エピローグA 春の訪れ - 2
二十分後。彼女が辿り着いたのは、エドガワ区にあるエターナルレクリエーション公園。四つの噴水を取り囲むように植えられた色とりどりの薔薇は甘い香りを放ち、雪のような斑点を持つモンキチョウや、七つの星を背負ったテントウムシに琥珀色のごちそうを振舞っている。いつの間にか風は凪いでおり、陽光の暖かさが周囲の気温を上げていた。
スターライトは薔薇の香りを楽しもうと小さな胸を大きく膨らませる。鼻孔を抜ける香りは、頭の奥をぼんやりと熱くさせ、宙に浮いているかのような不思議な感覚にさせる。
本来、観光シーズンの五月。この公園は大勢の人々で賑わっているはずだ。ところが今は不自然なまでに人気がない。目を凝らして周囲を見ると、花壇の裏や噴水の隅に無数の黒い影が見えた。
「そこにいるのはわかっているわ。出てきなさい!」
マジカルステッキを構え、目つきを鋭くさせたスターライト。緋色の瞳には、「今日もボコボコにしてあげるんだから!」とでも言いたげな意思が宿っている。
どこからなにが飛び出してくるかわからない緊張感に、スターライトは生唾を飲み込んだ。
そんな彼女の予想を超えて花壇の奥から飛び出してきたのは、歌だった。サックスやフルートの音色が、春風と共にスターライトの肌を撫でる。ブラックサーカス団の社歌だ。
「え、なにこれ?」
いつもなら花壇から黒タイツたちが躍り出てくるはずだ。虚を突かれた彼女の思考は一瞬白く塗りつぶされる。歌に混じって、園内のスピーカーから短いノイズが流れた。
『ようこそお越しくださいました! 我らブラックサーカス団。スターライト・ピンクのご来場を誠心誠意を持って歓迎いたします!』
「「「「歓迎いたします!」」」」
スピーカーから大音量のアナウンスが流れると、花壇の影に潜んでいた黒タイツたちが一斉に立ち上がった。
彼らの手には、花びらが入った籠が握られている。伸縮性に富んだ黒い布地に包まれた手をせわしなく動かし、花びらを辺りに撒き散らす。
花びらは風に煽られ黄色や白、赤や青の吹雪となって、スターライトの視界を埋め尽くした。
「え、ちょ、なんなのよこれえええ⁉ ていうか花吹雪の量が多すぎない⁉ 全然周りが見えないんだけど!」
狼狽えるスターライト。戦う雰囲気でないことはすぐにわかったが、だとしても敵である悪の組織に歓迎されるいわれはないはずだ。
スターライトが固まっているうちに、音楽が止まった。
『さあ、我らがキング・オブ・カリスマ! 団長の登場です!』
スピーカーからブツッ、と音が鳴ってアナウンスが途切れた。次に聞えてきたのは馬の蹄の音。スターライトが振り返ると、舞い落ちる花びらの隙間から、微かに白い馬が見えた。馬は金色の鬣を揺らし、逞しい胴体から伸びる細くしなやかな四肢で噴水へと続く灰色のタイルを踏みしめてくる。
時折蹄鉄から火花が散るも、馬も、馬に跨る男も、まるで気に留めていない様子だ。
やがてタキシードの男が手綱を引いて、疾走する馬が速度を緩めた。
ゆっくりと花吹雪の内側に入り込み、スターライトの目の前で止まった。
「フワーハハハ! 待たせたな我が永遠のライバルよ!」
馬の背の上で、マサトが高らかに笑っている。彼は白いタキシードに身を包み、胸には一輪の赤い薔薇を添えている。
マサトは軽やかに馬から飛び降りた。肩まで伸びた赤茶色の髪が揺れる。地面に降り立った彼は、手綱を引く際に使っていた茶色の革手袋を外し、スラックスのポケットにねじ込んだ。
「団長⁉ っていうか、マサトさん⁉ なにこれ⁉ 新手の作戦なの⁉」
わけがわからず、あふれ出す疑問が矢継ぎ早に口から飛び出してしまう。
「ふっ、作戦と言えば作戦だ。多勢に無勢。自分にとって有利なフィールドに相手を誘いこむことこそが悪の常套手段! そして今日! この日! この時! 貴様は吾輩に……永遠の敗北を喫するのだ」
最後に穏やかな口調になったマサトは、スターライトの目の前で立ち止まった。じっと見下ろしてくる青い瞳。スターライトは言いようのない心臓の高鳴りに戸惑いつつも、その瞳から目を逸らせない。
彼の慈しむような瞳に映るのは、胸の前でステッキを握りしめる、不安げな表情の自分。
マサトは緊張しているのか、大きく息を吐いて跪いた。胸ポケットから薔薇を取り出し、何かに怯えるような顔でスターライトを見上げてくる。
「な、なに……?」
マサトは顔を下げ、手持った薔薇をスターライトに差し出した。
「桃塚明星……。お前が好きだ」
熱を帯びた視線がスターライトを、その正体である明星自身を射抜く。
彼女は息を飲んで口元を両手で抑えた。涙が込み上げて来て、目の奥が熱い。胸は締め付けられたように苦しく、脳の奥をちりちりと焦がすような感覚がする。顔に体中の血液がせりあがってきているのがわかる。
「あ、えっと、でも、私」
「待て。吾輩はスターライトから返事を聞きたいわけではない」
マサトの言葉を聞いて、スターライトは小さく頷き、変身を解いた。
衣類が消え、瞬間的に虹色のシルエットが晒される。けれど彼女には解っていた。周囲を埋め尽くさんばかりに舞い落ちる花吹雪は、彼女の為の物であると言うことに。
部屋着の白いTシャツと膝丈のスカート。茶色の髪を側頭部でそれぞれ結んだツインテール。いつもの明星の姿になった。何も飾っていない、ありのままの彼女の姿。
明星は顔を朱に染めたまま、マサトを見つめ返した。
「私で、いいの?」
「お前がいいのだ」
「どうして?」
「……お前だからだ」
「そんなんじゃ納得できない。ちゃんと言葉にしてよ」
めんどくさい女だと思われるかな、と明星は口にしてから思った。思いながらも、聞かずにはいられなかった。
彼女はアースイーターの一件以降、将来の事について真面目に考えるようになり、マサトがどういった人物なのかを理解した。
若くして強い信念と志を持って勉学に励み、多くの人々の生活を支える若社長。それがどれほど重い責任を持ち、どれほど過酷な努力の上に成り立っているのかを理解することができた。
だからこそ、わからないのだ。なぜそんなにも優秀な人物が、まだ高校生である自分なんかに好意を寄せているのかが。
わからないからこそ、不安だった。彼が自分にどんな思いを抱いているのか、はっきりとした言葉で聞かなければ、この不安は払拭されないと感じた。
マサトは唸りながら、少しだけ悩むような素振りを見せた。
明星の不安が、アドバルーンのように膨らんでいく。
「好きになった理由、か。そもそも吾輩は、スターライトのファンだった」
「……悪の組織の親玉なのに?」
「ああ。爺様からお前の母親の話をよく聞かされていた。それに、お前のことも。話を聞いているうちに、正義に対する一貫した信念を感じたのだ」
「つまり、私が魔法少女だから好きになったってこと?」
明星の表情が曇る。マサトは慌てふためきながら首を振った。
「違う違う! たしかにきっかけはお前のファンだったからだ! だが、俺が好きになったのはスターライトではなく桃塚明星だ! お前は、巨悪に怯え、相棒を失った悲しみに暮れ、それでもめげずに立ち上がった! 何度でも立ち上がるその姿勢に吾輩は惚れたのだ! お前なら、吾輩が挫けそうになっても共に前に進めると思ったのだ!」
「マサトさん……」
明星の萎れかけた心が立ち直る。微かに胸に立ち込めていた不信感は、霧が晴れるように消えていく。
「吾輩は、お前の前向きさと明るさに惹かれた。お前が笑顔でいてくれれば、吾輩はなんだって出来る気がするのだ。だからどうか、この花を受け取ってほしい。これからも、吾輩と共に、人々を笑顔にして欲しい」
マサトは腕を伸ばしたまま顔を伏せた。明星はじっと彼のつむじを見下ろした。
超科学を駆使する悪のサーカス団の団長。その癖ユーモアで世界を征服するなどという変わり者。誰に迷惑をかけるわけでもなく、社員にも、人々にも、明星にまで配慮する良識ある人柄。……なにげに贈り物のセンスもいい。
なによりも彼は、自分をこれほどまでに想ってくれている。
明星の返事は、決まった。いいや、いつのまにか自分の方が、彼に惹かれていたのだ。
彼女はおずおずと右手を伸ばしす。指先が震える。目の前が涙で滲んでぼやけてしまう。薔薇の茎に指先が触れると、マサトの肩が微かに揺れた。彼も怯えている。
明星は薔薇を掴んで、マサトの手から抜き取った。真っ赤な薔薇の花弁を自身の鼻に押し当てる。甘い香りが脳を焦がす。
薔薇の棘は丁寧に切り落とされ、緑色の茎に白い斑紋が浮かんでいる。その小さな配慮までもが嬉しくて、愛おしく感じられた。
彼女は蕾のような桜色の唇を、開いた。
「宜しく、お願いします」
明星が返事をすると、花吹雪が止んだ。同時にまばらな拍手が聞てくる。拍手の音は次第に大きくなってくる。やがてオーケストラの演奏が終わった直後のような、盛大な拍手に変わった。
視界が開けると、二人の周囲で黒タイツたちが手を打ち鳴らしている。その後ろには大勢の一般人の姿も見える。見える、というか一般人しか見えない。公園の景色が見えなくなるほどの人垣が自分たちを中心に集まっている。
皆口々に祝福の言葉を投げかけ、指笛を吹いたり、あらかじめ用意していたのか、クラッカーが鳴らされた。
「なにこれ⁉ この人たちいままでどこにいたの⁉」
驚く明星の正面で、マサトが肩を上下に動かしながら笑っている。
彼は立ち上がり、明星の肩を抱いて引き寄せた。
「フワーハッハッハ! 無論ボランティアを募ったのだ! 本作戦は我がブラックサーカス団のプレミアム会員が秘密裏に収集されておる! ブラックサーカス団の情報技術部隊の手により一人一人メールが送られ、総勢八百五十九名が参加したのだー!」
「は、八百⁉ なんでそんな大勢呼んだのよ⁉」
「悪は目立たねばならんのだ!」
「フラれてたらどうするつもりだったのよ!」
「そんなことははなから想定していない! さあ新人黒タイツよ! 例の物を持ってこい!」
マサトがベルトに装着していた無線機を掴んで叫ぶと、遠く空の向こうから黒い影が飛んできた。
太陽を背にやってきた丸い影は、明星とマサトの目の前に着地した。
マサトが普段から乗っているロボットだ。ロボットの運転席から縄梯子が投げ出され、新人黒タイツと先輩黒タイツが降り立て来た。
二人の左手の薬指には、銀色のリングが輝いている。
「お待たせしました団長! 助手席の乗り心地も万全です!」
新人黒タイツは背筋を伸ばして敬礼をすると、マサトは大きく頷いた。
そして新人黒タイツの胸元に手を伸ばし、若葉マークのワッペンを剥ぎ取ったのだった。
「お前はもう、ただの弁当屋ではない。我がブラックサーカス団の一員だ。これはもう必要ない」
「団長……。ありがとうございます!」
「お前たちは参加者の皆様に食事を配れ! さあ行くぞ明星!」
明星はマサトに手を握られ、引っ張られた。
「行くってどこに⁉」
「この世界を……笑顔で満たしにだ!」
ロボットに乗り込むと、以前は一つしかなった座席が二つに増えていた。明星はマサトの隣に座ってシートベルトを締める。
マサトは操作パネルから飛び出した赤いレバーを握り、右のレバーを勢いよく手前に引いた。
「フワハハハハ! 待っていろよ世界! 我がブラックサーカス団とスターライトがいれば、どんな不幸もすぐさま消し飛ばしてくれる!」
ロボットの背面に取り付けられたロケットエンジンから炎が噴き出した。白煙と共に機体は上昇し、青空に星の模様を描いて南へと飛び去っていった。
新たな希望を----やがてくる未来を乗せて。