霧の運河と、迷い子と、傷船の汽笛
# 空にクジラが泳ぐ世界で
### ――前書き・登場人物紹介――
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## ◆ この物語について
魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。
蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。
そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。
名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。
正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。
魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。
ただ、死なないだけ。
腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。
それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。
なぜ旅をするのか。
それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。
「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。
これは、終わりの見えない旅の記録。
空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。
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## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ
舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。
千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。
けれど人間はしぶとかった。
魔法が使えないなら、機械を作ればいい。
試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。
エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。
旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。
高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。
その狭間で、人々は今日も必死に生きている。
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## ◆ 登場人物
### サイラス・ハリソン(サイ)
**「千年生きた、失敗作の旅人」**
> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。
> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋
千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。
製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。
ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。
好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。
彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。
感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。
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### SiS-001「シス」
**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**
> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。
> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体
ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。
人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。
シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。
その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。
サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。
シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。
温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。
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### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】
**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**
> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。
> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者
もうこの世界にいない。千年前に死んだ。
それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。
サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。
天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。
サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。
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## ◆ 作品のキーワード
`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`
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*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*
*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*
【夕暮れの運河と、コーンブレッドの湯気】
最初に気づいたのは、音の種類が違う、ということだった。
蒸気馬車の窓ガラスに額を押しつけて、サイラス・ハリソンはぼんやりと外を眺めていた。車内には彼のほかに数名の乗客がいる。行商らしき大荷物の男と、窓の外を見るともなく見ている老人。誰も誰とも話していない。蒸気機関の低い駆動音が、その静けさの底を支えていた。
フォストリアが近づくにつれ、景色は少しずつ変わっていった。荒野の草地が途切れ、真鍮パイプが密になり、街道の両脇に石積みの低い壁が現れ始めた。そして壁の向こうに、街の輪郭が見え始めた頃、サイラスの耳に届いてきたのは、バレストルでは聞かなかった音だった。
水の音だ。
川の流れる音でも、雨の音でもない。何本もの水路が街中を走っており、そこを蒸気船が往来しているのだろう。低い汽笛、水面を打つ船底の音、荷物を引きずる人夫の声、石畳を叩く木靴の音。それらが混ざり合って、独特のリズムを作っている。バレストルの機械音とは違う騒々しさ。人間の声と水の音が、音の主役だった。
城門が近づいてきた。城壁には、古い石積みの上に新しい蒸気配管が継ぎ足されているのが見えた。ところどころから白い蒸気が漏れ出し、夕暮れの橙色の空気に溶けていく。門番が手を挙げ、馬車が速度を落として止まる。書類の確認が済むと、重い鉄扉が軋んで開いた。
城門をくぐった瞬間、夕方の空気がどっと押し寄せてきた。
まず匂いだ。川魚の干物と、機械油と、どこかで焚き火をしているような煙の香り。次に光。水路に沿って並ぶ石造りの建物の窓という窓から、ガス灯の橙色の光が零れ出している。水面に映ってちらついており、街全体が揺れているかのような錯覚を起こさせた。
バレストルとは、何もかも違う。
あそこは煤と蒸気にまみれた、工場の延長のような街だった。ここは水と石と光でできた街だ。建物の様式も古く、石畳の道も狭い。真鍮のパイプは確かに街中に張り巡らされているが、古い石の壁に後から這わせたもので、なんとなく不釣り合いに見えた。それが妙に愛嬌があって、サイラスは街に入った瞬間、少しだけ表情を緩めた。
(水の街か。バレストルとはまるで違うな)
感情リセットの後特有の、透き通った視点でそう思う。どちらが好き、ということではない。ただ、この街が初めての場所として目の前にある、その新鮮さを淡々と受け取っていた。
馬車が停留所に着いた。荷物を下ろして人波に混じり、サイラスはまず市場を探した。
***
日が傾きかけた市場は、一日の終わりの慌ただしさに包まれていた。
台を片付けようとしている商人、売れ残りの値を下げて声を張り上げる行商人、急ぎ足で買い物を済ませようとする主婦たち。サイラスはその流れに逆らわないように歩きながら、売れそうなものを出している店を探した。
荷物の中には、マキナ村から持ち込んだ燻製チーズが二個と、乾燥薬草が二束ある。食料品店で燻製チーズを見せると、店主は包み紙も解かずに首を振った。「うちは毎週ラスカーン方面からもっといいのが入ってくる。悪いが、今は要らない」。薬草屋でも似たようなことを言われた。「品質は悪くないが、同じようなものがたっぷりある」。
三軒目の食料品商は、中年の女性で、少し事情が違った。客の入りが悪く、台の上の品物が余っている様子だった。燻製チーズと薬草を並べると、しばらく吟味してから、「インダラの行商が来週来る。そいつなら買うかもしれない。でも今日中に売りたいなら、まとめて引き取るよ、安値で」と言ってきた。
チーズ二個と薬草二束、合わせて二・五GSN。マキナ村での買値から考えると半値以下だが、持ち歩いても下がる一方だ。
「それで」とサイラスは言った。
紙幣を受け取りながら、ついでに情報を聞き込んだ。旅人でも泊まれる宿屋はどこか、日払いの仕事はあるか、旅先で売れるものはなにか。商人はそれなりに答えてくれた。宿は「河岸亭」が安くて清潔だという。日雇いは荷揚げか市場の搬入補助。旅先で売れるものとしては、「大陸の印刷地図」と「塩漬け川魚の干物」の名前が上がった。どちらもフォストリアの名物らしい。
「地図と干し魚か」
声に出してみる。
(印刷地図は、内陸の街を出れば値が上がる。干し魚は山越えするなら確かに高値がつく。ただ、今日は時間がない。明日また来ることにしよう)
城門が閉まるまで一時間を切っていた。サイラスは礼を言い、市場の通りを戻り始めた。
***
石橋のたもとに、充填スタンドがあった。
大気圧縮エンジンを内蔵した、鋳鉄製の四角い機械だ。背の高さほどあり、側面に料金投入口と充填ノズルの差し込み口、それから残量を示す圧力計が並んでいる。街の真ん中の自販機よりも、路地の奥の給水所に近い位置にひっそりと建っていた。
サイラスは左腕のガントレットからスチームカートリッジを外した。料金投入口に一GSN紙幣を一枚押し込み、カートリッジをノズルにセットする。カチン、という金属音と共にロックがかかり、圧力計の針がゆっくりと動き始めた。
充填中、サイラスはポーチから予備のカートリッジを取り出し、ガントレットに装着した。バルブを軽く押すと、シュッという確かな排気音。問題ない。
(一GSNか。パン二個分だ。安くはないな)
それでも充填はこまめにしておく。旅の中では次にいつできるかわからない。バレストルでできなかった場合、マキナ村にはスタンドすらなかった。いつ山の中に入るかもわからない。これは千年かけて染み付いた習慣だ。理由を考えるより先に、手が動く。
カチン、と充填完了の音がした。カートリッジを外し、ポーチに仕舞う。これで今日は完了だ。
体を起こした時、周囲が少しだけ静かになっているのに気づいた。
橋の上を歩いていた人夫が立ち止まっている。水路沿いの屋台の女性が、手元の作業を止めて顔を上げている。子供が一人、石畳の上で遊んでいたのに、気づけば上を向いていた。
サイラスも連られて空を見上げた。
夕暮れが始まっていた。東の空は濃い青に沈みかけており、西の空はまだ橙と薄紫が溶け合っている。その色の境目あたりを、巨大な影が悠然と泳いでいた。
全長五十メートルを超えるシロナガスクジラの幻影。識別名SiS-001。シス。
夕暮れの光に透けて、シスの輪郭はいつもより柔らかく見えた。逆光になっているせいか、巨体の縁が橙色に縁取られて、雲なのか生き物なのか、分からないほどに空と一体化している。
橋の上の人夫が「でかいな、今日」と隣の男に言った。隣の男は「そうだな」と短く答え、また歩き始めた。屋台の女性は一度見上げてから、手元の作業に戻っていた。子供は数秒眺めてから、また石畳の上に視線を落とした。
この世界でシスが空を泳いでいることは、日常だ。立ち止まって眺めるほどのことではない。ちょっと目立つ夕焼け雲を見つけた時くらいの、その程度のことだ。
サイラスは少し長く見上げていた。
(やあ、来てるね)
心の中でだけ声をかける。答えは返ってこない。それでいい。シスはあそこで泳いでいて、自分はここで空を見上げている。それだけのことだ。
しかし、夕暮れの橙に透けるシスの輪郭が、今夜はなぜか特別に美しく見えた。感情がリセットされたばかりの目には、世界のすべてが少しだけ初めて見るものに見える。今日のシスも、その一つだった。
風が一度吹き、水路の水面が揺れた。橙色の光の反射がちらついて、シスの影と混じり合う。
サイラスはバックパックの肩紐を握り直し、宿へ向かって歩き出した。
***
「河岸亭」は、運河に面した石造りの建物だった。
入り口の両脇に蒸気灯が一本ずつあり、扉のそばに小さな看板が下がっている。絵は水路と鍵を組み合わせたもので、宿と南京錠のどちらにも取れる曖昧なデザインだった。重い木の扉を押すと、熱気と食べ物の匂いが飛び込んできた。
一階は食堂兼酒場で、夕食の時間前というのに席の半分ほどが埋まっていた。仕事帰りらしき男たちが卓を囲み、低い声で話している。壁際のカウンターでは、恰幅のいい中年の女将が帳面を見ながら何かを計算していた。
サイラスが一泊の宿を申し込むと、女将は顔も上げずに「四GSN、二食つき」と言った。「夕食は今夜は何時でも。朝は六時から」。鍵が投げ渡される。受け取り、礼を言って二階へ上がった。
部屋は小ぢんまりとしていたが、清潔だった。
ベッドと小さな机と椅子、それから窓。それだけだ。しかし窓が運河側に面しており、外を見ると夕暮れの水路が広がっていた。蒸気灯の明かりがちらちらと水面に映り、橋の向こうに石造りの建物が並んでいる。バレストルの宿屋から見えた煤けたスモッグと排気塔の眺めとは、全く異なる景色だった。
サイラスはバックパックを床に下ろし、中身を一つずつ確認する。これも習慣だ。新しい宿に着いたら、まず荷物を広げる。何があって、何がないか。補充が必要なものはないか。
着替えと予備の服。保存食の残り。水筒。砥石と予備。スチームカートリッジが六本、今日の充填分を含めて。大型サバイバルナイフ。包帯と消毒薬。地図。それから底の方に、ウェアウルフから抉り出した魔核が一つ、布に包まれて沈んでいた。
サイラスは手の中でそれを転がした。深い赤紫色の結晶体。光にかざすと内側から熱を帯びた輝きがある。フォストリアの市場では売り先を探せなかったが、もっと先の街に行けば高値がつくはずだ。焦ることはない。
荷物を整理し、着替えを済ませてから、一階に下りた。
***
食堂の隅の席についてメニューを眺めると、短い文字列が書いてあった。「コーンブレッドとチリコンカン」。それ以外の選択肢はない。今夜の定食だろう。「それをください」と言うと、女将は頷いてカウンターの奥に消えた。
しばらくして、皿と鉄のボウルが運ばれてきた。
まずコーンブレッドが目に入った。四角く切られた、黄色い塊。表面がわずかに焼き色づいており、ほんのりと湯気を立てている。隣の鉄ボウルは深い赤褐色の汁物で、こちらからも湯気が上がっていた。
サイラスはナイフをコーンブレッドに入れた。
切れ味の問題ではなく、抵抗の問題だった。ナイフを押し込む瞬間に、ほろりと崩れる。小麦のパンのように弾力があるわけでも、硬いわけでもない。もっと素直な崩れ方をする。一切れを手に取って口に入れた。
(ざらい)
最初にそう思った。舌の上に、細かい粒子の感触が広がる。粗挽きのトウモロコシの質感だ。小麦粉とは違う、粒子の荒さ。それが不快かといえば、そうではない。ざらざらの中に甘みがある。砂糖とは違う、素材のそのままの甘み。トウモロコシを乾燥させて粉にした時に残る、土に近い甘さだ。
咀嚼すると、舌の上で崩れていく。バラバラになるような崩れ方で、一口飲み込んでもまだ口の中に感触が残る。
(悪くない。これは腹に溜まる食べ物だ)
感情がリセットされた後の評価は、こういう形になる。「美味しい」という感情的な判断ではなく、まず事実の収集。ざらい。甘い。崩れる。腹持ちがいい。そのあとで、「悪くない」という結論が来る。
次にチリコンカンを一口。
スプーンを入れると、底の方にまで豆と肉が詰まっていた。一口飲み込んだ瞬間に、熱が来た。温度の熱さと、辛味の熱さが同時に届いてくる。舌の先よりも奥に来る辛さで、鼻の奥と喉に触れる、じわじわと広がる種類の熱さだ。
(辛い)
まずそれだけが頭の中に入ってきた。それから、その熱さの奥にあるものを探す。
豆だ。表面の皮が柔らかくほどけて、内側はほくほくとしている。噛むと旨みが出てくる。長時間煮たことで豆の旨みがスープに溶け出しており、それが深い色と重みを作っている。肉の塊がいくつか混じっていた。繊維がほぐれており、スプーンで押すと簡単に崩れる。煮込まれた肉の中心まで、トマトと辛味が浸透している。
トマトの酸みが全体をまとめていた。辛さとトマトの酸みは、普通なら喧嘩しそうな組み合わせだが、ここでは豆と肉のどっしりとした旨みが仲裁役になっている。一口ごとに、辛さ、酸み、旨みの順番が少しずつ変わる。
コーンブレッドをちぎって浸してみた。
湯気が立つスープをパンが吸う。口に入れると、コーンブレッドの粒子の甘みがスープの辛みを和らげて、ちょうどいい落とし所に着地する。崩れやすいパンがスープを含んで少し重くなり、飲み込むまでの間、口の中に旨みが残る。
(なるほど、これで一セットか)
コーンブレッドだけでは甘すぎて物足りない。チリコンカンだけでは辛すぎて食べ疲れる。この二つが揃ってはじめて、過不足なく一食になる。
体の内側から温まっていく感覚があった。フォストリアの夕方は、バレストルや農村と違って、湿気を含んだ冷たさがある。水路の多い街特有の底冷えだ。その冷えが、一口ごとに少しずつ緩んでいく。
(ねえ、レナ)
心の中で、亡き人の名を呼んだ。
(こういう料理は、開拓民の食べ物だな。小麦が手に入らない土地で、トウモロコシの粉でパンを焼いた。乾燥豆と保存肉を長時間煮て、辛味で体を温めた。必要なものが全部入っていて、必要でないものが何もない。君はこういう合理性の積み重ねを、気に入っていたと思う。「人間って面白い」って言いながら、何でも食べていたから)
ロレーナへの郷愁よりも、報告に近い感触だった。感情リセット後にはいつも、こうなる。レナが愛していたものを今ここで見ている、という奇妙な近さの感覚。彼女はもういないが、彼女が好きだったものはまだ世界にある。
サイラスはもう一口、パンとスープを一緒に口に入れた。湯気が鼻の奥に届いた。
食堂の中は、夕食の時間が近づくにつれ少しずつ賑やかになっていた。日雇いらしき男たちが雪崩れ込んできて、スチーム・リンガのまじりけのない怒鳴り声が飛び交い始めた。「テーブルを寄せろ」「椅子が足りない」「先に頼んどけ」。女将がため息をつきながらカウンターを離れ、席の整理に回る。
サイラスはその喧騒の縁に腰を落ち着けたまま、最後の一口を飲み込んだ。鉄のボウルの底には、スープが少し残っていた。コーンブレッドの最後の一片を浸して、それもきれいに平らげる。
(腹は膨れた。明日から仕事を探そう)
思ったことは単純だった。
路銀の計算を頭の中でする。今日の売却代と残りの路銀を合わせると、この宿に数日は泊まれる。しかし飛行船の切符を買うには、まだ桁が足りない。荷揚げの日雇いをやってみることにしよう。早起きが必要らしいが、それは構わない。
「ごちそうさま」と言って席を立つ。女将に礼を言い、二階に戻った。
部屋の窓を開けると、夜の運河の空気が入ってきた。水と石と、わずかにオイルの混じった匂い。昼間の熱気が抜けて、静かで冷たい夜気だ。
水路の石畳に沿って並ぶ蒸気灯が、水面にゆらゆらと橙色の帯を落としていた。橋の向こうに石造りの建物がある。窓の明かりがちらちらとしている。誰かがまだ起きていて、夕食の後片付けをしているのだろうか、あるいはまだ仕事をしているのだろうか。
空には星が出ていた。
シスの姿はもう見えなかった。夜になれば、あの巨体は暗闇に溶けて見えなくなる。しかし(どこかを泳いでいるんだろう)とサイラスは思った。あてのない慰めではなく、ただの事実として。シスはずっとこの空のどこかにいる。見えているかどうかの問題に過ぎない。
サイラスは窓を閉め、ベッドに腰を下ろした。スプリングが少し弱いが、野宿するよりはずっとましだ。革のブーツを脱ぎ、上着をたたんで枕元に置く。
今夜はシスの異空間には行かない。転移はせず、ただここで眠る。
目を閉じると、夕暮れの運河と、コーンブレッドの湯気と、夕焼けに透けるシスの輪郭が、まだ網膜の裏に残っていた。感情がリセットされた後は、いつもこうだ。見るものすべてが少しだけ鮮明で、少しだけ初めての輝きを帯びている。
明日には慣れるかもしれない。それでも今夜は、フォストリアが初めての街として、目の奥に残っている。
やがて意識が沈んでいき、水路の水音も聞こえなくなった。
【密航娘と、でかすぎるマントと、父親探し】
フォストリアの朝は、宿の窓が白くなり始めた頃にはもう動き出していた。
夜明け前の運河から、低い汽笛が一本聞こえた。続いてもう一本。荷揚げが始まったのだろう。木の軋む音、人夫たちの怒鳴り声、石畳を引きずられる重い荷の音が、水の上を伝わって宿の壁まで届いてくる。バレストルの夜明けは機械の立ち上がりから始まったが、ここは人の声から始まる。
サイラスはすでに目を覚ましていた。
朝食は一階の食堂で、パンとゆで卵と、薄いスープだった。女将が無言で運んでくる。シンプルで過不足がない。サイラスは黙って食べ、礼を言って外に出た。
朝の空気は昨夜より冷たく、水路の表面に薄い靄がかかっていた。
***
運河沿いの道を、サイラスはゆっくりと歩く。急ぐ必要はない。今日の目的は仕事を見つけることと、街の構造を把握すること。どちらも足を使えば分かることだ。
桟橋には、夜明けから働き始めた人夫たちが列をなして荷を運んでいた。大きな木箱を肩に担ぐ者、荷車を押す者、綱を引く者。全員が汗をかいており、靄の中で体から湯気が上がっている。荷揚げの監督らしき男が桟橋の端に立って、スチーム・リンガで怒鳴りながら動線を整えていた。
(なるほど。朝の六時には始まっているな)
仕事の段取りを目で追いながら、サイラスは桟橋の構造を頭の中に入れていく。荷を積んだ船が運河の水路に入ってきて、桟橋に横付けになる。人夫が桟橋から船に渡り、荷を運び出す。受け取り役が荷を台車に積み、倉庫まで運ぶ。倉庫には商館の人間が待っていて、帳簿と照らし合わせる。流れは単純だが、人の数が多い。明日から荷揚げに入るとすれば、監督に声をかければいい。顔つなぎは今日のうちにしておいた方がいいだろう。
倉庫群の並びを過ぎると、商館の区画に出た。ここには運輸会社や卸問屋の事務所が並んでいる。石造りの建物の壁に、各社の看板が掲げられていた。サイラスはその名前をいくつか頭に入れながら、通りを一本歩いた。
(この辺の地理は、もう少し把握しておこう)
そう思って角を曲がった瞬間だった。
***
小さな影が、路地の奥から飛び出してきた。
サイラスが一歩引いた瞬間、その影が急ブレーキをかけて止まった。ぶつかるかぶつからないかの距離。見下ろすと、少女が立っている。くすんだ栗色の短い髪に、大きな茶色の目。年は十歳か、十一歳か。痩せた体に擦り切れた麻の上着とズボン。踵が磨り減ったブーツ。顔に薄汚れが乗っており、目には怖さと意地が同居していた。
一秒、目が合う。
「待てっ!」
怒鳴り声が路地の奥から飛んできた。続いて、足音。制服を着た中年の男が、肩を揺らして走ってくる。港の監視員だ。
(少女が追われている。逃走中。追っている側は官憲寄りの人間だ)
そこまで把握するのに、三秒もかからなかった。
「関わるべきか」という問いは、もうほとんど考えない。千年の間に、この種の問いへの答えはとっくに決まってしまっている。捕まれば、この子は何かまずいことになる。それだけで十分だ。
サイラスは少女の肩に手を置き、自分の横に引き寄せた。監視員が路地を抜けて目の前に出てきた瞬間、サイラスは穏やかに声をかけた。
「すみません。この子は私の姪なんですが、何かありましたか」
監視員が足を止めた。サイラスを上から下まで、それから少女を、また上から下まで見た。明らかに似ていない。しかし否定もしきれない。旅人が姪を連れて歩くことは、ありえないことではない。
「……密航未遂だ。昨夜、出航前の船に忍び込んでいた」
「それは申し訳ありませんでした。まったく、困った子で、目を離すとすぐに興味本位で行動してしまう。ご迷惑をおかけしました」
サイラスは頭を下げた。監視員は不満そうな顔をしたが、「……しっかり言い聞かせろ」と言って、来た方向に戻っていった。
少女は監視員の背中が商館の角に消えるまで、サイラスの横で微動だにしなかった。
***
監視員の足音が聞こえなくなってから、サイラスは少女の方を向いた。
「話を聞かせてほしい」
少女は一歩引いた。警戒の目だ。
「なんで助けたの。知らない人でしょ」
「そうだな」
「じゃあ、なんで」
「強いて言えば、ちょうどそこにいたから、かな。あと、追いかけている側の顔が怖かった」
少女は少しの間、サイラスを見ていた。
「知らない人に助けてもらうのは、嫌い?」とサイラスが聞いた。
「……嫌いじゃない」
「なら、話してくれ。立ったままより、座ってからの方がいい」
運河沿いの石段を見つけて、サイラスが先に腰を下ろした。少女はしばらく立ったままでいたが、やがてサイラスから一人分の間を開けて、石段の端に座った。
「名前は」
「……リナ。リナ・コルバー。十一歳」
「僕はサイラス・ハリソン。旅人だ」
リナは水路の方を向いたまま、少しずつ話し始めた。最初は短い言葉で、途中からは止まらなくなった。
母親が二ヶ月前に病気で死んだ。父親は船乗りで、長距離の輸送の仕事に出ていた。どの船会社に雇われているかは分からない。「お父さんはそういうことを詳しく言わないから」。連絡も取れないまま一人で家にいたら、一ヶ月ほど前に役人が来て、保護者がいない未成年は施設に入れと言われた。家賃も滞納していたから、家主にも家を返せと言われた。
「それで施設に行ったの?」
「行かされた。聖ウィリアム施設、っていうところに」
「どうだった」
リナは少しの間黙っていた。
「食事が少なかった。夜は鍵をかけられた。世話係の人が、横柄だった」
事実を並べるような言い方。感情を乗せないことで、どうにか話せているような言い方だ。
「二週間くらいで、抜け出した」
「それからここへ来た?」
「お父さんが船乗りだから、港に来れば会えると思ったの。でも何十隻もあって、どれがお父さんの乗ってる船か全然わからなくて……」
リナが初めて、水路から目を離してサイラスを見た。
「昨日の夜、荷物の影に隠れて船に乗り込もうとした。そしたら今朝の点検で見つかって、捕まったら施設に戻されると思ったから逃げたの」
(なるほど)
サイラスは水路の流れを眺めながら、状況を整理した。
感情リセット後の今は、子供の話をあまり感情移入することなく、冷静に聞くことができる。だから「役人が家を追い出した」という部分に、何か引っかかりがあった。正規の手続きだとしても、一度目をつけられているということに変わりはない。密航未遂の未成年が単純に保護されるとは思えなかった。
(どうにかしてやるか)
感情のフラットな状態でも、その気持ちは自然に出てきた。これも千年分の習慣だろう。理由を考えるより先に、体が動く。
「父親の名前は」とサイラスが聞いた。
「グラント・コルバー。四十歳くらい」
「特徴は」
「左手の薬指に大きい傷がある。背は高くない。肩が広い。口数が少ない」
「仕事の種類は分かるかな。どんな荷物を運ぶとか、どのくらい出かけるとか」
「重い荷物を運ぶ仕事って言ってた。遠くに運ぶんだって。一ヶ月とか、二ヶ月とか……いつもそのぐらい帰ってこないの」
長距離輸送の船員だ。下働きだろう。
「分かった」
サイラスは立ち上がった。リナが見上げてくる。
「まず、父親の勤め先を探そうか。会社が分かれば今どこにいるかも分かるし、事情を説明すれば保護してもらえる可能性がある」
「でも、お父さんの会社わからないよ」
「そうだな。手当たり次第に当たる。それしかない」
リナは少しの間サイラスを見て、それから石段から立ち上がった。
***
ただ、このまま歩き回るのはまずい。
監視員にリナの顔は覚えられている可能性がある。特徴的な見た目というわけではないが、自分とセットで歩いていれば目立つかもしれない。
自分たちは旅人とその姪だ。見つかったところで何がどうこうというわけではないが、密航未遂という印象が残っているところに悪目立ちするのはよくない。商館区画を歩き回るとすれば、せめて顔が見えにくくなるような工夫は必要だろう。
サイラスはバックパックを前に回し、中から一枚の布地を引っ張り出した。荒野での野営用に持ち歩いているフード付きのマントだ。くたびれた感じはあるが、防寒と防水はまだ効く。
広げてリナの肩にかけてみると、ひと目で問題が分かった。
肩が完全に落ちた。裾が石畳に触れている。フードは顔の前に垂れ下がって、かぶれば視界が完全に塞がる。
サイラスはしゃがんで裾を二回折り上げ、腰のあたりで紐を回して留めた。肩の部分を内側に折り込み、布を引っ張ってフードの位置を直す。それでも、袖口からリナの指先が半分しか出なかった。
「変な格好」とリナが言った。
「変な格好より、捕まる方が嫌だろ」
「……そっちの方が嫌」
「じゃあ、それで行こう。フードを深くかぶれば顔は隠れる。あとは僕の横を離れないように」
リナは両手でフードの縁を引っ張り、顔の半分を隠した。大きなマントの中で、体の輪郭がほとんど分からなくなる。これならすれ違っても、さっきの逃走中の少女とは結びつかないだろう。
「行こうか」
「……うん」
二人は商館区画へ向けて歩き出した。
***
船運会社を回り始めてすぐに、壁の高さを理解した。
最初に当たった大手の会社、正面に「エーテルガルド広域蒸気運輸株式会社」と掲げた事務所に入ると、窓口の若い男が申し訳なさそうに首を振った。「外部の方への人事情報の提供は、弊社の規定上お断りしております」。リナが父親の特徴を話しかけたが、男はすでに顔を帳簿に戻していた。
二社目も同じだった。「それは分かりかねます」という言い方が少し違っただけで、結果は同じだ。
三社目、「エーテルガルド内河輸送組合・第三支部」という中規模の事務所では、窓口の男が少し話を聞いてくれた。リナが懸命に父親の特徴を並べると、男は「名前を一度確認してみます」と言って帳簿を取りに奥へ消えた。十分ほど待たされた。帰ってきた男は「名簿照合には上の許可が必要でして」と言い、奥に再び消えた。さらに二十分待たされた後、「本日は担当者が不在でして」と言われ、石畳の上に追い出された。
(なるほど。それが答えだ)
サイラスは事務所の扉が閉まるのを見届けてから、隣に立つリナを見た。リナはフードの中で唇を固く結んでいた。
「だれも教えてくれない」とリナが力なく言葉をこぼす。
「まだあそこがある」とサイラスは言った。
商館の一番端にある小さな事務所。看板には「ウェズリー商船」と書いてある。建物はくたびれているが、灯りは点いていた。
扉を開けると、中年の女性が一人、机で書類を捌いていた。顔を上げた目に、笑いかけるわけでも警戒するわけでもない、ちょうど真ん中あたりの表情が乗っていた。
「すみません。乗組員を探しているんですが、少し聞いてもらえますか」
サイラスが言うと、女性は書類を脇に置いた。リナがフードを少し引き上げて前に出た。
「グラント・コルバーという人を探しています。わたしのお父さんです。四十歳くらいで、背が高くなくて、肩が広くて、口数が少ない。左手の薬指に傷があります。荷物を運ぶ仕事をしていました。よく長い間、仕事に出ていて――」
一息に言い切った。
女性は少しの間リナを見ていた。それから「グラント・コルバー……少し待ってもらえる?」と言って、奥の部屋へ消えた。
***
事務所の外の石段に、二人で腰を下ろした。
リナはフードを少し後ろに戻して、空を見上げていた。正午を過ぎた頃の空で、薄い雲がゆっくりと東へ流れている。運河の水音だけが静かに続いていた。
「疲れたかい」とサイラスが聞いた。
「……緊張した」
「うまくいくといいな」
「うまくいかなかったら?」
「その時はまた考える。一回ダメだったからって、終わりじゃない」
リナはしばらく黙っていた。それから、視線をサイラスの方に向けた。
「……サイラスは旅人なの?」
「そう」
「どこから来たの」
「前にいたのはマキナ村っていうところ。その前はバレストルっていう工場街。もっと前は、もっと遠いところだよ」
「どこに行くの」
「決めてない。気が向いた方角へ」
リナは少し考えるような顔をした。
「どうして私を助けてくれたの」
サイラスは少しの間、水路の流れを見ていた。
「……ちょうど、そこにいたからかな」
それ以上の説明を探したが、うまい言葉が見つからなかった。ちょうどそこにいて、ちょうどその場で、それが自然な行動に見えた。それ以上でも、それ以下でもない。
リナはサイラスの顔を少し長い間見ていた。それから前を向いて、また石段に腰を落ち着けた。
「……大きなマントを持ち歩いてる旅人が、ちょうどそこにいてよかった」
「まあ」とサイラスは答えた。「君も、ちょうどそこに飛び出してきてよかった。五秒遅かったら、僕はもう角を曲がっていた」
リナが小さく笑った。ほとんど気づかないくらいの、薄い笑い方だった。しかしそれは確かに笑いだった。
(なかなかの子だ)
サイラスは思った。感情がリセットされた後の透き通った視点でも、その印象はくっきりとしていた。怖がっていないわけではない。弱くないわけでもない。ただ、その怖さと弱さを心の奥にうまく押し込んで、それでも次の一手を考えている。
扉が開いた。
ウェズリー商船の女性事務員が顔を出した。その目が、リナの上に落ちる。一瞬だけ、表情が変わった。
「少し、中に入ってもらえる?」
言い方が、それまでより少し柔らかくなっていた。
リナが立ち上がり、続いてサイラスも立ち上がった。
扉の向こうに事務員ともう一人、初老の男性管理職が待っていた。
【名簿の空白と、船の消息と、雨の午後】
ウェズリー商船の事務所は、外から見るより少しだけ広かった。
奥に続く部屋があって、そこに小さな会議用のテーブルと椅子が四脚置いてあった。窓が一つ、運河とは反対側の路地に向いており、薄曇りの午後の光が斜めに差し込んでいる。女性事務員がリナとサイラスを椅子に案内してから、奥のドアをノックして消えた。しばらくして、もう一人が入ってきた。
初老の男性だった。白髪まじりの短い髪と、日焼けした首筋。書類仕事で丸くなり始めた肩と、それでも残っている広い背幅。かつて現場で働いていた人間の体格だ。上着の胸に会社の紋章が入っており、管理職の立場であることが分かる。
男性はテーブルの向かいに腰を下ろし、サイラスとリナを交互に見てから、リナの方に視線を落とした。
「グラント・コルバーさんのお嬢さん、ですね」
「はい」
リナの声は落ち着いていた。フードをおろして、真っ直ぐに男性を見る。
「少し、確認させてください。お父さんの左手に傷があると言っていましたね」
「薬指です。大きい傷で、古い傷です。昔、仕事で怪我したって言ってました」
男性はしばらくリナを見ていた。それから、手元の書類に目を落とす。
「グラント・コルバー。確かに当社に登録のある人物です」
リナが小さく息をのんだ。
サイラスはそれを横で聞きながら、男性の表情を観察する。書類を確認しながら話す目の動き、声のトーン。どこか、次の言葉を選んでいる様子だ。
「ただ——」
男性が続けた。
「現在、連絡が取れない状況にあります」
***
グラント・コルバーは、ウェズリー商船が運航するフォルナ号に乗船していた。
フォルナ号は先週、エーテルガルド本土から内陸部への物資輸送の航路についていた。途中、天候の急変と機関部のトラブルが重なり、運河の上流で連絡が途絶えてしまう。会社としては捜索船を出しているが、まだ発見には至っていない。積み荷の損失が大きく、本社も対応に追われている状況とのことだ。
「生存者の安否については、現在のところ確認が取れていません」
男性はそこで一度言葉を切る。「申し訳ない」と言ったが、声に感情はあまりない。事務的な謝罪だ。
サイラスは男性の顔を見ていた。悪意があるわけではないのだろう。ただ、目の前にいる十一歳の少女に何をどう伝えるべきか、マニュアルに書いていないことが起きているので困惑している。その困惑が、声から感情を抜いてしまっていた。
「リナさんの今後については——」と男性が続けようとした。
「少女の今後についても相談させてほしいんですが」とサイラスが口を挟んだ。「父親の消息が確認されるまでの間、会社として何かできることはないですか。宿の手配でも、身元引受けでも」
男性はサイラスを見た。
「それは、福祉の管轄になります。当社としては——」
「その福祉の窓口というのは、この子を施設に送った側の人間ですね」
静かな言い方だった。反論ではなく、確認の声だ。
男性は少し黙り、それから「私どもにできることは、今のところ……」と言い、言葉をそこで止めた。
「分かりました」とサイラスは言い、「情報を教えてくれてありがとうございます」
立ち上がりながら、もう一つだけ聞いた。「捜索は続けていますか」
「はい。今週中は継続する予定です」
「そうですか」
それだけだ。二人は事務所を出る。
***
外は薄曇りになっていた。
石畳に、午後の平たい光が落ちていた。商館の区画はまだ人が歩いており、荷運びの台車が石畳を転がる音がどこかから聞こえてくる。ただ、事務所の前の小さな路地には人影がなかった。
リナは扉の前に立ったまま、しばらく下を向いていた。大きすぎるマントの裾をつかむ両手が、布地に皺が寄るほど強く握られている。
サイラスも何も言わなかった。言うべき言葉を探したが、適切なものが見つからない。「大丈夫だ」と言うのは嘘だ。「きっと生きている」と言うのも、根拠がない。
やがてリナが顔を上げた。
「お父さんが死んだかもしれない、ってこと?」
「……まだ分からない。見つかっていないというだけで、死んだとは決まっていないよ」
「でも……」
「でも、今は分からない。それだけだ」
リナは黙った。唇を固く結んで、まっすぐ前を向く。
泣かない。
(泣かない子供というのは、もう十分泣いた子供だということが多い)
サイラスは思う。施設を抜け出してから今まで、一人でどのくらい夜を過ごしてきたのか。その間にどれだけ泣いたか。もうそれを人前でやる分が残っていないのか、それともこの場所では泣かないと決めているのか。どちらも、たいした違いではない。
リナはまだ、マントの裾を握っていた。
***
状況を整理すると、選択肢は多くはない。
父親の行方が分からない以上、「父親と合流して保護してもらう」という計画は成立しない。かといってリナを今すぐどこかに預けることも難しい。孤児院に戻すのは論外だ。船運会社にも断られた。この街で他に当てになる人間が、サイラスにはいない。
ただ、捜索は続いている。生存の可能性がゼロでない限り、待つという選択肢はある。
「しばらく、一緒にいてもいいか」とサイラスが言った。
リナが顔を上げた。
「……お金がない」
「僕が出す。仕事を探すから」
「なんで。サイラスには関係ないことだよ」
「……まあ、そうとも言えるけど。ちょうどこの街に数日いるつもりだったから。場所代みたいなものかな」
リナはしばらく黙っていた。マントの裾を握ったまま、サイラスの顔を見上げてくる。
「……一緒にいていいの?」
「ああ」
また少し黙って、「分かった」と短く言った。
声が、さっきより少しだけ低くなった。泣くまいとして、喉の奥を締めているような声だ。
***
翌日から、サイラスは荷揚げの日雇いに入った。
桟橋の監督に声をかけると、拍子抜けするほど簡単に話が決まる。「明日の夜明けに来い、三時間やってみろ、使えると思ったら続けて雇う」。それだけだ。翌朝の夜明け前、靄の中の桟橋に出ると、顎をしゃくって監督に「あっちの班に入れ」と言われた。
仕事は単純な作業だ。船から荷を降ろして、指定された台車に積む。それを繰り返す。木箱の重さは一個あたり二十キロから三十キロ程度で、一日に何十個も動かすことになる。普通の人間には、午後になると腰と膝にくる仕事だ。サイラスには関係がないが、それを表に出すと目立つので、仕事の終わりには人並みに疲れたふりをした。これも千年かけて身につけた習慣だ。
リナは宿の食堂の女将に自分で交渉したらしい。
サイラスがそれを知ったのは、初日の荷揚げを終えて宿に戻ったときのことだ。食堂の奥から、皿の音と水音が聞こえてくる。カウンターから覗くと、リナが流しの前に立って、昼食の後の皿を洗っていた。
「いつの間に」とサイラスが言うと、リナは振り向かずに答えた。
「朝のうちに頼んだの。食べさせてもらうのに、何もしないのは嫌だから」
「……頭が回るな」
「当たり前でしょ」
女将は横でそれを聞きながら、何も言わない。ただ少し口の端が動いたのが見えた。
夕方、荷揚げを終えたサイラスと皿洗いを終えたリナは、食堂で合流する。リナが女将からもらったパンとスープを持ってきていた。
「余ったんだって」とリナが言った。
「そうか」
「……サイラスの分もある」
「ありがとう」
二人で黙って食べる。食堂には夕食前の静けさがあって、運河の水音だけが壁越しに届いていた。
***
二日目の夕方、運河の石段に腰かけて、リナが足を水面に向けてぶらぶらさせていた。
石段のすぐそばを、小さな蒸気船が静かに通っていった。煙突から白い煙が細く上がっている。船が通り過ぎると、波紋が石段の下まで届いて、リナのブーツの先をかすめた。
「船乗りになったことある?」とリナが聞いた。
「ある。今の蒸気船じゃなかったけど」
「どんな船?」
「木の帆船。風がないと動かなくて、嵐が来たら最悪だったな」
「……怖くなかった?」
「怖かったよ。毎回」
「でも乗ったの?」
「そこに行きたい場所があったから」
リナはしばらく水面を見ていた。波紋がゆっくりと広がって、石段の端で消える。
「……お父さんも、そういう感じかな」
ぽつりと言った。
「そうかもしれないな」とサイラスは答えた。「遠くに行くのは、重い荷物を運ぶためだけじゃないと思う。どこかに向かっているということが、その人なりに意味を持っているのかもしれない」
リナはまだ水面を見ている。何かを考えているような顔だったが、何も言わなかった。
蒸気灯に灯がともり始める時刻になって、二人は宿に戻った。
***
三日目の朝。
運河に霧が出ていた。
夜明け前からの靄が、朝になっても晴れずにそのまま残っていた。水路の水面が霧に覆われて、対岸の石造りの建物の輪郭がぼんやりとしている。桟橋では荷揚げが始まっているが、人夫たちの姿が霧の中に溶けており、声だけが聞こえてくる。
サイラスは荷揚げの仕事に向かう途中、桟橋の端で立ち止まった。
霧の上の空を見る。
何もない。街に着いたときに見たシスは、もうだいぶ遠くまで泳いで行ってしまったのだろう。今朝の空に、あの巨影は見えない。雲が低く、霧が濃い日は、どんな空にいても見えなくなる。別にいなくなったわけではない。あの巨体がどこかを泳いでいることに変わりはない。ただ今は、見えないだけだ。
(ねえ、レナ)
心の中で声をかけた。
(居場所を失った子供というのは、世界のどの時代にもいるね。魔法文明の時代にも、魔道具の時代にも。今も。形だけ変わって、同じことが繰り返される。役人が追い出す手続きの名前は変わっても、鍵のかかった施設の感触は変わらないんだろう。それでも、みんなどこかへ戻ろうとしている。あの子は港まで来た。会社を何軒も回った。泣かなかった。君はそういう人間の、切実な願いのこもった必死な行動が好きだったね)
霧の中で汽笛が一本鳴った。朝の便が来たのだろう。
サイラスは上着の襟をかき合わせ、桟橋の方へ歩き出した。霧が足元に絡みつくように漂ってくる。石畳が湿っていて、ブーツの底に霧の冷たさが伝わってくるような気がした。
今日も仕事だ。リナは今頃、宿の食堂で朝食の片付けを手伝っているだろう。
それだけのことだった。ただ、それだけのことが、今のこの街にあった。
【黒煙の船と、桟橋の喧騒と、足を引きずる男】
四日目の昼過ぎ。
午前の荷揚げ仕事を終えて、サイラスは運河沿いの道を歩いていた。手のひらに荷箱の木目の感触がまだ残っている。握り続けた後の、じんとした充実感だ。昼を食べに宿へ戻るつもりだったが、急ぐことでもない。フォストリアの昼間は、午前の活気がひと段落して、街全体がわずかに息をつく時間帯だ。商人が帳簿をつけ直し、人夫が石段に腰を下ろして水を飲み、子供が石橋の上から水路に石を投げる。その間を縫うように、小型の蒸気船がのんびりと水路を進んだ。煙突から上がる白い細い煙が、曇天の空に溶けて消えていく。
水路に沿って歩きながら、サイラスは石橋の欄干にもたれた。対岸の石造りの建物の窓が、午後の平たい光を受けてちらちらと光っている。曇天に近い空だったが、雲の切れ目から光が差すと、水面が一瞬だけ銀色に変わる。それがまた曇る。また変わる。その繰り返しを、しばらくぼんやりと眺めた。水路のすぐそばで洗濯物を叩いている女がいた。石畳に打ちつけるたびに、水が飛んで光る。フォストリアの昼は、こういう音と光でできていた。
明後日にはここを出るつもりでいる。路銀の残りから逆算すると、もう一日か二日が限界だ。リナは父親が見つかるまで女将に頼んで置いてもらえるだろうか。それとも自分がもう少し残るか。いずれにせよ、何かしらの結論が要る。今日の昼に宿へ戻ったら、その話をしなければならない、と漠然と考えていた。父親の消息がまだ分からないまま自分だけ旅を続けるのは、何か座りが悪い。しかし座りが悪いというだけの理由でいつまでも居座るわけにもいかない。どこかで折り合いをつける必要がある。それは分かっている。
遠くの桟橋の方で、何か様子がおかしいと気づいたのは、その時だ。
人が集まっている。桟橋の方向に向かって走る者が出てきた。指示を飛ばす声が届くが、内容までは聞き取れない。荷揚げの騒音とは種類が違う、慌ただしさだ。通常の荷役作業なら、怒鳴り声でも整然としたリズムを持っている。しかし今聞こえてくるのは、そのリズムが崩れた種類の声だ。何かが予定外に起きた時の、場当たり的な怒鳴り声。
近くを歩いていた荷運びの人夫に声をかけた。「何かあったんですか」
「船が入ってきてるらしい。なんか変な煙が出てるって話だ」
サイラスは欄干から体を離し、桟橋の方へ足を向けた。
***
運河の水路の向こうから、船が来た。
通常の蒸気機関が上げる白い煙ではない。油が焼けるような、黒い煙だ。煙突だけでなく、船体の側面からも黒ずんだ煙が漏れている。船の速度は落ちており、進み方が真っ直ぐでない。舵を切るたびに、微妙に船体が揺れる。欄干の一部が曲がっているのが、近づくにつれて見えてきた。船体の塗装がえぐれて、錆が浮いた鉄の地肌が露出している部分もある。事故で何かに接触したか、あるいはどこかで座礁したか。詳細は分からないが、いずれにせよ正常な状態ではない。それでも自力で水路を進んで戻ってきた。黒煙を上げながら、この運河の水路を、しまいまで。
桟橋には、ウェズリー商船の関係者とおぼしき人間たちが集まりつつあった。大声で指示を飛ばす者、綱を受け取るために走る者、担架を運んでくる者。石畳の上を走る足音が重なり合って、いつもの桟橋の音とは違うリズムを刻んでいる。桟橋の端に立った年配の男が手を振り上げて叫んだ。「医者を呼べ、先に医者だ」。走る者がまた増えた。野次馬も集まり始めており、サイラスは人の流れに乗りながら桟橋の端まで近づく。
船が接岸した。タラップが下ろされると、見るからに疲れ果てた男たちが降りてきた。顔に煤をつけた者、包帯を巻いた者、互いに肩を貸し合いながら歩く者。担架に乗せられた者も何人かいる。タラップを降りてきた男の一人が、石畳に足をつけた途端その場にしゃがみ込んだ。誰かが走り寄って腕を取る。「歩けるか」「歩ける」「本当か」「大丈夫だ」。そんなやり取りが、あちこちで起きている。
桟橋の端では、会社の人間が降りてくる乗組員の顔を一人一人確認しながら、帳面に何かを書き込んでいた。声をかけるたびに、相手が短く返事をする。点呼だ。帳面を持つ男の表情は硬い。返事があるたびに肩の力がわずかに抜け、返事のない名前を呼んだ時には、帳面を持つ手が止まる。そのわずかな間が、この四日間で何が起きたかを物語っていた。
(生存者がいる。船は沈まなかった)
サイラスは桟橋の端で、降りてくる男たちを眺めていた。全員が戻ってきたとは限らない。それでも、こうして船が戻ってきたということは、誰かが判断を下し、誰かが舵を握り続けたということだ。嵐の中で、機関部が壊れかけた船の中で、それをやった人間がいた。
***
その時、隣に人の気配がした。
振り向くと、大きすぎるマントを羽織った小さな影が、桟橋の端に立っている。背伸びをして、タラップを降りてくる船員たちの顔を一人一人確かめていた。宿の食堂で昼の皿洗いをしているはずだったが、桟橋の騒ぎは街の方まで伝わったのだろう。フードは後ろに倒れており、くすんだ栗色の短髪がそのまま見えている。唇が固く結ばれていた。両手はマントの端をつかんでいる。昨日も一昨日もそこにはいなかったのに、今日だけはここに来ていた。それが正解だったかどうかは、まだ分からない。
「もう宿まで話が届いてた?」とサイラスが声をかけた。
「……うん」
それだけで、リナは視線をタラップに戻す。
二人で、降りてくる男たちを見つめた。
桟橋の端では、女性事務員の姿もあった。ウェズリー商船の、あの事務員だ。帳面を持った別の男の隣に立って、降りてくる者の確認を手伝っている。三日前の会話の後に比べると、顔色が悪い。会社にとって、この四日間がどういう四日間だったか、その重さが顔に出ていた。
タラップを降りてくる者は、みな疲れた顔をしている。船員の中には若い者も混じっており、年かさの男に腕を取られながら歩く者もいた。顔の煤の量がそれぞれに違い、船内のどこにいたかによって、事故の深刻さが違ったことが分かる。リナは視線を動かさずに、一人一人の顔を確かめ続ける。誰かが降りてくるたびに、少しだけ体が緊張して、違うと分かった瞬間にわずかに息を吐く。その繰り返しが、サイラスの横でずっと続いた。
何人目かが降りてきた。また別の男。また別の。リナは背伸びをやめない。大きなマントの中で、つま先立ちになっているのが分かった。マントの裾が石畳から少し浮いて、また落ちる。その小さな動きだけが、リナの緊張を外に逃がしていた。
降りてくる者の数が減ってきた。桟橋の端で帳面を持つ男が、また名前を呼ぶ。返事がなかった。もう一度呼ぶ。やはり返事がない。帳面に何かを書き込んで、次の名前を呼んだ。リナが小さく体を傾けた。残りが少なくなってきた、ということは分かっている。それでも背伸びをやめない。
そこへ、一人の男がタラップの途中で足を止めた。
左足を引きずっている。包帯は巻いていないが、庇った歩き方だ。背の高くない、肩幅の広い男。顔に煤がついており、上着の袖が焦げている。それでも立ち方に、ある種の重さがある。長年、重い荷物を運んできた体の重さだ。立ち止まった時の重心の置き方が、桟橋の上の他の男たちとは少し違って見えた。痛みを抱えながら、それでも背骨だけは曲げないでいる、そういう立ち方だ。左手の薬指の付け根に、古い傷の白い跡が見えた。
リナの体が、一瞬固まった。
「お父さん……!」
声が、桟橋の喧騒の中に切れ込んだ。甲高くも大きくもない声だったが、不思議なほどよく通る。人夫の怒鳴り声も、機械の駆動音も、その声の前では意味を失った。
男が顔を上げた。タラップの上で、動きを止める。日焼けした顔に煤が乗っており、表情がすぐには読み取れない。しかし大きな目が、桟橋の端にいる小さな人影を見つけた。マントの裾が石畳に落ちて、その中に小さな体が包まれている。見間違えようのない姿だ。
「……リナ?」
掠れた声だった。疑問形なのに、答えを知っているような言い方だ。
リナは走り出した。大きすぎるマントの裾が石畳を引きずって、何度か踏みかけながら、それでも止まらない。桟橋の上の人夫が一歩引いた。担架を運ぶ男が立ち止まって振り返る。しかしリナは何も見ていなかった。前だけを見て、マントの裾だけが、走るたびに石畳に波を打つ。
タラップの下で、父親が膝をついた。左足を庇った格好で、右膝だけを石畳につけた。リナを受け止めるには、それで十分だ。
リナが飛び込んでいった。
父親が両腕を広げて受け止めた。煤で黒くなった大きな手が、マントの上からリナの背中に回る。リナはそのまま顔を埋めて動かない。桟橋の喧騒は続いている。担架が運ばれ、指示が飛び、医者を呼ぶ声がした。しかしその騒ぎの中で、タラップのたもとにいる二人だけが、少し違う時間の中にいるように見えた。父親はリナの背中に手を置いたまま、目を閉じていた。何かを確かめるような、あるいは何かに礼を言うような、そういう顔だった。しばらくして、マントの中でリナの小さな肩が一度だけ揺れた。それきりだ。泣き声は聞こえなかった。
桟橋の端に立っていた女性事務員が、二人に気づいた。帳面を持つ男に何かを言ってから、こちらに歩いてくる。父親の隣に膝をつき、声をかけた。何を言ったかは聞き取れなかったが、父親が短く答え、うなずいた。事務員がリナの頭に、ためらいがちに手を置く。リナはそのまま動かずにいた。それでも、肩の緊張がわずかに緩んでいくのが、遠目にも見えた。
***
サイラスは何も言わず、ただ見ていた。
桟橋の上では、まだ片付けが続いている。担架が石畳の上を運ばれていく。誰かが何かを怒鳴り、誰かが走る。医者らしき人間が桟橋の端に現れて、降りてきた船員の一人を診始めた。日常の騒ぎに、非日常の緊張が混じり込んだままの、落ち着かない午後だ。タラップのたもとでは、父親がリナを抱えたまま、ゆっくりと立ち上がろうとしている。左足を庇いながら、それでも両手をリナから離さずに、少しずつ体を起こした。リナがマントの中から顔を上げて、父親の腕に手をかける。二人で立ち上がる格好になった。
(ねえ、レナ)
心の中でだけ、声をかける。
(人間が一番人間らしく見えるのは、こういう瞬間だな。泣かなかった子が、走っていった。マントの裾を踏みながら、それでも止まらない。あれだけ顔を見て、顔を見て、また顔を見て、それで分かった瞬間に止まれなくなったんだ。強さって泣かないことじゃない、走れる時に走ることなのかもしれないって、そういうふうに思った。君ならそれを、もっとうまく言葉にできたと思う)
千年の間に、同じような光景を何度も見てきた。親子の再会、生還の知らせ、予期しない帰還。毎回、形は少しずつ違う。しかし本質は変わらない。待っていた者が走り出す、その瞬間だけは、いつも同じ形をしている。世界のどの時代にも、そうやって走った人間がいた。それだけは確かだ。
感情がリセットされた後でも、この光景は「記録に値する」と思う。シスへの感情の移譲の前でも後でも変わらない、サイラスの根底に残っているものだ。千年かけても変わらずにそこにある、何かだ。シスならこの光景をどう記録するだろう、とふと思った。観測者の目で見れば、ただの再会だ。しかしサイラスには、もう少し別の重みがあった。それがどこから来るのかは、うまく言葉にできない。
桟橋では、まだ片付けが続いていた。担架が石畳の上を運ばれていく。誰かが何かを怒鳴り、誰かが走る。医者らしき人間が桟橋の端に現れて、降りてきた船員の一人を診始めた。
桟橋の端で、サイラスはしばらく立っていた。運河の水が動き、風が一度吹く。父親が足を引きずり、リナがマントの裾を引きずりながら歩いてくる。サイラスも二人のもとへと足を踏み出した。
【仮の家と、行き先のない乗船券と、次の水路へ】
グラント・コルバーは、自分の足で石畳を歩いた。
左足を庇いながら、それでも人の手を借りずに歩く。桟橋脇に借りた物置小屋で、その日の午後の話はなされた。ウェズリー商船の事務員が医者を手配してくれており、グラントの左足の診察はすでに済んでいる。靭帯の損傷で骨折ではない、ひと月ほど安静にすれば動けるようになる、というのが診断だ。グラントはそれを黙って聞き、「仕事は」とだけ聞いた。医者が帰り、しばらくして会社の管理職が顔を出す。回復するまでの間、港の管理事務の内勤に回してもらえることになったらしい。長年まじめに働いてきた評判が、こういう時に戻ってくるものだ、とサイラスは思った。
リナはグラントの隣に腰を下ろして、膝の上で両手を組んでいる。
「妻のことは」と、グラントが言った。誰に向けた言葉でもなく、独り言に近い声だ。「事故の前から、もう連絡はできなくなっていた」
リナが一度、グラントの方へ視線を向ける。それから黙って前を向いた。 「二ヶ月前に、死んじゃった」
淡々とした声だった。グラントは何も言わない。ただ膝の上に置いた左手を、ゆっくりと握りしめた。古い傷の上にまた傷ができた時の、指の動きだ。
しばらく、三人とも黙っている。物置小屋の外を、荷運び人夫が通っていく音がした。石畳を引きずる台車の音と、スチーム・リンガで怒鳴り合う声が、しだいに遠ざかっていく。遠ざかりきったあと、また静かになる。
グラントが話し始めたのは、そのあとだ。
以前に世話になった同僚の船員が、街の外れに物置付きの小屋を持っているという。しばらく使っていいという話になった。「狭いし古い。でも雨は凌げる」とグラントが言う。リナが「狭くていい」と返した。グラントの表情が、ほんのわずかだけ動く。笑いとまでは言えない。しかし完全な無表情とも違う、わずかなゆるみだ。
「ご迷惑をおかけしました」とグラントが頭を下げた。「娘がお世話になって」 「迷惑じゃなかった。利口な娘さんでしたよ」
グラントはサイラスを見た。表情のない、静かな目だ。何年も河を渡ってきた人間の目が持つ、静けさがある。
「あなたは旅の人で」
「そう。たまたまここに数日いた」
グラントはそれ以上の事情を聞かなかった。サイラスも余計な説明をしない。荷揚げ人夫として働く男の重心の置き方と、何年も旅を続けている人間の目の動き。それぞれが無意識に相手を読んで、それで十分だという種類のやり取りだった。 「落ち着いたら、ちゃんと働ける場所で働きたい」とグラントは短く言う。
「そうするといい」
簡潔なやり取りだった。それ以上のことを、二人とも言わない。会社の事務員が引き継いで、今後の手続きを話し始めた。サイラスは少しずつ壁際から引き、出口の方へ足を向ける。
***
翌日の夕方、リナが宿に来た。
両手に折りたたまれたフード付きのマントを持っている。水で洗ったらしく、布地に湿り気が残っていた。
「洗って返す」
「そのまま持ってていいよ。また寒くなったら使えるから」
リナはマントを見下ろした。それから顔を上げる。
「……また来る?」
「また来るかもね」
「絶対来て」
「絶対は言えないな。でも、また気が向いたら」
リナは少し考えるような顔をした。それからポケットを探って、小さな紙切れを取り出す。折り畳まれた手書きの紙だった。
「これ、もし困ったことがあったら、お父さんに頼んでって。フォストリアのことならお父さんが詳しいから」
受け取って広げると、グラント・コルバーの名前と、フォストリア港の商館区画の住所が書いてある。丁寧な字で、急いで書いた様子はない。時間をかけて書かれた字だ。
サイラスはそれをバックパックの内ポケットに収めた。
「ありがとう、リナ」
「……ありがとう、サイラス」
少しの間、どちらも黙っていた。運河の水音だけが、宿の壁越しに届いてくる。リナがまたマントを胸に抱えた。大きなマントを両腕で抱えると、リナの顔の半分ほどが布地に隠れる。
「お父さん、またすぐ遠くに行っちゃうかな」
「しばらくは内勤だから、どこにも行けないんじゃないか」
「それならよかった」
「足が治ったら、また行くかもしれない。船乗りはそういうものだろう」
「……知ってる」
リナが顔を上げずに言った。「でも今度は、出かける前に教えてくれるって言ってた」
「なら、ちゃんと教えてもらうんだ。約束としてね」
リナがうなずいた。今度はちゃんと、はっきりとしたうなずきだ。大きなマントを胸に抱えたまま、リナは宿を出ていった。扉が閉まると、廊下が静かになる。宿の外から運河の水音が聞こえてくる。いつもと変わらない音だ。
***
翌朝の出発準備は、手短に済んだ。 荷揚げの日雇い四日分で稼いだ路銀と残りを合算し、宿代と食事代を精算する。その後、市場に寄って印刷地図を一枚(三GSN)と塩漬け川魚の干物を一袋(一・五GSN)を買い求める。他のものはかさばりすぎるので見送りにした。
全部合算すると、残金は約五GSNだ。
(厳しいな)
薄く思う。しかし心配しても路銀は増えない。動きながら考える、その結論は千年かけて出たものだ。
港の掲示板で定期航路の一覧を確認した。何本かの路線が書き込まれている。いくつかの行き先はあったが、「一度行ったことがある方角」か「今は気の向かない名前」かのどちらかで、決め手がない。
桟橋に目を向けると、乗客を乗せている小型の旅客船があった。係員が立っている。
「どこまで行くか決まっていないんだが、乗れるか」
係員は少し考えてから、「終点までの料金を払うなら中間で降りることもできる。三GSNだ」と言った。
「終点はどこですか」
「ラヴェン・ジャンクション。ここより東、運河の分岐点だ」
「じゃあ、それで」
行き先が決まった。三GSNを渡して、乗船券の代わりの紙切れを受け取る。東へ向かうという事実が生まれた。それで十分だ。
***
船が桟橋を離れたのは、昼を少し過ぎた頃のことだ。
エンジンが低く唸り、スクリューが水を掻く音が船底から伝わってくる。桟橋の縄が外れ、船体がじわりと水路へ押し出された。風はなく、運河の水面は穏やかで、船は音もなく動き始める。
サイラスは船の後部に立った。
フォストリアの石造りの街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。桟橋の石畳、商館の看板、橋の欄干に並んだ小型の蒸気灯。夕暮れには水の反射が橙色に揺れるあの景色が、昼の白い光の中ではずっと静かだ。
桟橋に人影はない。リナもグラントも、来てはいなかった。それでいい、とサイラスは思う。出発の見送りは、来るのが辛い時もある。
船が最初のカーブに差し掛かった。フォストリアの街並みが、弧を描くようにゆっくりと視界の端へ押し出されていく。石造りの建物の角が運河の曲がりに隠れ、桟橋が見えなくなった。
サイラスは前を向く。
水路の先には、また別の水路がある。運河の両岸には葦が生えており、その向こうに草地が広がっていた。空は薄い雲が流れており、雲の隙間から時折、白い光が降りてくる。船が水を割る音と、エンジンの低い振動と、どこかで鳴く水鳥の声だけがある。
(ねえ、レナ)
心の中で声をかけた。
(あの娘はね、泣かなかったよ。でも父親を見つけた瞬間に、マントの裾を踏みながら走っていったんだ)
(それを見て、僕は思ったんだ。強さって泣かないことじゃない。走れる時に走ることなのかもしれないって)
(君はそういう人間を愛していたと思う)
(利口で頑固で、自分で皿洗いの交渉をした子だ。きっと父親が船に乗っている間、母親と二人で支え合って暮らしてたんだと思う。その生活が苦しかったのか、楽しかったのかは分からない。でも、君が見たら間違いなく「面白い子ね」って言った気がする)
水路の風が前から一度吹いた。バックパックの肩紐が揺れる。
声には出さない。レナはもういない。しかし報告する先がある、という感覚は、感情がリセットされた後でも消えない。それがどこから来るのかはサイラスにも分からないが、旅をして、見て、誰かに伝えたいと思う。その誰かがまだそこにいる気がする。それだけのことだ。
船がまたカーブを曲がった。フォストリアはもう見えない。
***
しばらくして、サイラスは空を見上げた。
薄い雲がいくつか流れている。その中に、シスのような細長い影を見つけた。彼ではない。フォストリアに着いた日に見たきり、今もどこかの空を泳いでいるのだろう。
サイラスは声には出さずに言う。
(今度記憶が溜まるのは、何十年後になるかな)
空の影はゆっくりと動いている。運河の水路と平行に、東へ向かって進んでいるように見えた。ただそう見えるだけなのかは分からない。シスに似ただけの、ただの雲だ。意思なんてない。ただ、同じ方角を向いているという事実だけはある。
風がまた吹いて、水面にさざ波を立てた。
バックパックの底の塩漬け川魚の袋が、かすかに揺れる。荷物が増えた分だけ、バックパックは少し重い。印刷地図は内ポケットに折り畳まれており、リナの手書きの紙と重なっている。グラント・コルバー、フォストリア港商館区画。小さな字で、丁寧に書かれた住所だ。
(次の街で、また仕事を見つけよう)
思ったことは単純だった。
運河の両岸の葦が、風に揺れる。船が進むたびに、水路の風景は少しずつ変わっていく。フォストリアの運河の匂いがまだかすかにする。マキナ村の草の匂いは、随分前に消えていた。景色が変わるたびに、自分の中に何かが積み重なっていく。サイラスはバックパックの肩紐を握り直した。
旅は続く。
<第3章 完>
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