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第2章     ― 神仁シヲの野望 ―

 第二章     ― 神仁シヲの野望 ―



 半分開いた窓から縫うようにして入り込んだ風が自身の銀髪を撫でる。真夏ではあるものの、標高の高さの影響でここは気圧や気温がやや低い。その所為かほんの少し肌寒さを感じたため本を閉じて窓を閉めようと席立つ。

ふと景色を眺める。

 目に飛び込んだのは一際目立つバベルの塔だった。この景色との違和感を何も思わないようになったのはつい最近である。

謎。

そう一言で片付けられる代物には違いないが色んな憶測が飛び交ったまま、誰もその真実を知らない――が、俺はそれほど興味がない。

視線を巡らせば澄んだ空気に晴天が気持ちの良い青空。そしてそれを浴びるように下に広がる街並み。芸術感覚が優れている設計士が建てたのか西洋を思うわせる風景は戦前とはまるで別物だった。買い物を楽しんでいる夫婦、商売に汗を流している店主、走り回る子供たち。一見、全てがのどかで平和そうに見える。しかしこの地区ほど差別が激しいところがあるのだろうかと西方に視線を移し、やや憐憫に思いながら考える。

なぜか。

 それは俺の視界に入る全てのヒトたちの頭上に輪があるからだ。

 この世界に三種のヒューマが入り乱れるようになって数百年。戦争も終結を迎え、ようやく復興の兆しが見え始めるそんな中。各種族がバランス良く分布する地区もあれば、たまたまここのようにHE型ヒューマが大半を占めてしまう地区だってある。そういう地区によくある現象が今、目の前の現状だ。HE型だけが恩恵を受け、少数のH2型やHD型が片隅に追いやられる。この地区に限っていえば、特に禁忌であるのにもかかわらず。

「まあ、俺にはどうでもいいことか」

 と、窓辺から映る景色から視線を外そうとしたら――

「やあ。神仁君」

 不意打ちに抑揚のない声が後方から聞こえる。俺は振り向き、その相手を見て内心舌打ちした。

「アイル様――」

 俺にそう呼ばれた相手は優しそうな目を細め、ニコリと笑みを浮かべる。

 女性に負けじと長く艶のある銀髪は知性を漂わせ、その線の細い顔立ちは中性的で穏和さを滲み出す。しかし俺は正直、この男が嫌いである。その大部分はこいつと同じ髪の色という理由ではあるが。

「元気かなと思って」

「元気なんてものではありませんよ」

 そう愛嬌を浮かべながらも冷静に分析する。

主天使アイル。階級で言うところ天階級四番目の中位天使様である。わざわざ俺に用があるとは思えない。たまにこの部屋に訪れるが、それは決まって問診である。少なくとも今日ではない。

「私に何かご用ですか? アイル様」

 俺も最大限まで目尻を緩ませて応える。アイルも微笑を崩さず見続けた。

「さっきも言ったじゃないか。単に顔が見たかっただけさ」

「主天使様を何てないこんな日にお目にかかれるなんて光栄です。私はもしや監禁を解いてくれるとばかり思っていました」

「まさか」と、俺の皮肉を鼻で笑う。

「君は出歩かない方が良い。市民の悪意が根こそぎ君に注がれることになる」

知ったことか。

「それにここは牢獄でも監禁部屋でもない。君の家みたいなものさ」

 そう言いながら俺との間にある呪術を掘られた黒鉄格子を撫でるように触り微笑する。

「それだと、もう少し生活範囲を広げていただけると助かるんですが」

 大仰に首をすくめて辺りを見渡す。ざっと広さは二十畳程あるだろうか。床には刺繍の入った絨毯がひかれ、羽毛をぎっしり引き詰めた布団とベッド。棚には本が並べられ、書斎もある。窓も二つほどあり、空気の入れ替えや日当たりに至っては苦情など微塵も出ない。しかし――

「不服かい?」

「ええ。この部屋に十年。さすがに飽きて参ってしまいます」

ほう、と顎に手を当てる。

「そうか。もう十年も経つのか。それなら上に掛け合ってみよう」

 変わらず微笑を浮かべたままだが、どうせ俺の進言はこいつで止まったままになるだろう。俺だって別に本当に懇願しているわけではない。

 恐らく抜き打ちの監査。こいつの訪問理由はそれが妥当な所だろう。しかしこれはチャンスでもある。腹の内を明かしたくないのはお互い様だが、出来るだけ会話の中から情報を入手してやる。

 俺は腰を折って「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げる。そしてそのまま姿勢を低くして、頭を垂れ相手に敬意を払う。もちろん、形状だけであるが。

「ところで私ももう生を授かって十五年。神の加護を授かる年数であります。して、この部屋で十化自護の行を? それとも神の御前では私めは授かることもまかりならぬことなのでしょうか」

 アイルの笑顔は依然消えぬままであった。

「神の前では皆平等。当然、君も受けることになるだろう。恐らく場所もここに違いない。ただ他の者と一緒に行うことは出来そうにないが――申し訳ない」

 と語尾を若干曇らせるがどうせ本心ではないだろう。もともと他の者と一緒にするつもりなど毛頭ないはずだ。それにこの部屋でなければならない理由もある。

「そうですか。して、アイル様はどのような自護神を?」

 小首を傾げ、眼球を右上に動かす。

「はて、水だったかな」

 嘘をつけ。お前は火だろう。この鉄格子に煉獄の呪術を彫り込んだのもお前の仕業なのは承知。そういう小細工は通用しない。この十年、そうやって相手を騙し、あるいは敢えて情報を漏洩させることで、少しずつ出世していったのを俺はずっと見てきた。昔はどうせ俺には何も出来ないと思ってペラペラ喋っていたからな。

 HE型ヒューマは温厚で平和主義? 笑わせる。そんなふうに吹聴したのがそもそもこいつらみたいなタイプだろう。同族嫌悪なんて生易しいものではない。吐き気がする。

「そうそう――」

 心の中で悪態を吐く俺に対し、唐突に話を切り出すアイル。そのニヤリと悪意を浮かべる表情に思わず薄ら寒さを覚える。

「ヒルベルトエリアの拡大。君は耳にしているかい?」

 俺は思わず頭上を上げる。

「――噂程度には」

 アイルはその場で円を描くようにゆっくり歩き、語った。

「赤道より約七十度に傾いたラインでまるで地球を一周するように所々に亀裂が入って出来たヒルベルトライン。そこから出てくる瘴気と太陽の光で未曾有の有害地域となったヒルベルトエリア。それが拡大していくというのは回帰論者が何とも喜ぶ状況だよ」

「仰るとおりです」

「我々ヒトは地表のたった二%に過ぎない地殻すら堀り抜けない。にもかかわらず亀裂の底はそれよりも深くマントル領域を越え核という、世界の深淵なる闇まで生じていると言われている。そしてそこから噴き出る悪魔の瘴気というのは果たして戦争による影響なのかどうか」

「と、いいますと」

 見上げるとアイルは微笑した表情に戻っていた。

「なに、その言葉通りだよ」

「悪魔の、仕業と?」

 アイルはニヤリと不敵な笑みを零すだけだった。

「今のこの現状を見越しておられたというなら、智天使様は何とも賢い方だ。終戦と同時に建設したこの新バベルの塔。それにエリアの拡大。これがより人々の信仰心を煽る形となって信者たちは増え続けていく。一体この先をどこまで読んでいるのか」

 この塔は擬似だ。本来は聖塔ルーファスと呼ばれている。笑わせる。行けたことすらないクセに神に最も近い種族だと主張したいみたいで滑稽に映る。

 しかし。

いくつかの疑問が残るのも確かである。終戦と同時に出現したバベルの塔とヒルベルトライン。いつ、誰が、どのようなことをしてこうなったのかはまったくの謎。それを知り得る人物というのは確かに智天使級の人物しかいないのかもしれない。しかし、悪魔? 荒唐無稽すぎる。それこそ神話の世界の話だ。

「さて、と。そろそろ行くよ。君にあまり詮索されると何が起こるかわからないからね」

 心の中で舌打ちをする。

「ご冗談を。私は一生をここで過ごすただの天使未満の存在です」

 胸に手を当て、目を瞑る。その謙遜の意を示す俺に対して、挑発するように片方だけを悪意に歪めた顔を晒す。

「違うだろ」

 そして瞳を冷たく輝かせ、とてつもなく低い声で言い放った。

「神殺しの者」

 その言葉を聞き――俺は片眼だけ開けて睨んだ。



 十年。この壮絶な年月の間、俺は脱獄だけを考えていた。

閉ざされた世界で緩く生かされているこの現状にとてつもなく苦痛を感じていたからだ。ふかふかのベッドに栄養バランスの取れた三食。時間があれば読書に没頭し、疲れたら寝る。そんな何不自由なく過ごせているこの環境。誰からも干渉されず、逆に干渉しにいくこともない。そんな毎日。

羨ましい? ふざけるな。

 こんな家畜のように飼育されているのに俺は我慢ならないんだ。

 何も考えず、ダラダラダラダラ。決められたレールに乗っかって何が楽しい。刺激が何一つない日常を過ごして何が面白い。俺は思い切り笑って、思い切り喜んで、思い切り泣いて、思い切り怒って、思い切り絶望したいんだ。

こんな所で一生を終えてたまるか。必ず出てやる。こんなわけのわからない塔からな。

 その確固たる思いだけが、今、俺の生きる糧となっているのだ。

 しかし。

 自分の犯した罪を鑑みればさほどの年月ではないのかもしれない。

 その数、十七人。

 数えたわけではない。捕まった際に勝手に耳に入っただけだ。俺は思ったより少ないと感じたが、実際はそんなものだったのかもしれない。しかし、これは売られたから買ったのだ。好きでHE型ヒューマを殺るわけない。幼くしてこの手で葬った数が異様であることから恐れられ、あるいはとてつもない敵意の眼差しを向けられたが、自分でも思う。よく死刑にならなかったと。何の利益があってこの俺を生かし続けたかわからない。しかしある意味ではこれは俺に対して処罰を与えているのと同義の効果を発揮しているわけだ。まあ上の連中がそこまで考えているとは思えないが。

 とにかく。

この十年を振り返えれば、過去に何度脱獄を試みたことか。

しかしその全てが失敗に終わった。脱獄は容易ではないのだ。この部屋は黒鉄格子が囲い、施錠されていて自由な出入りは不可能。仮に抜けたとしても呪術を彫り込めた煉獄が体温に反応して襲ってくる。何度火あぶりにされたことか。俺じゃなかったら焼死していただろう。窓の外からの脱出も不可能だ。高さが目算で地面まで三百M程ある。その間、何も緩衝するものがないのだ。脳みそをぶちまけての転落死がオチだろう。

二年と四ヶ月前が最後の脱獄だった。あれから一度も試みていない。まわりの連中は諦めたと勝手に思っているんだろう。俺も少しも脱獄の気配は出していない。逆に順調だ。これでいい。利用できるものは全て利用してやる。誰も信用しない。ゆっくりと、しかし確実に計画を進めてやる。

そして邪念な考えをちらつかせながら俺は地面に陣を描いた。完成された陣は淡く青に光り輝き、それを見て――不敵に笑った。



 夕暮れも終わりの頃。

コツコツコツ、と閑散とした廊下から足音を響かせ、男が黒鉄格子前までやってきた。およそ兵隊かぶれの装備を武装しているがほぼ見かけ倒しだろう。以前もコイツを吹き飛ばして脱獄を謀ったことがあったがあえなくアイルの煉獄にやれたのを苦々しく思い出す。

「おい、腹減ったか?」

 この神兵の名はローラン。ニヤニヤしながら俺の食事を持ってやってきたのだ。こいつはずっと前から俺の食事運搬係だ。何をしでかしたか知らないが、出世の道を大きく外れてしまったんだろう。可哀想に。四年前にそれを馬鹿にしたら丸三日、食事を持ってこなかった。ふざけやがって。

「今日もお仕事、お疲れ様です。ローレン様が運んで下さる食事を心よりお待ちしておりました」

 俺は土下座をしたまま微動だにしなかった。

 脱獄するためには計画が必要だ。計画には頭を使う。頭をより冴えさせるには規則正し食事と睡眠は必須。そのためなら誇りも自尊心も擲ってやろう。

 そもそもコイツは天使の階級でも最下位だ。様々な日常で鬱憤が蓄積しているのだろう。そのはけ口がここになっているだけだ。天使未満の俺に対して、な。今日の機嫌はまだいくらかマシのようだが。

「ほらよ」

 解錠し、そう言いながら投げるように床に置く。俺はすかさず礼を言った。

「へッ。随分、お前も大人しくなったな。その方が可愛げがあるぜ」

片方の頬を歪めた表情で俺を見下している。

「あの時はどうかしていました」

「まあ、お前もちゃんと言うこと聞いてりゃ、俺も悪いようにはしないさ」

「御意」

「そういえばまた西側の天墜区の奴らヒルベルトゲインしたみたいだぜ。次第にこっちまで押し寄せてくるんじゃないか。あの強硬な区別門だって大勢で押し寄せたら危ういぜ」

 どうやら今日は本当に機嫌が良いようだ。まさか四年前に殴られたのを忘れたわけではなかろうに。中に入ったまま黒鉄格子に背を預けて世間話をしはじめる。正直、うざいが出来るだけ外の情報は仕入れておきたい。

「やはりエリアが拡大しているんですね。我々も直に危険な目に遭うかもしれません。この塔は安全なのでしょうか」

「いざとなったら逃げるさ。ただ、この地区にはアイル様をはじめ、中位天使様が結構おられる。きっと我々だけでも助かるようにしてくれるさ」

 我々だけ――か。

 終戦とは一体何のために行ったのだろう。こいつを見れば一目瞭然だが、この差別主義者が未だ存在するのは非常に嘆かわしい――俺には関係ないことだが。

 それにしても天墜区。やはりそこが鍵になりそうだな。

「まあ、H2型やHD型が押し寄せてきたら、アレをぶっ放せばいい」

 ピクンと反応して、俺は顔を上げる。

「アレ、というと?」

 ローレンは鼻を高くし、自慢げに話し出す。

「俺もお目に掛かったことはまだないが、どうやら先日、復旧したらしい。この聖塔ルーファスのどっかにあるらしいぜ。戦時中に使われた古の兵器、神の息吹が」

「神の息吹――」

「戦時中における最終兵器として搭載されたいわゆる大砲みたいなもので、その威力は壮絶らしい。そもそもいつ、誰が、どこで設計したかはわからないらしい。ただ、戦時中も大活躍したらしいぜ。幾度も戦況をひっくり返したとか」

「そんなものをどうして今更」

「さあな。上の考えていることはわからん。まあ雑談はここまでだ。俺は行く。最近、季節的な要因かどうか知らんが床が湿っているんだよな。掃除が大変だぜ。ったく。お前もこの部屋の換気はよくしとけよ」

 そう言うとローレンは部屋から出て、しっかりと施錠したのを確認してから廊下を進む。そしてしばらくしてバタンと扉が閉まる音が周囲に響いた。

 俺は悪態を吐きながら部屋が閉まりきると同時に椅子に足を組みながら腰掛ける。ローレンにしては、なかなか良い情報が手に入った。天墜区に、神の息吹か。

 脱獄の準備がいよいよ佳境に入ってきたか。



 数日後――

 ウザい客人、其の三といったところか。

ショートヘアのクセに喋るときに大仰に身振り手振りするから金髪がよく揺れる。美人の部類なのだろうが、本人に自覚がないから服装も特に気にしておらずラフな格好。おまけに幼さの残る声でよく喋る。要はまだ子供なのだが、そいつは暇を持て余せば俺の所に寄って鉄格子の前に座ってこうして意味もない会話をしだす。そのほとんどがまったく俺が欲していない情報だから最近では無視して本を読んでいるのだが、そろそろ鬱陶しい。

だから俺は本を閉じて睨む。

「おい、五月蠅い」

 少女は唐突の言葉に息を呑んだが、すぐにハッと我に返る。

「な、なにを! こっちは今朝から礼拝で大変だったことを丁寧に教えてやったのに!」

「誰も頼んでないし、聞いていない。出来るならもう二度とここへは来るな」

 と、絶対的な埋まることない距離感を与えてやったのに、めげずに少女は憤慨する。

「一人寂しい思いをしている所に可愛い女の子が優しく慈愛の手を差し伸べているのに何という暴言! 神から天罰が下るわよ!」

「寂しくないし可愛くない。おまけに慈愛を必要としてないし、神などこの世にいない」

「ぐぬぬぬぬ、無神論者め」

 ここまで歯ぎしりが聞こえてきそうだが、とりあえず黙ってくれたようだ。というより再三、似たような展開になっているのに、こいつはどうして学ばないんだと不思議に思う。

下位の大天使アリサ。それがこいつの階級と名前だが、こんな容姿で俺より年上だったりする。半年前にここに訪れてから二、三日に一回のペースで俺との無駄なおしゃべりを強要してくるようになったが、時折、アイルやローレンの話の信憑性や整合性を確かめるのに役立つ。まあ基本的にはほぼ雑音であるが。

 アリスは溜息を吐き「もういいや」と言って、パンパンと汚れを払い落としながら立ち上がる。そして黒鉄格子を掴み寄り、既に先程のことは水に流したような晴れやかな表情と好奇心によってキラキラした瞳で俺の方を見る。

「んで! 脱獄の決行はいつ?」

 刹那。射殺す程の視線をアリスに向ける。アリスは細く「ひ」と声を漏らし硬直した。

「テメェ、その場所でそんな声でそんな内容を口走るんじゃねえよ。殺すぞ」

言われて、急いで両手で口を覆いながら監視カメラをチラリ見る。

「ごめんなさい」

 と、籠もった声を耳にしながら俺は大きくため息を吐いた。

 こいつにリークしたのは間違いだったのだろうか。とりあえず好き勝手に口走る前に鼻面を叩いておいたが、こいつに似たような状況を託すのは間違いなのかもしれない。

 より一層暗澹な気持ちが胸を撫でたが、内心、首を左右に振る。こいつがいないとこの脱獄は成り立たない。

 片目を瞑り、素早く印を結ぶ。瞬間、周囲の気温が下がる。

 アリサは小首を傾げて様子を窺っているようだったが、実際何が起こっているかわかっていないだろう。

「よし、いいぞ。見取り図を出してくれ」

「え、でもいいのか」

 アリサはもう一度、監視カメラへと視線を寄越す。

「いいんだ。とっとと出せ」

 一瞬、額の血管がピクッと動いたが、アリサは従順に従って、背負っていた筒先から大きな見取り図を取り出し広げる。長方形型の図面に対して、左側には外観、右側には聖塔ルーファスを上から輪切りにしたような図面が記してあり、詳細にどの部屋に何があるかのメモも描いてある。俺はそれを覗き込むように見る。

 ここは全長、八百M程ある塔の中。その丁度中間辺りに位置する六十四階に今俺たちはいる。そこは俺だけのために用意された監禁部屋だ。

はっきり言えば、この檻から出るだけだとそれほど難しくない。腹が痛いと言えば体温遮断ナントカを装着されて、アイルのいる医務室へ簡単に行ける。しかし、脱獄して、この塔を出て、捕まらないようにするには至難極まる。だから見取り図は必要不可欠のアイテム。それを自由に動けるアリサに頼んでおいたのだ。

 俺は徹底的に見取り図を見直す。毎日、毎日細かくアリサに指示し、詳細に描かせたのだ。その日数、百八日。言葉にして誉めることはまずないがよく根を上げずに動いてくれた。鉄格子越しに「頑張ったでしょ」と鼻を高くしているアリサだが無視する。まあ、こいつは煩悩で一杯だろうな。

俺は図を見ながら頭の中で歩き回り、完全にこの塔全体を把握できるように復習する。

「……よし、問題なさそうだ」

完全に網羅するまで数週間を要したが、いよいよ脱獄を決行する時が来たようだ。

「六十四階以上の部屋は要らないって言われたから描いてないぞ」

「ああ、問題ない」

 脱獄が目的なんだ。六十四階以上は中位天使、大位天使の巣になっているのに、わざわざこちらから出向く必要は無い。この階以下の図面はこちらの予想以上の出来で完成させたくらいだ。申し分ない。ただ気になる箇所もある。

「それよりも――」

 俺は図面のある一部のところを指差し訊く。

「開錠証の類は確かに四十五階内側螺旋階段付近にあるんだな?」

 信頼を寄せたような瞳に思わず言い淀むアリサ。しかし、はっきりと彼女は肯定した。

「――ああ、確かにある」

 しばらくアリサの目を見続ける。

「――わかった。じゃあ問題はない。決行は今から丁度一週間後、十化自護の行のときだ」

「十化自護の行? もしかしてお前も天使になれるのか?」

 言われて思わず鼻で笑う。

「ああ、そのようだな」

 俺は机の上に置いていた封筒をアリサの床近くに投げ捨てる。そこには天階級認定書及び儀式の日付と時間が記されてあった。最後にはこの地区代表として智天使様の判も押されている。つまり、意外なことにアイルの奴が上に掛け合って儀式が行えることになったということだ。正直なところ、儀式が出来るとは思ってなかったため、嬉しい誤算である。これは脱獄案二十二通りの内、最も楽な部類に入る。

「お前みたいな極悪人でも天使になれるとか、一体上は何を考えているんだか。より一層暴れる力が増えるだけじゃないか。まあ、あたしはそっちの方が面白そうだからいいけど」

「なら黙ってみとけ」

「ていうか、脱獄経路はいいけど、まずはこの部屋から出れねーじゃん。大丈夫なの?」

「それは問題ない。まあ楽しみにしとけ」

 決行時の光景を思い描き、薄ら笑いで顔を歪めた。

「この日をとてつもない日にしてやる」



 十化自護の行。

それはHE型ヒューマ特有の能力を使役するための儀式である。そして、他種族と優位差を表せる唯一の点といえるだろう。はっきり言えば、頭上の輪さえなければ、H2型ヒューマと変わらない筋力しか持ち合わせていない。機械、科学に強いと言われているH2型や驚異的な運動能力を持つHD型と十化自護の行を持たないHE型が戦えば、間違いなく大敗を期すだろう。

つまり十化自護を授かることで初めて対等に渡り合えるということである。そして我々HE型ヒューマはそこで初めて天使としての階級を得ることになる。十化とは地球の自然元素として火、風、水、光、土、氷、雷、闇のことを表す。そして自護というのは、その自然元素で自らの身を護るということ。すなわち、自然元素のうち一つを神の力で授かり、その力を使役するということである。

 また天使となるには神によりこの地に生を授かって十五年を年月が必要とされている。その年数を境にHE型ヒューマたちは教会で十化自護の行を受ける。まずは自らの適正を知るために聖水を飲み、背後に現れる自護神を見る。そのあとに神具で各属性に沿った陣の中で祈りを捧げる。個人差はあるものの真に無心となった途端、神から加護を得られ晴れて天使としての階級を得るのが通例である。

 どうやら俺の十化自護の行はこの監禁部屋で行われるようだが。まあ、この監禁の部屋には俺の神殺しの力を封じれるようになっているらしいからより安全を考慮しているのだろう。

 つまり天使になるのに場所なんて関係ない。神具や聖水があればどこでも出来ることが証明されている。

 快晴日の昼頃。俺にとって歴史的な一日となる今日。

 神具で描かれた陣の上に立つ俺は不審さがない程度に辺りを見渡す。

 廊下と部屋の境にある黒鉄格子を隔てて、計八人。その内訳は教会の人間が部屋に四人、異端審問官が廊下に一人。牢兵として神兵ローレンがいて、最後に俺、だ。てっきり主天使アイルも様子を見に来る想定だったが、これも嬉しい誤算だ。俺ごときに異端審問官らしき人物がいるのは厄介ではあるが。そいつは廊下の壁に背を預けて腕を組み、恐らくこちらを見ている。恐らくというのは仮面を被っているからだ。黒装束に神の一人とされる太陽神ベロボーグの白仮面。正直なところ、薄気味悪さでいえば、この部屋で最も群を抜いている。俺が重罪人だから監視を兼ねて来たのだろうが。

「では十化自護の行を始める」

 礼服に身を包んだ教会の人間――神官の一人が低い声でそう言うので視線をそちらに寄越す。髭の手入れがしっかり行き届いており、頭には教会特有の中立を表す白い帽子と胸に紋章バッチ。見た目で四十代といったところか。そのやや後ろで白髪の混ざった更に年配の人間が憮然と佇んでいる。残りの二人は片膝をついて祈りを捧げていた。

 神官の髭男は仰々しく幾何学的な模様をした小瓶に入った聖水をグラスに注ぐ。そして半分程になったところでグラスを俺の目の前まで持ってきた。

「聖水を体内に入れることで、神の子の証、自護神が活性する。自分の特性を知るために必要なので飲み干すのだ」

 神官らが、異端審問官が、神兵ローレンが、固唾を呑んで静観する。

 俺は、じっと聖水を見つめ、ゆっくりと手に取り、そして――口に含んだ。瞬間、陣が藍色に光り出す。どこか神秘的で、ヒトの理解を超えるような陣と光。その傍らで「おおッ」と感嘆の声を漏らす神官たち。

「氷の自護神、セルシウス」

 聖水を渡した髭男がそう呟いた。そして後ろで佇んでいた白髪の男が顎に手をやり続けて言う。

「珍しい。氷を司れる天使がいようとは。陽は遮断。陰は偽造。恐ろしくもあり不吉でもある。しかし、それも彼の者だからこそ、かもしれんが」

 一瞬、俺の背後にセルシウスの幻影が出現する。周囲の気温を奪い空気を冷やす。この自護神は二足で立ち群青色の髪を肩まで伸ばしている、女ヒト型に近い姿であった。両目を黒い布で覆い、青と白の絹布を必要最低限にしか身に纏っておらず、見ているこちらが凍えそうである。その口元はどこか悪意に歪んでいるように見えた。しかし最も不気味なのは下半身が死体のように腐乱しているところだろうか。

まあ、そんなことはどうでもいい。

脱獄の幕開けだ。

 俺は口の中から大きな固形物を吐き出す。周囲の人間がギョッとその転がる固形物に目をやる。床にコンッと音を立てた硬さや楕円のような形、そしてその透明感はまるで――

「氷?」

 と、目の前の髭の男は呟く。俺はニヤッと不敵に笑った。

 楕円の氷は俺の唾液で濡れているが、一切、溶けてはいない。即ち、セルシウスによる絶対零度。

「なに、さっきの聖水ですよ」

 そして次の瞬間。悪意に顔を歪めた。

「けッ、誰が製造工程が明らかになっていない水を飲むものか」

 神官たちがどよめく。

「なッ、まさか――」

「氷の神、セルシウスの名は別名でヘルと呼ばれている。なぜだか分かるか?」

 俺の質問に誰も答える者はいなかった。ただその場で狼狽するだけ。

「古の国、ニブルへイムで死者の女王として君臨していたからだ!」

 そして右腕を素早く振る。刹那――机がベッドが本がカーテンが、ありとあらゆるものが砕け散る。それは水晶のように美しく、結晶のように儚く。まるで全てが幻想だったかのように。そして暗黒な現実を突きつけるように。

「馬鹿な! 神から力が授かるには早すぎる!」

「誰が今授かったといった。俺の足元を見てみろ。お前が描いた陣から光り出しているんじゃない。俺が聖水を凍らせたからだ。詠唱破棄で口の中の聖水を凍らせ、周囲に散りばめた偽氷を氷解したから陣が光ったんだよ!」

「ま、まさか、既に」

 まるで子供に向けるような優しい笑顔を見せる。

「ご明察」

「支援なしにありえん!」

 周囲が動揺している中、腕を床に突き刺すように置く。すると手に触れた床は次第に氷がひび割れるように崩れ、直径、一メートル程の穴を出来上がる。

「じゃあな」

 重力に任せ、砕けた氷と一緒に落下していく。そして下の階へと衝撃を緩衝して着地する。見渡せば、先程の俺の過ごした部屋とまったく同じ構造であった。

 頭上から神官が叫ぶ。

「馬鹿め! お前の部屋の上下はお前の部屋と同じ構造を取っている。鉄格子の煉獄の呪術も同様だ! まさかと思ったが、そこからは決して出られぬぞ!」

「あ、そ」

 俺はそれを冷ややかに受け流した。

 周囲に存在する空気中の水分が薄氷へと変わり、全身を覆う。即ち絶対零度の初期状態である。そしてそれは熱探知をもかいくぐる。

 俺は下から見下すような笑みを浮かべ悠々と鉄格子から抜けて廊下へと出た。教会の人間の間抜けな声が非常に俺の心を踊らせる。だから中指を立ててやった。

「バーカ」

 廊下に出ると、急いで上から駆け下りてきたのか神兵ローレンが片手に槍を持ち襲ってきた。教科書のお手本のような鮮やかな押し引きで正確な突きだったが俺はゆっくりとそれをかわす。

「そういえばあんたには積年の恨みがあるんだよ」

「ふざけやがって! 今ここで死ね!」

 そう言いながら二撃目を繰り出すが俺はそれをもかわす。呆れて物も言えなかった。今、お前の目の前にいる人物がどんなヒトか分かっていないらしい。

「忘れてないか? どうして俺があの部屋で監禁されていたかを」

 そして三撃目を繰り出そうと、槍を持つ右腕の脇を締め引いた瞬間――俺は素早くローレンの顔面を掴んだ。

「俺は神殺しだぞ」

 ローレンは呆気にとられ、そして断末魔をあげることもなく灰となり――消えた。

 さて、ここからが本格的な脱獄だ。



 自護神の力を借りて使用する術を天術と呼ぶ。各々の天術は適性の合った自護神の特性を活かしたものであるが、氷の天術には陽では絶対零度、陰では偽氷、氷解などがある。もちろん他にも様々な天術があるのだが、現状、俺が使えるのはこの三つしかない――いや、むしろこの三つしか強化しなかったという表現が正しい。

 絶対程度。対象の重さ、厚さ、表面積などにより時間の差はあるものの凍らせることができる。例えば、先程の聖水程度の体積だと、秒殺で凍らせることが可能であるが、床レベルの表面積、厚さなどを完全に凍らすとなれば数時間から数日を要する。しかし、一度凍らすことが出来れば、維持も崩壊も自在。

 偽氷。溶けない氷で対象物を模写することが出来る。つまりは複製が可能。ただし、生きているものは複製が出来ない。

 氷解。絶対零度で凍らせた対象物、もしくは氷影で複製したものを溶かす、もしくは砕く、所謂、解除。

 俺はこの三つの天術を使用して脱獄を謀ったのだ。それもこれも全て主天使アイルの自護神の属性、炎に対抗するためである。煉獄の呪術を施された物質を踏む、もしくは破いたり通過した場合――今回で言えば鉄格子を通過した場合に相当するがその者を身動きができないくらい焼き尽くすという技。しかし、それは強大ながらも熱探知による待機型の攻撃。温度の変化がなければ反応はしない。何度も何度も脱獄を試みた俺だからこそ気付いた特性。そしてそれを打開するために熟考に熟考を重ねた結果、俺は一年と半年前に氷の自護神を授かることを決断したのだ。

 例外のない例外なんてない。想像通り、俺は神具や聖水を使わずに十化自護の行を行った。これはある意味無謀。そしてある意味では革新的な行為である。

 盲目的に教会の教えをそのまま鵜呑みにするHE型ヒューマたちは聖水を飲み、その特性に合った陣の中で三日三晩の祈りを続けることで自護神を得る。しかし、神具と言われているものは単なる道具だ。古代から使われているというだけで丁重に扱われているが、歴史的以外の価値などない。聖水に関してはほぼ賭けに近い。自分の内在する自護神を知るための行為であるが、俺の自護神が炎だろうが風だろうが、関係ない。迷わず氷の陣を作り、祈りを捧げた。氷じゃないと駄目だったからだ。特性の合わない自護神を得ると、その能力は半減するという。しかし、俺にとっては些事以外何者でもない。俺は脱獄するために生きて、脱獄するために能力を有するのだ。それ以外の使い道などない。自護神セルシウスを授かってからは常に鍛錬した。バレずに鍛錬するために書物、机、ベッド、とにかくありとあらゆる身の回りの物を絶対零度、偽氷、氷解することで。



 慌てふためいた神兵どもの声が遠くで響く。

ローレンを灰化した後、すぐに四つあるエレベータの稼働ワイヤーを凍らせて、螺旋の階段を駆け下りる。ここから先はスピード勝負である。焦らず、確実に、できるだけ速やかに。迷うことはない。何度も何度も頭の中でシュミレーションをしたのだ。全てが見取り図通り。最短距離で走る。目的地の四十五階――聖文殊の間へと。

 時折、遭遇する神兵は事前に気付けば偽氷で反射させ戦闘を回避し、出会い頭なら躊躇なく一瞬で灰化していった。

「奴は階段で降りている! 挟み撃ちするんだ!」「階段は二つある! 手分けで探すぞ!」「エレベータは使えない! 下の神兵に連絡しろ!」「通信機も使えない!」「くそ、こんな時になぜ!」「とにかく探せ!」「中位、上位天使様たちにも連絡だ! 足を使え!」「絶対に塔から出すな!」

 電波ジャマーしているのは恐らくアリサだろう。本当にやってくれるとは思わなかったが、奴の自護神ならそれが可能である。だからこそ招き入れたし、頼んだ。あくまで予防線として。依存はしない。一人で謀っても問題ないように綿密な計画は立てている。

だが。しかし。

自分の気持ちが揺らぐ。決めていたのに。この気持ち悪い感情は何だ。不快感でしかない。くそ。

 俺は横に頭を振り、雑念を振り払うことにした。

今は四十五階の聖文殊の間に急がねばならないのだ。そこで速やかに解錠証を盗む。聖塔ルーファスを出て、天満区から天墜区を抜けるための区別門の解錠証を見せて門を抜ければ俺の勝ちだ。幸い、俺は十年以上監禁されていたため、顔はもうほとんど知られていない。大罪人として多くのHE型ヒューマに憎まれているのに皮肉なものだ。それにヒルベルトエリアが拡大しているところへわざわざ逃亡するとは奴らも考えないだろう。捜索するなら地区東側のはずだ。

絶対に脱獄してやる。こんなところで終わってたまるか。

 息を切らしながらも見渡す。辺りは閑散としていた。ようやく辿り着いた場所には人気はなく、さすがに警報が鳴り響く緊急事態なのに悠長に読書にふけっている者はいないようだ。しかし、油断はしない。忍び足で壁に隠れ、慎重に、少しずつ、見取り図を思い出しながら目的地へと近付く。聖文殊の間の敷地面積は広大である。その中で外側の螺旋階段と繋がる書物庫と内側の螺旋階段と繋がる書物庫がある。アリサが提供した情報では解錠証は内側螺旋階段付近の方。

だから俺は――目を瞑り、外側螺旋階段(、、、、、、)の方へと足を進めることを決心した。



 脱獄劇から数十分が過ぎた頃。

 想像よりも神兵たちが俺を探せていないことを逆に不審に思ってしまうが、広大な回廊に辿りついたとき、空気が重いことに気付く。それは少しでも罪悪感というものを感じているからだろうか。それとも普段が演技で単純に本来のこいつの性格が成していることなのか。どちらでも良いが間違いなくこの場所を暗澹とした雰囲気を助長しているのはこいつだろう。

 俯き加減の少女の顔はきっと青く染まっているに違いない。

「よお」

 その言葉と同時にビクッと肩を振るわせ、ゆっくりと振り向き、俺を見て少女は驚愕した。想像通りの顔つきだった。

「どうしたんだ? まるで幽霊でも見ているようだぞ」

「か、神仁シヲ――」

 肩までしかない金髪を揺らし、怯えた瞳でこちらに視線を寄越すアリサ。その声はか細く震えていた。

「今頃、聖文殊の間で返り討ちに遭っているとでも思ったか? 予想が外れて残念だったな。俺は少しもお前のことを信じていなかった。お前が俺と初めて話したあの日から今日まで、ずっとな。お前が密告者なことくらいは分かっていた。分かっていて泳がしておいたんだ。どれが嘘で、どれが本当かを確認するために」

 そう言って俺は解錠証を目の前に掲げる。

 しかしアリサは驚きながらも反駁した。

「で、でも、だからって! 信用していないにしては、ここに来るには早すぎる。私の言葉を信じていないことには無理だ!」

「何度も同じことを言わせんな。俺はどれが嘘で、どれが本当か、確認したと言っただろう。お前が吐いた嘘はたったの一つだけ。それは聖文殊の間の書物管理庫の場所だけだ」

「だから、それがどうして分かったんだよ!」

「お前にも言っていなかったが俺の自護神はセルシウス。氷を自在に操る。つまり、牢獄の解錠も、監視カメラの偽造も、容易く可能なんだよ。気付かなかったか? 最近、床が所々濡れていることに。それは俺が解氷した跡なんだよ。馬鹿な奴らは季節的な要因とかなんとか言っていたがな。俺は何度も牢獄から抜けて、足を運び、自分の目で確認していたんだよ!」

 色々と悟ったようだ。心当たりもあるらしい。

「だったらどうしてわざわざ今日脱獄する必要があるんだ」

「この日は他の天使たちも十化自護を行う。つまり最も人手が薄くなる」

もう充分だ。計画通り進めていく。

「さて、俺を騙した罪は重い。それは万死に値する」

 途端、足元に葵色に光る陣が現れる。そして背後にはセルシウスの幻影。詠唱破棄した絶対零度といえど、ヒトの心の臓を凍らすことなど、容易。アリサは身体を硬直させ、ようやく動かせたと思ったら足に身体がついていかず、後ろに尻餅をつく。

俺は逃げ出すこともままならない彼女に近付き、手を掛けようする。

しかし――

彼女の瞳に映る自分の表情を見て――戸惑った。そして思わず、前髪で顔を隠す。

「――せろ」

「――え?」

「うせろと言ったんだ! さっさとどこかへ行け!」

 その言葉が合図となった。「ひ」と短く声を上げ、身体を捻って駆け上がる。

 アリサは恐怖に顔を歪めたまま何度も何度も振り返り走り去っていった。

 刹那、頭にアリサから電子信号が送られる。

「――くそ、胸くそ悪いぜ」

 苛々する。自分を戒めたい。場所が場所なら自分の頬を何度も殴っただろう。一瞬、思い出してしまったんだ。アリサが鉄格子越しに話しかけてきた姿を。あしらう自分を。ほんの少しだけ笑みを零していた自分を。あれすらも、演技だったと思いたくなかったのか。だから俺はあんな情けない顔をしていたのか。ふざけている。ありえない。俺は誰も信用しないんだ。ぬくもりも必要ない。友人も必要ない。誰にも干渉されず一人で生きていけるんだ。

 ふと我に返る。

時間が惜しい。そう思って前へ進もうとしたとき――

 突然、パチパチパチパチと張った音が聞こえたが、それが拍手だということに気付くのに数秒を要してしまった。それぐらい意表を衝かれ、且つ、場違いだったからだ。

「正直、恐れ入ったよ。君のその周到ぶり、そして自分以外は誰も信じない信念を。それに天術の使い方。どれもこれも賞賛に値する。ただ――非情さは少々足りないようだね」

 振り向き、俺は驚愕した。その人物にじゃない。その人物が右手で握っている少女の生首を見たからだ。目は見開いているところ、突然だったに違いない。鮮血が床に滴り落ちる音は不快感でしかなかった。

途端、こいつの奇人さに悪寒が全身を舐め回す。しかしそれは次第に業腹な怒りの感情として変化していった。

「……アイル!」

 銀髪を揺らし、にこやかな表情でこちらに向かって歩いてくる中位天使。

 生まれて十五年。極端に人と出会ってない俺ではあるが、これほど憎いと思った人物が今後現れるだろうか。落ち着いた口調で、猟奇的な行動をいとも簡単にしでかすこいつを。 

 俺の直感は間違ってはいなかった。

「俺はずっとあんたのこと、大嫌いだったんだよ!」

「それは私が持っているコレが原因かな?」

ニヤリとしながら、少女の生首を投げる。名状し難い音を立てて壁に当たり、まるでボールのように床に転がる。そしてアイルは手についた金の髪を汚らわしく払い落とす。

わかっている。挑発していることくらい。しかし、自分の怒濤した激情を抑えきることは出来なかった。少女に対して後悔以外の感情なんて浮かばなかった。

 地面を素早く蹴って、間合いに入り右手を掴もうとする――が、寸でのところで後ろに跳躍し、回避する。

「神殺し。触れさせるわけにはいかないよ」

「生憎、脱獄中なんでね。手早く殺す」

「つれない。せっかくなんだ。楽しもう」

 俺は駆けた。一撃で速やかに奴を殺すには触れる以外に方法はないからだ。奴は中位級主天使。天術合戦で勝ち目など今の俺にはないだろう。

 アイルは接近する俺を見つめながら、詠唱破棄で天術を繰り出そうとする。足元には太陽のような形の陣が赤色に光り出し、奴の属性が炎だということを改めて知る。

「紅蓮」

 途端、炎神イグニスの幻影を背後に映したと思えばアイルの頭上に巨大な炎の塊が数個生まれ、直線で飛んでくる。

 俺は限界まで研ぎ澄ませた神経で避けながら駆ける。防御はしない。その時間がロスだとわかりきっているからだ。

 いける。

 全てを避けきった俺は確信した。詠唱破棄とはいえど、術前後のタイムラグは必ず生まれる。次の紅蓮までには俺の間合いで奴に触れることができる。

 その判断僅か数秒――一気に俺は距離を詰めた。途端、アイルの目が見開く。そして口を開け余裕のない表情を見せた。

 しかし。

あと一歩の距離で床の上にある紐が光り輝き、煉獄の呪術で炎に呑まれた。

 不意に襲う熱に悶え呻く。

 その傍らで恍惚の表情で転がる俺を見るアイル。

 立場が一気に不利となった。

「丁度、今この場所があの女が立っていた場所だったと気付かなかったかい? あいつは私の部下だ。私の命令でお前に近付き、お前が何を隠しているか聞き出す任務に就かせていた。そして先程床に呪術を施した紐を設置させたんだよ。もちろん今日君が脱獄を企てていることも知っていた」

 ……俺だって知っていたさ。けれど、信じなかっただけだ。

 次第に俺のまわりから炎が消えていく。身が焦げた匂いが鼻につく。身体がピクリとも動かない。心が折れそうになる。絶対的な力に対して無力。何度も何度も受けた煉獄の炎。

俺の脱獄は甘かったのか。

「ふむ、実力的にいえば中位天使級くらいだね。天術の威力や詠唱破棄。よくバレずにあの監禁部屋で鍛錬したものだよ。その努力、本当に感服する」

 辛うじて意識を保ちながら上半身を懸命に起こす。

「お前に誉められても不愉快でしかない。黙ってさっさと死ね」

 しかし、アイルは俺の言葉など気にも止めなかった。

「そもそも十五歳以前から自護神を授かるなんてルール違反だよ」

「うるせぇ。あんなもん、タバコや酒と一緒だ。勝手にお前達が作ったルールだろうが」

「もちろんそうだが、理由はちゃんとある。精神構造的に自護神に呑まれないためなんだけど。まあ、結果として君は無事に手に入れたんだから文句を言うつもりはないけどね」

「だったら――」

 床に置いた手元から陣が蒼く光り出す。

「早々に死ね!」

 瞬間、俺が倒れている床下が氷の結晶のように変化し、崩れる。

 アイルは身構えていたが、その手を降ろし、冷静に俺が落ちていくのを眺めた。

「フェイント、か」

 鼻で笑ったアイルであるが瞬間、自分たちがいる位置を思い出す。

「この下は大聖堂聖具室――まずい」



下は薄暗い部屋だった。無理矢理、明かりを遮断したように遮光性が行き届いており、どこに何があるのか分かりにくい。それに――この塔は基本的にどの部屋も大きい間取りのようだが、ここは一段と広い。足音がよく周囲に響いた。それにほとんど誰もヒトが訪れていないのか、埃も絨毯のように溜まっている。

 見取り図を思い出す。ここは確か――ブラックボックス。立ち入り禁止区画だった。脱獄には関係ないと思って、さほど注意はしていなかったが、アイルと接触してしまったこの状況を打開できる何かがあるかもしれない。

 そう次の一手を算段していくが、相手はそれすらも許さなかった。

「神仁君、そろそろ檻の中に戻ってくれないか?」

 俺は平静を装いつつ、鼻で笑った。

「誰が入るか」

 俺が崩した穴から同じように降りてきたアイル。俺との距離は僅か数十メートル。先程の攻撃の傷の所為で庇いながら歩いていたのが仇となる。素早くどこかへ隠れていれば良かった。奴との天術合戦は危険だ。他にどんな奥の手があるかもわからない。だからといって先程のように接近するのも困難だろう。

 慎重に、ゆっくり後ずさりながらまわりに視線を巡らす。アイルのいる方角には何もない。ずっと先に壁があるだけで俺の助けになるような物は置いていない。つまり後ろに期待するしかないのだ。

 怪しまれない程度に足で捜索していけば不意に何かが足に接触した感触があった。

「そもそも、君は脱獄して何がしたいんだ?」

 追い詰めたと思って気を緩めたようだ。アイルのお喋り好きが発動している。これはチャンスだ。

「何がしたいか、だと?」

 手を後ろに回すと、硬い何かが触れた。金属のような感触。それに手足で触れることが出来たということはかなりの大きさか。――賭け、だな。

「夢はあるのかい?」

 なんだ唐突に、と訝しみながら考える。

 夢など持ったことがない。そんな環境じゃなかったからだ。ずっと閉じ込められていたんだ。だが、敢えて言うなら俺の夢は一つしかない。

「俺の夢は脱獄できることだ」

 アイルは俺の言葉に大袈裟に肩を竦めて溜息を吐く。

「君はずっと脱獄を願っていたようだけど実際はどうだい? 本当に今の生活に満足していないのかい? もしかしたら君は脱獄することで、ひどく後悔するかもしれないんだよ」

「俺はそれすらも求めているんだよ。後悔? 絶望? 望むところだ」

 瞬間、俺は振り返り、後ろにあった物を見つめた。

「これは――」

 全体的に鉄の黒さが部屋の薄暗さと同調していたが、特有の光沢は見逃せない。車輪が装着された大きな大砲であった。砲口直径に対する砲身長が短い。全長にして十メートル程あるが、確か――

「榴弾砲?」

 いや、カノン砲でもいいのだが。

 内心、舌打ちする。大砲だとかなりの破壊力がある分、動きが遅い。アイルがそこまで悠長に待ってくれるはずがない。

 しかし、アイルの発する言葉は違っていた。

「神の息吹だよ」

 耳にしたことがある。確かローレンが言っていた。これが――そうなのか。

「外観はほぼ大砲だけどね。まあ君のような天使見習いが触れて良い代物ではない。ここは上位級の天使様たち以外の立ち入りを禁止されている。とっとと大人しく――」

「古の戦で活躍した古代兵器、だろ」

 アイルが多少驚く。

「どこでそれを」

「さあね」

「まあいい。それは誰にも扱えない。砲弾という概念ではないのだから。さあ、お遊びはこれで終いだ」

 床に太陽陣が描かれる。そして炎が頭上に生まれ塊を作る。一気の部屋の気温が上がった。そして炎神イグニスが上から見下ろす。額から流れる汗は暑さから、それとも追い詰められたからか。

「くそ! 動け!」

 俺はがむしゃらに大砲を動かす――が反応はない。とにかく砲身をアイルの方へ向け、いじる。しかしアイルは余裕の表情を浮かべながら近づく。まるで意味がないことを悟っているように。

「無駄だよ」

 考えろ。必ず動く。これはただの大砲ではない。弾で発射されるものではないのだ。仮にも神の息吹と名付けられたものだ。天術に近い何かがで動くんじゃないのか。凄惨だったと言われる古の戦争でHE型ヒューマが使っていた代物。俺たちじゃないと作動しない仕掛けがあるに決まっている。何が糧なんだ。考えろ。神の息吹、神の息吹――――――そうか。

 俺は冷静になり、砲台下の把手あたりを調べる。するとそこには丁度、手を挟む込むような窪みがあった。

「賭け、だな」

 最早、一般常識だが、我々HE型ヒューマはヒトの営みで子を産まない。それが神の子として言われる所以であるが、正確には大聖堂の聖居に神々しく赤ん坊が出現するのだ。俺もそうだったらしい。つまり神から授かったヒト。つまり、神の息吹がかかったヒトをHE型ヒューマという。

 大砲の糧は――俺たちか。

 俺は窪みに手を突っ込む。瞬間、強烈な脱力感と共に大砲全体が白く光る。目を開けられないくらいに眩くなるが、照準は外さないように両手でしっかり砲身を押さえる。

「なんだと!」

 アイルの驚愕した表情を初めてみた。俺は凶悪な笑みで相手を睨む。

「色々な恨みがお前にはあるが――」

「くッ、紅蓮!」

 素早く炎の塊が俺目掛けて襲う。しかし――遅いッ!

「死で償え!」

 光が凝縮し、砲身の中へと吸い込まれていく。そしてとてつもない轟音とともに一気に砲弾が光となり放射された。最恐最悪の兵器――神の息吹。それはアイルの炎を消し飛ばし、そしてアイルを呑み込み、壁を突き抜け、地の果てまで伸びる。アイルの断末魔さえ耳にすることがない速さで。

 しかし。

 気を緩めた瞬間だった。反動が強く砲身を押さえていた両手が崩れる――と、同時に砲身にぶつかり、半身が神の息吹の餌食となり、俺も彼方へと吹き飛んだ。


 ――そして三日後。

俺はある少女と出会い、バベルの塔へ目指すこととなるのであった。




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