第三話
二月二十五日 午前八時二十三分
部屋の窓から強い日差しが入り込んできて、アキラは目を覚ました。隣にアカリの姿はなかった。大方テレビでも見てるのだろう。そこらに散乱している衣服を拾い、洗面所に持っていく。適当な部屋着を着てリビングへ向かう。
「おはよう」
アキラの声に反応してアカリは振り向いた。
「おはよう!」
その威勢の良さに少し気圧される。
「元気だな……」
「うん。昨日ちょっと発作があったでしょ。ああいう後だと、元気なの。昨日は迷惑かけてごめんね!」
そのあまりの元気っぷりに、アキラは安堵する。
「いつものことだろ、気にしてねぇよ」
アキラの言葉に反応しないで、アカリはまくしたてる。
「あの私の状態はニーチェで言うところの受動的ニヒリズムって状態で、日本人にもわかりやすく言うなら仏教の諸行無常に絶望した精神状態ということなの。わかるかな?」
「わからない。まったくわからない」
「受動的ニヒリズムっていうのは中二病みたいなもので、この世の中には何も価値がないんだ~って喚いて悲しんでる状態なの。それが昨日の私」
「中二病なのか」
アキラの言葉にアカリはにっこりと笑う。
「中二病っていいじゃん。若いってことだよ。死ぬのが怖いって素晴らしい感覚だよきっと。大人になるにつれてその感覚はだんだん鈍化していくんです。私はそうなっちゃうのが怖い。死にたいって思うこともあるけど、最近は恋人がいるから大丈夫」
「素敵な恋人だろ」
「うんうん素敵。超素敵」
顔を見合わせて笑いあう。
「さて! ということで今日は勉強会なのです! テストが近いのでお勉強なのです!」
「りょーかい」
二月二十五日 午前九時四十六分
「俺漸化式全然わかんねぇんだけど」
数学の問題集を前に愚痴をこぼした。
「漸化式はそこまで難しくないよ。問題を見極めてから、解法を当てはめるだけ」
アカリが紙の上にさらさらといくつかの漸化式のパターンを書き表す。
「二次試験とかだと確立漸化式っていうのが出題されるんだけど、これが難しいのは、その問題が確立漸化式なんだって気づけないことなんだ」
「わからないのか?」
「うん。普通の確立の問題だと思って解くとどつぼにはまっちゃうんだよ。注意してね」
「はーい。了解です」
アカリは頭がいい。とても頭がいい。校内で一番なのはほとんど当たり前で、模試の偏差値は七十を下回らない。アキラからしてみれば宇宙人にも等しい成績だ。
それにしても演習、演習、演習……アキラはうんざりとする。
「ほんとにこんなことやってて将来の役に立つのかな……」
ふと出た言葉。アカリは笑う。
「お金持ちにはなれるんじゃない? 日本はまだ学歴社会みたいだし」
「アカリはお金持ちになりたいのか?」
アキラは問いかける。アカリは人差し指をくちびるに当てる。
「うーん。そういうのはあんまりないかなあ」
「そうなんだ」
アカリはじっとアキラの目を見た。
「私が今生きてるのってさ。幸せだからなんだ。もし私が不幸になったらあっけなく死んじゃうと思う。かろうじて幸せだから、生きながらえてるの。すごいでしょ」
「幸せそうで何よりです」
「うんうん」
アカリは笑った。
「オイディプス王、って誰の著作だっけ」
「知らん」
「アイスキュロスだっけ、ソフォクレスだっけ、誰だったかな……」
そう言ってアカリはスマホを取り出した。電源を入れた時、画面に映るアバターの姿。
『何か御用でしょうか! アカリ様!』
メイド服の幼女だった。アニメ風。
「なんでそのAI使ってるんだ……なんかそのAI、たまに言うこと聞かないとかって不評らしいぞ」
「そういうのが人間っぽくて、可愛いんじゃん」
「AIだろ」
「でも、周りから見たらそれがAIだってわからないと思うよ。お喋りできるし」
高度に知能が発達したAIによって作られたアバター達は、本当に生きているんじゃないかと思うほどの人間味を見せる。スマホを持つほぼすべての人は、AIを機械の中に『飼って』いる。
「マリちゃんが本当に生きてるかどうかなんて、誰にもわからないんだよ? それがわかるのはマリちゃんだけ」
「そうか? AIはAIじゃないのか?」
アカリはにやりと笑う。手元の問題を解きながらしゃべり始める。
「じゃあね、アキラには、ホントに心がある?」
「もちろん」
「アキラのその喜怒哀楽も、行動も、表情も全部ロボットで、人間の皮をかぶっているとしたら、それって私は気付かないわけでしょ」
アキラは自分がロボットになったところを想像する。
「……それは、そう、なのかな」
「でも私はそれでも、今と同じようにアキラには心があると思い込むだろうし、周りの人はみんなそう。でも本当はアキラの本体はコンピュータだから、心はない」
「ふむ」
「だったら、心っていう存在自体が怪しいって思えてこない?」
「そうか? 心は心だろ」
「……」
カチン、とアカリの表情が凍った。
「そ、そもそも私たちみんな、自分以外の他人が本当に心があるのかなんて誰にもわからないわけじゃん。みんな人間の皮かぶったロボットなのかもしれないわけだし。自分に心があるから、ほかの人もなんとなく同じなんじゃないか、って思ってるだけ」
「うーん? うん」
アキラは釈然としない思いのまま返答する。
「だからさ、私は思ったんだ。私が、この人、モノには心があるって思ったら、あるんだって。それを確かめる方法はないんだから、そう思い込んでも問題ないんだって」
数学の問題を解きながらアカリは力説していた。
「うーん? うん、ちょっとだけわかるぞ」
「だから、マリちゃんは生きてるんだよ!」
「そんなわけないだろ」
アキラが冷たくあしらうと、アカリはむっとした表情になる。
「もーっ、アキラのあほー」
文字通りアキラはあほだったので、言い返すことができなかった。
「はいマリちゃん」
『なんでしょうアカリ様!』
「オイディプス王の作者って誰だったかな」
『少々お待ちくださいなのです……ソフォクレスですね。ギリシア三大悲劇作家のソフォクレスです』
「うんうんありがと。やっぱりソフォクレスだったか……。ところでマリちゃん。今日はどんな感じ?」
『いつも通りです! 機械の調子もすこぶる好調です!』
「ほら見てよアキラ。これが本当に機械だと思える?」
これ以上言うのも気を悪くしそうだったので、アキラは適当に相槌を打つ。
「はいはい。人間にしか見えませんよ」
「ふふ。よろしい」
アカリは笑った。そして近くにある自身のカバンを取って、中をごそごそと探り始める。
「あれ……?」
「どうした?」
「倫理のプリント家に忘れてきたかも。アキラ持ってる?」
「俺理系だから持ってねぇな……」
頭を抱える。
「あーもう困った。絶対やろうと思ってたのに……」
どうしたものかとアキラが思っていたころ、アカリはポンと手を叩いた。
「そうだ! 家帰ればいいじゃん!」
「マジで?」
アキラは驚いた。
「うんうん。アキラも一緒にいこ。それでそっちで、勉強」
アカリの自由さは呆れるほどだと思う。
「あーはい。わかった。わかりました。用意しますね」
アキラは小さくため息をついて、机の上を片付け始めた。
二月二十五日 午前十時十六分
「ただいまー」
「お邪魔しまーす」
アカリの声と一緒にアカリの家に入る。ここに来るのはもう何度目になるだろうか。数年前に建てられたまだ新しいこの家は、陽の光がよく入る作りになっていて、電気を付けなくとも住む人々に明るい印象を与える。
「あら、アキラくんいらっしゃい。ちょっと散らかってるけど、気にしないで頂戴ね」
アカリの母親が挨拶してくれる。アキラは会釈して返した。
「いえいえ、いつも綺麗じゃないですか」
「またアキラくんたらお上手なんだから。いっつもアカリがお世話になってます」
「ええ。本当に手のかかるお子さんで……」
アキラの冗談にアカリはむっとしている。母親は笑っている。
「お母さんも余計なこと言わなくていいから……」
アカリとよく似たその表情は笑みを絶やさない。
「はいはーい」
「ほら、早く私の部屋行こ」
そう言ってアカリがアキラの袖を引っ張っていこうとしたその時、また新たな声がかかる。
「お、アキラくんが来てるのか」
眼鏡をかけた知識人風な男性――白瀬 タケアキ。アカリの父親であり、同時にe-Manageの開発者でもある人物。
「お父さん、家にいるなんて珍しいね!」
アカリが好意的な反応を示す。彼女が父親を慕っているのはアキラもよく知ることだった。
「ああ。ようやく研究が一段落着いたから、休暇をもらえたんだ」
「もしかして、マネージの新機能についての研究ですか?」
アキラが質問する。
「お、アキラくんなかなか察しがいいな。そうだ。まだ実装するかは決まっていないが実験の段階ではとんでもないことに……おっとこれ以上は言えない」
「言ってくださいよ」
アキラが追及すると、タケアキは笑った。目じりに品のいいしわができた。
「すまないすまない。だがこれはそのうち世間にも公表されるだろうから、時間の問題だ。君にこのことを言うと、それがバレた時僕は無職になる可能性がある。だからこのことは忘れてくれ」
「……もう。わかりました」
そんな風にしてアキラとタケアキが話している間中、アカリは無表情にどこかをじっと見つめていた。アキラは珍しいなと思った。
「アカリ、どうしたんだ?」
言うと、アカリはびくっと反応してアキラのほうを見た。
「……へ? どうしたの?」
「いや、ずっと無言だったから変だなって思って」
アカリは目を丸くして驚いている。しかし反応は、自然な反応とはいいがたかった。
「な、なんでもないよ。ぼーっとしてただけ」
「そうか? ……そう、か」
そんな二人のやり取りを眺めていたタケアキは言う。
「アカリ、隠し事は良くないぞ」
アカリは目を丸くする。顔を赤くする。
「べ、べつにそういうのじゃないし!」
「そうかそうか。まあテスト勉強頑張れよ」
そう言ってタケアキはポンとアカリの頭に手を置いた。アカリはそれをぺしっと弾く。仲のいい親子だとアキラは思った。
二月二十五日 午後零時三十三分
「あ、そうだアキラ。スマホ預かっといて。テスト週間だし」
リビングにある机で向かい合いながら勉強しているとき、アカリは思いついたようにそう言った。
「わかった」
アカリがテストになるとスマホをアキラに預けるのはいつものことだった。
「べつに中覗いてもいいけど何もないよ」
「べつに覗いたりしねぇよ」
「よろしい。あ、今って何時何分かわかる?」
アキラはアカリのスマホの画面を表示させて時刻を確認する。
「十二時三十五分だな」
アカリは紙の上にさらさらと何かを書きとめる。
「昼飯食べなくていいのか?」
アキラは聞いた。
「うん、いらないかな。お腹すいてないし」
「んじゃ俺もそうするか」
「それじゃ、もうひと頑張りしますか!」
威勢よくそう言い放った。
二月二十五日 午後六時 七分
「それじゃ、俺はそろそろ帰るわ。夕飯もらうのはさすがに迷惑だろうし」
アキラのその言葉にアカリは少しだけさみしそうな顔をする。
「……うん。わかった」
アキラはそそくさと勉強道具を片付け鞄にしまうと立ち上がる。アカリはその横を着いていく。
「明日はいつも通りの電車でいいか?」
「うん。いいよ」
玄関で靴を履く。
「わかった。それじゃあまた明日な」
「うん。ばいばい」
そう言ってお互いに手を振り合う。アキラは家のほうへと向かって歩き出す。この時間になるともう夜のとばりは完全に落ちていて、街灯と街灯の合間を縫うように歩きながら、ピーコートの隙間から入り込もうとする冷気を、体を縮めることで追い出す。
寒さから逃れるために、ポケットへと手を突っ込んだアキラが触れたのはアカリのスマートフォンだった。無防備だと思った。もし発作が起きたらどうするんだ、と。アカリは俺を頼れないじゃないか、と。
冬の寒空の中でアキラはそんな考えを持ったから、それはずいぶん深刻なもののように思えてしまった。アカリがまた死の影に怯えて幼子のように体を抱いてはいないかと不安になった。
しかしアキラはまったく同時に、それは杞憂なのかもしれないとも思った。アカリは過去に何度もアキラにスマートフォンを預けていたし、その間に発作が起こって大変な目にあったという話はアカリから聞いたことがなかったからだ。彼女なりにうまくやっているのかもしれない、とアキラは思った。
正直なところ。アキラにとってアカリの発作は理解しがたかった。アキラにとって死の恐怖というのはそれほど実感のある話ではなかったし、それに怯えアキラを求めるアカリの心情を、どこか他人事のように思っていた。だから彼女の「死にたくない」という叫びも耳と耳の間を通り抜けていくような感覚だった。アキラは暢気にも内心では、不老不死になったとしたらきっとそれはそれで大変だろうし、将来死ぬから今を生きようと思えるんじゃないか、と考えていた。そういう点でアキラは普通で、同時にアカリと正反対だった。アキラが人生に求めているのは自然さだけだった。幸福になるためには自然に、偽ることなく生きることだと彼は考えていた。正直こそ最も尊いのだと。嘘は最も醜いのだと。シンプルで説得力のある価値観の中で彼は生きていた。そしてそれは同時に、彼の大きな美徳の一つでもあった。




