第四話
二月二十六日 午前七時三十二分
「それで芥川は言ったんだ。『最も神に同情するのは、神には自殺ができないことだ』って。かっこいいでしょ」
朝、雑多な駅のホームで電車を待っているときもアカリは元気だった。
「かっこいいか?」
アキラは首をかしげる。今一つピンとこない。
「かっこいいよ。もう、アキラは鈍感だなあ」
「ふうん」
「あとね、芥川はほかにもかっこいいこと言ってるんだ」
「どんな事?」
「『恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである』っていう名言。そんなわけないでしょって笑っちゃうよね」
「……」
アキラの表情は少し固まっていた。だが、そのまま固まったままにしておくほどアキラは無粋ではない。ほんの少し笑みを作ると、
「そうだな」
と答えたが、本心では芥川の意見に思い当たる節はあった。
「昔の哲学者とかの女嫌いってすごいんだよ。どれだけ女のひと嫌いなのって思うくらい」
「例えば?」
「『ああ愚かな者よ、汝の名は女』とか。これはキルケゴールって人が言ったんだ」
「とんでもない言葉だな……」
アキラはあきれる。
「あと結婚嫌いも多いかな。『結婚式のとき、君を食べてしまいたいほど可愛いと思ったが、今思えばあの時食べてしまえばよかった』センスあるよね」
アキラは笑った。
「面白いな」
「そんなこと思うなら結婚しなきゃいいのに、ね」
「まあいろいろあるんだろ」
「うーん、そうなのかなぁ。私はやっぱり……」
アカリがそういう風にしゃべっていた時だった。アキラは違和感を覚える。その違和感はアカリに対して向けられたものではなく、この駅のホームに向けられたものだった。人のざわめきに言い知れぬ異物感を覚え、アキラはその正体を探し出そうとする。
電光掲示板が光った。急行列車が駅を通過するというアナウンス。踏切の遮断機が下りる甲高い音が遠くから聞こえ、言い知れぬ不安を掻き立てる。
「……よっと」
それは、アキラとアカリの前に並んでいたサラリーマン風の男が、線路の上に降りた掛け声だった。電車はもう数秒でここを通過するだろう。
男はそのまま――線路の上に横たわった。レールに対して垂直に、首の真上に車輪が通過する位置にゆっくりと横たわる。電車はもうすぐそこまで接近している。
「……」
アカリは男を止めることもせずに、いくつかの驚きをその瞳に宿しながら、ただじっとその光景を眺めていた。アキラは男の表情を見た。その眼の虹彩はどこまでも黒く沈んでいて、口元にはうっすらとした笑みすら浮かべている。頬はげっそりと肉が削げ落ちたようになっていて、髪は薄い。その男はやけにしっかりと、こちらを見ていた。アキラは初め自分のことを見ているのかと思ったが、それは違うと直感的に気が付く。男はアカリのことをじっと見つめている。これから死ぬとは思えないほどに生気に満ち満ちた視線が、アカリをとらえて離さないように。
直後、耳をつんざくような警笛が鳴り響く。電車の警戒音だ。もし仮に男がマネージなんてものを付けているのなら、その脳には最大レベルの恐怖心が煽られているはずだった。そんなものを付けているわけが、なかったが。電車は今頃、派手な音を立てつつ急ブレーキをかけ始めて、当然間に合うわけもなかった。
男が車輪の下敷きになる直前に、ほんの少しだけ唇を動かした。何か重要なことをいくつかつぶやいたように、アキラには見えた。そして男のその目はずっとアカリを凝視していた。
車輪によって人骨がばきばきにへし折られる音が響いた。脳を突き刺すようなブレーキ音と、飛び散る鮮血と臓物に、いくつにも分断された男の肉体。かつて彼を構成していたいくつかの肉片がアキラたちの頭上を通過していく。アキラはぎょっとしていた。人が死ぬところを目の当たりにして、体が震えていた。彼は同意を求めるかのようにアカリを見る。その白い頬には黒い血が付いている。彼女は男が死ぬまでずっと無表情だった。しかしアキラが見た時のアカリは少し違っていて、笑みを浮かべそして――あろうことか、アキラにキスをした。
「血、付いちゃったし、帰ろ。学校、サボってもいいでしょ」
二月二十六日 午前七時三十七分
駅構内は騒然としていた。駅員があわただしく動いて、人々はスマホ片手に喋ったり熱心に写真を撮ったりと多種多様だった。無理もない。マネージが普及して以来自殺者などその数を激減させたからなのだ。
「ショックじゃないのか。人が死んだんだぞ」
アキラは唖然としながら問いかける。アカリは少しだけ困ったような顔をする。
「んー、なんて言うのかな。あまりにも現実味がないことが起こると、心が不感症になるんだ。私は観客で、白瀬アカリっていう子の目を通して映画を見てる、みたいな感じ」
アキラには彼女の言うことが理解できない。
「……とりあえず帰ろう。ひどい臭いがする」
「そうだね。血も付いちゃったし」
アカリはそうしてアキラの後ろをついていく。
二月二十六日 午前八時一分
「飛び込み自殺って本当は夕方が一番多いんだって。中でも曇りの日のほうが多いらしいよ。そういえば、今日は曇りだね」
アカリは自分の家に着くまでの間、しゃべり続けている。
「……」
「自殺手段の中ではメジャーな方なんだ。一番人気は首吊りなんだけど、首吊りのほうが飛び込みより準備が必要でしょ。だから突発的な衝動で自殺するには電車への飛び込みが一番なんだ。ただ飛び込みにも難点はあって、まず遺体が汚いし、それに遺族にかなり多額の賠償が発生しちゃうの。でもこれから死ぬ人には関係ない話ではあるよね」
「……なあ」
「走行中の新幹線に飛び込むともっとすごいことが起きるらしいよ。血しぶきが霧みたいになるんだって。しかも急ブレーキをかけても止まるのは轢いたところから数キロ離れた場所になっちゃうんだって。すごいよね」
「……なあ」
「面白い事件はほかにもあって、昔起こった飛び込み自殺なんだけど、遺体の首だけが見つからなくてようやく見つかった場所がなんとね……」
こらえきれずに、アキラは怒鳴った。
「人が死んだんだぞ!? なんでそんなにべらべら喋れるんだ!?」
住宅街に声が反響した。アカリは虚を突かれたようにきょとんとする。
「……なんでそんなに怒ってるの? マネージで鎮静化したら、いいんじゃない?」
アキラの耳にそんな言葉は入らなかった。
「だから、俺たちの目の前で、サラリーマンが自殺したんだぞ!? アカリは何も思わないのか!?」
勢いに気おされて、アカリは少ししおらしくなる。
「そ、そんなに怒らなくても、いいじゃん……」
アキラは少しだけ怒気を抑えて問いかける。
「本当に、アカリは何も思わないのか? 目の前で人が死んでも?」
「まだリアリティがないんだって。目の前で起こったことだって、実感できてないんだよ」
そのアカリの対応に、アキラは当惑する。
「どうしてそんな冷静でいられるんだ……?」
「冷静なんかじゃないよ。気が昂ってて、落ち着かないんだ。だから口を動かしてないとおかしくなっちゃう。だから私は喋ってた」
「だからって……」
アキラは説明できない怒りを腹のうちに抱えていた。その正体に彼は気づけない。
「男は死ぬ間際、アカリを見つめて何かを言ったはずだ」
アカリは目を見開く。
「……」
「男はその人生を自ら断とうとしたその時に、アカリに向けて何かを言った。見ただろ?」
「……うん」
アキラは声を荒げる。
「会社勤めで生きるのが嫌になったのかもしれないし、家族に問題を抱えているのかもしれない。そんな男が死ぬ間際にアカリに何かを言ったんだろ!? だったらさ、だったら……」
自分でも何を言おうとしているのかわからなかった。言葉がのどもとであふれ返った。
アキラはアカリの表情を見る。アカリの表情は少しだけ沈んでいた。
「……アキラの言うこと、わかるよ。わかるんだ」
アキラは問いかける。
「じゃあどうしてアカリは……」
言葉はそこで止まった。なぜならアカリがひっく、ひっくと嗚咽し始めたからだ。アカリの目から涙がこぼれて、頬を伝っては落ちていく。とめどなく涙はあふれて、目頭は赤くなる。
「どうして、死んじゃうんだろう」
アカリは涙を拭いながら言う。
「どうして私たちは、みんな死んじゃうんだろうね」
あふれる涙は止まらない。アカリは吐き出すみたいに言葉を紡ぐ。
「私にはさ、死ぬことが人間の欠陥機能みたいに見えるんだ。神様が私たち人間を作るときに失敗して、死が生まれてしまったような、そんな気がする。理不尽な、話だよね」
アキラはそっとアカリを抱きしめる。アカリは子供みたいに泣きじゃくる。
「ねぇ、私死にたくないよ。死ぬのがたまらなく怖いんだ……」
「……」
アキラは同意の言葉をかけない。偽りの同情なんて、アカリは嫌がるに決まっているから。
「どうしてあの人はマネージを使わなかったんだろう? つらくて苦しいなら、そんな気持ちを消していい気分に変えればいいのに?」
アカリは問いかける。
「それは……」
アキラは一つの答えを思いつく。
「……自分を騙すのが嫌だったんだろ。今のアカリとおんなじ状態だ。向き合わなきゃいけない悲しみととことん向き合った結果、あの男は死を選んだ。それだけじゃないのか」
「そう、なのかな? そう、なのかな……」
「さあな」
「なんで私たちが生きている世の中には、不幸が蔓延しているんだろう? みんなマネージを使ってそれから知らんぷりしてるように、私には見える」
「俺もそう思う」
アキラは同意する。
「アキラはそういうの、嫌いなんでしょ?」
「ああ。嫌いだよ。だから俺はマネージも好きじゃない」
アカリは涙声で言う。
「……アキラは強いね」
「そんなことない。アカリみたいに感覚が鋭くないだけだ」
アカリはきょとんとしてから涙を拭いて、少し笑った。
「それは……そうかもしれないね」
「なあ、アカリ」
「ん?」
「今日はもう、学校をサボるのか?」
「……うん。たぶん、あんなことが会った後だと、友達ともうまく喋れない気がする」
「……そっか。じゃあ、服着替えて来いよ。十時にもう一回集合だ。どっか遊びに出掛けよう」
アキラはそう言って、笑った。
「学校サボってデートなんて、悪い子だね」
「ちょっと緊張感あって、いいだろ」
「うん、私もそう思う。……あ、でも。アキラ」
「ん?」
「そのデート、お昼からでいいかな。ちょっとだけ家でやりたいことあるんだ」
「ん、いいぞ」
「それじゃ、一時に駅で集合ね。遅刻厳禁だよ?」
アカリは笑う。その時アキラは、彼女がなぜ『遅刻厳禁』という言葉を使ったのかを気にも留めなかった。あるいはわからなかった。
「わかってるって。一時に駅な」
アカリはその時思い出したように言う。
「あ、ご飯食べてきてね」
「おう」