第二話
二月二十四日 午後八時十五分
「もうずっと前の研究なんだけどね。人が死ぬ前と死んだ後だと、重さが7~9gくらい違うんだって。それが魂の重たさなんじゃないかって、ずっと言われてるんだ」
二人で歩く夜道で、アカリはひどく饒舌だった。それは彼女が上機嫌な証拠でもあった。アキラはアカリと共に、彼の家を目指して歩いていた。ほんの少しだけ肌寒い秋の夜空だった。
「へえ。面白いな」
アカリは笑う。
「でしょでしょ!? びっくりだよね! 魂がほんとにあるかもしれないなんて!」
アカリの言葉に少しだけ疑問を抱く。
「んー、魂かあ。俺はないと思うんだけどな」
アカリは少しだけ得意げな表情になる。
「ほう。なんでアキラはそう思うの?」
「ほら、マネージだよ。あれのおかげで俺たちは感情を切ったり貼ったり交換したりできるんだけどさ。それってつまり、意識とか、感情ってのは脳が作り出してるっていうことの証拠じゃないのか?」
アカリはにやりと笑う。
「あれ? 魂と感情は同じじゃないよ?」
しばし考える。
「あー? うー……。ああ、そっか。それは、そうだな」
「魂っていうのは、アイデンティティみたいなものなんだよ。自分が、自分であるという確信が、魂なんだ。意識とか、感情っていうのは二次的なものに過ぎないんじゃない?」
「んー?」
アキラは首をかしげる。アカリの話は時々あまりに難解で、理解が追い付かない。
「これも昔の研究なんだけど、サム・パルニアって人の実験。彼はね、魂の存在を科学的に証明しようと考えたんだ」
驚く。
「どうやって?」
「サム・パルニアは蘇生医の権威だった。脳波が止まった状態の人を何とか復活させるのが彼の仕事なんだ。生きるか死ぬかの境を彷徨った人はみんな、こう言うんだって。心肺蘇生を受けてる自分の肉体を上から眺めていた、って。それでね。奇跡的に一命をとりとめた人たちの証言はみんな、とっても正確だったんだ。ここに何があって、時間はいついつで、お医者さんと看護婦はこんな人が何人いて、しかもそれが全部合ってた。これって不思議だよね」
「不思議だな」
「それでサム・パルニアは自身の救急室の天井に、ある物体をつり下げたの。下からじゃ、その物体がなになのか確認できない。もし患者たちの言うことが本当なら、臨死体験をした人々は、そこに何があるのかがわかるはずだ、ってサム・パルニアは思ったんだ」
「ほうほう。上から眺めるなら、ってことか」
「うんうん。それでね、実験は成功したの。生死を彷徨い生き返った七人のうち、全員が見事にその物体の正体を当てたんだ。信じられる?」
「信じられない」
「これはもう何回も実験されてて、魂っていうのは本当にあるんだ、っていうのは医学界ではほとんど真実なんだよ。びっくりでしょ」
「びっくりだな」
アカリと喋っていると時間を忘れる、と思った。それに楽しそうにしゃべるアカリは見ていて飽きない。
「だから死んだ後も私の意識は続くんじゃないかな――なんて、思ったりも、するんだ」
ほんの少しだけ寂しそうな顔をする。
「……そうだと、いいんだけどな。ほら、着いたぞ」
アキラの言葉で会話は打ち切られ、二人は家に上がった。親はちょうど旅行中だった。
二月二十四日 午後九時四十五分
「ねぇアキラ。お酒ある?」
隣のアカリが甘えた声を出す。アキラは呆れる。
「未成年だろ」
「いいじゃん。調和しながらお酒飲もうよ。きっとふつうの二倍酔っぱらえる」
「んー……でもなぁ」
アカリは身体をすり寄せる。柔らかい胸が右肘に当たった。上目遣いで甘く囁く。
「いいじゃんいいじゃん。飲もうよ」
「……しょうがねぇな」
あっさりとアキラは折れた。台所から梅酒をコップに注ぐと自室に持っていく。
「度数は?」
「十五パーセント。そんなに強くない」
「そうなんだ。じゃ大丈夫だね。ほらアキラもマネージ付けてよ」
「はいはい」
イヤリングを耳に付ける。調和――アカリの今の感情が、言語を介さずにダイレクトに心に伝わる。穏やかで幸福な満ち足りた精神状態――のはずだった。いつもならそうなのだが、今日のアカリの心境には、ほんの少しだけ陰りがあるのを感じる。
「アカリ、何か隠し事してるだろ」
う、とアカリはきまり悪そうな顔をする。
「言いなさい」
アキラがそう言うと、アカリは少しだけ申し訳なさそうな顔をして、
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……今じゃ、なくていいや。また今度で」
リアルタイムに感じるアカリの心から、嘘を言っているわけではないとわかる。
「そうか。んじゃまた今度聞いてくれ」
アカリはグラスの梅酒をぐいっと飲んだ。そしてはぁ、頬を赤らめて息を吐く。
「……うん。やっぱり私、調和が好き。幸せな気持ちになる」
アカリはそう言ってグラスを傾ける。梅酒が少しだけ減った。
「ねぇアキラ、愛っていったい何だと思う?」
「考えたこともないな」
アカリは、お酒を飲むと輪をかけて饒舌になる。
「誰かを好きだ、っていう気持ちは愛だと思う? 私がアキラのことを、大好きなように」
「違うのか?」
アカリはお酒の所為か、ほんのりと頬を赤らめてにやりと笑う。
「きっと違うよ。それは好きとか、熱情だけど、愛じゃない。愛っていうのはもっと穏やかで、幸せな何かなんだ。私はその正体をずっと探してた。ようやく最近、それっぽい答えを見つけたの」
「なんなんだ?」
「何かを愛するっていう状態はね。愛する何かを自分の一部として吸収する、ってことなんだ」
アキラの思考は追い付かない。アカリは説明を始める。
「全然難しいことじゃなくて、アキラがもし犬を飼ってたとして、その犬を愛していたとして。その犬が死んじゃったら悲しいでしょ? 自分の一部が死んじゃったような気がするから、悲しいんだよ。それが愛するっていうこと。喜びも悲しみも、二倍になるってこと」
「なるほど」
アカリはうっとりしながら言う。
「そういう意味でさ、私とアキラは愛し合ってるんだよ。マネージを通して感情を共有して、絶えずお互いが好きで愛していることを確かめ合って。太く愛おしい絆でつながってるんだよ」
アカリは梅酒をうっとあおると、グラスを机の上に置いて、アキラに寄った。
「ねぇアキラ。調和した時からずっと気づいてたんだけど、言わなかったこと、あるんだ」
「なんだ?」
その時のアカリの表情は妖艶にも見えた。悪戯じみた子供っぽい笑みすら浮かべている。そのままアキラの身体の上に乗っかる。肌の温かさと、女の子の柔らかい重みと身体の感触が脳を埋め尽くす。
「変態さん、だね。アキラ」
「……うるせぇな。仕方ないだろ」
アキラがぶっきらぼうに返すと、アカリはふふっと笑った。照れ隠しだとバレているから。
「……好き」
アカリの唇がアキラの唇をふさいで、アルコールの混じった少しだけ苦いキスをする。
「俺もだよ、アカリ」
じっと目を見つめて言った。アカリが喜んでいるのが自分のことのように分かった。ああ、これがアカリの言う、愛か。彼女の言葉を実感できたような気がして、嬉しくなった。
「アキラの顔が好き。背の高いところが好き。他人に流されない性格が好き」
ベッドに寝転がり、お互いの身体を触り合って、剥ぎ取るみたいに服を脱がせていく。アカリの胸の柔らかさ、足の感触、腰のライン、一つ一つを確かめながら、愛に溺れる。
二月二十四日 午後十一時三十二分
「調和、外しちゃダメか」
「ダメ。アキラとおんなじ気持ちで、眠りたいの。ぴったり肌を合わせて、温かい気持ちで一緒に眠るんだよ」
駄々をこねる子供みたいなアカリの態度に、アキラは笑った。
「仕方ない。アカリは温もりが好きなんだからな」
アカリは反論する。
「アキラの温かさが好きなの。ねぇアキラ、私って結構依存しがちなんだ。色んなことに、ね」
「知ってるよ。俺に依存してるんだろ」
アカリは少しだけ驚きを見せる。
「……うん。私はアキラに依存してる。私って弱いから、そうしなくちゃ生きていけないんだ。ごめんね」
クラスの中の高嶺の花。その容姿と聡明さから、皆の注目を集めずにはいられないこの少女が、いったいなんで病まなくてはならないのだろうか、とアキラは思った。
「謝らなくていい。迷惑じゃないから」
むしろそれを喜んでいる自分がいることにも、気づいているから。
「依存されて嬉しいって、アキラも変わってるね」
「アカリだから、嬉しいんだよ」
「……あ、ありがと」
少し照れるのが可愛いな、と思ったその直後。
心がざわついた。違う、と思った。ざわついているのはアキラの心ではなく、アカリの心だとすぐにわかったからだ。瞬く間に表れたのは悲哀の情だった。悲しみの情動が津波のように、アカリの精神に押し寄せて、アカリはきゅっと身体を丸めた。アキラはその小さく華奢な身体を抱いた。
アカリはひっく、ひっくと嗚咽を漏らしながらむせび泣いた。
「悲しいんだ……幸せすぎるから、怖いんだ……」
発作、と二人でこの状態を表現していた。リアルタイムに押し寄せる悲しみの連鎖はアキラにも伝わって、鉛のような重みが心にのしかかる。
「……その感情を、消去しないのか」
ボタン一つでこの悲しみはすっかりと消えてなくなるのだ。e-Manage――マネージがあるのだから。そのためのマネージではないのか。けれどもアカリは首を横に振る。
「これは……消しちゃいけない悲しみなの。この悲しみに向き合わないと、私は、生きることも赦されないから……」
昔アカリが語った言葉を思い出す。「なんで生きているのか、わからない。どれだけ考えてみても、ちっともわからない」きっとアカリは、聡明すぎた。普通の人なら立ち止まらずに素通りする疑問とずっとにらめっこしてしまった。「死ぬのが怖い」ともアカリは言った。「私が死んだ後に無限に世界が続いていくと考えると、暗い闇に一人で放り出されたような気がして、怖くて、叫びだしそうになる」アキラはアカリを抱きしめる。
「大丈夫だよ。少なくとも今は、俺がいる」
アカリの心にまた新たな疑問の色が浮かんだ。アキラにはそれがどういう疑問なのか、すぐにわかってしまう。少なくとも今は、ということはいつかいなくなるということと同じなのだ。
「だから俺たちは、今を生きているんだろ」
強く抱きしめた。アカリは泣いている。ずっと泣いている。自分の小さな体に蓄えた弱さが悲鳴を上げて叫びだしている。
「うん。ありがとう、アキラ。愛してる」