表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第1章     ― 帝龍巳の失ったもの ―

第一章     ― 帝龍巳の失ったもの ―



「よっと」

そんな掛け声と共に背負っている荷物を持ち替える。肩に食い込む紐から荷物の重量感は相当のものだと分かるが、今朝から手が痺れて何度持ち替えただろうか。大きな褐色のボストンバックを膝の裏で押し当てながらふと考える。

 距離にして二十キロ以上は歩いたと思うが、まだ目的地には着かない。さすがに疲労が苦痛に変わって足の裏から太股にかけて訴えかけてきた。車でもあればまだいいが、運転免許なんて持てる年齢ではないし、そもそもこんな場所で車が通りかかって気さくな人が乗せてくれるなんて、そんな奇跡は起こらないだろうと辺りを見渡す。

 人気はまったくない。

 舗装された道路はひび割れ、点滅もしない信号機は斜めに傾いている。少し先にある田圃らしき跡地には雑草すら生えずに乾いた地面が剥き出しになっていた。昔人々が生活していた跡は残している。けど今は――

 ヒト……いや、あらゆる生物がここには存在しないのだろう。それもこれも先の戦争の影響が甚大であったことを語っていた。

 それにここはヒルベルトエリアだから――

熱を帯びた日差しは舗装されたアスファルトを焦がし、靴の中は汗のおかげで蒸されたように気持ち悪い。出来るなら靴を投げ捨て裸足で歩きたい気分だ。服だって長袖は辛いし、出来るなら短パンの方が気候的には合う。しかしここでは出来ない。出来ないから体温が調節するために汗を吹き出す。そしてそれを補給するために用意した水も――

そう思って恨めしそうに底の尽きたペットボトルを眺める。

残念なことに完全な不注意で零してしまったのだ。万事休す。

 だけど僕は行かなければならない。

 ギュッと一層強く握りしめた紐は先にある褐色のボストンバックの中身を重く揺らした。

「あともう少し」

 ずっと遠い先に陽炎のように揺らめくバベルの塔を黙視し、誰知れず、僕はこのヒトが捨てた地の更に奥へと足を進めた。


歩くこと更に数時間。

「甘かったか」

どうやら、身体が限界のようなのだ。

 ヒルベルトゲインではないようだが、冷静に自身を分析するとどうやら脱水症状のようだ。水が尽きたのがそもそもの運の尽きだった。唇は乾燥してひび割れる。口内もカラッカラで口臭がひどい。汗も出なくなった。頭痛はするし、足も限界に近い。自覚症状があまりない僕がそう感じてしまっているということはもう末期だろう。

 背負っていたボストンバックをなんとか丁寧に置いて仰向けになっているこの現状。どうやら絶体絶命というやつのようだ。

「まいったな」

 そう呟くのを最期に僕は瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸をする。

 なんて静かなんだろう。しんと静まりかえるこの場所は今、僕しかいないことを証明していた。しかし、この静かさは返って恐怖である。無音なのだ。動物の、虫の、そして大地の音が一切しないのだ。鳥は鳴かず、虫も鳴かず、風も吹かず。ここが死んだ大地だということを改めて感じる。

 いつまでこうしていただろうか。

 意識が遠のき、そして誰もいるはずがないというある意味、先入観を持っていた所為もあって、何度目かの声でようやく気付く。

「――しも~し」

 顔面に差し込む殺人的な日差しを何かが遮断していた。ゆっくり目を細めて開けると覗き込むようにしてこちらを見ているフードを被った女性。

「――ん?」

「大丈夫ですか?」

小鳥の囀りを思わせるような澄んだ声をもう一度耳にし、ようやく意識が明朗とする。

奇跡。助けを求めようと腕を伸ばそうとするが、ピクリと動く程度。だから――

「み――みずを」

喉元まで出かかっている声を最後の力で振り絞り救命要請した。



「いや、本当に助かりました。ありがとうございます」

「いえいえ、そんな。困ったときはお互い様ですから」

 これ以上曲がりようがないくらい腰を折って感謝の意を述べるが女性もまた大袈裟に謙遜する。

しかし本当に助かったのだ。よく汗をかいた後のビールは美味いと大人たちが言うがそれを優に超越していたと思う。唇が潤い、清涼感溢れる液体が口の中から喉まで滝のように流れ、興奮するかのように胃がじんわり冷える。文字通り、生き返るようだった。

 顔を上げ、改めて女性を見る。

 フードを外してコンクリートの壁に背を預けている女性は整った顔立ちだが、まだあどけなさが残っており少女というニュアンスの方が近かった。汗で蒸れるのを嫌ってか結えた茶色の長い髪は清潔感を漂わせており、身長も女性では高い方で、僕よりやや低い程度。服装は首下から足下まである灰色の長ロングのコートを着用しており、表面は反光剤をコーティングしており内部は軽量化を重ねたCコートと呼ばれるものだった。ヒルベルトエリアを歩くには最も適した装備品である。ちなみに高級品。これ一枚あれば、中に着る服は下着だけでも充分なくらい安全を買える代物なのだ。だからか、コートのフックを外している今はとても身軽な服装のように窺え見えた。

「もしかしてバベル制覇隊のヒトですか?」

唐突に訊いてくる女性に対し、僕は自分の服装を見る。

お洒落とはほど遠い機動性だけに優れた紺の長袖Tシャツに迷彩の長ズボン。両手には雑に巻いた包帯。あとは褐色のボストンバック。たったそれだけである。強いて言えばポケットの中に腕時計とアクセサリーがあるくらいだ。バベル制覇隊の装備にしてみては品薄過ぎる。

 自ら失笑し、逆に訊いてみた。

「見えます?」

「……見えません」

 少女は苦笑混じりで答えた。

 やっぱり。まあこんな偏狭なところわざわざ訪れる物好きは制覇隊だろうと思っての判断だろうけど、それを言えば、逆に気になる。

「あなたはわざわざどうしてこんな所へ?」

 嘘が吐けない人種だと即座に思った。明らかに動揺して、「あ…う」と返答に困っている。その様子は見ていて面白いが、残念ながら僕はサディスティックではない。だから――

「あ、答えにくいならいいですよ。僕も似たようなものですから」

「すみません」

 心底、申し訳なさそうにする少女に逆に罪悪感が芽生える。

 仮にも命の恩人である。全力でお礼をするべきものを困らせてしまうというのは言語道断。何か少しでも役立てることはないのかと思案する。

「もし、迷惑じゃなければ一緒に行きませんか? どこへ行くかはわからないですけど、道中お役に立てることもあるかもしれませんし、それに――」

 彼女の力になるため、というのはもちろんあるけど、それ以上にここから先は僕の本心である。だから自然と笑顔になった。

「旅は道連れ。一緒に行く方が楽しいですし」

 突然の申し出に女性は言葉の意味を探るように少し間が空いたが、その後、嬉しそうに元気よく了承してくれた。

「はい!」



 目的地の方角はどうやら一緒のようだ。せーので指を差す方向が一緒ってだけであるが。ただ互いにバベルの塔を目指していないとなるとどこに向かっているんだろう。そんな警戒と不審を多少含んだ視線を彼女から感じていたがそれはお互い様である。だけど道中の会話で僕が年下ということが判明して心なしか彼女の気は緩まったような気がした。

「なーんだ、年下だったんですね! あ、でも私には敬語じゃなくてもいいですから」

というあなたの語尾が敬語なんですけど、と苦笑いする。

「いえ、僕は年齢に関係なく誰にでも敬語ですから」

「ふーん」

少しお姉さんを気取りたかったようで、軽くふてくされる。その時点で年上のお姉さんにはなれそうにもないのだが、ここはタメ口の方が賢明だったか。

「ハルカさんは一人でこのヒルベルトエリアに?」

最初、お互いが牽制し合っているような会話しか出来なかったが、そこで得た情報では彼女の名前は水嶋ハルカというらしい。ついでと僕も帝龍巳と名乗った。どういう書き方をするか教えたところで、雰囲気と名前が合ってないと笑われたが、こればかりは仕方がない。龍の帝王。確かに大それた名前である。いきなり聞かされると確かに僕の風貌だと違和感しか残らないだろうが、僕はこの名前で十五年生きているんだ。慣れろとしか言いようがなかった。

閑話休題。

『一人』という言葉に引っ掛かったのか、ハルカさんは僕の質問に対し少しだけ影を落とした表情を見せる。

「うん」

「自分が言うと説得力ないですけど、あまりこういう所は一人で歩かない方がいいですよ」

家からコンビニに行くのと変わらない服装をしている僕に言われる筋合いはないだろう。しかし彼女は女性である。それにここはヒルベルトエリア。警戒すべき点は挙げたらキリがないくらいだ。

「まさに説得力がないですね」

ハルカさんはクスクス笑った。そして歩きながらも空を仰ぎ、ぐっと背伸びをする。僕は少し距離を気にした。

「でも、まあこんな時代ですから」

 空を仰ぐ彼女の表情は憂いを見せていた。

 その言葉の意味はつまりはそういうことなのだろう。先の戦争が彼女にとって大きな影響を与えたことは間違いないのだ。しかし、戦争が起こり、終結したのは僕らが生まれるもっと前の話。どう彼女と繋がるのだろうか。一人という事実がとても引っ掛かる。

「それにしてもヒルベルトエリアにペットボトル一本で勝負って、ホント、無謀というか無知というか。ある意味感心します」

「今回が初めてじゃないんです。もう何度かここには来ているんですけど、まあ、逆に慢心していたんだと思います。水をうっかり落としちゃって。それでもいけるかなって」

 自殺行為って自覚はないのかしら、と目をまん丸見開くハルカさん。

「慣れって怖い」

苦く笑うしかなかった。

「でもこんな奥地までしかも重そうな荷物を持って歩けるってすごい――もしかしてH2型じゃなくて、HD型ですか?」

H2型というのはHH型の略式でありヒューマホールド、つまり真性のヒューマのことを指す。そして彼女が訊いているのはHD型。これはヒューマドラゴニックの略称のことである。

詳しく言えばこの世界には三種にヒューマが存在している。

一つはH2型ヒューマ。一般的に知能指数が非常に高く様々な物質を科学的に変えてその時々で応用していく技術を持っている。多種族から言わせればずる賢いとのこと。そしてもう一つがHD型ヒューマ。竜族で爬虫類型の頂点を言われる竜のヒト型。身体能力が非常に高く、また頑丈。身体のどこかに刺青が入っているのが特徴。それに誇り高く、獰猛。他種族の意見では気性が荒くて建設的な会話が困難、とのこと。最後はHE型ヒューマ。いわゆる天族で神に最も近い種族と言われている。他種族では扱えない神の加護の力という不思議な力を使う。温厚で平和主義。頭上に輪を浮かしているのが特徴である。他の種族から偽善的と言われ、最も他種族に関心がないらしい。

 以前は種族間の主張が強かったため、人間、竜族、天族とはっきり名前を分けることで棲み分けていたようだったけど、今はH2、HD、HEで呼称するのが主流のようである。終戦した今、同じヒューマとして差別や侮蔑を緩和させようとしているのだろう。僕の地域ではあまり馴染みのない名称だけど。

そして三種族は大戦争した。互いが互いを侮蔑、差別して。そしてその結果は――この惨状である。

 戦争で残ったのは、この荒れ果てた、刻々と死期が近づいていく地球だけなのだ。

 僕はハルカさんの質問に正直、どう答えようか迷っていた。HE型は頭上に輪があるため判別出来るが、H2型とHD型は見た目では判断し辛い。

「まあ、一応、HD型ですね」

 濁すように答えたが、やっぱりという納得の念とそれでも釈然としないという、何とも微妙な表情を晒す。

「HD型ヒューマって獰猛で気性が荒いっていう人たちが多いって聞きましたけど、龍巳君はそんな感じしないですね。もしかして迷信?」

 言われると思った。先述の通りHD型ヒューマはすぐ頭に血が昇りやすい人たちが多い。だから僕はよくH2型ヒューマに間違われる。種族愛を持つ人からしてみれば、他種族に間違われると少々嫌悪するかもしれないけど、僕はさほど気にならない。

「迷信じゃないですよ。僕もよく言われます。でもほら――」

 そう言いながら、紺の長袖を捲る。すると、右腕には幾何学的な刺青があった。弧を描きながらも先端は腕を巻き付くようになって、竜のようになっている。静かな、しかし潜在的な力強さを感じさせるような独特感のある刺青。

「HD型の証拠です」

 それを誇ることも恥じることもせず淡々と見せる。ハルカさんはじっと観察しながら感嘆の声を漏らす。

「綺麗。何かの意味が込められているのかしら」

「分かりません。でもHD型は全員、身体のどこかに刺青があって、個人によって模様も違うみたいです。生まれ落ちて五年後に突然、発症するみたいですけど」

刺青を眺めながら「ふーん」とさほど驚かないところ知っていたのかもしれない。

「好きな食べ物は?」

唐突な質問だな、と多少訝しむ。

「シーザーサラダです」

「趣味は?」「囲碁」

何が言いたいか段々わかってきた。

「秋はやっぱり」「読書」

「座右の銘」「虎視眈々」

 突然、大きく笑い出す。その屈託のない笑顔はとても魅力的だけど、笑われている対象が自分だということで半減する。

「ごめん! ふふふ、でも――」

 また笑い出す。五分くらいはそうしていただろうか。ようやく落ち着いたハルカさんは全然、悪びれた様子もないまま再度謝る。

「でも、全然HD型ヒューマじゃないから」

「自覚してます。野菜より肉ですし、文化系より運動系を好むのがHD型ヒューマです。でもこういう竜族もいるんです」

「振り幅が大きくって、ふふふ」

「もう笑うのは禁止です」

 道中は終始和やかな雰囲気だった。正直笑われただけという事実は否めないがそれでも重い空気で歩くより遥かにマシである。だがハルカさんが妙に明るすぎるという気もする。もちろん、先程会ったばかりだ。こういう人だろうと思うのだが、最初に会った時の影を落とした表情が気になるし、仮に僕が年下だからといって安全という保証はない。この時代では彼女のようなヒトは稀少で素敵かもしれないがそれが返って少し危険なのだ。

 結局、H2型かHD型は訊きそびれたが、僕が気を付けていればいいし、問題ないかと気を緩めた。

 二人で額の汗を何度も拭きながら一定の距離を保って歩く。視線の先はずっと荒れ果てた大地しかない。次第に建物はなくなって、そのかわり、何かの壊れた部品が所々に散乱していた。戦時中はあらゆる非道が肯定される。ガス、細菌、銃器。様々なものがここには残骸として放置されている。だから落ちている部品などもそういう物が多い。

「何十年経ってもまだこういうのはあるんですね」

「みたいですね。ここはヒトが立ち寄らないでしょうし仕方がないことかもしれませんが」

「でも――どうしてみんな、こんな危険な地域を放っておくんだろう」

 それはある程度想像出来る。

「自分の住んでいるところが以前と遜色ない程度に復興してしまったからじゃないでしょうか。どこか他人事にようにしか見えない。まるで汚いモノに蓋をするような感覚に似ているかもしれないですね」

「復興って難しいんですね。どうしても自分のことしか考えられなくなるから」

 それは自分のことと照らし合わしているんですか? という言葉は呑み込んだ。表情が既に物語っているからだ。

 その殺伐さに次第に会話もなくなり黙々と歩く。ただ一人よりはずっと気が楽であるのは確かということはお互いに思っていたようだ。

何時間も歩けば日もだいぶ傾きて、気温も下降線気味になってくる。だから「夜の活動は危険なので、安全な場所を見つけたら野営をしましょう」と提案すると、嫌悪感を抱かず、受け入れてくれた。

「でも夜ってそんなに危ないんですか?」

「寒いですし、希にですけどワームという巨大な虫が襲ってきます。まあ都会の夜の方がずっと危険ですけどね」

「でも野営するとは思わなかったです」

 心なしか高揚しているように窺える。

「もちろん暗くなってから、ですけどね」

 僕も野営するとは思わなかったという点は同感だった。途中、水さえ尽きなければ、往復日帰りで終わったはずだけど、倒れてしまったものは仕方がない。それに不幸中の幸いでハルカさんと出会うこともできたし。

 ただ、ハルカさんは野営も想定していなかったというのは少々気がかりである。

「目的地の距離感がわからないんですか?」

「ええ、聞いたことある程度の知識しかなくって」

 命削ってヒルベルトエリアを歩く目的なんてそうない。制覇隊のようにバベルの塔に向かうか、ギミテッドという部品解体屋に売るために使えそうな部品を探すくらいだ。あとここのヒルベルトエリア特有でいえば一つしか思い当たる節がないのだが。

「もしかしてハルカさんの目的の場所って――」

 そう言いながら彼女の方を見ると息を呑むようにして口を覆い、硬直していた。

「あれって――」

 真っ青な彼女の震える指は懸命に前方を指す。その指先には真っ黒な物体があった。それは造形物を形成しており、まるで両膝を地面に擦りつけ両手で頭を掻き毟っているように見える。

つまりはヒトの形。

僕は瞬時に理解した。ここの空気と光によって酸化還元を繰り返したものは次第に黒くなり、ただの有機物に変わり果ててしまうことを。

「ヒルベルトゲイン――」

 そう呟く僕の隣でハルカさんが震えているのがとても印象的だった。



 先の戦争の爪痕として代表的に挙げられるのがこのヒルベルトエリアである。

ヒルベルトエリアではありとあらゆる生物が近づかない。生き抜ける環境ではないからだ。あの、どんな環境でも適応するゴキブリですらここには住み着かない。食べるものがないからという理由もあるが。最大の理由は空気と光だろう。

 通常、空気には酸素二○%、二酸化炭素三%、窒素七十九%、そしてヘリウム等のその他のガスが数%含まれている。しかし、ここヒルベルトエリアでは、瘴気と呼ばれる謎の物質がその絶対的な割合に食い込んできたのだ。これは化学兵器や細菌兵器、また戦争で失った緑地資源による浄化低減によるものというのが定説になっているが、とにかく僕たちヒトにとっても瘴気は有害であり体内外から蝕んでいき、身体が黒凝化する。

 そして太陽の光。日差しと言えば可愛げがあるが、それは地球が大層圏内でオゾンを覆っている地域に限る。地球を赤道のように一周した所だけなぜかオゾンが失っており、そこだけ太陽光が強烈なエネルギーとなり、悪影響を及ぼす。これも瘴気が助長しているようで一週間もいれば、皮膚が壊死する。それがここ、ヒルベルトエリアなのだ。だから万全な装備が絶対に必要なのだ。

 まあ、全て知り合いの研究者キュリアウスさんから聞いた話だけど。

「よく燃えますね」

 虫も鳴かず、静まり返った夜。

腰を下ろし、拾い集めた枯れ木を焚き火の中に放り込みながら、呟くハルカさん。その視線は何が映って何を考えているんだろうか。とても遠くを見ていた。

「大地が死んでいる分、枯れ木も多いし、酸素もここでは多少増加していますしね」

このヒルベルトエリアでは日中は猛暑だが、太陽が沈めば極寒となる。野営での炎は欠かせない。その所為かハルカさんはCコートを身に纏ったままであった。そして、環境的にはここは火を起こしやすい。唯一といってくらいの利点だが。

ぎゅるるるるるる

突然、まるで猛獣が唸るような音。ハルカさんは驚いて素早く辺りを見渡す。

「な、なんです?!」

 思わず俯く。話を切り出すのが恥ずかしい。

「……僕のお腹の音です」

 しばらく、きょとんとしていたが、突然笑い出す。

「穴があったら入りたい」

「身体はやっぱりHD型ヒューマみたいですね」

 そう言いながらハルカさんは自身の大きなリュックサックの中をゴソゴソと漁る。出てきたのは干した肉と水だった。

「龍巳君の好みじゃないかもしれないですけど、よかったら」

 サラダが好きとか言ったからだろうか。

「僕に好き嫌いはありませんよ。ありがとうございます」

 礼を言って、手に触れないように気をつけながら干し肉を受け取る。

「遠慮なく頂きます」

そしてラップを剥がし口に運んだ。

「――美味しい」

 単に乾燥させた保存肉ではなく燻製していたようで旨みがあって柔らかい。しかも詳しくはわからないがハーブ等も使っているのか香りもすごく良い。

「良かった。それ私の家で代々伝わる調理法なんです」

「ヒューマ全員に教えてあげたいくらいですよ」

 そう言いながら二口、三口と口に含んでいく。

「褒めすぎです」

 と、頬を掻きながらもまんざらでもない様子だった。そのあと、今度は自分の荷から紙カップを取り出し、水を入れて手渡してくれる。僕は気を付けて受け取り、礼を言って飲み干す。

「でも私てっきりそのボストンバッグにはいっぱい食料入っていると思っていました」

 不思議そうに僕のボストンバックを見つめる。

「日帰りの予定だったんで、そういうのまったく入れてませんでした」

「じゃあ中は他の大事なもの?」

 ハルカさんの視線に合わせて僕も脇に置いたボストンバックを見て、そっと手を置く。

「そう――みたいですね」

 ハルカさんは小首を傾げる。

「いや。まあもちろん大事なものなんですけど、イマイチ良くわからなくて。個人のしきたりというか、特に考えもなく運んでいて」

 僕は枯れ木を焚き火の中に入れる。ハルカさんは「へぇ」と言うだけだった。

 またも沈黙が訪れる。

 焚き火がパチパチと心地良い音を立てながら揺らめく。それを見つめる二人。遠い昔から人類は大自然の暗闇に潛む天敵から身を守るために火を使っている。そのために焚き火の音は人を安心させる作用があるし、人々が焚き火を取り囲むことで仲間意識が強まるとも言われているようだが、僕たちはどうだろうか。

「40~50万年前から焚き火はずっと焚き火ですよね。変化がない」

 口火を切った僕に対し、顔を上げて反応するハルカさん。

「でもすぐ変わるものは変わっていく。変わらないと思っていたものですら変わっていく」

 少しだけためらいの間があって、

「昼間のあの黒いアレも、ですか?」

 その言葉が少しだけ震えているような気がした。心配というより恐怖という表現が近いような表情。ヒルベルトゲインを見てからハルカさんは明らかに影を落としていた。

 しかし、僕は淡々と事実を告げる。

「あれは紛れもなくヒトでした」

 ハルカさんは膝を抱えた手に力を込めて小さくなる。

「このヒルベルトエリアで長時間素肌を晒したまま活動していると、ヒルベルトゲインという現象を起こして命あるものは黒く染まり死ぬ。戦争が終わった今、世界で最も問題視されているものですよね」

 次第に顔を真っ青にしていくハルカさん。しかしこれは世界的に有名な現象である。今に始まったわけではないのだが。

「もしかして初めてでしたか?」

「そういうわけじゃないんですけど――」

 言い淀み、少し間。そして決心したように目をキリッとさせる。そして彼女は堰を切ったように話し出した。

「実は私の住んでいるところ、このヒルベルトエリアからすぐ近くなんです。龍巳君は確かM・I区でしたよね。まだ公には発表されてないんですが、ここのヒルベルトエリアの幅が徐々に拡大しつつあるみたいで、その被害が私の地区にも出始めているんです」

 エリアの拡大。これは国家機密レベルの問題だな。

僕は握ったままだった紙カップを静かに置く。

「初耳です。大問題、ですね」

 簡単に言えば住む場所がなくなるんだ。難民のように押し寄せるヒトたちで別の区が溢れかえるのは想像が容易い。もちろんそれ以上の問題も山積するに違いない。公にしていないということは何か裏があるんだろうか。

「ハルカさんの地区といえば、ヒューマの割合ってどうなっているんですか?」

「HE型が約八割の信仰深い都市です。以前は湖南市と呼ばれていたみたいですけど」

 戦前の呼称か。確かにあそこの地区は天族系が多いところだった。つまり行政もそのほとんどがHE型ヒューマの可能性がある。まだ話が通じるかもしれない。

 僕は顎に手を当てて逡巡する。

「知り合いに天族の人はいませんか? 話を掛け合えるツテがあれば、混乱を避けながら避難できると思いますけど」

 ハルカさんは俯く。

「――いません。やっぱりHE型が圧倒的に多い分、肩身は狭いです。それにもう上の人たちも気付いていると思います」

「そう、ですか。もしかして今回はそれが原因でヒルベルトエリアに?」

「それは――」

 またも視線を逸らし俯く。

 もちろん、不快感を与えてまで根掘り葉掘り訊くつもりないが。

 僕はまた枝を折って焚き火の中に放り込む。そして小さく爆ぜる音を耳にしながら空を仰ぐ。星は見えない。汚染した大気に光が反射してしまい、星の光が埋もれているのは明らかだった。

「実は僕もまだ話していないことがあります」

 その言葉を聞いて「え」と声を漏らし、ハルカさんは顔を上げる。

「昼間、刺青見せましたよね? 確かに僕はHD型です。ですが普通じゃないんです」

 そう言って紺の長袖を捲り、そしてゆっくりと両手の包帯を解く。その姿をハルカさんは静観していた。

「HD型のヒトが僕に触れると灰となって死んでしまいます。忌み子と呼ばれ避けられ恐れられている存在です。H2型やHE型のヒトたちにはまったく効果ないですけど」

「そんなヒトって――」「いるんです。現に僕がそうですから」

 僕は優しく笑った。

「僕は呪われたヒトなんです」

 どうして自分のことをこんなに淡々と言えるのだろう。同じ種族のヒトたちというのは特別なものだ。知らない土地で同じ種族のヒトを見つけたら安心するし、仲良くなりたい。しかし僕にはそれが出来ない。それなのに平然と孤立している事実を言える自分は少し変なのだろうか。察してかどうかは知らないがハルカさんはとても悲しそうな顔をしていた。

「え、でも龍巳君の住んでいるM・I区って確か――」

「ほぼ、HD型です。ですから友達なんていません」

 苦笑混じりで言ったが視線の先のハルカさんは眉を寄せ、憐憫する。

「大丈夫ですよ、それでも案外生きていけますから。まあ、ヒルベルトゲインになりにくいっていう特権もありますし」

「龍巳君――」

 嘘ではない。しかし冗談のように笑いながら言ってみたがハルカさんはより沈痛な面持ちをしていた。僕の歩んできた背景が少し頭に浮かんだのかもしれない。心配しなくてもいいのに。

「どうしてこんな話をしたんでしょうね」

 話を切り上げようとして僕は腰を上げ、寝床を用意し始める。

「今日はもう休みましょう。火の番は僕に任せておいてください」

 改めて空を仰ぐ。星は見えない。だけど月は見える。朧げな月は変わらず闇夜を照らす。昔から今日まで変わらず、ずっと。

ふと思う。僕は子供の頃から比べ変わったんだろうか。それとも変わらずのままだっただろうか。誰に訊いたら教えてくれるだろうか。誰なら知っているんだろう。

 今日はなぜか寝付くまで時間が掛かった。

「――怖いよ」

 眠りについたはずのハルカさんからそんな言葉を聞いたからだろうか。



 翌日――

 陽が昇るとともに、僕たちは目を覚まし出発することにした。野営した後の焚き火跡や枯れ木はそのままにした。もし、誰かがここに来てもすぐに暖めるようにである。ハルカさんのリュックの荷の中に灯油もあったので、多少はそこに残しておくことにした。

「準備いいですよね」

「備えあれば憂いなしです。て言っても妹がしっかりもので、準備も妹が用意していたのを勝手に拝借しちゃいました」

「妹さんがいるんですね」

「私より二つ年下なのに私よりしっかりしているんですよ。困っちゃうくらい。でも時たま子供っぽくなって可愛いんです」

 懐かしいように遠くを見る。そして小さく「元気かな、ヒカリ」と呟いていた。

 今はまた荒野が続く街道であるがもうすぐ目的地に着きそうである。先程会話でわかったことだがやはり目的地は一緒のようだ。この先にある湖。それが僕たちの終着点だった。

「ここからあと数キロなんですよね」

 陽が照り、再びフードを被るハルカさんは額の汗を拭いながら訊く。

「ええ。途中迂回しますけど、このペースだとあと二時間程歩けば着きます」

「迂回?」

「亀裂があるんです。ヒルベルトエリアの中心地の亀裂をヒルベルトラインと言いますけど、またその先から枝分かれみたいに小さな亀裂が走っているんです。迂回すれば橋があるのでそこから進みます。ちょっと大変かもしれませんが」

「わかりました」

 ハルカさんは笑顔で応える。昨日の夜の寂寥感は漂わせていなかった。ギュッと背負うリュックの紐を握り締め、自身の気持ちを引き締めていた。

「でも、どうして湖に?」

 ハルカさんは少しだけ逡巡した様子を見せながらも正直に答えてくれた。

「一度行ってみたかったんです。とても大きな湖で昔はとても有名だったみたいで。いろんな生き物もたくさんいて、観光名所で、良い所みたいだったらしいです」

 以前、訪れた風景を思い出すが今はどうなっているのだろうか。

「ずっと昔に地殻変動で形成された湖みたいで、昔は千種ほど生息していて、場所によっては仄かに睡蓮の香りがする、この国最大の古代湖みたいですよ」

 そう語るハルカさんは目を爛々させ、頭の中で昔の風景を想像させていた。そしてしばらくそれに興じて「睡蓮の花、見てみたいな」なんて呟きながら歩いていたようだが、ハッと我に返る。

「ごめんなさい、旅行気分で来てしまって。こんな時代に不謹慎ですよね」

 僕は横目で笑顔を返す。

「こんな時代だからこそ、行くべきだと僕は思いますよ」

 その言葉にハルカさんも笑顔になった。

「そういえば龍巳君は死についてどう考えているんですか?」

 不穏な言葉にハルカさんを見ると落ち着いた表情をしている。深刻に訊いているというよりただ道中の会話を楽しもうとしているようだった。

「なんというか、淡々としてるなって思って」

「別に特には考えてないですよ」

「灰になるって痛いのかしら」

「わからないんです。触れて消える瞬間ってあまり見たことないんで」

 その言葉を聞いてハッと申し訳ない表情をするハルカさん。

「ごめんなさい。ちょっと無神経でした」

「あ、いや全然大丈夫ですよ」

 凪の海面のように、感情は波立たず喜怒哀楽をあらわさない。そんな僕はやはり精神面で問題でもあるのだろうか、とたまに心配になる。

「でもバベルの塔までいけば問題解決するかもしれないですよ!」

 そう言うと茶色の髪を揺らしながら小走りで僕の前まで来て後ろ歩きする。

「解決?」

「あれ、知らないんですか? バベルの塔まで辿り着けた者はどんな願いも一つだけ叶うことができるって真しやかに噂されているんですよ」

 と、人差し指を当てながら説明するハルカさんはやはり少しだけ年上のお姉さんのように見えた。

「知らなかったです。でも、まあそこまで気にしてないですし」

「主は汝の影見て器を量る。故、汝は重き思いを叫ばん。さすれば主は汝を受け止めよう」

 急に空を仰ぎ思い出しながら口に出すハルカさん。正直なところその意味を量り兼ねる。

「なんです、ソレ」

「この一説はバベルの塔で願いを叶えてもらうためのヒントみたいです」

「誰から訊いたんです。そんな話」

「ふふ、秘密です」

 一度、渦中のバベルの塔に目を向ける。今日は一日快晴だったので、遥か遠くに佇んでいるのに一望できた。

 まあ、真剣に問いただしたところで僕の知る由もない人物だろうが。

 歩きながらも互いに無言が続く。するとハルカさんは話題を転じた。

「龍巳君は願いたいことないんですか?」

 逡巡する。願い、か。考えたこともなかった。何十秒くらい黙っていただろうか。ハルカさんはその間、興味があるのか黙って僕の方を見続けていた。

「そうですね――愛ですかね」

 ハルカさんの足がピタと止まる。

「愛、ですか?」

「愛というのがよくわからなくて、知りたいんです」

 言ってみたあと、何を僕は喋っているんだろうと後悔した。

 その瞳が何を考え僕を見ているか分からない。しかしハルカさんはニコリと笑う。

「変わった願いですね」

「かもしれないです」

「でも愛のない人生なんていけませんよ!」

 苦笑しながら僕はまた歩を進める。

「ハルカさんはないのですか? 願い」

「私は――」

 一瞬、表情が陰った。しかしすぐさまにこやかな表情に戻る。

「ヒルベルトエリアがなくなればいいかな」

 個人の願いではなく、まるで聖人のようなセリフであるが、ハルカさんが言うと何故かしっくりくる。だから僕は皮肉ではなく素直な言葉を発した。

「素敵な願いです」

 ハルカさんは笑っていた。

 二人で歩く荒野は世間話でもするように喋っていたので、気が紛れた。まわりには痛々しい程の凄惨な光景が映し出され続けていたからだ。ビルディングやショップモールの形跡を僅かに残した建物と荒野。これほど似合わない組み合わせはないだろう。まるで世界の終わりを歩いているようだった。

 しかし、そんな他愛ない会話で気を逸らす中――

 不意に不吉な予感が背筋を舐めた。

 そしてふと視線を外す。

視界の隅で何かが光ったからだ。思わず足を止め、目を凝らす。その動きにハルカさんも足を止め、僕の様子を窺う。その瞬間――

「どうした――」「危ないッ!」

 叫んだには理由がある。

 極光。

 視界の先から突如として地面を抉るように一直線の光が天から降り注ぐ。その速さは音速に近い。空気を裂き、大地を裂き、荒々しい音と共に迫る光は全てを死に追いやる。まさに死神の鎌。後ろを向けば戦慄するハルカさんの姿。疑問の余地を許さない速度。間に合わない。

 そう思った瞬間。頭より先に身体が動いた。

 最大限まで足を踏み込み、その力は地面を深くめり込ませる。そして――

 音を置き去りにするほどの速さでハルカさんに寄り、瞬時に背負ったリュックを掴み、ハルカさんごと遠くに投げ飛ばす。次に自分のボストンバックも素早く投げる。その目は最早ヒトの目ではなく竜の目。

 そして瞬時に悟る。生身への直撃がそのまま死に繋がることを。

 残された時間で出来る行為は四手。――イチかバチか。考える暇などない。

 一手目。重心を低くして両足を地面に突き刺す。

 極光との距離、数十メートル。依然目を細める程眩しい光を放つ。

二手目。顎を引き、両腕を交差させ全てを受ける覚悟をする。

極光との距離、数メートル。身体全体が光に包まれるほど周囲が光る。

三手目。喉からの獰猛なまでの咆哮。身体の血液循環を活性させる。

極光との距離、数十センチ。畏怖する神々しさ。躊躇や動揺が死を直結させるほどの無慈悲までの光に冷徹さえ感じた。

終の手。全身が竜の鱗と化す。即ちHD型最高峰の絶対防御。その名を防竜化という。

極光との距離、まさに目前。瞬間、僕は愕然とした。

光の中に男の死体があったからだ。しかし、逡巡する余裕はなく、極光と僕は激突した。鼓膜が破れるほどの甲高い音を発する。光のエネルギーは凄まじく全身の皮膚を焦がし、肉を焼き、骨を溶かす程の勢い。激痛。意識が飛かけるのを保つため腹の底から叫んだ。あとは賭けるしかない。身が滅びるか、極光が終焉を迎えるか。

負けられない。ここで僕が諦めるということはハルカさんを巻き添えにするということなのだから。

何分、いや何十秒の間だと思うが、それがとてつもなく長く、その間も身が削れていく。もう終わりか、と思った。――しかし賭けは僕の勝ちだった。

極光は次第に弱まり消えた。辺りは一変して静寂さが包む。ずっと先に転んだままのハルカさんが頭を押さえつつ、朦朧としながら起き上がる。そして明朗したとき、その目に飛び込んだ光景に息を呑んだ。えぐれた大地。煙を上げ身を焦がしている僕。その凄惨さはつい数分前までとはまったく違っていたからだ。

「龍巳君! 大丈夫ですか!」

 ハルカさんがすぐさま駆けつけ、心配の表情で顔を曇らせる。しかし、問題はない。切断などのよほどの重傷ではない限りある程度は再生する。これはHD型の唯一の特権でもある。

「大丈夫。正直、ギリギリでしたけど。しかし謎だ――」

 その謎の示すものは極光であり、その極光の中にいた男の死体でもあった。しかしハルカさんは男の姿を見てはいない。わざわざ怖がらせることもないので言うつもりもないが。

「誰の仕業なんでしょう」

「わからないです。でもこういうことが出来るのはHE型くらいです」

 追い打ちもないところをみると、先の一撃で死んだと慢心したか、単なる偶然か。

まあ、今ここで考えても仕方がないことだけど。もう何もないなら目的地に向かう方が賢明か。

「先に進みましょう」

 ポケットの中にある腕時計とアクセサリーを確認してから、僕は歩き出した。ハルカさんは終始心配しながらも後ろからついてきた。



次第にチラホラと半壊した建物が連なっているのを見かける。

橋を渡り迂回先には枯渇した水路の跡もあった――川だったのかもしれないが。大きな溝がありコンクリートで舗装されている箇所も所々見受けられたがこうなっていては最早、どっちでもいいのかもしれない。大地が死ねば、その頭上でどれほど美しく自然なものでも、逆に人工的に作られたものでも長くは生きていけない。それを教えられるだけである。

とにかく僕らはそこを渡り歩く。少し湿気を含んでいるところ、最近枯渇したのかもしれないという不安が胸を撫でる。もしかしたら、僕らの目的地もまた――

「湖、ありますかね?」

同じことを考えていたようである。ハルカさんもまた足元の地面を見ながら心配そうに訊いてきた。しかし気安めで迂闊なことを言えない。

「行ってみればわかりますよ」

目的地はもう殆ど目と鼻の先である。憶測で語るより実際に見た方が早い。

それに湖はある意味、厄介である。潮の香りがしない分、近付かないことには存在しているかどうか分からないからだ。水気を帯びた空気が風によって運ばれていたらあるいはわかったかもしれない。しかし、ここは風も滅多に吹くことはない。

そんなことを考えながらやや上り坂になった道をひたすら真っ直ぐ進むと、比較的道路が安定してきた。先程までの没落した建物やドーム状に窪んだ地面、崩れ落ちた高速道路と見比べると、それほど崩壊していなかった。ここはあまり戦場となっていなかったのかもしれない。

更に進むと一気に視界が開けた。

そして僕は目を見開き、驚いた。

以前ここに訪れたのは何年前だったか。その時から危なかったことは記憶しているのに。

目の前で弱々しくも緑葉を身に付けている木々が未だに懸命に生きようとしているのだ。光合成を行い、二酸化炭素を必死に吸って酸素を吐き出す。その根は地面から雀の涙もない栄養を貰うために太く、伸びきり、生きようとしていた。

ここの大地はまだ完全には死んでいないのだ。

「すごい――」

その生命力に思わず言葉が出る。ようやく踏破したようでハルカさんも感嘆の声を漏らし見上げていた。そして何かに気付いたようで、

「あ。あれ――」

と、木々の遠くを指差す。

その方角には楕円状に緩やかな窪みがあり砂が層となって白色と土色の縞々模様を描かれていた。そしてその先にポツンと水色の景色――湖があった。完全に枯渇の道を辿っているようだったが、それが儚くも美しくもみえた。

「湖、ですよね」

 後ろから聞こえるハルカさんの声は嬉しそうだった。

「みたいですね」

隆起した崖という表現が近い道路を慎重に降りていき湖に近付く。僕は以前訪れたことを思い出しながら進む。随分と湖から遠くにボロボロのボートが置いてあった。恐らく以前はそこまで水位があったに違いない。

枯渇している。

足元に視線を移せば浜の砂だった。粒径が小さくサラサラした白い砂。そして遠くでは波が優しく押して引く。改めて思う。やっぱり海のようだ。昔と比べれば明らかに規模は小さいだろう。しかし視界いっぱいに広がる躍動感ある波はやはり海のようだった。

あは、と心を躍らせて小走りに浜まで進むハルカさん。

「ちょっと歩いてみませんか?」

その提案に僕は頷いた。

二人並んで浜辺を歩く。横目でハルカさんを窺えば、足で砂浜を蹴るようにして歩いていて喜んでいるのか悲しんでいるのか分からない表情をしていた。会話はない。だけど、なぜかひどく落ち着く。どうしてだろう、としばらく考えてみたら、答えに辿り着いた。

「音だ」「――え?」

 唐突に口ずさむ僕にハルカさんは振り向く。

「ヒルベルトエリアに入ってからずっと無音だったけど、ここは波の音がする。それがとても自然的で落ち着くんだ」

 ハルカさんも納得したようで「そういえば、そうですね」と言って湖の方へ視線を移す。

「この音、いいですよね」

 その言葉に僕も同調した。

 しばらく黙々と歩いた。

どのくらい歩いたかわからないけど、道中を思い返せば全然苦ではなかった。

「あ、ここだ」

不意に僕は立ち止まる。視線の先には平らな砂浜の中、違和感を覚える程大きく盛り上がっていた。その色合いは白い砂浜とは似つかず、灰色がかっており別の粒体だということがわかる。そしてその頂きには枯れ枝で十字に作られたものが突き刺さっていた。

「ちょっと待っていてください」

 ここが僕の目的地。

僕はボストンバックを丁寧に降ろす。そして、きつく縛りつけた紐を解いていき、十字の枝が刺さった小山のすぐ横で口の開いたボストンバックを逆さまにした。

ハルカさんは驚いていた。

出てくるのは全て同じ灰色の小さな粒体だったからだ。

サラサラと音と立てながら次々と出てくる。それは砂時計のように滑らかで少しも詰まることなく小さく盛り上がっていく。

 後ろでハルカさんが息を呑んでいるのが気配で何となくわかった。もしかしたら道中の会話を思い出しているのかもしれない。

「その灰って――」

「父と母みたいです」

振り向き、僕は笑顔で答えた。

「たぶん、ですけどね。朝起きたら布団の上にこの灰が乗っかっていたんです。その重みで起きたから、誰かがイタズラで置いたようではないみたいですし、その灰の中には母さんが大事にしていたアクセサリーや父さんが自慢していた腕時計が埋まっていたから、たぶん両親かなと」

と、話している途中に気付く。ハルカさんが泣いていることに。

「どうして泣いているんです?」

「だって、あまりにもッ――」

 涙で声を詰まらせているハルカさん。どうしてそこまで泣いているんだろう。僕は何も思ってないのに。

「気にしなくてもいいですよ。生まれ持った僕の性質ですから。僕のこの特異性で両親も僕も肩身の狭い思いをしてきたんです。それで父も母も僕のことを疎ましく思っていたようで。愛されてなかったんでしょうね、僕。だからたぶん首を絞めようとして灰になったんじゃないでしょうか。その証拠に首のまわりにも灰が――」「違うよッ!」

僕の言葉を遮り、初めて見るハルカさんの怒りに思わずたじろぐ。

「違います!」

 そして頬から伝う涙を拭きもせず僕を真っ直ぐ見据える。

「子を殺したいと思う親なんていません! きっと触れることが出来ず、ずっと苦しい思いをしてきたんです。例えどんな境遇でも、憎むわけがないんです。きっと触れたくて触れたくて仕方がなかったんです。だから――」

その先は頭で整理出来ていないのか、嗚咽を漏らし言葉にならない声を出すだけだった。しかしたった一言、はっきりと聞こえた言葉があった。「悲しいことは言わないで」と。

「すみません。僕が間違っていたのかもしれません」

 ハルカさんを背に僕はゆっくりとその場から離れ、小枝を探しボストンバックの紐を利用して十字を作り、新たに出来た小山の上に刺す。簡易なお墓みたいなものだった。そしてその上にポケットに入れてあった腕時計とアクセサリーをそっと置く。

 ハルカさんの方を向く。少し落ち着いたようだった。

「僕の目的は終わりました。少し休みましょう」

そう言って湖を眺めながら座る。しばらくしてハルカさんもゆっくりと近づき、僕の隣に座った。

 いつの間にか太陽は傾きだして茜色を彩る。それが絵の具で塗ったようにはっきりとした色合いで湖に反射してとても幻想的だった。

 僕は前方を見ながらハルカさんに話した。

五歳までは普通だったこと。遊んでいると急に友達が灰になったこと。いきなりみんなの見る目が変わったこと。隔離されたこと。たまに興味本位で触るヒトが灰になること。恐れられたこと。いじめられたこと。侮蔑、差別の目で見られたこと。気付いたら感情を押し殺すようになってしまったこと。そして唯一の繋がりである両親が灰になったこと。灰になったヒトたちをいつもここに運んでいること。いつ死んでいいやと思っていたこと。これまでの半生の、記憶に残る全てを。

 ハルカさんは黙って聞いていた。そして語り終わると二人でしばらく湖を眺めた。いつまでそうしていただろうか。ただ波が押して引く。その音だけが心地よく何かが削ぎ落とされていくようだった。

「昨日、私たちが出会ったことは意味があることなのかもしれません」

 口火を切ったのはハルカさんだった。

「どういうことですか?」

 ハルカさんは僕を見つめる。

「龍巳君は生きるべきです。そして愛を見つけてください」

 真摯な瞳には不思議なくらい揺るぎがない意志が宿っていた。そして僕はその吸い込まれそうな琥珀色の目を見ながら考えていた。

 彼女がどうしてここにいるのかを。

 ハルカさんはこのヒルベルトエリアに一人で来ていた。少しの食べ物を持って。コートをずっと身に纏ったまま。地区ではヒルベルトエリアの侵食が始まっている。ここにいる目的は湖が見たいから。それはつまり――

「それが私の最後の仕事だったのかもしれません」

 フードを取りすっと立ち上がるハルカさん。その揺らめくコートの中は動きやすい服装だった。しかしそれだけではなかった。

だから僕は彼女の身体を見て二つのことに驚いた。

「ハルカさん――」

 見上げみれば、ハルカさんはとても優しく笑っていた。

「一つだけ我儘いいですか?」

「え」

「もし睡蓮の花があれば見たいんです」

 湖に視線を寄越す。

 木々はある。湖はある。しかし花は――どうだろうか。

 思い出す。ハルカさんの言葉を。彼女は湖に来たかった。湖から仄かに香る睡蓮の花を見たかった。そう言ったんだ。だから僕は問い詰めたい衝動を抑え、コクと頷いた。

「探してみましょう」

 僕がすべきことは、彼女を追い詰めることじゃない。彼女の気持ちを汲むことだ。

 立ち上がり、湖の方へ向かった。ハルカさんもやや後ろからついてくる。夕日が僕たちの影を身長以上に大きくさせる。それが自分の代わりに何かを表現しているようだった。

 花のことは詳しくないが、睡蓮の花は水の上で生息していることくらいは知っている。泥土の中からあまりにも不似合いなくらい美しい花を咲かす。だからじっと湖のあたりを注視しながら歩いた。そして頭の隅で睡蓮という花のことを思い出していた。

 睡蓮は主張しない。金木犀やジャスミンといった花特有の香りではなく線香の煙のようになびく。だから鼻孔で探すよりも単純に目を使う方が早い。

 そう思って仔細に眺めたとき――

 それはささやかな奇跡だった。

 たった一輪。睡蓮の花が湖から伸びていた。弱々しく花を咲かせている。生きている。しかしこの先を考えれば時間の問題。ちぎって手渡すことにどうも気後れしたため、指差し、ハルカさんに伝える。

「ハルカさん、見つけましたよ」

 振り返ると、ハルカさんは俯き立ち止まっていた。

「ハルカさん?」

 不意だった。「え」と漏らす声と同時にハルカさんは僕に触れ、顔を胸に埋める。

「どうして――」

 どうして触れたんだ?

 ハルカさんは声を震わせながら語りだした。

 ヒルベルトゲインが進行していること。ずっと怖かったこと。もう時間があまりないこと。家を飛び出たこと。後悔したこと。両親が死んだこと。ヒカリを一人にしてしまったこと。帰っても悲しませてしまうだけということ。どうしようもなかったこと。一人が辛かったこと。その他も全部。

 離れたとき、ハルカさんは黒い涙を流しながらくしゃくしゃの顔で笑っていた。

 そして湖から伸びる睡蓮の花を眺める。

「睡蓮の花、ありがとうございます。これって奇跡ですよね。せっかくですし私はもうしばらくここで眺めながら休憩します。だから――先に行っててください」

 そう言いながら目尻に溜めた涙を拭う。理解した僕はただ頷くしかなかった。

「何か他にできること、ありますか?」

 ハルカさんはしばらく思案して、コートを脱ぎ始める。日中、ずっと身に纏っていたのに。もう必要がないと言わんばかりに。

「このコート差し上げます。龍巳君は自覚症状があまりないから」

 僕は手に触れながら、それを受け取る。

「それと妹の――ヒカリのことお願いしてもいいですか?」

 たぶん、こっちが本心なんだろう、と思う。そのくらいハルカさんの顔が真剣で深刻で声色が重かった。

気軽に交わせるような問題ではない。だけどこれは二人の最後の約束なのだ。

「わかりました。安心してください」

「良かった」

 ハルカさんは安心したように息を漏らす。

 互いに見つめる。どのくらいそうしていたのか分からないけど、僕から口火を切る。

「では――行きますね」「はい。気を付けてください」

 僕は湖から離れた。気配で小さく手を振っているのがわかった。ザクザクと浜に足を踏み込みながら歩く。そして丘まで辿り着き、一度、気になって振り返ると、ハルカさんの姿はなかった。その代わり風が吹いていて、灰がサラサラと湖の方へなびき、睡蓮の花を掠める。

 これもささやかな奇跡なのだろうか。

 僕はハルカさんから貰ったコートを羽織り、また前を向いて進んだ。

そして何気なしに目をこすると指先が濡れていることに気付く。

「あれ――どうして」

 何か分からない感情が自分の中でぐるぐる回っている。失ってしまった、あるいは内に閉じ込めたままにした感情かもしれない。だけど、その感情が何かがわからなかった。


 僕はハルカさんの言葉を思い出し、足を一歩前へ踏み出す。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ