口を尖らせた。
「なんだよ、けっこう君のこと気に入ったのに。ブドウのこと抜きにしてもさ」
ステファニーは余計に冷静になった。
「何それ。あなたブドウの件で私を誑かす気だったの」
ヘンリーは笑った。
「まあね。堅実で働き者の令嬢のおかげでブレイクスピア家は資金たっぷり。その金でブドウ畑を何とかしてもらって、何とかなったら取り戻す気でいた。モレールダ地方はうちの代名詞でもあったしね。君が僕を好きになってくれればそれもありでしょ?」
ステファニーは呆れた。
「それ、思ってても言う?」
「素直なのが僕のとりえ」
「本当、失礼な親子ね」
ステファニーは憤慨した。
「そう言いつつ、みんな僕を好きになるんだよ」
ヘンリーは屈託なく笑った。
「おあいにく様……」とステファニーがつんと言い返そうとしたとき、ヘンリーが
「しっ」
と唇に指を当てた。
ヘンリーはニヤリと意地悪そうに笑った。
「逃げるかい? それでもいいよ」
「逃げる? 何のこと?」
「モレールダ地方のことさ、ステファニー嬢。どうする? 君の手には規模が大きすぎるかな?」
ステファニーはカチンときた。
これは挑発だと頭ではよく分かっていたが、親子ともどもステファニーを面と向かってバカにしてきたコンウォール侯爵家!!!
やってやろうじゃないの、ブドウ畑。何とかしてブレイクスピア伯爵家の一大財産にしてやるっ!
「いいわ、ヘンリー殿。ブドウ畑、買わせていただくわ。でもあなたのことは何があっても好きにはならない」
ステファニーはきっぱり言い切った。
ヘンリーは少し残念そうな顔をした。
「買ってもらえるのはありがたいけど、その捨て台詞は心外だなあ」
◇
さて、あれだけ散々専門家さんたちに相談に乗ってもらっていたのに、こんな理由でブドウ畑を買うことになった恥知らずのブレイクスピア伯爵家だったが、買うと決めてからはかなり本気で取り組もうと心を入れ替えた。
ステファニーとしては「なぜあそこで挑発に乗ったか」と夢でまで後悔することもあったが、まあもともと父ブレイクスピア伯爵は情だけで十分買う気だったし、そもそもあれだけステファニーも悩むということは買うことも想定内だったわけで、これは既定路線だったと言えなくもない。
ステファニーは開き直るしかなかった。
「ごめんなさい、ご先祖様……。頑張ってダメだったときは、愚かな私を許してください」
そうして、かねてからの予定通り、外国のブドウの病気の第一人者が訪ねてきてくれるという日。ステファニーが今日こそブレイクスピア家の命運の日とばかりに気合を入れていた日。
別の意味で予想外のことが起こった。
その外国のブドウの病気の第一人者であるバスティマン博士が、変な人を連れてきたのだった。
それは、ステファニーの元婚約者、ネイサン・ロズウェルだった……。
応接室に入ってきたネイサンを見て、ステファニーは完全に固まってしまった。
あの茶色い染みのついたハンカチを奥から見つけ出したときのような……。
ブレイクスピア伯爵も意味が分からないといった顔をした。
目を見開き一言も発しないステファニーの代わりに、ブレイクスピア伯爵は胸を落ち着かせて聞いた。
「ネイサン・ロズウェル殿。なぜあなたがここに?」
するとネイサンはきょとんとした顔をした。
ブレイクスピア伯爵はネイサンの顔に戸惑った。
「え?」
するとバスティマン博士が怪訝そうな顔をした。
「うちのテリーとお知り合いですかな?」
「テリー?」
ブレイクスピア伯爵は聞き返す。
慌ててテリーと呼ばれた青年が答えた。
「すみません。私は昔の記憶がなくて。どこぞのブドウ畑で倒れていたところをこちらのバスティマン博士に拾っていただいて、今はテリーと名乗って助手をしています。もしかして、昔の私を知っていらっしゃるのですか?」
バスティマン博士は不思議そうな顔をしたまま頷いた。
「確かに。テリーを拾ったときに国内では知り合いを探してみたが、外国とまでは思いつかなかった」
ネイサンと呼ぶべきかテリーと呼ぶべきか、その青年は自分の記憶に残っている部分を断片的に話し出した。
着ていた服からたぶん裕福な家の出なのだろうと思う。何か用事があって誰かと一緒に馬車に乗っていた時に盗賊か何かに襲われたようだ。抵抗したからかだいぶ痛めつけられていた、記憶がないのはそのせいかもしれない。気が付いたときには荷馬車に括りつけられて山道を移動していた。そのときにきれいな女性が一緒に乗せられていた。「あなたは関係ないのにごめんなさい」と女性は何度も謝っていた。自分の記憶がなくなっていたのでその女性に自分の素性や事情を聞きたかったが、あっという間に自分だけ荷馬車から降ろされ、山道から谷筋へ身一つで落とされた。谷筋だったのは不幸中の幸いで沢沿いに下って人家を探したが、山が開けたところで力尽き倒れたらしい。気が付いたらそこはブドウ畑の真ん中にある農民の家だった。拾ったはいいがどうしようと困っている農民に、たまたま視察に来ていたバスティマン博士が「私が面倒をみる」と言ってくれたらしい。
「はあ……」
ブレイクスピア伯爵は驚きすぎて、何と答えてよいものか分からず絶句した。
盗賊……? その荷馬車の女性は……例の男爵令嬢かな?
が、ブレイクスピア伯爵は少し気を奮い立たせるとこちらも説明した。
「君は、こちらにいる私の娘の元婚約者、ネイサン・ロズウェルという男に大変良く似ている。が、似ているだけで本物かはもちろん分からないのだが」
「本物ですわ……」
ステファニーがやっと絞り出すように声を出した。
「耳にあるほくろの位置が……首筋のほくろも……」
ブレイクスピア伯爵はステファニーを振り返った。
「本当かい? よく覚えているね」
「ええ……」
ステファニーは青い顔をしたまま答えた。
「何より私の勘が……」
それからステファニーはネイサンにゆっくり近づいた。
「覚えていませんか、私のこと」
ネイサンはステファニーをじっと見つめた。
「ええと……」
ネイサンが戸惑っていると、ステファニーはそのままそっと顔を寄せてネイサンに口づけた。
……ああ、ほら、唇の感触も、ネイサン。この人は絶対に本物……。
ブレイクスピア伯爵がたまげた。
「こらっ! ステファニー! はしたないっ」
が、そんなブレイクスピア伯爵をバスティマン博士がそっと止める。バスティマン博士はネイサンの様子をじっと観察していた。
ネイサンはステファニーの顔をじっと見ながら、今触れたばかりの唇に指を当てた。
「もしかして、ステファニー……?」
ネイサンがかすれ声で呟いた。
ステファニーはパッと顔を輝かせた。
「そうよ、ネイサン。思い出してくれたの」
「あ……ああ!」
ネイサンは力強く頷いた。
「まだ頭の中に霧がかかっているようだけど。君という人がいたことは思い出せた」
「おおいっ! 医者を呼べっ! ロズウェル伯爵にも連絡を」
ブレイクスピア伯爵が部屋の外に控えていた執事に向かって大声を上げた。
執事は「はい」と短く返事をすると大慌てで走り去った。
バスティマン博士はほっとしたようにため息をついた。
「これはめでたい話だね。まさかブドウの話をしに来て助手の素性が分かるとはね。今日はブドウの話って気分じゃないでしょう。日を改めましょうかね」
「あっ」
ステファニーは抗議の声をあげようとした。ブドウの病気も大懸念事項だったから。
が、バスティマン博士はにやりと笑った。
「しばらく滞在させてください。そのブドウの病気、こちらで研究する気なんで。大丈夫、絶対その病気、対抗策を見つけ出しますから」
◇
ステファニーは相変わらずブドウの件で忙しかったのだが、隙あらば記憶の戻ったネイサンといちゃいちゃいちゃいちゃしていた。
ステファニーとしては「もう離しません」というつもりだった。
ネイサンもキスで記憶を取り戻したというおとぎ話のような展開に感動していた。「これこそ本当の愛だ!」とばかりに。
ネイサンの実家のロズウェル家も大喜び。
悪評高い「モレールダ地方のブドウ畑」を買った事には眉を顰められたが、ブドウの件がなければ息子を見つけることができなかったかもしれないということで、もうあんまりとやかくは言わなかった。
そして、ステファニーとネイサンが仲良くしている様子を見て、婚約を結びなおすことを素直に喜んだ。
ネイサンがいなくなってからロズウェル伯爵家は弟が家を継ぐことが決まっていたが、ブレイクスピア伯爵家がネイサンを婿養子に強く希望したので、そこもあまり問題にはならなかったし。
というか、もともとネイサンが「駆け落ち騒動」をやらかして婚約が解消された手前、あまりロズウェル家には口を出せる要素がなかった。
その「駆け落ち騒動」だが、ネイサンの記憶が完全に戻って真相がはっきりした。
ネイサンが男爵令嬢と駆け落ちというのは完全に間違いだったようだ。ネイサンは本当にただのとばっちりというか……。
たまたま夜に軽装で馬車を走らせている男爵令嬢を見かけて、帰宅途中のネイサンが「盗賊とかいるし危ないですよ」と声をかけたのが発端らしい。男爵令嬢は泣きながらほぼ身一つで「駆け落ちするのっ! 愛する人と一緒になるの」と喚き散らしていたらしい。なんでも好きでもない男と結婚させられる前夜だったとかで。
それでも夜道が危なかったので、ネイサンが馬車に乗り込んで説得していたところ、ネイサンの警告通りに盗賊に遭遇した、ということだったようだ。
外国とまでは思っていなかったので、このネイサンの説明を受けた男爵家がもう一度捜索したところ、その国の田舎の豪農で娘の教育係にと買われた男爵令嬢を発見したらしい。
まあ、あの手この手で男爵令嬢は連れ戻すことができ、ネイサンのロズウェル伯爵家にはひどく恐縮した謝罪が何度もあった。
さて、こんな事情があったためステファニーとネイサンの婚約の話は王宮中の噂になった。
悔しがったのはコンウォール侯爵とその息子のヘンリーだ。
まあ、あんなブドウ畑を言い値で押し付けておいて悔しがるも何もないのだが、外国の銀行家や、その銀行家の伝手でやってきたというバスティマン博士という存在を聞いて、急に惜しくなったらしい。
もともと「モレールダ地方」というのはコンウォール侯爵家の祖先の出ということもあって、一応コンウォール侯爵家が優先する土地の一つではあった。
コンウォール侯爵の息子ヘンリーはそういう意味でステファニーを手籠めにする気はあったのだ……。
だから、どこぞの舞踏会で、ヘンリーはステファニーを待ち伏せてみた。
「ステファニー嬢、あんな駆け落ち男やめときなよ。僕の方がいい男だろ」
「やめませんわ。あなたこそ何。あなたのこと好きにならないって言ったでしょ」
ステファニーはきつく言い返した。
けれどステファニーはハッと気づいた。
「あ、でも、あのときあなたが挑発してくれなきゃブドウ畑は買わなかったし、買わなきゃネイサンと再会できなかったもの。あなたには感謝しなくちゃね!」
「何それ」
ヘンリーはすごく嫌そうな顔をした。
「僕が君らを取り持ったって言うの」
「そうよ! 皮肉ね」
ステファニーは笑った。
「それにネイサンはバスティマン博士の助手もしていたから、軽い専門家みたいなものよ。モレールダ地方のブドウ畑は何とかするわ。うちの一大産業にしてみせるから見てなさい」
そこへネイサンがやってきた。
「ごめん、ステファニー、挨拶で遅れた……って、何? ヘンリー殿」
ネイサンは胡散臭そうな顔でヘンリーを見る。
「いや別に」
ヘンリーはバツの悪そうな顔をした。
ネイサンはにっこりした。
「噂で聞きましたよ。こないだステファニーとダンスしたんですってね。でももうステファニーのパートナーは誰にも譲るつもりはありませんから。私の婚約者ですので」
ヘンリーはもう何も言わずに背を向けて歩き去って行った。
ヘンリーの歩く先の美人令嬢たちが、「ヘンリー様よ」とキャーキャー騒いだ。
「相変わらずモテるね」
とネイサンは呟いた。それから少し心配そうに聞いた。
「どう、彼のダンス、良かった?」
ステファニーは笑って首を振った。
「ううん。全然。ネイサンの方がずっといい」
ネイサンはステファニーの言葉に安心したように微笑んだ。
ステファニーは
「これ」
と言ってハンカチを差し出した。
「何これ」
ネイサンは条件反射的にハンカチを受け取った。
「あなたの血がついてるの」
ネイサンはぎょっとした。
「え!?」
ステファニーは笑った。
「驚かないで。昔のかすり傷のよ。もう洗ってある。でも落ち切らなかったの。あなたがいなくなって、このハンカチ、捨てるかずっと迷っていた。見るたび苦しくて」
「じゃあ捨てなよ。新しいハンカチをプレゼントするから」
ネイサンは困った顔をして、汚れたハンカチをポケットにしまおうとした。
ステファニーは微笑んだ。
「あはは。あの時と全く一緒だわ。本当に変わらないわね。良かった」
そしてそのハンカチをもう一度ネイサンから奪い返した。
「そうよね、これはもう本当にただのハンカチになったわ」
「?」
ネイサンは意味が分からないといった顔をした。
ステファニーはもう一度微笑んだ。
これはただの日常の一コマ。あなたがいる、幸せな日常の。
もうこのハンカチを見て苦しむことはない。
「よし、がんばろーっと!」
ステファニーは一気にいろんなことにやる気が出て、隣にいるネイサンの腕に満面の笑顔でぎゅっと抱きついたのだった。
最後までお読みくださいましてありがとうございます!
たまにはお仕事に悩む女子を書いてみたいなと……思ったけど、この時代のお仕事ってなんだ!?(汗)勉強不足、すみません。
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すみませんが、よろしくお願いいたします。