第3章 ― 人間シイラの歩む道 ―
第3章 ― 人間シイラの歩む道 ―
いつからだろう。ヒトの食べ物が食べられなくなったのは。胃が拒絶する。舌が拒絶する。吐き気がして何も食べられなくなる。それなのに――
ヒトがとても美味しそうにみえる。
確か五歳までは普通にご飯を食べていたような気がする。もう随分前のことだから記憶があやふやだけど、それでも普通に食べていた思い出がある。
でも、もう駄目。あの頃には戻れない。
パンはスポンジを囓っているようだし、スープは泥水を啜っているよう。まるでヒトの世界では生きていけないような身体になってしまった。でも、どれだけ我慢してもお腹が空くの。死にたくないの。怖いの。だからお腹が、脳が、私をこの上なく獰猛にさせる。
昔を思い出す。
気付いたら床にも天井にも壁にもべっとりと赤い何かが付着していた。私も全身から浴びたように真っ赤に染め上がっていた。とても生臭かったのは覚えている。そこが自分の家と気付いたのはしばらく経ってからだった。
私は怖いのをごまかすように心の中で歌った。
近所のヒトが悲鳴を聞きつけて警察に連絡したようだ。警察は私を保護した。署で両親のことを色々訊いてきたけど分からないと答えたら釈放された。だって本当に分からなかったから。それからは施設に預けられた。施設では私みたいな子が大勢いた。初めて友達も出来た。楽しかった。嬉しかった。でも。なぜか、仲良くなったヒトから順番が死んでいった。とても悲しかったのを覚えている。
次第に他の子供たちが私をいじめるようになった。陰湿なものから大胆なものまで色々。でも少しでも刃向かうといじめっ子たちは決まって私にこの台詞を叫ぶの。
「マンイーターめ!」
この頃は何のことはさっぱりだった。だけど良い意味じゃないことくらいは相手の表情でわかっていた。だから日に日に一人ぼっちの時間が多くなって、最終的に施設の大人たちにも忌み嫌われ、私は追い出されるようにして施設から飛び出た。
時代が時代だったから私みたいなヒトが一人で街を歩いても声は掛けられなかった。特に私の地区ではそうだった。心配もされないけど、差別の眼差しもなかったから気は楽だった。施設の時はみんなの真似をしないといけなかったから。食べるときも寝るときも、演技しないといけなかったから。
でも。どんな時代でも心優しい人たちはいる。
いつものように好きな音楽が流れている大型スーパーにいた時だ。
駐輪場でこれでもかというくらい小さく蹲っている私に声を掛けてくれたヒトがいた。同型のおじいちゃんだった。とても優しそうなヒトだった。服も髪も汚れている私を構うことなく抱き寄せ、家に入れてくれた。おじいちゃんはおばあちゃんと二人で暮らしていた。おばあちゃんもとても穏和そうな人だった。孫ができたみたいで嬉しいと言ってくれた。せっかく作ってくれた料理は食べられなかったけど、お風呂も入れて、ふかふかの布団で寝ることが出来た。ずっとここにいたかった。もしかしたらお父さんやお母さんより優しかったかもしれなかった。
でも――
クチャクチャ音を立つのを耳にして我に返った。私は逃げるように家を飛び出た。泣きながらとにかく走った。まわりが不思議そうに振り返るけど、お構いなしに泣いて、叫んで、走った。
なんて残酷な世の中だろう。自分を優しくしてくれるヒトからいなくなる。どうして? どうして私だけこんな辛い目に合わなければならないの? どうして私を一人にするの?
――違う。
気付いている。私の心の奥の奥では黒いものが根を下ろしているんだ。原因はわかっている。全部わかっているの。全て私の責任。パパもママも施設の子もおじいちゃんもおばあちゃんも――
全部私が食べちゃったから。
私は美味しそうか、美味しそうじゃないかでヒトを判別している。私はそんな残酷なヒト。でも食べたら食べるだけ悲しくなる。我に返るときの後悔の念で吐き気を催すほど。自分が怖い。自分が嫌い。罪悪感で押しつぶされそうになる。
でもそう思うのも最初だけだった。
結局は、その絶望だって時間とともに着慣れた服のように馴染んでいく。ずるずるずるずる。数週間も経てば寧ろ、良い誘き寄せ方を発見したと思っていたくらいだ。
極力、我慢する。だけど限界がきたら、似たようなことをしてヒトを食べた。
何年そんな状態が続いていたか忘れたけど、とにかく近くを転々とした。そして時々、とてつもない孤独感に苛んだ。死にたいって心の底から思うほど。
心が少しずつ荒んでいく。私の居場所はどこ? 少なくとも、もうここにはいられない。そうだ、ヒトがいない所に行こう。そこで静かに死のう。きっと私は不良品だ。工場でも生産中に何十個のうちの一つは不良品が必ず生まれる。きっと私もそれと同じだ。不良品は廃棄しないといけない。
そういえばヒトが住み着けない場所があるって聞いたことがある。確か名前はヒルベルトエリア。そこなら静かに死ねるかもしれない。
そう思って旅だったのがつい一週間前のことである。
思ったより近かった。
近くにいくにつれてヒトの数は減っていった。
ヒルベルトエリアは昼間は暑くて、夜は寒かった。地球の大気圏内の層に穴が開いたからみたいだけど、環境が辛い。確かにヒトには住みにくい場所だった。でもそれでいい。私の自己満足だけどそれが贖罪になるかもしれない。
このままここにいれば死ねる。
虚ろな目で見渡せばまわりには所々、ヒトの形をした黒い物体がある。たぶん、自殺志願者だ。私と同じ。
このヒトたちは死ねて楽になれたのだろうか。それとも最期の最期には後悔したのだろうか。私は――どんな気持ちになるんだろう。
身体を横にして両膝を抱え込む。そして目を瞑った。
何時間、そうしていたか分からない。けど、意識がまだあるってことは、まだ死ねないんだ。一体、何時間くらいここにいれば死ねるんだろう。
何時間経ったか分からないけどもう随分経った気がする。
けど、まだ死ねないみたい。
無駄に色々と考えてしまう。
死ぬって痛い? 苦しいの? できるなら寝ている間にでもそっと死にたい。ああ、お腹も減った。どうせだったら最期に大好きだったハンバーグを美味しく食べたかった。
あれ、段々、眠くなってきた。
これが死ぬってことなのかな。それだと、案外苦しくないのかもしれない。意識も遠くなってきた。いよいよ、かな。視界が段々、狭窄していく。真っ暗。もう駄目、何も考えられない。ようやくこれで楽に――
「起きろ!」
その声はとても大きく頭に響いた。まるで脳に直接ぶつけられたような錯覚。太くて、低くて、すぐに男性の声だと気付いた。でも、駄目。私の近くにいたら――
あれ――
ヒトが近くにいるのに心が落ち着いていた。空腹なのに。
目を開けてみると、私の両肩を揺すっている男のヒト。無精髭を生やし、マントの中の服装は軍人のような格好をしていた。そして私と目が合って安堵の表情をする。
「良かった。目が覚めたみたいだな。話は後で聞く。とにかくエリアから抜けるぞ」
言うや否や、私を軽々と肩で担ぎ走っていく。よく見ると他にも四人ほど同じ格好をしたヒトたちが後ろからついて来ていた。
私、死のうとしたのに――
もう生きたくないって思ったのに――どうして助けてくれたんですか?
「同じヒトを助けるのに理由はいらない」
私は声に出して訊いていない。なのに、この男の人は確かにそう言った。規則的に揺れる身体。その揺れが大きくて、少し苦しくて、気持ち悪いのに――なぜか温かった。
どうして別の理由で涙が出るんだろう。
私――本当は死にたくなかったのかな?
ヒルベルトエリア近くの駐屯地。
迷彩の軍服に身を包んだ兵隊が首をどこに回してもいた。私はちょこんと簡易テントの下で椅子に座らされていた。吹き抜けだからまわりがよく見える。兵隊さんは各々が各々の仕事を忠実に全うしようとしているのか、緊迫した空気を漂わせていた。そしてその所為かどうかは分からないけど、私の目の前にいる男の人の笑い声がとても目立つ。
「ハッハッハ。喋れないのか! それはすまなかった!」
私は小さく頷いた。
「でも、俺の声は聞こえているんだろ? だったら問題ない。とにかく生きろ! 自殺なんてしたってもったいないだろ?」
小首を傾げる。私にはもったいないという発想がなかったのだ。生きるのが辛くて嫌なことばかりだから。好きなヒトもいないから。傷つけられるから。だから自殺するんだ。
男の人はまた私の心の考えに気付いたように付け加える。もしかしたら顔に出ていたのかもしれない。
「過去に苦しいことがあっても。今、嫌なことがあっても。明日は良いことがあるかもしれない。自殺してしまったら、そんなチャンスに恵まれずに終わってしまうんだぞ。もったいないだろ」
そしてまた大きく笑う。
そんなものなのかな。でもこのヒトが笑ってそう言うと、何だかそんな気がしないでもない。その大きく遠慮のない笑いはそれくらいの破壊力があった。私の心の壁が壊れてしまいくらいに。
「隊長!」
不意に張りのある声が目の前の男の人を呼ぶ。どうやら目の前の男の人に用事があるようだ。男の人は振り向き、小さく頷いた。
「悪い、ちょっと用事が出来たら、ちょっとここで待っていてくれ」
私は素直に頷いた。男の人は呼ばれた兵隊と一緒にどこか遠くへ喋りながら向かっていく。一人になったところで一度、机の上に出されたお茶を飲んでみたがやっぱり泥水を啜っているような味で顔をしかめた。
時間を持て余した私は適当に視線を巡らすことにした。
机には何やら書類が山積していた。専門用語もいっぱいだから理解は出来ないけど、どうやらバベルの塔についての資料みたいだ。正直、私にはさっぱり。
たぶんまわりにいる兵隊さんたちはバベル制覇隊のヒトたちだ。国が編成した隊だと図書館の資料では記してあったけど、その証拠に制覇隊の中立軍の紋章が服に貼ってあった。みんな、叶えたい夢があるからバベル制覇隊に入隊したのかな?
私だったら――
正直、いっぱいある。友達が欲しい。家族が欲しい。普通の食べ物が食べたい。喋れるようになりたい。全部、叶いたい。叶えられる望みは一つだけなのかな。それだったらケチくさいな。神様も。
神様? バベルの塔で神様がいるの?
願いが叶うとか言われているから勝手に神様がいると思ったけど、そうじゃないかもしれない。でも、神様がいた方が素敵だな。いつも空から見守っているより、手の届く範囲でちゃんと見守ってくれている方が信憑性も増すし。でも――
他のヒトの願いは叶えてくれても、きっと私の願いは叶えてくれない。私は多くの罪を犯した。決して償えない罪を。贖罪って言葉があるからいけないんだ。免罪符ってものがあるからいけないんだ。だから私はそれに縋ってしまう。決して逃れられないのに。誰かが許してくれると思っている。
やっぱり辛い。思い出すだけで胸が締め付けられるように苦しい。
どうして私だけがこんな目に遭わなければいけないの? どうして私はみんなと違うの? どうして喋れないの? 理不尽だ。私の所為じゃない。好きでこんな身体で生まれたんじゃない。お腹が空いたら誰だって何か食べるでしょ? それが私の場合はヒトなだけ。何も悪くない。だって食べないと死ぬんだから。
私の心は段々、黒くなる。
そんな時だった。
「いや、すまない。次に進む経路が難航していてね。ん? どうした? 顔色が悪いけど大丈夫か?」
戻って来た男の人が心配そうに覗き込む。私は小さく顎を引いた。
「それならいいが」
男の人は私の近くに椅子を投げるように置いて座る。最初は気付かなかったが、首からペンダントを掛けているようだ。
「改めて自己紹介しよう。俺の名は須賀大輔だ。バベル制覇隊第六部隊長をやっているHD型ヒューマだ。さっきはバベルの塔の捜索からの帰投中だったんだ。君の名前は?」
私は口を開けて「シ イ ラ」と動かしたが伝わらなかったようだ。そこで机にあった紙とペンで“人間シイラ”と書く。
「シイラか。良い名前だ」
須賀さんは優しく笑った。無精髭が強面感を押し出していたが目がとても綺麗だった。それにヘルメットを外している今は短い黒髪で清潔感もあった。
「ま、とにかく!」
そう言って私の頭を撫でる。
「心から生きたい! って思えるくらいなるまで、ここにいていいからな!」
大きく笑う須賀っていう男のヒトを私は上目遣いで観察する。
本当にいていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。怒られないだろうか。冷たい目で見られないだろうか。そんな遠慮と恐怖を蠢かせていたけど、目が合った須賀さんが笑ったのを見て一気に吹っ飛んでしまった。
そこから数日。結局、私はこの駐屯地でお世話になった。
気さくに話しかけてくれる須賀というヒトは本当によく笑うヒトだった。少なくとも私のこの十五年分をこの数日で追い越す勢いで。その所為は分からないけどとても居心地が良かった。離れたくなかった。だから私はバレないようにご飯を食べるふりして吐いた。空腹でも私はしばらく何も食べなくても平気だったから。そして訊かれたくないことは黙ってやり過ごした。
自分の居場所が見つかりそうな気がした。
そして三日後――
「知っているかい? この近辺のヒルベルトエリアは電波や磁場を狂わせるから飛行機を飛ばせないんだぜ。一説には蔓延している瘴気が原因と言われているけどな。だから基本的には探索は徒歩が原則になるんだ。まったく。まいっちまうぜ」
本当にうんざりしているように溜息を吐く。だけど、どこか楽しそう。初耳だったけど、やっぱり願いを叶えるのにはそれなりの試練があるようだった。
私は紙に“そこまでして叶いたい願いがあるの?”って書いた。
「はっはっは。まあ、ないこともないが、単純な興味の方が強いな。高い山があれば昇る。未踏の地があれば足を踏み入れる。それと一緒だな」
よく分からなかったから曖昧な表情をした。
「でも不思議に思わないか? ヒルベルトエリアに入らなくてもバベルの塔は見えるのに、近づけば、近づく程、位置がわからなくなる。しかもバベルの塔は一つじゃない可能性もある。なんてたって世界各地のヒルベルトエリアで目撃させているのだから。ま、最も有力な情報なのはここのヒルベルトライン付近だけどな。いずれ辿り着いてみせるさ」
子供のようにキラキラした目は私より年下に見せた。
私は紙に“応援してる”と書いた。それを見て須賀さんは笑った。
「ありがとう」
そして続けて言う。
「現状、この地区で最も目撃情報が多いSエリアにあるバベルの塔を一度東から調査しようと思っているんだ。それでヒルベルトエリア外からヘリで迂回して向かおうと思っていてね。少数精鋭部隊で行くことがさっき決まった」
瞬間、表情が陰る。
須賀さん行っちゃうんだ。私は――行けないだろうな。兵隊でもないし。また一人になるんだ。初めてヒトの前で自分を取り戻せているのに。もしかしたら生きてもいいんだって思えたのに。
私は深く俯く。
助けたなら最後まで責任を取ってよ。私を一人にしないでよ。温かさを知るから辛くなる。繋がるから切れるときに苦しくなる。それなら最初から――あのまま死にたかった。
そんな陰鬱な感情が心の中で渦巻いたけど――
須賀さんの言葉は私の予想外だった。
「移動ヘリは一機で搭乗は二部隊。たまたまだけど、搭乗席が一つ空いているんだが――」
そして窺うようにして訊く。
「シイラも一緒に来るかい?」
束の間。
もちろん、私は大きく頷いた。
他の隊のヒトたちと混ざって私は移動ヘリに搭乗した。服も制覇隊と同じ軍服に着替えた。まわりも最初は驚いていたようだけど、受け入れてくれたみたい。私が人見知りな分、不安だったけどみんなが気さくに話しかけてくれた。こんなこと、初めてだった。須賀さんはだいぶ他のヒトたちにからかわれて、不機嫌になっていたけど。
飛行中は機体上部で回転する翼の騒音がひどかった。その分、エンジンが懸命に回転させていると思ったら文句は言えないが、向かいに座っている須賀さんの声が聞こえにくいから困る。
須賀さんも普段の大きな声をより大きくさせて私に話しかける。
「乗り心地はどうだ!」
チヌークの愛称で親しまれているらしいこの大型輸送ヘリコプターは須賀さんのお気に入りらしい。最大で十三トン近い貨物を機体下面の吊下装置で吊下し、移動することも可能なようで「俺もそのくらい重いものを背負えるような男になりたい」なんて搭乗前にはよく分からないことを言っていた。
正直、揺れで少し気持ち悪いくらいだったので、私は笑顔でごまかした。
「あまり上空に上がりすぎると空気が薄くて飛べない。かといってヒルベルトエリア内でも飛べないから、操縦者は結構運転技術が必要なんだぜ!」
須賀さんがそう言うと同時にヘリは旋回して傾いていく。
空から見るヒルベルトエリアはまた違って見えた。一面荒野であるが、所々、街があった形跡が残っていた。遠くには湖も見える。以前よりは枯渇しているようで砂の波で小さな層が出来上がっていた。でも、一番驚いたのは、ヒルベルトラインだ。まるで黒い線が引いてあるように、そこだけ凄まじい亀裂が入ってあり大地が傷ついているのが分かる。
ヒューマたちが戦争した爪痕。
世界はいつか終わりが来るのだろうか。復興などはただの表面だけで地球の中は癌みたいなのがあって少しずつ蝕まれているのだろうか。瘴気さえなければ、地球は治るのかな? もしそうなったら私でも生きていける世界になるのかな。罪がなくなったりするのかな。
……駄目だ。またそうやって縋ってしまう。
突如、ヘリコプター内で警報が鳴る。機体内で赤いランプが点滅しだした。他のヒトたちの雑談の声も一瞬で静まり返る。
私は一気に不安に駆られた。
「シイラ! しっかりシートベルトするんだぞ!」
頷いたつもりだが、大きな揺れでそれがかき消される。まわりの人たちも動揺していた。きっとみんなも予測できない事態が起こっている。私はギュッとシートベルトを握りながらも窓から外を見ると――
一瞬で目を奪われた。
すぐに思ったのは流れ星。甲高い音を上げながら光輝く一筋の線はヘリコプターの下を過ぎ去っていく。なぜ? という疑問符はずっと浮いたままだったけど、開いた口が塞がらなかった。それはずっと先から現れてヒルベルトエリア荒野の地面に突き刺さっていったからだ。直後に流れ星ではないと思ったけど、こんな現象を初めて近くで見た私にはとても目に焼き付いた。
そして光は徐々に拡散していき、大気に溶け込むように消えていく。みんなもその光景に釘付けだった。そんな中――
「不吉な予感がするな」
神妙な顔つきでそう呟く須賀さんの言葉が妙に耳に残った。
そしてそれが間違っていなかったことに私はすぐ気付くことになる。
「よし、ここからは徒歩で向かう」
頭上に浮いていたヘリコプターが駐屯地へ戻っていく姿を見た翌日、須賀さんはみんなにそう指示した。途端、気をつけの姿勢でみんなが須賀さんを注視する。
「改めて言うが、今回、二部隊編成の指揮官として俺が任命された。制覇隊第三部隊と俺の部隊の合同チームだ。まずは二つに分けてヒルベルトラインまでの経路を確保して欲しい。通信係のヤクトは俺とここで待機。六部隊の隊長は天城、お前だ。よし、散!」
「はッ!」
素早く敬礼し、バベル制覇隊のヒトたちは装備を整えヒルベルトエリアの中へと入っていった。見送ったあと、通信係のヤクトと呼ばれたヒトは背負っていた荷物を降ろし、そこからパソコンを開ける。どうやらここの通信状況を調べているようだ。
「あちゃ~、須賀隊長、やっぱ駄目みたいっすね、電波」
「そうなのか?」
と、言いながら須賀さんは横からパソコン画面を覗き込む。
「西の駐屯地とは通信出来ないですね。たぶんヒルベルトエリアを挟んじゃっているからだと思うんですけど。とりあえず他の制覇隊と連絡取れるか試してみますね」
「頼む」
須賀さんは腕を組みながらどっしりと仁王立ちしている。私はその姿をじっと見ていた。
ずっと気になっていたのだ。もちろん私も一緒に行けて嬉しい。だけど、こんな大事なお仕事についていって大丈夫なのかなって。迷惑じゃないのかなって。だから持ってきた紙とペンで“どうして一緒に連れていってくれたの?”って書いて見せた。
須賀さんはポリポリと頬を掻く。
「一人になると、シイラ死ぬつもりだろ? 生きたいって心から思うまで俺と一緒にいたらいいんだ」
でも私――人殺しだよ。
そんな言葉は紙には書かず心の中で呟いた。
話を聞いていたようで、パソコンを触りながらヤクトさんはニヤニヤと笑いながら割って入る。
「とかいっているけどね、シイラちゃん。実は君が娘さんに似ているからなんだよ。ププ、このヒト、ロリコンで怖いよね~あだッ!」
すぐに須賀さんの拳骨が頭上から振り下ろされた。
「娘は関係ない!」
「嘘だ~よく人目を忍んで、ペンダントに入った娘の写真見てるじゃないですか!」
「うぐッ、どうしてそれを」
須賀さんは赤面していた。
「まあ、須賀さんは危険人物だから、対象を外すとして僕なんて意外といいんじゃないか~ちなみに独身~」
いつのまにかパソコンから離れ、須賀さんを押しのけ私の近くまで寄って自分を売り込むヤクトさん。その襟首をすぐさま掴んだ須賀さんはパソコン前まで引きずる。
二人のやり取りが漫才みたいで可笑しくてつい笑っちゃう。
「シイラちゃん、笑顔の方がやっぱり可愛いね」
「それは俺も思う」
まじまじと見られ、真顔でそんなこと言うから恥ずかしくなって俯く。
「まあ、人生なるようになるんだ。考えすぎるのも良くない! 色んなヒトで出会って笑えばいいんだ!」
違う。たぶん須賀さんがいるから私は笑えるんだ。
「そういえばシイラちゃんってHD型?」
私は横に首を振った。
「じゃあ、H2型なんだ。久しぶりにみたよ。現場でH2型なんて」
現場というと、このヒルベルトエリアのことを指しているのだろうか。というと須賀さんの部隊のヒトたちはみんなH2型ではないってことかな。そういうことなら私も初めて見た。てっきりみんなH2型だと思ったけど、違うんだ。
「俺たちの部隊はほぼHD型で編成されている。最前線に行くから、少しでもエリア内で活動できるヒトの方が良いからな」
少し冷静になって考えてみた。私の住んでいたK・U区はほとんどH2型ヒューマが住んでいた。どうやら昔の風水的な力が働いているのかHE型はほとんど寄りつかず、HD型が希にいるくらいだった。だから私が出会ったヒトたちは全員H2型。私が襲ってしまったのも全員H2型。
もしかして私はH2型ヒューマを見ると、理性が効かなくなるのかもしれない。それだったらH2型がいない地区に住めば誰も襲わずに済むのかな。でもお腹は空いちゃう。
「そういえば、三部隊にH2型の奴、いませんでしたっけ?」
「また、あとで会ってみるか。同じ種族の方が落ち着くだろうしな」
私は慌てて首を横に振って、紙に“大丈夫!”と書いた。
もし会ってどうにかなってしまったら私の居場所がなくなってしまう。
それだけは絶対に嫌だから。
「しかし、遅いな」
時間の経過とともに、須賀さんの顔色は変わっていた。そう呟く姿を何度見ただろう。最初は冗談っぽく文句を漏らしていたが、今では心配の色を隠せていない。
「そうっすね」
ヤクトさんもそうだった。気のない返事をしているのは、あくまでこの場の空気を和らげるためだけで、表情は須賀さんと変わらないくらい真剣だった。
「お前はどうみる?」
「ヒルベルトエリアに入って一時間。経路確保にしては遅すぎますね」
「――最悪のシナリオも考えておくべきかもしれない」
須賀さんは目を瞑り、空を仰いで熟考する。そして――
「よし、探しに行こう」
私たちにそう言った。
「ま、異論はないんですけど、シイラちゃんはどうするんすか?」
「他の隊とも連絡取れないし、シイラもここに一人では危険かもしれん。だから一緒に来てもらおうと思っているんだが、シイラ。どうだろうか?」
一人よりみんなと一緒の方が何倍も良かったから私は迷わず頷いた。
「装備の確認は怠るなよ。何が起こるかわからん。俺は前方、ヤクトは後方、シイラは真ん中を歩け。いいな」
「俺、ただの通信部隊なんですけど」
そう言いながらもヤクトさんは悦に浸り、自分のアサルトマシンガンの手入れをし始めた。須賀さんはそんな姿を見て「頼りにしてる」と引きつった笑いで言った。
「エリアに入るからCコートは忘れるなよ」
二人が装備のチェックをしている中、私もこっそり近くの武器をポケットに入れた。
須賀さんはとても大きな武器を背負っていた。口径7.62mmのガトリング銃らしいが、別名、無痛ガンと呼ばれ、生身の人間が被弾すれば痛みを感じる前に死んでいるという意味なんだ、と自慢げに話していた。たぶん須賀さんがHD型だから担いでいけるんだと思う。私にはとても無理だ。
「物騒っすね」
後方からヤクトさんが声をかける。須賀さんは「当然だ」と即答し、続けて話す。
「万が一の可能性だ。できるなら遭遇したくないがな」
「もし、遭遇してたら全滅っすね。――俺たちもっすけど」
二人は頭に浮かんでいるのを共有できているみたいだけど、私にはさっぱり。だけど、その言葉の端々からなんとなく危険なことくらいはわかる。
「あれは――」
歩いて三十分程した時だった。
不意に前方の地平線を注視して呟く須賀さん。私には太陽の熱によって揺らめく大地しか目に入らないのだが、ヤクトさんも続けて「第三部隊の奴だ!」と叫ぶ。
二人が駆け足で前に進むので、慌ててついていった。しばらく進むとようやく私にも人影が見えてきた。先の人影の足取りがどこか頼りない。ずっと先で二人がその人影を抱え、ゆっくり横にする。二人は完全に青ざめていた。そしてようやく到着した私もその惨状を見て思わず手で口を覆う。嘔吐物が喉まで迫り上がりそうになったのだ。
ギリギリ、ヒトの形を保っていた。
全身から肉片が奪われたような形跡があり、腹部は少し捻るだけで千切れてしまいそうな程ひどかった。出血の量もおびただしく全身が血塗れ。ここまでの道のりはべったりと血がこべりついていた。強靱な精神力も持った彼だからこそここまで歩けたに違いない。
「もう大丈夫だ! 安心しろ、すぐに傷口を塞ぐ!」
傷口からの出血を抑えるように施すが、素人の私でもほとんど意味がないことがわかった。口からも血が逆流していて喋るのもままならない状態。しかしそれでも彼は自分が与えられた使命を全うしようとする。
「ほ……報告。第三隊、全滅。第六隊応戦中ながらも劣勢」
「もういい! 喋るな!」
「敵はワーム=カンディルです」
一瞬、二人が硬直した。そして後ろからでは表情は窺えないがヤクトさんが震えるように呟く。
「万が一の可能性、当たっちゃったみたいですね。最悪のシナリオだ」
「す、須賀指揮官殿、撤退してください」
自分のことよりも隊のことを、そして須賀さんやヤクトさんの心配をするのはきっとこのヒトの本心に違いない。それだけ愛され、そしてそれだけ絆が強いチームだったんだ。羨ましい。
だけど。
血だらけのヒトはその言葉を最後に――目を見開いたまま動かなくなった。荒くなっていた呼吸もいつのまにかこの静寂さに溶け込むように止まっていた。須賀さんは優しく男のヒトの開いた目を閉じる。
沈黙が痛々しい。周囲の空気が重くなる。
口火を切ったのはヤクトさんだった。
「――隊長、どうするんですか? 先遣隊が撤退を示唆していましたけど」
須賀さんは即答した。
「未だ応戦中かもしれん。生存者を見つけ次第、連れて帰る」
ヤクトさんも須賀さんの言葉がわかっていたように、すぐに返事した。
「了~解」
「幸い、血が道しるべになっている。警戒を怠らず、進む」
須賀さんはわざとヤクトさんの方だけを向いてそう言った。そして暗い表情をして私の方へ振り返る。
「すまない。ここまで来てなんだがシイラは帰れ。庇いながらは戦えない」
私は首を横に振った。
「シイラ――」
私は頑なに首を横に振った。
須賀さんは困惑していた。私も勝手なことを言っているのはわかっている。だけど離れたくなかった。私にとっての心の拠り所はここしかないから。
しかし、ポンと優しくヤクトさんが私の肩に手を置いた。そして須賀さんは首のペンダントを外して私に渡す。
「これは俺の大事な娘の写真が入っているペンダントだ。預かっていてくれないか? そしてそれを娘に渡して欲しい。約束だ」
ヤクトさんが驚いて須賀さんを見つめる。
自分の頬から涙が伝っているのがわかった。私は震える手でそれを受け取った。須賀さんは満面な笑みを私に見せて頭を撫でる。こんなの――最後の別れみたいで嫌だ。
「良い子だ」
そう言うと須賀さんは背を向け前へ歩き出した。ヤクトさんがこっちに寄ってくる。
「帰り方はわかるよね? あっちの方角に向かえば、最初にいた所に戻れるからね。通信一式はあそこに置いてあるし、丸二日経てばちゃんとヘリが来るような段取りになってるからね。あと――」
一瞬、俯き、眼鏡が曇る。
「俺が無事に帰ってこれたら、ホント結婚してよ~じゃあね!」
その陽気さが痛々しかった。まるで出来ない約束をしているようで。二人は進む。私はその後ろ姿しか見えない。だけど、その覚悟が、決意が、背中からひしひしと伝わった。
二人が視界から完全に消えてから、私も背を向けて歩いた。
泣きながら歩いた。そして泣きながら考えた。
たった数日。その僅かな時間だけど、初めて孤独から救われたような、初めてヒトと触れて安心したような、そんなヒトに出会えたのに、私はこのまま帰っていいの?
これが正しい選択なのはわかっている。足手まといなのもわかっている。でもこっそりこれをポケットに忍ばせたのはどうして? 一緒に戦いたいからじゃないの?
きっと機械なら正しい選択を何も感じずに選択するのだろう。でも、それは機械だから。ヒトには間違っていると思っていてもその選択に躊躇せずに飛び込むことがある。それは正しいとか間違っているとか、そんなことを超越した自分が一番したい行動を取りたいとき。それがヒトだから。私は不良品。工場で生産した何百個の中のたった一つの欠陥品。
――でも!
私は機械じゃない! 欠陥品でもヒトなんだ!
だから!
歩む足を止め、踵を返す。そして――
全力で駆けた。
失いたくないものを奪われないために。
雄叫びが上がり、銃撃音が鳴り響く。周囲には死骸が多数。そして死体も多数。ここは既に戦場。一匹の巨大なワーム=カンディルと四人の戦士がヒルベルトエリア内で死闘を繰り広げていた。
足のない獣のような虫。それがワーム=カンディルの正体だった。全長が何メートルか、地面に半身を潜り込ませているため把握は出来ないが黄土色の身体に黒い縞模様は不気味以外に表現のしようがない。目は退化しているらしく濁っていて模様のようになっている。しかしその分、鼻が利くのか、出血の多い戦士へと獰猛にそして俊敏に襲う。今、まさに前の前で一人の戦士がやられた。その口は凶暴そうで鋭利に尖った刃のような歯がずらりと並ぶ。そして肉を囓るようにして浸入していく。特徴といえば、ヒラについている返し針のようなものだろうか。戦士は悲痛の叫びを上げながらもワーム=カンディルを無理矢理引っ張る。しかし、決してワーム=カンディルは離れなかった。まるで、もがけばもがくほど深く侵入していくようだった。
須賀さんは激痛で叫ぶ隊員を呆然と見て立ち尽くしていた。そして最後の巨大なワーム=カンディルはそれを見逃さなかった。うねるように身を翻し、一直線で須賀さんを襲う。
だから私は手榴弾を投げ飛ばした。絶妙なタイミングでの爆発。ワーム=カンディルは高い音を発した。私はそれを苦痛の叫びを判断した。
「シイラ!」「シイラちゃん!」
須賀さんとヤクトさんが私を見て驚いていた。だけど、そっちに視線を寄越すことなく、もう一個、手榴弾を投げ飛ばす。そしてその爆発の風圧で髪がなびく。
煙が大きく膨れ上がる。少しの隙を突いて私は予め書いてあった紙を二人に見せた。
キョトンとする二人。しかし次第に笑い始めた。空気が変わったのは気のせいだろうか。
「よし、こいつを徹底的に潰す! ヤクト! 天城! 援護しろ!」
「あいよ~」「了解!」
三人はまるで何度も訓練したような連携で俊敏に動いた。須賀さんはガトリング銃を投げ飛ばし、真っ向からワーム=カンディルへと突っ込んでいく。そして残りの二人は交互に走りながら援護射撃し、須賀さんへの気を逸らす。その瞬間、既に懐に入った須賀さんは腰に帯刀していた軍刀を抜き、思い切り刺し込み傷口を広げた。敵は奇声を上げ、紫色の体液を飛び散らした。その液体が須賀さんを襲う。焼けるような酸が全身を焦がし、須賀さんは呻き声を上げる。しかし、鬼神のような気迫でそのままC4爆弾を体内へと突っ込み、そして急いで離れた。その時、右腕が焼きただれていた。瞬間、内部からとてつもない爆発を起こし、爆風で須賀さんが吹っ飛ぶ。
断末魔を上げ、ワーム=カンディルは真っ二つに千切れ、ピクピクと痙攣を起こしていた。そしてしばらくすると息絶えた。
三人が勝利の雄叫びを上げた。
日が落ち、暗闇が荒野を埋め尽くす中、私たちは廃墟の中で夜を過ごすことにした。ワーム=カンディルと一戦を交えて体力を消耗してしまったからだ。
野営の準備をしている間、三人は少しほっとした表情をしていた。空気も随分柔らかい。それだけ先程が緊張感のあった戦いだったということを改めて思い知った。今はようやく非常食の乾パンを口にしながら一息ついたところだけど。
「正直、生き延びられるとは思わなかったです。ワーム=カンディルは天災とも言われているくらいでワーム系でも最悪種と呼ばれていますからね」
そう安堵の表情で言うのは真面目そうな顔立ちの天城さん。第六部隊で臨時隊長を任命されたヒトである。そして唯一の生存者。
先程聞いた話だと、突然、地面が地震のように揺れ動き、大量のワーム=カンディルが襲ってきたとのこと。最初の奇襲でほとんどの隊員がやられちゃったみたいだった。
「出会ったら振り向かず走って逃げろ。無理なら自害って言葉があるくらいっすからね」
空を仰ぎながらそう呟くヤクトさんに須賀さんは付け加える。
「恐らく光だな。年に一度しか地中から現れない奴らだからこそこのヒルベルトエリアで生息できるんだろうが強い光を浴びてしまうと凶暴化するとどこかで聞いたことがある」
「あのヘリで移動中に出現した光の筋が原因だったってことか。まったくどこの誰の仕業か知らないけど、勘弁して欲しいよ~」
嘆くヤクトさんはそのまま仰向けになって寝転がる。よほど疲れたみたいだ。私もあんな化け物に立ち向かったなんて、今でも信じられない。人間、やれば何でも出来るものなのかもしれない。
「それにしても――」
ヤクトさんは寝転がりながら私の方へ向き、口に手を当ててニヤリと笑う。
「シイラちゃんにはホント笑わせてもらったよ~」
私はあの時の状況を思い出し思わず赤面する。
「まったくだ! な~にが“私はここにいます! 生きて帰して下さい!”だ」
気恥かしさから俯く。頭から湯気が出てきそうだ。天城さんは首を傾げてわかっていないみたいだけど、確かにあの時の私はどうかしていた。
でも今でもはっきりしている。私は大切なものを奪われないために動いたんだ。一人になりたくないから。
「まあ、おかげで俺たちも勝つことが出来たんだがな」
「そうそう。隊長の本気っぷりったらないですよ!」
「自分もあんな動きをする隊長は初めて見ました」
「こら、茶化すんじゃない!」
と、一度叱責し、ゴホンと咳払いし閑話休題する。
「だが、わかったことがあるんだ」
須賀さんのしたり顔にみんなが注目した。そして全員を見渡して須賀さんは発言した。
「バベルの塔は昼間にしか出現しない」
「というと?」
ヤクトさんが興味深そうに訊く。
「一戦を交えたときにもバベルの塔はずっと存在していた。そこからずっと座標で位置を確認しながら、日が暮れるまで定期的に目視していたが、日が暮れた途端、消えたんだ。同じ座標位置にもかかわらず、な。今まで外灯もない夜だから暗くて見えないと思っていたが、どうやらそうじゃなさそうだ」
一同、静まり返る。ここにきて初めての新情報だったからだ。だが、未だ謎の解明には至っていない。むしろ謎が増えたくらいだった。
「昼間にしか存在しない塔、ですか。なかなか摩訶不思議な塔ですね」
そんな天城さんに須賀さんは楽しそうに笑う。
「だが、それくらいじゃないと願いなんて叶えてくれそうにないだろ」
須賀さんが冗談で言っているわけではないから怖い。
「そーいえば、シイラちゃんって一番叶えたい願いってなに?」
単純な疑問を投げているようでヤクトさんは笑顔でこちらに向く。
私は少し考えた。叶えたい夢なんてたくさんある。だから一番と言われると困る。ヒトはそれぞれの事情を抱え込んで生きている。乗り越えるために。もし、私が望んでいることもそうなのだとしたら、私はそれを願うことで駄目になってしまうかもしれない。背負うことを放棄してしまった心の弱いヒトになるかもしれない。だったら――
誰かのために何かをしたいという気持ちでいいなら――
私は紙に書いてみんなに見せた。
“歌を歌えるようになりたい”って。
その紙を三人は覗き込むように見た。思わず、照れて俯く。
「歌か。そりゃ、ぜひ聴きたい」
「シイラちゃんの歌、綺麗だろうな~」
「自分も聴いてみたいっす」
視界が少し広く明るくなったような気がした。世界が少し色鮮やかに広くなったと言い換えてもいい。私は少しずつ変わっていっているんだろうか。
恥ずかしかったけど、嬉しかった。みんなから背中を押されるのがこれほど心強いことと思わなかった。
私――みんなに気持ち伝えられて良かった。
「そうだ!」
ヤクトさんが思い出したように叫ぶ。
「シイラちゃん! 無事に生還したんだから俺たち結婚しないと!」
すぐに須賀さんからげんこつが降りた。
翌朝は日の出とともに出発した。
このまま帰るものだと思ったけど、どうやらバベルの塔へ目指すみたい。正直、私は戻った方が良いと提案したけど、須賀さんが日中にしかバベルの塔が存在しないという結論を出したから三人とも行く決意をしたみたい。とは言っても、銃弾数や非常食の残りから無理はせず、今日一日で無理なら帰投するとのことだった。
しかし。
この選択が。
本当の悪夢の始まりだったのだ。
「やっぱりな」
須賀さんはニヤリと笑い、前方のバベルの塔を見据える。
「どうしたんです?」
「昨日測定した座標とややずれている」
右手に持っていたのは羅針盤で、ずっと昨日から記録しているものだった。その記録帳をヤクトさんも覗き込み、驚く。
「ホントだ。じゃあもしかして見た目以上にあの塔は軽いとか?」
冗談のつもりで言ったようだが、須賀さんは何も言わなかった。自分の答えが出てない以上、迂闊なことを言うのを避けたんだ。
「わからない。とにかくヒルベルトライン近くまで行けばわかるような気がするんだが」
「今回は何も遭遇しなければいいですが」
天城さんは昨日の事もあり相当警戒していた。それはそうである。昨日までは十人程いた部隊が今やたったの三人と素人が一人だけである。不安になるなという方が無理である。
「帰ったら黙祷だな。他の隊員たちの葬儀もしなければならない」
その須賀さんの言葉に昨日の惨状を思い出したようで、小さく「そうですね」と二人は応えた。
時間にして数時間程歩いただろうか。今日は曇りで比較的気温は落ち着いている。だけど、太陽の光だけが原因でヒルベルトゲインは起きない。空気中に蔓延している瘴気が主な原因であるからだ。だからもちろん、私もみんなもCコートを羽織って行動していた。
周囲に瓦礫も枯れ木もなく、視線の先が地平線のみで一本の線のように天空へと伸びきっているバベルの塔。心なしかそれが少し薄く見えた。
そんな中、ヤクトさんと天城さんの会話が聞こえてくる。
「バベルの塔とヒルベルトエリアの関係って何なんだろうね~」
「関係性あるのか?」
「あった方が楽じゃない? そもそもバベル制覇隊の仕事って、バベルの塔の制覇とヒルベルトエリアの解明だからね。何かしらの意味はありそうだけど」
「確かにありそうだが、それは俺らが考えることじゃないだろう」
「あ!」
途端、何かを思い出したかのように声を上げるヤクトさん。
「なんだ、急に」
「まだサンプリングしてない」
「もういいだろう。検体数は充分って聞いているぞ」
「あ、そうだっけ? この前の地震でサンプル瓶割れちゃって困ってたんだけどラッキー」
バベル制覇隊としての何かの作業をし忘れたのだろうか。
不意に前を歩いていた須賀さんも立ち止まる。
「どうしたんです?」
ヤクトさんも不思議そうにしながら立ち止まり須賀さんの方を向く。しかし須賀さんはそれには答えず天城さんの方へ声を掛ける。
「天城、確かお前のリュックにテレスコピックサイトが入ってなかったか?」
何のことだろう、と少し頭を傾けながら考えていると横でヤクトさんが「望遠鏡みたいなものさ」と教えてくれた。
「ええ、確かにありますけど」
「ちょっと貸してくれ」
渋々渡すあたり、もしかしたらお気に入りなのかもしれない。思ったのだが、バベル制覇隊のヒトたちは結構、機械に対して種々の嗜好があるのかもしれない。
しかし、須賀さんは気にせずそれを気軽に受け取る。天城さんは「壊さないで下さいね」なんて言いながら心配そうに見つめ、それを「わかっているよ」と笑ってなだめていた。
そして狙撃銃に装着している真っ黒のテレスコピックサイトで仔細にバベルの塔を見る。
何分、そうしただろうか。そのあとは何度もしゃがんだりとか立ち上がったりと謎の行為を繰り返す。そして――徐に須賀さんは口を開いた。
「にわかに信じ難い」
一人で何かを頭で思い浮かべ、首を振る。
「まさか、本当に――俺にその勇気があるのか」
頭上に疑問符を浮かばせながら皆は見合う。
「おい、わかったぞ。バベルの塔の正体が――」
そう言いながら加茂さんが私たちの方へ振り返った時、不意に辺りが暗くなる。
建物などまわりに一つもないのに大きな影があると全員が不思議に思った瞬間――
それは突然起きた。
硬い地面が割れ、奇怪な身体から奇声をあげる。
ギョッと振り向き、全員の表情が一変にして青冷めた。人生においてもう二度と見たくはない生物。
「ワーム=カンディルッッ!」
それがヤクトさんの最後の言葉だった。
まるで大地にかぶりつく様にしてワーム=カンディルは俊敏な動きで彼を呑み込む。巨体の重力と力で大地が裂け、風圧の勢いで吹き飛びそうになる。するとそのまま身体をうならしながら地面へ潜り込む。
砂埃が舞う中、地面には大きな穴。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。しかしすぐに我に返って二人は叫ぶ。
「「ヤクトぉぉぉッッ!」」
しかしその声に反応して地面から出てきたのは一匹だけだった。口元の大量の血液を付着させながら。まさに戦慄と震撼。数十メートル先の地面から這い出る虫は昨日のソレとは大きさが明らかに違っていた。数倍も大きく、その分鋭利な歯も数倍。獰猛さも数倍。
そして私たちの恐怖も一気に膨れ上がった。
「親――?」
膝をつき須賀さんの絞り出した答えは当たっているのか、ワームの怒声のような音が周囲に響く。そして既に戦意を失せてしまっている須賀さんに狙いを定めたように近付く。
「隊長! シイラさんと一緒に逃げてください!」
天城さんがアサルトマシンガンを連発しながら咆哮する。しかし、銃弾は虫の強靭な皮膚を貫くことはなく、大したダメージを与えているようには窺えない。昨日の虫とは頑丈さも違っていた。
「弾にも限りがある! 早く!」
敬語じゃなくなる程の焦りが天城さんの表情から滲み出ていた。しかし須賀さんはその場から動かない。私は計算が早いというのが仇になっているような気がした。須賀さんは悟ったのかもしれない。昨日、あれだけの武器を使って決死の覚悟でようやく殲滅させたのに、それよりも一回りも二回りも大きさが違う虫が襲ってきたのだ。終局が見えたのかもしれない。
しかし、天城さんは叱責する。
「シイラちゃんを助けられるのはあなただけですよ!」
その言葉が引き金となった。
ハッと我に返ると強い意志で立ち上がり、須賀さんは素早く私の手を取って走る。その時、愛銃のガトリング銃を天城さんの傍に投げ飛ばす。まるで置き土産みたいに。
「こっちだったらまだ皮膚を貫けるはずだ! あとでまた合流だ!」
天城さんは虫を狙い射撃しながらも横目で笑う。
「了解! また会いましょう!」
虫は大きく横に身体を動かし、叩きつけようとするが天城さんは後方に飛び込み避ける。そしてその隙に須賀さんのガトリング銃を背負い、虫を睨め不敵に笑う。
「おい、虫野郎」
それは普段、私たちに使う言葉遣いじゃなかった。
「ヒト様を――舐めるんじゃねぇ!」
虫と天城さんの死闘が幕を開けた。
数時間、走り続けた。息も切れて足に力も入らない私を途中で背負い、須賀さんは走り続けた。決して振り向かず、前だけを見て。昨日休んだ荒廃も抜けた。
廃れた街が視界に広がる。風化でひび割れ、老朽した建物だらけがずらりと並ぶ。ここはもちろんまだエリア内であるし人の気配や生活の音など全くなかった。しかし建物が影になる利点があるため、一先ずここで休憩することを須賀さんが提案したので私は頷いた。
荒げた呼吸のまま言う。
「シイラだけは何としてでも助けてやる」
それは私に言うよりも自分に言い聞かせるように呟いていた。
そして直ぐに地面の砂を使って身体をこする。少しでもヒトや血の匂いを消すためである。私も言われて真似てやった。その準備が出来たら街の一角にある建物へ入り休む。最初、気付かなかったがここは学校だったのかもしれない。テストの答案用紙や教科書、学生証までもが散乱して残っていた。
「学校には行っているのか?」
唐突な質問だったが私は首を横に振った。そんなところへ行けば、多くのヒトに迷惑をかけてしまう。
「じゃあ、帰ったらさっそく入学手続きだな」
私は曖昧な笑顔でごまかした。
少しの間。何かを思いつめたような表情をする須賀さんだったがようやく重い口を開く。
「実は嫁も娘も亡くなっていてな」
――え? だって。
「すまない。あの時は嘘をついた。シイラをヒルベルトリアから出すためにな」
そうだったんだ。でも、どうしてそれを今更私に話してくれたんだろう。
途端、遠くの建物が崩れた音が響く。
「まさか――」
須賀さんが気配を押し殺すように窓から顔を覗く。
「くそ、追いつきやがった」
その苛立った言葉で理解した。ワーム=カンディルがここまで来たんだ。奇声が閑散とした街中で響く。その音に恐怖心を煽られ身を縮めてしまう。そして直後に天城さんの姿が脳裏を過ぎった。あの虫がここにいるということはもう――
私は覚悟した。見つかったら、それで終わりだ。みんな食べられる。ヤクトさん、天城さん、そして――私たちも。
死にたくない。痛いのも嫌だ。だけど――一人じゃない。須賀さんと一緒なら死ぬことだって怖くない。それは須賀さんとの約束を破ってしまうことになる。だけど、私はそれくらいの気持ちがあった。
だけど。
「シイラ、お願いがある」
緊張感漂う中での低く重い言葉。須賀さんのいつものにんまり笑顔が急に見たくなった。
「助けを呼んで欲しいんだ」
私は首を横に振った。そうやってまた私一人だけを助けようとするからだ。
「お前だけを逃がすんじゃない。俺たちを助けるためにヒトを呼んできてくれ」
私の反応を待つ前に須賀さんは続けて言う。
「今から俺はあっちの建物へ走っていく。恐らく奴は気付き、俺の方へ襲いに来る。その間にこの街から離れて助けを呼ぶんだ。合図は爆発だ。まだ何個か手榴弾が残っている。聞こえた瞬間、全力で走れ。いいな?」
そう言って、また頭を撫でる。
「ペンダント、まだ持っているよな? それ、次会った時に返してくれ。その時まで無くさず持っていてくれよ」
須賀さんは笑った。でも、全然笑えてなかった。寧ろ、覚悟の念の方が強かった。
このまま何も言わなければ須賀さんが行ってしまう。何か言いたい。けど、声が出ない。紙に書く言葉も思いつかない。
そして。その猶予ある時間は無残にも過ぎ去った。
「また、後でな」
涙で視界が歪む中、須賀さんは建物から走って出て行った。
その大きな背中に向かって手を伸ばす。しかしその手が彼に触れることはなかった。呼び止めたい。だけど私の声は死んでいる。一生懸命、息を吸って、吐くことしか出来ない。
この時ほど、自分の声が出ないことを呪ったことはなかった。そして気付く。どうして今更本当のことを言おうとしたのかを。
立つ鳥跡を濁さず。
須賀さんはこの世に心残りを置いておきたくなかったのかもしれない。天城さんにガトリング銃を渡したように、ペンダントも置き土産のようにして。
だけど、絶対そんなことをはさせない。
しばらくして爆発の音。合図だった。
私はまた泣きながら走った。昨日と同じように。
違うことと言ったら――
もう振り返らないことだった。
私はみんなを助けるんだ。一人だけで逃げるんじゃない。出来るだけ早く走って出来るだけ早くヒトに会って助けを求めるんだ。それが私が今、須賀さん達にできる最大の助け。
そうやって私は自分に言い聞かせ続けた。
走れ。振り向くな。とにかく走れ。虫の奇声なんて気にするな。須賀さんが時間を稼いでくれる。その分、遠くへ走れ。
体力の続き限り走り続けた。日もすっかり落ち辺りが暗くなる。私は止まって両膝に手を当てて呼吸を荒らげる。贅沢に二酸化炭素を吐き出す。そして呼吸が整えば再び走り出す。だけど連日の探索でもう足も限界だった。
不意に肌寒いことに気付く。
ヒルベルトエリアの夜は寒い。さっきまで夢中に走っていたから気にならなかったけど、急に冷えた空気は私の身体の体力と熱を奪う。このままエリアを抜けきれるまで私は保つのだろうか。そもそもヒルベルトゲインまであとどのくらいの猶予があるの? 天城さんは生きているの? 須賀さんは大丈夫だよね? 他のヒト、ちゃんと助けてくれるよね? 間に合うよね?
一人になると、ネガティブなことばかり考えてしまう。
気持ちが滅入ると、身体も動かなくなる。だから。
次第に足が止まった。
寒い。
野営の準備をしていたのは須賀さんたちだった。手際が良く、すぐに簡易的な暖炉を作ってくれる。
寒い。
一人の夜がこれほど、心細いものとは思わなかった。まるで幻のようにみんなの談笑している姿が目に映る。
寒い。
頬に伝う涙はいつまで経っても枯れない。幼少の頃、散々泣き尽くしたと思ったけど、ここ数日だけで、とても泣いた。そして笑った。
私、一人じゃ――何も出来ない。
段々、小さくなる。心も痩せていく。
そんな時、暗い荒野の中で見つけた焚き火の跡。これはささやかな奇跡だろうか。
枯れ枝が寄せ集められ、傍には着火剤と油。これだけ揃っていれば私でも暖炉を取れる。誰のおかげだろう。私は知らない誰かに感謝した。
見よう見真似で火を起こし、身体を温めた。真っ暗な荒野の中、仄かに灯る炎。パチパチと爆ぜる音。それを耳にするのはこのヒルベルトエリアで私一人。孤独。私の希望も俯瞰すればちょうどそれくらしかなかった。
ギュッと自分の身体を抱きしめ、泣きながら蹲る。何十分そうしていたか分からないけど油も底を尽きかけてきた。たぶん、この火もいずれ消える。その時、私の希望も潰えるんだ。なんとなくそんな気がした。段々、火が弱くなっていっている様な気がするけど怖くて目が開けられない。それに眠いし疲れた。須賀さん、約束守れそうにないや。希望が消える瞬間を見てしまうなら、いっそこのまま目を閉じたまま死にたい。寒い。夢? そうだ、これは夢だ。また目を覚ましたら須賀さんが、ヤクトさんが、天城さんが笑って話しかけてくれる。そうに決まっている。さあ、寝よう私。泣く必要もない。楽しいことを思い出そう。
そんな夢と現実の境界線が曖昧になった時。
――焚き火の火力が強くなった気がした。
そして私は彼と出会って、今度は自分の意思でバベルの塔を目指すことなる。