第二百四十四話 100万分の1の確率
それを最初に発見したのはアメリカの研究所だった。
直径約300m級の小惑星が地球軌道と交差する可能性が高いと発表され、その小惑星はアドベルコフトゥスと名付けられたのだ。
何度も観測を繰り返し軌道計算を重ね、地表から約4万km外を通過するとの予測が発表される。
人工衛星が存在する静止軌道付近を通過するとあって、一時は衝突するかもしれないと世間を騒がせたが、衝突確立は100万分の1以下と実質的に衝突の可能性はゼロとされ、一部の天体ファン以外の話題には上らなくなっていった。
そう、この時までは――――
春近と栞子の静かなるヘンタイな戦いは続いていた。
次々と繰り出される栞子の特殊攻撃により、春近はどんどん追い詰められていった。
「だ、旦那様……もう、そろそろ折れてくださっても宜しいのでは?」
「栞子さん……栞子さんの方こそ、オレの話を聞いてくれよ」
あの後も、栞子は隠密スキルで何度も部屋に忍び込み、いつの間にかタオルがパンツに変わっていたり、目を覚ましたら至近距離からジッと見つめられていたりと、何度も地味に怖い攻撃を受け続けていた。
顔を洗っている内に素早くタオルとパンツを交換してしまう為に、春近は何度もパンツで顔を拭くことになってしまう。
最初はダメージを受けていた春近だったが、段々とクセになりパンツで顔を拭くのが当たり前の日常になりつつあった。
もう、立派なヘンタイさんである。
「栞子さん! もう一度話し合おう」
「嫌ですわ! 答えは常に『ハイかイエス』しかありません! わたくしも島に連れて行ってくれない限り、旦那様のフェイスタオルは永遠にパンツですわよ!」
「ううっ、地味に嫌過ぎる……」
春近がパンツの恐怖に震えていると、天音が近寄って来て耳元で囁いた。
「ハル君、そんなにパンツが好きなら、お姉さんのをあげようか? ハル君は、どんなパンツが好きなのかな?」
「あ、天音さん……そ、そんな急に言われても……天音さんのパンツ……黒のレースのも素晴らしいし、赤のセクシーなのも……でも、肌触りを考えると綿の割合が多いタイプの方が……って、オレは何を言っているんだ! ダメです、ダメです! そんなヘンタイなことは!」
「うふふっ、ハル君、無理しなくても良いんだよ。ハル君が言ってくれればぁ、私はな~んでもしてあげるからぁ」
「な、な、何でも……ごくりっ」
「ちょっと、そこ! わたくしと旦那様の邪魔をしないでくださるかしら!」
突然割り込んで来た天音に邪魔されて、栞子がプンスカ怒り出す。
「旦那様は、永遠にわたくしのパンツを穿いて、私のパンツで顔を拭くのですわ!」
「ええ~っ、ハル君はぁ、栞子ちゃんの地味なパンツよりぃ、私のセクシーで大人っぽいパンツの方が好きみたいだよぉ」
栞子と天音が睨み合う。
「ぐぬぬぬぬっ」
「うふふふふっ」
「あ、あの……重要なのはパンツじゃないんだけど……」
途中から栞子と天音の不毛な戦いになってしまった。
クラスメイトが聞いたら、まるで春近がパンツフェチのように聞こえてしまうだろう。
そんな不毛な戦いが行われている教室に、ある男の叫びが響いた。
「な、なんだと! なんてことだ!!!!」
突然菅原が大声を上げたのだ。
あまりの声の大きさに教室内が静まり返る。
「おい、菅原……どうかしたのか?」
「つ、土御門……ボクが前に話した小惑星のことを覚えているか?」
「ああ」
「それが……その小惑星アドベルコフトゥスの軌道が変わって、地球に落下する可能性が極めて高くなったそうだ」
「は? いや、でも……落下といっても大したこと無いんだよな?」
「この大きさの小惑星が直接落下したら都市を消滅させるだけのエネルギーはあるはずだ。アメリカ政府の発表によると落下予測地点に日本が含まれていると……」
「えっ…………」
静まり返っていた教室が、菅原の話を聞いた生徒たちの声で騒然となる。
もう、次の授業どころではなくなり、皆がネットやテレビ中継を見たりして、ちょっとしたパニックになってしまう。
SNSなどのネットも繋がり難くなり、デマや不確かな情報で埋め尽くされる。
中には東京に落ちるとの真偽不明の情報が拡散され、彼方此方で混乱が生じているようだ。
春近はアリスたちと合流してテレビの前に集まり、緊急速報を流しているチャンネルをつけた。
画面には慌ただしく人が行き交う報道センターからの緊急生放送が流れている。
女性アナウンサーが次々寄せられる資料を手に、緊急ニュースを伝えていた。
『小惑星アドベルコフトゥスですが、何らかの理由でいくつかに分裂した為に軌道が変わり、その一つが地球の軌道と交差する可能性が極めて高いとのことです』
画面が切り替わり専門家の解説が入る。
『他の天体との衝突などにより壊れやすくなっていた可能性がありますね』
『あ、今、新たな情報が入りました。アメリカ総合宇宙センターの軌道計算によりますと……えっ、あっ、失礼しました。軌道計算によりますと、落下予測地点は日本の関東近辺になる可能性が高いとのことです」
アナウンサーが明らかに動揺した表情で伝えている。
『今、国会で動きがあったようです。中継です!』
総理大臣の菅山首相が映る。
去年のクーデター騒ぎの時に首相だった安芸新次郎首相は、事件後に危機管理能力や説明責任を追及され辞任し、代わりに菅山和義官房長官が総裁選で勝利し総理大臣になる。
スピーチやパフォーマンスが得意な前首相と違い、実直で無口なな実務タイプで仕事は真面目だがトークは苦手だ。
『総理! 落下地点は確定したのですか? 対策はどうなっているのですか?』
記者が一斉にマイクを向ける。
『ただいま情報を精査中でありまして。現在検討中であります』
『いつまで検討してるんだ! 隕石が落下したら責任取れるのか!』
『説明責任を果たせ!』
『危機管理体制はどうなってるんだ!』
『ソーリー、ソーリー、ソーリー!』
『ですから、対策を検討中でありますので……』
ガーッ! ガーッ! ガーッ!
皆、殺気だって大混乱になっている。
『野党の国家労働党代表波野氏の談話が入りました』
画面が切り替わる。
『この国難の状況に於いて、今の菅山内閣では対処できないと分かりました! 今こそ政権交代するべきです! 私たちが政権をとれば、前首相の『美しい桜の国構想不正資金問題』を追求することをお約束します』
野党第一党の代表が政権交代を訴える。
『ええ…………一度スタジオにお返しします』
報道センターのアナウンサーが戸惑いながら続ける。
スタジオでお馴染みのキャスターやコメンテーターが映し出される。
『やはり、美しい桜の国資金疑惑の解明は最重要ですよね』
『そうですね。このような国難の時こそ政治とカネの問題を』
ちょっとテンパってしまったコメンテーターたちが、政治とカネの問題を語りだす。
「ええええっ! ちょっと待て、それ今必要? 隕石落下で死ぬかもしれないのに……」
「人は緊急事態に陥ると正常化バイアスという認知特性になり、自分だけは大丈夫だと脳が勝手に判断してあり得ない行動をしてしまうそうです」
春近が画面に文句を言うと、アリスが説明してくれる。
なおも熱く議論するキャスターやコメンテーターに、突然アシスタントの女性アナウンサーがキレた。
『ちょっといい加減にして! いつまでくだらない話をしてるの! 今は大災害が起きるかもしれない重大な事態なのに! もう、旧態依然とした番組や偉そうな男社会の局にも結論ありきの報道にもうんざり! ちょっと、あんた退いて!』
どんっ!
『うわっ』
女性アナウンサーが大御所キャスターを席から除けて、自分がキャスター席に入った。
何処かで見た事があると誰もが思ったが、例のクーデター事件でテレビ局が占拠された時に、銃を向けられても最後まで言論の自由を訴えた女性アナウンサーだった。
発砲されて最後は屈してしまったのだが、普段偉ぶっている他の関係者が逃げ惑う中、最後まで銃の前に立っていた胆力は賞賛に値するだろう。
『皆さん、落ち着いてください。先ず命を守る事を最優先しましょう。落下予測地点が判明したら、その地域の住民は速やかに避難をしましょう』
目を丸くして固まっている大御所たちを尻目に、国民に対して落ち着いた避難を呼びかけている。
春近は、一度テレビから視線を外し、彼女たちの方を向いた。
皆、心配そうな顔をしている。
「わ、私の空間支配の呪力で守れば……」
ルリが怯えた顔で呟く。
「た、確かに酒吞さんの空間支配の呪力は強いですが、有効射程はそれほど広くないですし、もし直撃を受けたら……巨大隕石は音速の何十倍のスピードで飛来し大気圏で超高温になって落ちてくるのです。そのパワーは核兵器の何十倍から何百倍……」
杏子が説明を加える。
「ルリ、大丈夫、オレが付いてるから」
「うん……」
春近はルリの手を握った。
そして、ルリだけでなく杏子やアリスなど彼女たちの顔を見つめる。
どうする――
まだ正確な落下地点は公表されていないけど……
逃げるといっても、俺たちだけなら何とかなっても、ここには妹もいるしクラスメイトを見捨てるわけにもいかないし……
でも、オレが彼女たちを守らないと。
ちょうどその時、春近たちを呼び出す学園の放送が入った。
落下まで残り少ない時間の中、陰陽庁が正式に鬼神王と鬼の少女たちに対し、落下する小惑星を迎撃できないか依頼を出したのだ。