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離せる訳がない!

 

「気に入らないのなら、ただその手を離せばいいのですよ」

「無茶言うな」

 離せる訳が無い。アヤメは今アキトに手をつかまれて宙ぶらりんだ。

 体育館ステージの奈落が不調で、唐突に落ちたまま上がって来ない。整備不良だろうか。三階から落ちるくらいの深さがある。

「運動神経には自信があります」

「この状況でキメ顔!? お前の無表情崩れんの初めて見た……」

「さあいつでも来い」

「敬語キャラも崩れた?!」

 離すかよ、と無駄に(おとこ)らしい後輩の手を、アキトは懸命につかむ。ステージに寝そべり肩から上を奈落に突っ込んでしまっている為、踏ん張りが利かずに引っ張り上げられない。

 アキトが帰宅部のインドア派でアヤメがモデル体型である事もわざわいしていた。

 彼らは生徒会執行部員で、午後から行う新歓レクリエーションの為最終確認を行っていた。

 確認自体は(とどこお)りなく終わり、他の役員や執行部員達も解散したのだが。

 二人が忘れ物をして戻ったところでアヤメの足元が唐突(とうとつ)に消えた。

 ふわりとアヤメの短い髪が広がり、スローモーションの様にゆっくりと沈んで行く光景が、冗談みたいで。だって、驚きもせず無表情で落ちてくんだ。

 アキトはばかみたいに見送って、気付いて手を伸ばしても遅くて。辛うじてしなやかな左手を捕まえはしたが、そのまま事態は膠着(こうちゃく)していた。

 アヤメの体重が掛かった肩よりも、ドクドクうるさい音を立てる心臓が痛かった。

 氷川(ひかわ)アヤメは美少女だ。

 慇懃無礼(いんぎんぶれい)な無表情の敬語キャラで、アキトからしてみれば、冷たくてキツくて、正直一緒に組まされるのが嫌な後輩。

 それでも。

 ――気に入らないのなら、ただその手を離せばいいのですよ。

 そんな訳にはいかない。だが、ずっとこのままでもいられない。

「お前、懸垂(けんすい)出来る?」

 アキトの問いに、黒目がちの大きな目が(またた)く。

「ああ。成る程。先輩の手をツルに見立ててどこかの野生児の(ごと)く振り子の要領でステージ上に飛び上がれと(おっしゃ)るのですね」

「何そのアクロバティックショー!? お前そんなん出来るの?! どこの軽業師! ってか、今ノーブレス……」

「挑戦するのは構いませんが、先輩の腕が千切れる可能性が有ります。宜しいですか」

「淡々と怖い事言うな。大丈夫だ、千切れない」

 確かに千切れはせずとも結構な負荷(ふか)が掛かりそうだが。

「そして、私は演台の中にスポッとはまりそうです。寧ろ激突しそうです」

 奈落は演台の後ろにある。確かに飛び上がったはいいものの、勢い余ってステージ後方の壁か、前方の演台にぶつかる可能性もあるかも知れない。

「……もっと穏やかにいこう。なあ、お前って懸垂」

「人の頭は物理的衝撃を受けるとシナプスが死ぬらしいですね。中間テストで成績が下がったら春日井先輩の腕力が無かった所為(せい)です」

「懸垂嫌なの?」

「では今から先輩の腕と中間テストの成績を犠牲(イケニエ)に私は地上に戻ります」

「いけにえっておま」

「Fight!」

 アヤメは己の身体を演台の方に揺らした。ぐんっと、腕が抜けそうな程引っ張られ、アキトは歯を食いしばる。

 振り子は逆側に揺れ、そしてまた演台の方へ。アヤメはブランコを()ぐ様に振り幅を大きくし、そして。

 清涼飲料水のあの掛け声で、ぴょんと飛び上がった。

 幅跳び選手の様に身体を逸らして、演台の手前で綺麗な着地。

 立ち上がったアヤメは地べたに寝そべったままのアキトを見下ろし、近寄ってしゃがみ、手を差し出した。

 ぽかんとしていたアキトは我に返り、アヤメの手をつかんでいたのとは逆の、左手でその手につかまり、立ち上がる。

「お前、ヒーローみたいだな」

 己のカッコ悪さにへこみつつ微妙なかおでアキトが手を離そうとすると、ぎゅっと握られる。

「え?」

「先輩、ありがとうございました」

 基本、アヤメは礼儀正しい。ただ、表情も声も平坦で、慇懃無礼に感じるだけで。

「あ、いや、結局おれは何も」

 結局はアヤメの身体能力がものを言ったのだし。とアキトは溜息を吐く。

「格好良かったですよ」

 アヤメのこのセリフに、アキトは固まる。アヤメは先程綺麗な着地を見せた。頭は打っていない筈だ。

 槍が降るのか、と彼が天井を向いた瞬間。

「スカートの中を見てさえいなければ、危うく恋に落ちてしまいそうなくらい」

「痛っ」

 ギリギリと握られたアキトの手が(きし)る。

「ちょ、あれは不可抗力! って、痛い痛い!」

「紳士なら目を逸らすべきです」

「あんまり綺麗な着地で見とれてたんだよ!」

 ギリッとアキトの手が悲鳴を上げた。

「痛!」

「不覚でした」

 一つ溜息を吐いて、アヤメはアキトの手を解放する。

「初めて恋に落ちた人が、こんな人だなんて」

 手を押さえてうずくまるアキトは、降って来た呟きの意味を理解できず、ややあって「え?」と顔を上げる。

 だが、体育館を出て行くアヤメの背中は、アキトに何も答えをくれなかった。


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