第二章 トゥルーバッドシンク - 1
第二章 トゥルー・バッド・シンク
薄暗い部屋の中。室内を照らすのは、デスクトップパソコンの画面から漏れる淡い光だけだ。
パソコンの前には、やや窮屈そうに椅子に体を押し込んだ団長が座っている。
パソコンの画面にはメールボックスが開かれている。いましがた部下やお得意様、役所から送られてきたメールの確認を終え、一息ついたところだ。ところが、ピロン、とスピーカーが鳴り、メールボックスの最上段に新たなメールが追加された。
普段からにやけ顔の団長は眉一つ動かさないまま、矢印をメールに合わせてクリックした。
内容は、現在ブラックサーカス団の技術部が開発している時空間転移装置についての報告だった。現場で爆発事故があったと知り、団長は思わず身を乗り出して読み進めるも、幸い怪我人がいないことがわかり、気が抜けた風船のように椅子に座りなおした。
彼らが研究している時空間転移装置とは、端的に言って入り口となるブラックホールと出口になるホワイトホールの作成だ。
ブラックサーカス団では、独自に合成した特殊な金属を光速にまで速度を上昇させることに成功している。物体は光速に近づくにつれて質量が無限に増加するため、光速を超えた時点でその物体はあらゆるものを飲み込む超重力を持ったブラックホールに変わるのだ。
ブラックホールがなぜ時空を超える力を持つのか、その秘密は内部にある。ブラックホールには『事象の地平線』と呼ばれる境界線があり、理論的にはそれを超えると二度とブラックホールから出ることができなくなるという性質がある。
さらに具体的にいうと、事象の地平線に近づくほど時間の進みは遅くなり、やがて零、まったく進まなくなる。それでも超重力を振り切って前に進みつづけ、事象の地平線を超えたあたりからこんどは時間が加速し始めて最後にはブラックホールに入る前と同じ時間の進みになる。
『時間』を『水』に、『ブラックホール』を『ベルトコンベア』に例えるなら、それは、徐々に強い冷気を吹きかけるベルトコンベアに水の入ったコップを置くことと似ている。ベルトコンベアに流されることで水が凍ったら(※これが事象の地平線。それ以上変化しなくなった状態だ)そこから先はベルトコンベアが逆向きの流れになっているとしよう。
さらに今度はコップにタイヤ付きモーターと片道分のバッテリーをつけてベルトコンベアの上を無理やり逆走する。前に進むごとに少しずつ温度を上げていき、最終地点では氷を溶かしきる。すると、一度凍った水は再び水に戻るが、その水が存在する場所はベルトコンベアの出口。ホワイトホールにあるのだ。
無論、入り口に戻る推進力が確保できれば戻ることはできるが、その時には出口で経過した分の時間によって宇宙が動いているので、厳密には違う場所になっている。
これをブラックホールに当てはめると、水から氷、氷から水と変化するといえる。水イコール時間なので、やがては遅くなった時間の進みが元に戻るということだ。
けれどその時にはもうベルトコンベアを逆走するほどのバッテリーはないので、入り口に戻ろうとすると中央から先の逆向きに流れるベルトコンベアに阻まれて氷から戻れなくなる。事象の地平線をまたいで戻ると言うことは、ベルトコンベアを逆走すること、それはつまり過去に遡ることと同じことなのだ。
水は入り口と出口で全く同じ性質であり物質だが、ブラックホールに入った時と同じ時間帯でありながら、ホワイトホール(でぐち)が存在するまったく別の場所に移動している。ワープが成立しているということだ。タイムロスがまったくない革新的な移動技術とはいえ、彼らはこんなにもややこしくて面倒くさい研究に日々頭を悩ませている。
実験は非常に危険で、一歩間違えば地球が消滅する。なにせあらゆる物質を飲み込む超重力を産み出すのだから、一度暴走すれば、人の力で制御しきれる代物ではないことは明白である。
彼らは魔法少女の研究を重ねるうちに偶然発見した魔力にまつわる技術を利用して、巨大な装置の中に仮想的な宇宙空間を作り出し、その中で実験をしている。
超常の力を利用した研究には数多くの不確定要素があるため、団長も、黒タイツたちも、国際プロジェクトとして参加している各国のエンジニアたちも、日夜気の抜けない日々を過ごしていた。
そんな危険な開発現場から送られてきた“爆発事故”という単語は、団長を狼狽させるには余りある破壊力を持っていた。
メールによると機械の破損だけで済んだようなので、彼は多少なりとも安堵した。
その太さからは想像もつかないような指捌きでタイピングして、白衣を着た現場監督の黒タイツを思い浮かべながら、事故の発生原因の洗い出しと、復旧にかかる費用と時間。そして作業員たちに健康診断を実施するように指示をだした。
返信を送った直後、再び電子音が鳴った。
――――いやに返事が早いな。と思ったが、そのメールは【追伸】と題されていた。
メールには二枚の写真が添付されていた。一枚目は、円筒形のビルを横倒しにしたような大型の機械の、時空間転移装置の写真だ。機械の周囲に設置された歩道橋や通路にいる人々が米粒くらいのサイズで映っていることから、この装置の巨大さが窺える。機械の一部から黒い煙が立ちのぼり、トーキョードーム数十個分はあろう実験場の天井付近に黒雲を作っている。
二枚目は、機械の出入り口と思しき鉛色の扉。開け放された扉の内側に、無数の刀傷がつけられていた。写真の下には短い言葉で『何者かが内側から刃物で切りつけたような傷跡が発見されました。人が入り込む可能性はありえないので恐らく鋭角状のスペース・デブリの類かと思われます。』と綴られている。
団長はしばらく写真を眺めてからメールボックスを閉じた。彼は普段の業務と合わさり蓄積された疲労によって、自分で考えることはやめ、後は現場の人間に任せることにしたのだった。全ての仕事に自分一人で指示を出すことはできない。部下を信頼することも経営者の仕事。彼はここ最近、ようやくその考えに至った。
二年前に高校を卒業した彼は、病床に伏した祖父から“団長”の座を譲り受けた。
幼いころから祖父に教え込まれた経営や物理学の知識。彼自身が好きだったロボット工学の知識によって、ブラックサーカス団は祖父の代から順調に規模を拡大している。それでも彼の全能力を総動員しても、問題が起きない日の方が少ない。
だが彼は、疲労感と同時に、自分が今まさに人生を謳歌しているのだという実感があった。
一つ一つ課題を乗り越えていくことで、会社は大きくなり、知名度も上がる。それは公式ホームページに表示されているクラウドファンディングの金額からしてもわかることだ。
画面に映し出された数字は、彼に、進んでいる道が間違っていないという安心感を与えてくれる。それともう一つ、彼には心の支えがあった。
ホームページの左側にあるメニューバーから、手紙の形をしたアイコンをクリックした。画面にふきだしのような形のメッセージ欄がつらつらと並ぶ。これは、ブラックサーカス団に寄せられた応援メッセージだ。中には英語やフランス語、その他の言語で書かれているものもある。全てが全て暖かい言葉というわけではない。中にはいわれのない誹謗中傷も混じっている。
時々凹む事もあるが、彼は祖父が存命中だった頃から、この応援メッセージを読むことが好きだった。先代の団長、つまり祖父は、彼にとって追い越すべき目標であり師匠だった。ふと、天井にかけられた額縁に視線を向ける。
『恐怖で世界は変わる。悲しみでも世界は変わる。痛みでも変わる。それならユーモアでも変わるはずだ。笑いだよ、笑い。笑いで世界を変えるのだ。負の感情に世界を変えるエネルギーがあるのなら、正の感情にだってあるはずではないか。これもまた質量保存の法則だよ。いまだかつて誰も成し得なかった世界の変革を、いまだかつで誰も挑戦しなかった方法で実行する。前例がないからといってやりもしないで諦めるなど笑えんな。やってみてやっぱりダメなら悔しいけど笑えるな。もしもできそうにないのにできちゃったなら、万が一にでもその時は、最高に面白い人生だろうな。そう思わんかね、愛すべきマイ・グランド・サン。』
「……相変わらずむちゃくちゃだな、爺ちゃんは……」
これは遺書。団長に宛てられた祖父の想い。その一ページ。生前の祖父がことあるごとに呟いていたこの言葉には、いつも冗談ばかり言って周囲を笑わせるクセに、どこか頑固で、でも憎めない、そんな祖父の人柄がにじみ出ている。団長は幼いころからこの言葉が好きだった。祖父の人柄の全てが詰まっているように感じられたからだ。
優しくもあり、厳しくもあり、ちょっぴり頑固で頼りがいがある。こんな大人になりたいと、今年成人を迎えたばかりの若頭は思い続けてきた。
彼はモニタに視線を戻し、数多く寄せられたメッセージの一つ一つに返事をして、知らない言語は翻訳アプリを通して送り返した。
さっぱりとしたキーボードの音が響き、いつしか時刻は深夜零時過ぎ。
全ての返信は不可能だと見切りをつけ、明日も仕事があるのでそろそろ寝ようかと思った矢先。ふと、今日電話したスターライトのことが気になった。
――――あやつははたして約束を果たせるだろうか……。いや、できるだろう。なにせ吾輩ライバルなのだから。……しかしなぁ。
彼は、すぐさまSNSを開いて名前を検索した。
最新の呟きは、『勇者を召喚しました!』と書かれていた。恐らく、件の新しい仲間のことだろうと察した団長は「仕事が速いな」と呟き感心した。
その一つ前は、『クラウドファイティング始めました! みんなヨロシクね!』と書かれている。
――――雲の上で……殴り合うのか……?