第一章 勝気な魔法少女は今日も平和に悪を滅ぼす - 7
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夕方。空腹で目を覚ました明星は目をこすりながら起き上がり、カーテンの隙間から差し込む切ない色の夕日に目を細めた。少し眠って勉強するつもりが完全に寝過ごしたことを理解した彼女は、特に罪悪感に駆られることもなくベッドから降りて廊下に出た。スパイスの効いた香りが鼻孔をくすぐる。ぐぅ、と腹が情けない音を鳴らした。
リビングに向かうと、既に父とパタろんが食卓についていた。カウンターキッチンの向こうでは、母が白いお皿に豆腐ステーキを盛りつけている。
「お、匂いを嗅ぎつけてきたな~」
「明星ちゃんは本当に食いしん坊さんだね」
デリカシーのない男一人と雄一匹に小馬鹿にされ顔が熱くなる。
「べ、別にいいじゃない! ママの豆腐ステーキ美味しんだから!」
父は、「ママの豆腐ステーキが美味しいのは認める」といって頷いていた。
「あはは、そんなにムキにならないでよ。さあ、食べよう」
パタろんはテーブルの上で、耳のような翼のような部分を楽しそうにぱたぱたとはためかせていた。
「はーい、今日も腕によりをかけて作りましたからねー」
母がショートボブの茶色い髪を揺らしながら食卓に夕食を並べた。皆で手を合わせて食前の挨拶を済ませた後、明星は銀色のスプーンで豆腐ステーキを掬って口に運んだ。
唐辛子が効いた塩辛さの中に果物の甘みが潜んだソースの味は、明星が二番目に好きな味だ。もしもお袋の味はなに?と聞かれたなら、彼女はまっさきにこの豆腐ステーキを答えるだろう。ちなみに彼女の一番の好物はプリンである。
食事を始めてほどなくして、父が口を開いた。
「明星、冬休みの勉強はどうだ?」
その言葉に豆腐ステーキを運ぶ明星の手が止まった。
「え、えーっと。まぁ、ぼちぼちかなぁ」
「嘘ばっかり」
食卓の上で直に豆腐ステーキを食べていたパタろんが呟いた。明星の向かい側に座っている母は、困ったような顔で頬に手を添えた。
「あら、ダメじゃない明星。ちゃんと大学まで卒業するって約束でしょ?」
「それはそうなんだけど……。だってほら! 私、魔法少女のお仕事あるし!」
「それは言い訳だよ明星ちゃん。明星ちゃんは魔法少女である前に学生なんだし、しかももう高校二年生なんだからそろそろ真面目に将来について考えなきゃ」
「将来のこととか勉強も大事だってわかってるけど、だってまだ悪の組織を壊滅させてないんだもん……」
尻すぼみに語気が小さくなる明星。中学一年生の頃からブラックサーカス団との戦いに明け暮れてきた彼女は、気づけば十七歳になっていた。同級生たちはすでに受験を意識し始め、学校でも進路希望を聞かれるようになってきた。
けれど明星は、いまいち自分の将来についてはっきりとした目標をもつことができないでいた。それはもちろん、ブラックサーカス団を壊滅させるという目標を達成していないから次の目標を掲げることができないとも言える。しかし、彼女自身が勉強の大切さという物を理解していないことも大きな原因の一つだった。なぜ勉強するのか。
それは目的を達成するため。では目的が無い人はなんのために勉強をすればいいのか。それが彼女にはわからない。わからないからやる気がでなかった。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、父は唸りながら腕を組んだ。
「俺も昔は悪の組織の幹部だったからわかるが、あのブラックサーカス団とか言う若造の集りはなんだか異質だな」
父は短く刈り上げた髪を撫でながら呟いた。過去の情景を思い浮かべているのか、遠い目をしている。髪を撫でる手には、うっすらと、髑髏のような痣がある。かつて父が所属していた悪の組織のシンボルマークだ。
明星は勉強や将来のことではなく、話題が悪の組織に変わりそうな雰囲気を感じて食卓に身を乗り出した。
「でしょ!? どうすればいいのかわかんないの!」
「いや、どうすればいいとかそれ以前に、あいつら悪の組織でもなんでもないんじゃないか? わざわざ明星が懲らしめる必要なんてないと思う。しかもうちのお得意様だし、あんまりあいつらとばかり関わってないで、そろそろ自分のことを考えるべきだろう」
容赦のない正論にぐうの音も出ない。表向きは悪の組織を名乗っているが、ブラックサーカス団の実態は悪の組織風のイベント業者であることは世間に知れ渡っている。
市民に害の無い悪の組織。それなら明星が自分の時間を削ってまで相手をする必要はない。父の意見はもっともだった。
「そうねぇ、私が中学生の頃に戦った組織とは雰囲気が違うものねぇ。トゲトゲしていないって言うか、あんまり酷いことをする人たちには見えないわねぇ」
「明里ちゃんが戦ったのはかなりの武闘派だったと思うよ。僕も何度もピンチになったし、正直明里ちゃんが勝てたのは奇跡だと思った」
「ちょっとパタろん。余計な事言わないで」
皿に残ったソースを丁寧に舐めとるパタろんに鋭い視線を投げかける。母の勝利が奇跡だと言われて腹が立ったわけではない。単純に、この話から始まるであろう両親の話を聞きたくないだけだった。
「あら、私は勝てると思ってたわ。悲しいこともあったし、辛くて泣いた日もあったけど、でもこの人と出会えたんだもの。負けるはずないわ」
母はぽっと頬を赤らめて、父の袖を掴んだ。明星はスプーンを口に咥えたまま、また始まった、と心の中で呟いた。勉強についてチクチク言われるのも嫌だが、それと同じくらい両親ののろけ話も嫌だ。普段は親という性別を超越した存在が、急に生々しい男と女に見えてしまう。明星はそれが嫌だった。
特に近頃は学校でも、彼氏ができたとか、どこそこにデートに行ったとか、お医者さんごっこはセーフとか、幼児退行はアウトとか……。
いまのところ恋愛に関してそれほど興味もなく、寝る前にちょっぴり素敵な妄想をするくらいの明星にとって、生々しい性に関する話題は苦手だった。
「はっはっは! いやーあの頃はいろいろと無茶したもんだ! 不死山の山頂から星をぶっ壊す装置を発動させようとしたり、一万倍の濃度の花粉を撒き散らす杉を植えようとしたこともこともあった! そのたびに君が妨害しにきて、戦って、そして、惹かれ合ったんだ」
父は母の手を握って、白い歯を見せて笑った。見つめあう二人を、明星はうんざりした様子で眺めることしかしない。もはや口を挟んでも無意味だなんてことは、とうの昔に学んでる。
「ねえ覚えてる? 私が滝つぼに落ちた時、あなたが助けてくれたこと」
「祖蛾峡でのことか? もちろん覚えているとも。あの時はもう、君が好きだった。原発を奪おうとして訪れた浜丘砂丘で、爆発するロボットから脱出に失敗した俺を手当してくれたあの時から、俺は君の虜だったのさ」
「あなた……」
「明里さん……」
熱っぽい空気が豆腐ステーキの香ばしい匂いに混じって、明星は胸やけしそうな思いだ。
「ねえ、娘の前でそういうのやめてよ。……ごちそうさま」
明星は空になったお皿をキッチンシンクへ置いて、早足で自室に向かった。パタろんも食卓から飛び降り、後ろからついてくる。
明星はベッドに倒れ込み、しいたけに顔を埋めたまま動かなくなった。彼女の頭の傍で、パタろんも足を折って座った。
彼女は両親から発せられる熱気に耐えかねていた。同時に、羨ましいとも思っていた。
先代の魔法少女である明星の母、明里は、魂の解放を願う集団【スピリタス・アポカリプス】と呼ばれた悪の組織と戦い、勝利した。
日夜激闘を繰り広げ、傷つき、倒れながらも懸命に戦う姿は、多くの人々から応援されたという。気弱で心優しい母にとって、世界の命運を賭けた戦いに身を投じることは心が押しつぶされそうなほどの重荷だったに違いない。
ところが当時高校生であり組織の幹部でもあった父が母に恋して寝返った。二人は助け合い、愛し合い、ついに悪の組織を壊滅させたのだった。それが今から三十年前の出来事だ。
二人は長い交際期間を経て結婚し、明星が産まれた。父は実家である豆腐屋を継いで地道に働き、母は魔法少女だった頃の自伝本を複数出版して家計を支えている。
特殊な家庭で育った明星だったが、家庭の事情以外では特に変わったところもなく、すくすくと成長した。
そんな彼女に運命の日が訪れたのは十三歳の誕生日だった。その日、それまでずっとただのペットだと思っていたパタろんが突然しゃべりだしたのだ。
彼は人類の危機を察知すると魔力が解放されて、知能が上昇する。それだけではなく、魔法少女の力を授けるなどの特殊な能力に目覚める。
彼から魔法少女の力を受け取った明星は、同時期に悪の組織を公言したブラックサーカス団と戦うことになった。ところがその悪の組織は良識ある人々の集りだったために、父や母が語ったような戦いなどとは無縁の、ある種お遊戯じみた日々が始まったのだった。
最初は裏があると怪しんでいたパタろんも、明星が中学を卒業した頃には危機感が薄れ、今では共に戦場に赴くことすらしなくなった。中学生の頃に募った仲間も、今では各々個人的な理由によりちりぢりになっている。
明星の両親は彼女のことを幸運だと言う。けれど当の本人は、そう思えなかった。血沸き肉躍る戦い。深まっていく仲間との絆。熾烈を極める激闘の果てに手にする勝利。もしかしたら自分がピンチに陥った時に、謎の美青年が颯爽と登場してロマンスが始まるかもしれない。
それら幼い頃に描いていた様々な理想が、敵が善良というだけで脆くも崩れ去っている。
戦えば必ず勝つし、今日は例外的に追い詰められたが、基本的にはこれといって苦戦もしない。人質は自ら体験したい人を集めたボランティアなので早急に助ける必要もない。さらに襲撃はインターネットの公式ホームページやWEBラジオで告知される。
こんなにもいたせりつくせりな状況ではピンチになんてなりようもないので、当然ながら謎の美青年も登場しない。誰も不幸にならないし、何も壊れない。むしろ経済を回しているのだから社会に貢献している。それが悪の組織、ブラックサーカス団。
悪の組織と謳ってはいるものの、世間からは単なるイベント業者だと思われている。そんな彼らの相手を魔法少女がすることに意味があるのか。明星はもう何度目かもわからない疑問が浮かぶ。
答えは結局、ずっと夢見ていた魔法少女でいたいから、という答えに帰結する。
「ぐげぇえええええぇぇぇっぷ……。ねえ明星ちゃん、勉強しなくていいの? 課題、たまってるんでしょ?」
重低音の響くげっぷに思考を遮られる。彼女は、酷く不快な気分になりながらのっそりと立ち上がり、ベッドから降りた。
「うるさいなぁ。今からするの! ていうかそんな愛くるしい見た目でおもーいげっぷしないでよね!」
「ごめんごめん。僕これでも百歳くらいだからさ。仮に三十路がオッサンだとしたら僕は三倍くらいオッサン濃度が濃いんだ。オッサン道三段ってわけさ」
「オッサン濃度とかオッサン道ってなによ……まったく」