第一話
二月二十四日 午後七時九分
「マズい! 敵が追ってきている!」
車に乗っているアキラの耳に届くのは加工された男の声だ。その声は緊迫感に満ち満ちていて、彼の身体の内の緊張感も喚起する――半ば強引な過程を辿って。
「どうしてこんなところに来たんだ! ここは危険だぞ!」
味方と思しき男はアキラたちの乗る車に向かってそう叫んだ。その瞬間、男が立っていた場所が膨れ上がるようにして爆発する。熱風が吹き付け同時に鮮烈な恐怖がアキラを襲う。
「しっかり捕まっていて!」
運転手が叫んだ。アキラはすぐ横にあるレバーをしっかりと握りしめる。とたん凄まじい遠心力が蹂躙した。身体が投げ出さんばかりの遠心力。それがやがて収まったかと思うと、廃墟のように崩壊した都市を車は駆けていく。
「やっと逃げ切れた……」
女の運転手はふぅと息を吐いた。アキラの胸につかの間の安堵感が生まれる。このまま俺は無事に帰れるのだ――という実に不気味な、作られた安心感。車はゆっくりと停止した。
唐突に、みし、みしと何かが軋むような音がした。見るとどうやら運転席の方からだった。
「ニゲ、キレ、タ……?」
カ、カ、カと異様な音を立てながら、運転手は傀儡のように首を回転させていく。その顔がアキラの真正面に来たとき、彼は絶句した。運転手の顔の皮膚は黒く焦げ眼球は飛び出し、外れた顎の所為か舌はだらりと垂れ下がっている。悪夢に見る様な、魑魅魍魎そのものだった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
隣に座るアカリが悲鳴を上げる。その声がさらにアキラの恐怖心を煽り、その身体はわなわなと震えだす。救いの声はすぐに見つかった。ちょうど車の外を見る。
「おい! ここから出るんだ!」
ドンドンと男がノックする。見るとそこにはさっき爆発に巻き込まれたかのように見えた男――すなわち味方――が立っていた。アキラとアカリは車の外に出た。どこかの国の軍服のようなものを着た男は厳しい顔をして彼らに告げる。
「……今から最終ミッションを行う。それを遂行するには君達の力が必要だ。武器はこいつを使ってくれ。これで自らの命を守り、そしてシステムの中核を破壊する!」
そう言って男は、ほかの隊員から厳つい近未来風な銃を受け取ると二人に手渡した。とたん、アキラの中に湧き上がる戦闘への意志――生き残りを賭けた戦いに心が、震えだす。
「この世界を守るには――君たちの力が、必要だ!」
アキラはアカリと共に、黒々とした廃墟の中心に向かって駆けだした。
自らが、世界を救う勇者であるのだという錯覚に溺れながら。
二月二十四日 午後七時二十一分
「あー楽しかった! やっぱ臨場感やっばいね。ほんと来てよかった!」
隣のアカリは満足げに身体をぐいぐいと伸ばすと、アキラに向かって笑いかける。
「まあまあだな。まあまあ楽しかった」
アキラはぶっきらぼうにそう返すが、アカリは笑みを絶やさぬまま言う。
「もう。アキラはいっつもそうなんだから。そんなにマネージを使ったアトラクションが嫌いなの?」
「嫌いなんじゃないって。ただちょっと苦手というか」
「それって嫌いじゃん」
「そうかもな」
二人は笑った。
「だって今だってマネージ外してるじゃん。なんで外しちゃうわけ? すっごく便利なのに」
「縛られるのが嫌いなんだよ」
「べつにイヤリングを付けるだけじゃん」
アキラは笑う。
「そうじゃないって。精神的な意味で、な。だってあれ付けてると強制的に感情を操作されてるようなもんだろ? それって絶対、自然な状態じゃない。俺は出来るだけ自然なままでいたいんだよ」
アキラの力説にアカリは少したじろぐ。
「うーん、うん……」
しばし悩み、
「まあでも、アトラクション乗ってるときは付けてるんだし、ゆるしちゃおっかな」
にぱっと笑う。
「ありがと」アキラは答えた。
「もう。せっかく私のお父さんの発明品なんだから。使ってくれてもいいのに」
「それは素直に悪いと思う」
「いいっていいって。マネージ嫌いな人って、やっぱり一定数いるみたいだし」
アカリは笑った。
先進国の社会生活にマネージ――正しくはe-Manage――が浸透してから早くも五年が経過していた。米国リングストン社が開発した次世代デバイスe-Manage。正式名称をemotion-management。両耳に付けるイヤリング型の機械で、脳波を観測し干渉する機能を持つ。
販売当初のキャッチコピーは「すぐにイライラして集中できないあなたに落ち着きを」や、「プレゼンテーションで緊張してしまうあなたに、とっておきの秘密兵器」だった。前頭葉や帯状回が関与する意識的感情の鎮静化――観測し続ける脳波、もとい電気信号に対し打ち消し合うような磁場を両耳のイヤリングから発生させる。それによって現時点の情動はリセットされ、使用者は冷静を取り戻す、という具合だ。
販売当初、その凄まじい機能性故にいくつもの不買運動や、危険性を喚起する言説が世を風靡した。だがどの論説も証拠不足、理論の破綻などをきたしており、さらにどんな憂鬱すらもボタン一つで振り払ってくれる魔法の機械の存在を、不況に喘ぐストレス社会の住人が欲しがらないわけがなかった。一瞬にしてe-Manageは各種先進国の中でブームを起こした。そしてe-Manageには特筆すべき機能が三つあり――
二月二十四日 午後七時二十九分
「だからさ、さっきのアトラクションの時に俺たちが感じていた恐怖は、俺たちの恐怖じゃないんだよ。どこかでとんでもない恐怖体験にあった人の脳波をサンプリングして、マネージを通じて俺たちの頭に転写されてるに過ぎないんだって」
日がもう落ちてしまったテーマパークの中をアカリと一緒に歩いていた。目指すは花火鑑賞のカップルゾーンだ。
「まーたそんな分別ないこと言う。まあ、言いたいことはわかるけど」
「だろ? 湧き上がる闘志もまやかしなんだと思うと、なぁ……」
アキラの言葉に、アカリはほんの少しだけむっとする。
「もう。楽しいんだからいいじゃん。難しく考えるアキラは嫌いじゃないけど、それは家に帰ってからでいいでしょ? 今は楽しもうよ」
「……それはそうだな」
ほんの少しだけ申し訳ないな、と思った。
アカリはにっこりと笑う。
「うん。それでいいんだって! ほらもうすぐ花火始まるよ、行こっ」
きゅっと手のひらを掴んでアキラを引っ張っていく。その手が相変わらず華奢でほんのり冷たくて、アキラは嬉しい気分になった。
「ね、アキラ。調和しよ」
「ああ」
今くらいはいいだろう、アキラはそう思ってポケットからマネージを取り出し耳たぶに取り付けた。スマホの画面をタッチして、すでにアカリから送られている申請を許可する。
「……っ」
頭が少しピリピリと痺れて、ぼうっと意識が遠くなる。ふわふわとした意識がだんだん一つの形に固まっていき、とたん胸の奥で湧き上がる甘い情熱。調和――お互いが今持っている感情を赤裸々に相手に送り合うという、マネージの機能の一つだ。胸中に湧き上がる切なさの混じった情熱を、目の前にいる恋人に対して、互いに送り合う。胸の内側でアカリに対する恋情と、アカリが俺に抱く思慕の情が入り混じって愛情で胸の内側がいっぱいになる。アカリがこんなに自分を愛おしく思っているのだと思うと、少しだけ気恥ずかしくなる。
「マネージのこの機能。私一番好きなんだ。すっごくあったかいし、しあわせ」
「……」
口頭で同意するのが気恥ずかしくて目を逸らした。どうせアキラの本心もアカリには筒抜けなのだ。
「……てかアカリ、俺のこと好きすぎだろ」
「うるさい。そっちだって似たようなもんじゃん」
アカリは照れ隠しのためか、目線を合わせない。そういう仕草がいちいち可愛い、なんて思うのは野暮だろうか。でもこんな感情の機微もアカリに伝わっているんだと思うと、くすぐったい気がしてアキラはまた笑みをこぼした。そしてアキラは目の前の可愛らしい少女を見た。ハーフアップ。白い肌。紅潮した頬。さくらんぼみたいにみずみずしいくちびる。キスしたいな、そう思った。
「……まだダメ」
いたずらっぽい表情で言う。お互いが何をやりたがっているか、お互いに筒抜けなのだ。
「アカリだってしたいだろ」
アキラは言う。しかしアカリは首を縦に振らない。
「なんか、勿体ないから……ダメ。それじゃ、こうしよ。花火が打ちあがったら、キス。いいでしょ?」
少しだけ呆れる。
「……ロマンチストだな」
「う、うるさい! 女の子はみんなロマンチストなの! 呆れないでよ!」
アカリが本当に恥ずかしがっているのが、アキラには手に取るように分かった。
「わかったわかった。最初の花火が上がったらキス、な」
人のざわめきがほんの少しだけ騒がしい中、ほとんど一体みたいになったアキラとアカリは喋らずにじっとそびえる城の一番高い塔を眺めていた。その時、アカリの感情が少しだけ揺れたのを感じる。
「ね、アキラ、さ」
「……ん」
「私たち、付き合ってから、今日で一年目だね」
アカリが緊張しているのを感じる。このまま言わせるのは、少しだけ男らしくないなと思う。
「……そうだな」
テーマパークの演出なのか、周囲のライトがすべて消灯される。最初の花火が上がるまで、あと十秒とかからない。アキラは息を吸う。
「二人の一周年を祝って。これからもよろしく、アカリ」
花火が空に打ちあがる甲高い音が鳴り、やがて大きく重い破裂音と共に色とりどりの光が花開く。緊張と、切なさと、いとしさと。すべてがアキラの内側を一杯にする。それは今ちょうどキスをしているアカリも同じだった。好きと好きが複雑に絡みつき合って、情熱的で官能的な情動が駆け巡る。アカリの身体に触れたいと思う。抱きしめる。キスをする。二人が求めあうならずっと。飽きが来るまでアカリを求め続ける。