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土埃の朝市と、ゴブリンの群れと、彼女の怒鳴り声

# 空にクジラが泳ぐ世界で

### ――前書き・登場人物紹介――


---


## ◆ この物語について


魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。


蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。

そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。


名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。

正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。


魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。

ただ、死なないだけ。


腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。

それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。


なぜ旅をするのか。

それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。

「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。


これは、終わりの見えない旅の記録。

空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。


---


## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ


舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。


千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。

けれど人間はしぶとかった。


魔法が使えないなら、機械を作ればいい。


試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。


エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。


旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。

高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。

その狭間で、人々は今日も必死に生きている。


---


## ◆ 登場人物


### サイラス・ハリソン(サイ)

**「千年生きた、失敗作の旅人」**


> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。

> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋


千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。

製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。


ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。


好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。


彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。


感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。


---


### SiS-001「シス」

**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**


> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。

> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体


ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。

人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。


シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。

その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。


サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。

シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。


温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。


---


### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】

**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**


> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。

> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者


もうこの世界にいない。千年前に死んだ。


それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。

サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。


天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。


サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。


---


## ◆ 作品のキーワード


`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`


---


*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*

*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*

【蒸気馬車と、夜勤明けの乗客と、知らぬふりの朝】

 夜はまだ、終わっていなかった。

 バレストルの街門を背に、サイラスは街道を東へ歩き続けていた。舗装された石畳が途切れ、踏み固められた土と砂利の道に変わる頃には、街の輪郭はすでに背後の闇に溶けかかっていた。街を囲む高い煉瓦塀が遠ざかり、代わりに街道の両脇に、地を這う大蛇のような太い真鍮製のパイプラインが伸び始める。継ぎ目からは白い蒸気が間欠泉のように噴き出し、夜気に混じって薄い霧を作り出していた。

 足音だけが静寂を刻む。

 バレストルを出た直後は、まだ工場の排気塔が吐き出す黒煙の匂いと、機械油の焦げる臭気が空気にこびりついていた。しかし、十分、二十分と歩くにつれて、それらは薄れていった。代わりに鼻腔に届いてくるのは、乾いた草の青臭さと、夜露を含んだ土の匂いだ。肺の奥まで届く、清潔な冷気。

 (ああ、これが外の空気か)

 サイラスは胸いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 感情を預けたばかりの心は、相変わらず静かに凪いでいた。ただ、こうして都市の喧騒から離れると、その「静けさ」が孤独ではなく、ただ純粋な「静けさ」として感じられた。悪くない。いや、「悪くない」という言葉すら、今の自分には少し大げさかもしれない。ただ、鼻腔に届く草の匂いが、新鮮な入力として処理されているだけだ。

 パイプラインが途切れる地点で、街道は二股に分かれていた。

 分岐点の傍らに、錆びた鉄板の看板が立っていた。


 『スチーム・オムニバス 第七路線 停留所』


 文字は雨に打たれて薄くなっていたが、読めないほどではない。その下に、小さな木造の待合所が建っていた。屋根はあるが、壁の一面は吹きさらしだ。中には長椅子が一脚、そして電信柱のような柱に金属製の掲示板が取り付けられている。

 サイラスは待合所に入り、掲示板を確認した。

 時刻表が貼られている。アイゼン・ギルド製の精密印刷紙に、びっしりと路線と時間が記されたその表は、長期間の風雨で端が捲れ、数箇所が染みで判読不能になっていたが、かろうじて必要な情報は拾えた。次の便は、夜明けの一番便。まだ数時間ある。

 サイラスは荷物を下ろした。

 バックパックを枕代わりに、長椅子に横になる。木板の感触が背中に硬い。スプリングのない椅子は、腰が痛くなる角度で設計されているように思えた。あるいはそもそも、ここで寝ることを想定して作られていないのだから当然だ。

 それでも、構わなかった。

 目を閉じる。

 城壁の向こうに広がっていた、煤けた夜空とは違う。ここには遮るものが何もない。吹きさらしの待合所の開口部から、正面に夜空が広がっていた。工場の排煙が届かない空には、細かい星が粒のように散っていた。

 (……星か)

 サイラスは目を細めた。

 久しぶりだ、とは思わない。記憶の上では、さほど間を置かずにも星空を見ているはずだ。しかし、今この瞬間、瞳に映るその光の粒たちが、どこか初めて見るもののように感じられた。感情のリセット後は、いつもこうだ。すべての感覚が少しだけ、生まれたての精度で研ぎ澄まされる。

 星の数を数えようとして、途中でやめた。

 眠気が、なだらかな波のように意識を攫っていった。


 目を覚ましたのは、音のせいだった。

 シュゴォォォォ……ッ!

 低く重い蒸気圧の唸りが、地面を伝って背中から体に響いてきた。続いて、ガシャン、ガシャン、ガシャン、という規則的な金属音。バレストルの街の中で聞き続けた機械の駆動音に似ているが、この音はもっと大きく、もっと野太い。

 サイラスはゆっくりと起き上がった。

 夜明けだった。

 東の地平線の縁がほんのりと白み、インクを流したような濃紺の空に、橙色の光が滲み始めている。その微かな光の中、街道の彼方から黒煙を上げながら近づいてくる巨大な影があった。

 二階建て構造の、大型スチーム・オムニバスだった。

 真鍮のフレームに煤けた窓ガラス。幌の代わりに鉄板を溶接した頑丈な屋根。車体の側面には路線番号と停留場所の名前が、大きく塗料で書かれている。車体をけん引するのは馬ではない。鉄の塊である蒸気機関から伸びる六本の機械脚が、圧縮蒸気の力で交互に地面を踏みしめる様は、巨大な虫が這い進んでいるようにも見えた。その足音と排気音が混じり合って、静寂の明け方に不釣り合いなほど豪快な轟音を撒き散らしている。

 蒸気馬車は停留所の前で速度を落とし、ぐっと止まった。

 運転台の窓が開き、無精髭を生やした中年の男が顔を出した。目の下に濃い隈があり、帽子のつばの下からくぐもった声が飛んでくる。

「乗るかい、乗らないか? 乗るなら早くしろ。時間は待たない」

 サイラスはまだ、意識が完全に覚醒しきっていなかった。

 ぼんやりと巨大な蒸気馬車を見上げ、数秒ほど停止する。

「……乗る」

 自分の声が、思ったより掠れていた。立ち上がり、バックパックを肩に掛け直し、急ぎ足で乗降口へと向かう。踏み台を二段上がると、内部への扉が開いた。

 車内に踏み込んだ瞬間、複数の感覚が同時に届いてきた。

 まず、熱気。車体の心臓部であるボイラーから伝わる熱が、密閉された空間に篭っていた。次に、匂い。機械油の酸化した臭い、煙草の燃えさしのような刺激臭、そして、人間の体が長時間働いた後に発する蒸れた汗の気配。最後に、音。走行中の振動と駆動音に混じって、人々の吐く息の音、衣擦れの音、誰かが小さく咳き込む音。

 座席の、ほぼ半分以上が、すでに埋まっていた。

 通路の左右に二人掛けの木製座席が並ぶ車内は、薄暗いガス灯が等間隔に吊り下げられていた。その橙色の光が、乗客たちの疲れ切った横顔を照らしている。

 乗客のほとんどは、労働者の男性だった。

 革や厚布でできた作業服、あるいは油染みの浸透した上着。ほつれた袖口、くたびれたブーツ。肩が前に落ち、背中が丸まり、目を閉じているか、あるいは開いていても虚空を眺めているか。大半の乗客が、うつらうつらとしているか、すでに眠りに落ちていた。

 バレストルで夜勤を終えてきた、工場の労働者たちだろう。

 彼らの体が、一夜の仕事を終えた証拠を全身に纏っていた。指先の黒い油汚れ。頬に残った煤の筋。手のひらに刻まれた胼胝たこ。いくつかの顔には、ほんの小さな焼け焦げの痕が残っていた。溶接か、あるいはボイラーの扱いを誤った時のものだろう。

 (みんな、よく働いたんだな)

 サイラスは通路を進みながら、そう思った。感情のリセット後の、フラットな観察眼がそう言っている。感傷ではなく、ただの事実として。彼らは夜通し、巨大な機械の歯車として働き、そして今、この揺れる蒸気馬車の中で、わずかな眠りを貪っている。

 空いている席を探す。

 一番後ろの二人掛けの座席の窓側に、小柄な老婆が一人座っていた。膝の上に大きな竹細工の籠を抱え、顔じゅうに皺を刻んでいる。白髪を後ろで束ね、素朴な木綿の上着を着た、どこにでもいそうな農村の老婆だった。通路側の席は空いていた。

「隣、座っていいですか」

 サイラスが声をかけると、老婆はゆっくりと顔を上げた。小さな目が、サイラスを上から下まで見渡す。革のジャケット、背負い袋、左腕のガントレット。一瞬の値踏みのような視線の後、老婆の顔に、人好きのする笑顔が浮かんだ。

「ああ、いいとも。どうぞ座りな」

 鷹揚な声だった。籠を少し膝の上で動かして、サイラスのための空間を作ってくれる。サイラスは腰を下ろし、バックパックを足元に置いた。椅子は木製で、振動がそのまま背骨に伝わってくる。

 蒸気馬車が再び動き出す。

 ガシャン、ガシャン、ガシャン。機械脚のリズムが車体を揺らし、窓の外の景色がゆっくりと流れ始めた。


「どちらまで行くんだい?」

 老婆の方から話しかけてきた。

「次に停まるところまで」とサイラスは答えた。「この馬車が次に停まるところはどこですか?」

「マキナ村だよ」と老婆は言った。「あたしもそこまでだ。あんたもかい?」

「そうです、同じですね」

 老婆はにこにこと笑い、「遠くから来たのかい?」と続けた。

「まあ、旅の途中で。昨日はバレストルに」

「おや」

 老婆の表情が、わずかに曇った。眉の間に小さな皺が寄り、籠を抱える手が少し強くなった気がした。

「バレストルにいたのかい。昨日の夜は、大変だったね」

「……ええ、まあ」

 サイラスは曖昧に答えた。

「魔獣が出たんだろう? ウェアウルフだって話だよ。あたしの息子があの街で働いているもんだから、昨日は心配で心配で」

 老婆は、バレストルへ息子に会いに行っていたのだという。息子は工場の整備士をしており、半年ほど村を出て働いているらしい。「元気そうだったから安心したんだけどね、まさかあんな夜になるとは思わなかったよ」と老婆は言った。

「息子さんは無事でしたか?」とサイラスは聞いた。

「ありがたいことにね。工場の中にいたから、そんなに被害はなかったって言ってたよ。でも街の方はひどかったみたいだね。自警団が出て、なんとか追い払ったって話だけど」

「そうでしたか。それはよかった」

 サイラスは窓の外に視線を向けた。

 バレストルの灯りが、もうすっかり背後に遠ざかっていた。街道の両脇には、柵と電信柱が続いている。夜明けの光が地平線から差し込み始め、荒野の草が、朝露に濡れて銀色に輝いていた。

 (気まずいな)

 内心でそう思った。

 老婆の話す「自警団が追い払った」という一連の出来事に、サイラス自身が深く関わっていた。ウェアウルフのリーダーを素手で仕留め、腹を貫かれて再生して見せ、結果として人々に恐れられた夜。それらは全部、この老婆が心配していた夜のことだ。

 しかし、サイラスはそれを口にするつもりはなかった。

 言ったところで話が複雑になるだけだ。「実は僕が倒したんです」などと言えば、老婆はどんな顔をするだろう。昨夜の自警団員たちのような、恐怖と困惑が混じった表情を浮かべるかもしれない。この穏やかな老婆に、そういう顔をさせたくなかった。

「ウェアウルフの群れなんて、久しぶりに聞いたよ。この辺もよく出たもんだよ、昔は」

「この辺も魔獣が出るんですか?」

「出るとも出るとも。まあ今は、村の自警団と工場の警備隊で対処できる程度のものしか出ないけどね。あたしが若い頃は、冬になるとグリフォンが草原の空を飛んでいたもんだよ」

「グリフォンを……」

「遠くから見るだけだよ!」と老婆は笑った。「近づいたら死んじまう。ただ、畑が食い荒らされてねえ、困ったもんだったよ。今は街の軍が動いてくれるから、そこまで大きいのは出ないけれど」

 老婆は籠の蓋を少し開け、中から布に包まれた小さな塊を取り出した。

「食べるかい。息子が持たせてくれた干し肉だよ。バレストルの合成肉じゃなくて、本物の獣肉だよ」

「いいんですか、ありがとうございます」

 サイラスは一片を受け取り、口に入れた。

 塩が強く、ぎゅっと繊維が締まっている。しかし、噛むたびに旨みが染み出してきた。昨夜の、スチーム・パティの味よりも確かに豊かな何かがある。感情がリセットされていても、体の方が正直に反応していた。胃の奥が、ほんのりと喜んでいる気がした。

「美味しいですね」

「だろう? 息子ったら、ちゃんと食べてるのか心配で持っていったら、逆に持たせてくれたんだよ。まったく、変わらない子だよ」

 老婆は楽しそうに笑いながら、手元の籠に視線を落とした。

「でも、昨日の朝一番の馬車で行けばよかったんだけどね。遅い便で行ったもんだから、ちょうど騒ぎと重なっちまってさ。息子のところに着いたら、工場が門を閉めてるっていうんで中に入れてもらえないで、外で待ってたよ」

「外で……それは怖かったでしょう」

「怖かったねえ!」

 老婆は首を大きく縦に振った。

「遠くで銃声がするし、何か大きなものが暴れている音がするし、走っている人はいるし。何がなんだかわからなくて、電柱の根元に引っ付いてたよ。そしたら自警団の若い子が来て、ここにいろって言うから、朝まで外で待ってたんだよ」

「それは大変でしたね」

 サイラスは素直にそう言った。

 そして少しだけ、胸の奥がちくりとした。

 あの夜、街の中で人々が怯えて逃げ惑っていた頃、この老婆は電柱の根元で蹲っていたのだ。サイラスが酒場から飛び出してウェアウルフに向かっていった、その同じ夜に。

 知らなければ何でもない話だ。

 知っているからこそ、こうして隣に座って朝の挨拶を交わしている老婆の、皺だらけの横顔が、やけに生々しく見えた。

「息子さんは今日も工場に?」

「そうだよ、今日も仕事があるって。休みの日には村に帰ってくると言ってるけど、次の休みはいつなのかねえ」

 老婆はそう言って、また笑った。心配と、諦めと、愛情が混じったような、年老いた母親の笑い方だった。


 蒸気馬車が街道を進むにつれ、車窓の景色は少しずつ変わっていった。

 バレストルの工業地帯を離れると、まずパイプラインが途切れた。代わりに柵が現れ、その向こうに荒野の草地が広がり始める。地平線が遠くなり、空が広くなった。煤煙のない空は、夜明けの光を受けて、薄い水色から橙へと、なだらかに色を変えていく。

 車内の夜勤明けの男たちは、みな静かだった。うつらうつらしている者、眠り込んでいる者。誰も話さない。ただ、揺れに身を任せて、故郷へ向かって運ばれていく。彼らの疲労は深く、しかし肩や腕には、重いものを持ち続けた者だけが持つ、確かな筋肉の厚みがあった。

 働いて、帰って、また働く。

 その繰り返しの中に、彼らの生活がある。

 サイラスはぼんやりとその横顔たちを眺めた。特に何かを感じているわけではない。ただ、彼らがここにいることを、事実として受け取っていた。千年前の魔法文明の時代にも、似たような顔をした人々がいたはずだ。詠唱の代わりに、計器盤を監視することに変わったかもしれないが、疲れて帰ってくる姿は、たぶんそんなに変わっていない。

「あら、晴れてきたね」

 老婆が窓の外を見て言った。

 サイラスも視線を向けた。

 東の空から差し込む朝の光が、荒野の草を金色に染め始めていた。雲がいくつかあるが、厚くはない。その合間から、青空が顔を覗かせている。

 バレストルでは、太陽はスモッグの向こうにあってぼんやりとしか見えなかった。しかし今、ここでは光がそのまま地面に届いている。草の一本一本が、光を受けて輝いている。

「本当だ。いい空ですね」

 サイラスは、思ったことをそのまま口にした。

 老婆は嬉しそうに頷いた。「そうだよ。マキナ村はね、空が広いんだよ。それだけが、バレストルにない良いところさ」

 その言葉に、サイラスは小さく笑った。

 感情がリセットされていても、笑うことはできる。それは習慣や反射として体に染み付いた動作だから。しかし今のこの笑いは、それだけではないかもしれないと、サイラスは思った。この老婆の言い方が、少しだけ、面白かったのだ。

 馬車はガタガタと揺れながら、朝の街道を進んでいく。

 やがて遠くに、平らな大地の中にぽつりと立ち並ぶ建物の輪郭が見えてきた。木造の家々と、その向こうに点在する農地。風車が一本、朝風を受けてゆっくりと回っている。

 「マキナ村、到着です」

 運転手のぶっきらぼうな声が、車内に響いた。


 停留所は村の入り口、道沿いにある小さな掲示板と、木の杭が数本立てられているだけの簡素な場所だった。蒸気馬車が重い機械脚を踏みしめて停車すると、扉が開き、何人かの乗客たちが降り始める。

 サイラスはバックパックを背負い、老婆の後に続いて外に出た。

 料金は1GSN。サイラスは財布から紙幣を一枚取り出し、運転手に渡した。

 透かしの代わりに精密な歯車が埋め込まれた、アイゼン・ギルド製の1ギルス紙幣。受け取った運転手は紙幣を一瞥し、素っ気なく受け取る。朝の光の中で、紙幣の中の小さな歯車が鈍く金色に光った。

 降車した老婆が、サイラスを振り返った。

「またどこかで会えるといいねえ、旅人さん」

「ええ。息子さんともども、お元気で」

「ありがとうよ」

 老婆は笑い、籠を抱え直して村の方へと歩き出した。その後ろ姿は小さく、しかし足取りはしっかりしていた。慣れた道を、慣れた速さで歩いていく。

 サイラスはしばらく、その背中を見送った。

 昨夜あれだけの騒ぎがあった街を出て、夜明けの一便に乗り込んで、今こうして見知らぬ農村の入り口に立っている。バックパックが肩に食い込む。朝の空気は冷たく、澄んでいた。

 蒸気馬車がまた轟音を上げ、次の停留所へ向けて出発していく。その音が遠ざかると、代わりに村の朝が耳に入ってきた。どこかで鶏が鳴いている。木の軋む音。誰かが何かを叩く音。

 生活の音だ、とサイラスは思った。

 機械の音ではない、人間の音。

 彼は空を見上げた。

 雲の切れ間から、青い空が広がっている。風車が、ゆっくりと、確かなリズムで回り続けていた。




【朝市の賑わいと、静まり返った昼と、ゴブリン退治の依頼】


マキナ村は、思ったよりも小さかった。

 停留所から村の中心部まで、ゆっくり歩いても五分とかからない。舗装はされていないが、踏み固められた土の道がまっすぐ伸び、その両脇に木造の家屋が並んでいる。板壁に白いペンキを塗った建物、丸太を組んだだけの素朴な建物、二階部分だけ増築したような歪な建物。統一感はないが、どれも長い時間をかけて人の手で作られてきた気配があった。

 空が広い、と老婆は言っていた。

 確かにそうだった。

 バレストルでは、空は常に建物と排気塔に挟まれた細い隙間でしかなかった。しかしここでは、視界を遮るものが何もない。地平線の縁まで続く牧草地と畑が、そのまま空と繋がっている。朝の光が、村全体に等しく降り注いでいた。

 村の中心部に近づくにつれ、人の声と物音が聞こえてきた。

 広場と呼ぶには小さいが、村の中心には、商店が四、五軒ほど向き合うように建てられた一角があった。雑貨屋、食料品店、鍛冶屋、それから小さなパン屋。それぞれの軒先に、朝市用の簡易な台が出されていた。木の板を脚で支えただけの、どこか傾いた台の上に、籠や木箱が並んでいる。

 人が集まっていた。

 農作業の前に立ち寄ったらしい男性、子供を連れた女性、老人たち。バレストルの工場街で見た人々とは、まとっている空気がまるで違う。追われるような早足ではなく、あちこちで立ち止まって声を交わしている。笑い声が飛んでくる。誰かが誰かの農地の話をしていて、別の誰かがその話に横から口を挟んでいる。

 サイラスは、その賑わいの縁に立ち、しばらく眺めた。

 (なるほど、朝市か)

 記憶の中にある「朝市」の映像を引き出す。千年という時の中で、世界中の朝市を見てきたはずだ。しかし今の自分には、それらの記憶が「写真の束」のようにしか思い出せない。代わりに、今この瞬間に目の前で起きていることが、妙に鮮明に見えた。

 屋台の一角で、焼きたてのパンを並べている女性がいた。

 大きな籠の中に、まだ湯気を立てているパンが並んでいる。丸いもの、細長いもの、表面に切り込みを入れたもの。特別な飾りも包み紙もない、素朴な田舎パンだ。しかし、その焼き色は均一で、遠くからでも香ばしい匂いが届いてきた。

 サイラスは自然と足がそちらに向いていた。

「いらっしゃい、旅の方?」

 パン屋の女性が、サイラスの顔を見るなりそう言った。四十代くらいの、日焼けした丸顔の女性だった。エプロンに小麦粉の白い跡がいくつもついている。

「分かりますか」

「そりゃ分かるよ。顔を知らない人がいたら旅人だ、この村は」

 女性はからりと笑った。

「どれにする? 今日は麦のひき具合が良かったから、いつもより膨らんでるよ」

 サイラスは籠を覗き込んだ。

 丸パンを二つ選ぶ。一つ0.5GSN。合わせて一ギルスを女性に渡した。

「ありがとう。ゆっくりしていきな。うちの村、何もないけど空気だけはいいから」

 老婆に続いて、この女性も同じことを言う。サイラスは小さく笑い返し、受け取ったパンを片手に歩き始めた。


 朝市の通りは短いが、見て回ると思いのほか面白かった。

 雑貨屋の台には、ありとあらゆるものが混在していた。農作業用の手袋、蒸気ランプの替え芯、乾燥薬草の束、機械部品らしき金属の塊、子供向けの小さな玩具。整理されているとは言えないが、必要なものはここで全部揃うのだという確信が伝わってくる。

「なんか探してるか?」

 奥から、短軀で肩幅の広い老人が出てきた。頭が禿げていて、眼鏡の片方のレンズにひびが入っている。

「特には。珍しいものがないか見ているだけです」

「そうかい」と老人は言い、サイラスの装備を上から下まで眺めた。「そのガントレット、アイゼン製か?」

「そうです」

「いいもん持ってるな。傭兵かい?」

「何でも屋みたいなものです」

「ならちょうどいいかもな」

 老人は鼻の下を指でこすり、少し声を落とした。

「この辺で泊まる場所は探しているか? ハンマー亭に行ってみな。ブライってやつが主人の小さな食堂だが、二階に泊まれる部屋を持ってる。旅人が来るとたまに貸しているんだ」

「ありがとうございます。行ってみます」

 礼を言ってその場を離れる前に、もう一つだけ屋台を覗いた。

 塩漬け肉の薄切りを売っている屋台だった。蒸気の熱で調理したらしく、皿の上の肉片からかすかに湯気が立っている。隣に置かれた固そうなパンと組み合わせると、手軽な朝食になりそうだった。

「これ、一皿いくらですか」

「1.2GSNだ」と屋台の男が答えた。

 サイラスは先ほど買ったパンと組み合わせることにして、肉だけを一皿買った。朝市の通りの隅で、立ったまま食べる。パンをちぎり、肉を挟んで噛む。

 温かかった。

 塩気と肉の旨みが、まだ目覚めきっていない胃に染み込んでくる。昨夜の「錆びたピストン亭」の冷えたスチーム・パティとは、正反対の温度だ。同じ肉料理でも、作りたての温かさはそれだけで何かを変えてしまう。感情がリセットされていても、体の反応は素直だった。

 (悪くない)

 サイラスはもう一口、パンと肉を一緒に口に入れた。

 田舎の、当たり前の、作りたての食事。それ以上でも以下でもないが、それで十分だった。


 老人に教えてもらった「ハンマー亭」は、朝市の一角から外れた場所にあった。

 二階建ての木造建築で、一階は食堂兼酒場、二階が泊れる空き部屋という構造だ。看板は手書きで、ハンマーと蹄鉄が交差した絵の下に店名が書かれている。扉を開けると、朝の食堂は数人の客が食事をしていて、温かい汁物の匂いが漂っていた。

 カウンターの奥で、大柄な男が椀を拭いていた。

 口数の少なそうな顔をしていた。四十代後半か五十代か、肩幅が広く、腕が太い。農夫というよりは鍛冶師か大工のような体格だ。サイラスが近づくと、顔を上げて一瞥した。

「泊まりたい」

 サイラスが言うと、男はすぐに答えた。

「一泊五GSNだ。夕食と翌朝の飯がつく」

「それでお願いします」

 それだけの会話で話は済んだ。男――ブライというのが名前らしかった――は鍵を取り出して二階の部屋に案内し、「食事は一階で出す。時間になったら降りてきな」とだけ言って去っていった。

 部屋は小ぢんまりとしていた。

 ベッドと、小さな机と椅子、それから窓。それだけだ。窓から外を見ると、牧草地が広がっていた。遠くに家畜の群れが見える。風車が回っている。空が広い。

 (悪くない部屋だな)

 サイラスはバックパックを床に下ろし、ベッドに腰を下ろした。スプリングが少し弱いが、板の上よりはずっとましだ。昨夜の停留所の長椅子よりは確実に。

 荷物を整理し始めた。

 旅の荷物を一つ一つ確認するのは、サイラスにとって半ば習慣のようなものだった。

 何を持っていて、何が足りなくて、何が売れるか。定期的に棚卸しをしないと、荷物はあっという間に使い道のないものばかりになる。

 バックパックの中身を、床に広げていく。

 着替えが数セット。保存食の残り。水筒。サバイバルナイフの砥石とその予備。スチーム・ガントレット用のスチームカートリッジ(ゼロポイントエネルギーという、大気中の真空エネルギーを圧縮したもの)が五本。

 カートリッジ1本で10回は打撃の増幅ができる。今装填しているカートリッジには、後7回分のエネルギーがあったはずだ。予備と合わせて57回分になる。

 後は包帯と消毒薬。地図。それから、いくつかの小さな袋。

 袋の一つを開けると、中から転がり出てきたのは、くすんだ赤みがかった石の欠片のような結晶だった。

 ゴブリンの魔核だ。

 親指の爪ほどの小さなもの。形もいびつで、純度も低い。旅の道中で倒したゴブリンたちから取り出したものが、袋の中に十数個は積み重なっていた。

 サイラスは一つを指先でつまみ、窓の光にかざした。

 かすかに光を通す。しかし澄んではいない。泥が混じったような、濁った赤。

 (これは売れないな、この辺では)

 エーテルガルド連邦は、蒸気機関と大気圧縮エンジンを主力とする国だ。魔核を動力源とした魔道具が普及しているラスカーン凍土帝国や、魔道具と機械の折衷品を大量生産する大龍ロン魔導工廠であれば、品質の低いゴブリンの魔核でも買い手がつくかもしれない。しかしエーテルガルドの、しかも田舎の農村では、魔核そのものを使う設備が存在しないに等しい。

 袋を閉じ、脇によける。

 続いて確認したのは、昨夜のウェアウルフのリーダーから抉り出した魔核だった。

 こちらは別格だ。子供の拳ほどの大きさがあり、色は深い赤紫。光にかざすと、内側から熱を帯びたような輝きを放つ。手の中に収めると、微かな温度が伝わってくる。魔核としての格が、ゴブリンのものとは根本的に違う。

 これは高値がつく。ただし、正規のルートで買い取れる商人がいれば、の話だ。農村では無理だ。

 サイラスはそれも袋に仕舞い、バックパックの底に戻した。

 結局、今すぐ現金に換えられそうなものは何もなかった。保存食も、着替えも、砥石も、自分が使うものばかりだ。

 (仕事を探すか)

 サイラスは立ち上がり、着替えを済ませた。昨夜の血と油で汚れたシャツを脱ぎ、清潔なものと交換する。破れた革のジャケットは、手縫いで補修する必要があるが、今は後回しだ。

 一階に降りると、ブライがカウンターにいた。

「少し聞いてもいいですか。この村で、日払いの仕事はあるかな。何でも構わないので」

 ブライは椀を拭く手を止め、少し考える顔をした。

「力仕事か、それとも得意なことがあるか?」

「荒事なら多少は。それ以外も、たいていのことはやります」

「荒事か」

 ブライは独り言のように繰り返し、「コルディアの爺さんが困ってたな」と言った。

「コルディア?」

「村の外れにある牧場だ。最近、ゴブリンが出て家畜を荒らしているらしい。毎晩来るって話で、牛が怯えて乳が出なくなったと嘆いてたぞ」

 サイラスは、一瞬、目を閉じた。

 ゴブリン。

 今しがた荷物の中を確認したばかりだ。あの小さなくすんだ魔核が、袋一杯になるくらい積み重なっていた。旅の道中で、何度遭遇し、何度倒してきたか。どこにでもいる。本当に、どこにでも。

 (またか)

 心の底から、脱力するような感覚があった。感情のリセット後で感情は希薄なはずなのに、「またゴブリンか」という疲れのようなものだけは、どこかはっきりと浮かび上がってくるのが不思議だった。

「場所を教えてもらえますか」

「ああ、ちょっと待ってくれ」

 ブライは棚から紙の切れ端を取り出し、簡単な地図を書いてくれた。村の外れを北に抜け、柵沿いに少し歩いたところにある牧場だという。

「コルディアの爺さん、今は腰をやってるから、力になれる人間を探してたはずだ。報酬はちゃんと払う人だ、心配しなくていい」

「ありがとう」

 サイラスは地図を受け取り、ハンマー亭からでた。


 朝市の熱気はすっかり引いていた。

 商店の台は片付けられ、通りには誰の姿もない。つい先ほどまで人でにぎわっていた広場は、まるで別の場所のように静まり返っている。残っているのは、土の上に残った足跡と、干し草の切れ端と、誰かが落としていった布の切れ端だけだ。

 犬が一匹、道の真ん中で横になって目を細めていた。

 サイラスが近くを通っても、犬は起き上がらなかった。耳だけが少し動き、また閉じる。それだけだ。

 (のんびりしてるな)

 サイラスは犬の横を迂回して歩きながら、ふとそう思った。

 バレストルでは、犬でさえ何かに追われるように動いていた。ここの犬は、道の真ん中で昼寝をしている。それだけのことなのに、この村がどういう場所かが伝わってくるような気がした。

 村の外れに向かうにつれ、建物が少なくなり、柵が現れ始めた。牧草地の向こうに、茶色と白が混じった毛並みの家畜の群れが見える。のんびりと草を食べている。遠くに板壁の建物と小さな風車が見えた。

 コルディア牧場だ、とサイラスは当たりをつけた。

 柵沿いを歩き、牧場の入り口に近づく。入り口には木製の門があり、脇に呼び鈴代わりの鉄の板がぶら下がっていた。サイラスが鉄板と一緒にぶら下がっている木槌でそれを軽く叩くと、カンカンという甲高い音が鳴った。

 少しの沈黙の後、母屋の方から足音が近づいてきた。

 重い扉が開く。

 出てきたのは、老いた牧場主ではなかった。

 泥のついた作業ブーツ。丈夫な素材の作業ズボンに、胸当てのついた革のエプロン。袖を肘まで捲り上げた綿のシャツ。黒髪を後ろで無造作に束ねたポニーテール。小麦色に焼けた肌と、よく動く太い眉。

 二十代前半くらいの、若い女性だった。

 彼女はサイラスを見た瞬間、表情を変えなかった。挨拶の笑顔も、戸惑いも、警戒も、何も浮かばない。ただ、サイラスの頭のてっぺんから足先まで、一度視線を動かしてから、口を開いた。

「何の用?」

 短い言葉だった。しかしぶっきらぼうというより、余計なものを削ぎ落としたような簡潔さがあった。

「宿の主人に聞いてきました。ゴブリンの被害があると」

 女性の眉が、わずかに動いた。

「傭兵?」

「何でも屋みたいなものです」

「同じでしょ」

 彼女は腕を組んだ。

「前払いはしない。仕事が終わってからだ。それと、途中でいなくなるなら最初から来るな」

「分かりました」

 サイラスが即答すると、女性は少し意外そうな顔をした。値切り交渉でも来ると思っていたのかもしれない。

「……入って」

 彼女は短く言い、踵を返した。サイラスはその背中に続いて、コルディア牧場の門をくぐった。

 上空では、白い雲が悠然と流れていた。風車がゆっくりと回り、牧草の青い匂いが風に乗って届いてくる。どこかで家畜が低く鳴いた。

 のどかな昼前の牧場に、ゴブリンの足跡と爪跡が残されているとは、到底思えない平和な光景だった。



【罠の準備と、夜の戦闘と、納屋の中の弟】


 牧場の中は、外から見た印象よりずっと広かった。

 門をくぐると、まず目に入るのは母屋だ。丸太と板壁を組み合わせた、年季の入った二階建て。外壁のペンキは剥げ、雨樋の継ぎ目が錆びて茶色い染みを作っているが、土台はしっかりしている。長い年月をかけて手入れし続けてきた建物の、独特の頑丈さがあった。

 母屋の右奥に、家畜小屋が二棟。左手には干し草を積み上げた納屋と、古い農機具が並ぶ作業場。その奥に、柵で仕切られた牧草地が広がっている。数十頭の家畜がのんびりと草を食んでいた。毛並みは良く、体格も悪くない。よく世話された牧場だ、とサイラスは見て取った。

 エラは振り返ることなく、先に家畜小屋の方へ歩いていく。

「こっち」

 サイラスはその後に続いた。

 家畜小屋の前に着くと、エラが足を止め、外壁を指した。

「ここよ」

 板壁の一面に、深い引っ掻き傷が走っていた。一本ではない。何本も、平行に並んでいる。指を当てると、木材の繊維が削れて浮き上がっていた。かなりの力で引っ掻いたことが分かる。傷の幅と間隔からして、ゴブリンの爪で間違いない。

「いつから」とサイラスは聞いた。

「十日くらい前から。最初は一匹か二匹で、牧草地の端をうろついている程度だった。でも五日前から、毎晩小屋に近づいてくるようになった」

「中に入られたことは?」

「一度だけ。三日前の夜に扉の蝶番をこじ開けられてね。牛が二頭、爪で引っ掻かれた。深手じゃないけど、それから牛たちが怯えて……」

 エラは言葉を止め、小屋の中を一瞥した。

 扉を少し開けると、中から低く不安そうな唸り声が聞こえてきた。家畜たちが身を寄せ合い、こちらを警戒した目で見ている。普段であれば、人間が近づいてもこれほど緊張しないはずだ。

「乳が出なくなったの」とエラが続けた。「量が半分以下になった。このまま続けばうちは……」

 言いかけて、止める。

 サイラスは小屋の扉を静かに閉め、地面を見た。

 土の上に、足跡が残っていた。小屋の周囲を何周もしたような、入り乱れた跡。その中に、明確にゴブリンのものと分かる形がある。三本指の、扁平な足跡。大きさからして、成体だ。

「数は分かるか」とサイラスは言った。

「はっきりとは。でも足跡を数えたら、七つか八つはある」

「リーダーらしい個体を見たことは?」

「夜だから、よく見えない。でも一匹、他より体が大きいのがいた。そいつだけ、こっちに向かってきても自警団の松明を見てもすぐには逃げなかった」

 サイラスは少し考えた。

 七、八匹の群れで、リーダー個体がいる。しかも人間の追い払いに慣れてきている。ただのゴブリンの群れにしては、行動が執拗だ。

(なぜこの村に、今になって)

 ゴブリンは本来、縄張りを持つ習性がある。新しい場所に移ってくるのは、元の縄張りを何かに追われたか、あるいは強く引き寄せる力があったかのどちらかだ。バレストルの工場地帯から流れてきた高濃度のマナが、農村地帯にまで波及しているとすれば、説明はつく。

 しかし今は、その原因より先に対処が必要だ。

「昼間のうちに周りを見て回っていいか」

「どうぞ」

 エラは短く答えた。


 牧場の外周を一周するのに、30分ほどかかった。

 サイラスは歩きながら、地面の足跡を確認し、柵の隙間を確かめ、ゴブリンが近づきやすい経路を特定していった。農村地帯の地形は単純だが、夜になれば草の影が死角を作る。経路は三つほどに絞れた。

 エラは黙ってついてきた。

 説明を求めてくるでもなく、ただサイラスの作業を見ている。邪魔をしないが、離れもしない。牧場の状況を一番よく知っているのは自分だという、静かな自負があるのだろう。

「ここと、ここと、あそこの柵の下が通り道になっているね」

 サイラスが三箇所を指すと、エラは頷いた。

「気づいてた。柵を補強しようとしたんだけど、父が腰をやってから、一人じゃ材料を運べなくて」

「罠を仕掛ける。蒸気の圧縮ガスを使った音と衝撃の罠だ。完璧に撃退はできないが、夜中にゴブリンが来たことを知らせてくれる。それと、小屋の扉に補強を入れたい。板と釘はある?」

「ある」

「じゃあ、午後から始めよう。材料を出してもらえると助かる」

 エラはまた短く頷き、踵を返した。

 その歩き方を見ながら、サイラスはふと思った。

 この女性は、疲れている。

 体のことではない。肩の持ち方、顎の角度、歩幅。全部が、長い間一人で重いものを支え続けている人間の姿勢だ。父親が腰を痛めてから、牧場の実務をほぼ一人で回しているのだろう。それを当たり前のこととして、誰に言うでもなくこなしている。

(頑張ってるんだな)

 感情のリセット後の、フラットな観察がそう結論づけた。感傷ではなく、ただの事実として。


 午後の作業は、思ったより捗った。

 エラは仕事が早く、的確だった。サイラスが何かを言う前に、必要な材料をすでに手元に用意している。板を押さえるように指示すれば、ちょうどいい角度で押さえてくれる。建築や修繕の経験がある、というより、長年この牧場で手を動かし続けてきた人間の勘がそうさせるのだろう。

 作業の合間に、少しずつ言葉が増えた。

「ゴブリンって、毎回こんなに執拗なの?」とエラが板を押さえながら言った。

「場合による。今回は何か引き寄せられている気がする。この近くで、最近何か変わったことはなかったか。土を大規模に掘り起こしたとか、新しい機械を導入したとか」

「そういえば……三週間くらい前に、バレストルの業者が来て、村の外れの地面を調べていった。なんかパイプラインを延伸するための地質調査だって言ってたけど」

「それかもしれない」

 地面を掘り返すことで、古い霊脈やマナの溜まりが露出することがある。それがゴブリンを引き寄せている可能性は十分あった。

「じゃあ、パイプラインができたらゴブリンも来なくなるの?」

「逆に増えるかもしれない」

 エラが手を止めた。

「どういうこと」

「蒸気機関や大気圧縮エンジンはマナをほとんど使わないが、パイプラインの施設工事で地面を掘り続ければ、マナの流れが乱れる。魔獣はマナの濃い場所に集まる習性があるから」

 エラは眉をひそめ、口を一文字に結んだ。怒っているのではなく、困惑しているのだろう。

「……バレストルの連中は、そういうこと説明していかないんだよ」

「お役所仕事だから」

「迷惑な話」

 サイラスは、その言葉に小さく笑った。

 そこへ、母屋の方から小さな足音が近づいてきた。

「エラ! エラ、その人、何してるの?」

 駆け寄ってきたのは、九歳か十歳くらいの男の子だった。

 短く刈り込んだ黒髪、丸い頬、大きな目。エラとよく似た眉をしているが、表情はまるで違う。好奇心と興奮が、顔じゅうから溢れ出していた。革のズボンに、裾が泥だらけのシャツ。どこかで作業を手伝っていたのか、掌に土がついている。

「トム、邪魔しないで。作業中」

 エラが言うが、男の子――トムは聞いていなかった。サイラスの左腕に装着されたスチーム・ガントレットを、目を丸くして凝視している。

「それ、何? すごい、なにこれ、鉄でできてる? 重い?」

「トム」

「でも見たことないやつだよエラ、これ、光ってる部分あるよ、ここ、この丸いの何?」

「スチームカートリッジだよ」とサイラスは答えた。「圧縮したエネルギーを溜めておく入れ物。殴るときに、高圧の空気を噴き出すと衝撃が増える」

「うわあ……」

 トムの目が、さらに大きくなった。

「じゃあ、すごく強く殴れる?」

「ゴブリンくらいなら、一発で吹っ飛ぶ」

「すごい!」

「トム!」

 エラの声が、一段鋭くなった。

「あなた、牧草地の東側の柵、まだ直してないでしょ。先にそっちやって。終わったら呼ぶから」

「でも……」

「行って」

 短い、しかしはっきりとした口調だった。

 トムは不満そうに唇を尖らせたが、「……分かった」と言って渋々引き返していった。その背中が、ちらちらと振り返りながら遠ざかっていく。

「弟か」とサイラスは言った。

「うん。やんちゃで困る」

 エラは小さく溜息をついたが、その口元が少しだけ緩んでいた。

「いい目をしてるな」

「え?」

「好奇心のある目だ。悪くない」

 エラは返答せず、「作業を続けましょう」と言って板に向き直った。しかしその横顔が、ほんの少しだけ柔らかくなったように見えた。


 罠の設置と小屋の補強が終わったのは、夕暮れ時だった。

 西の空が橙色に染まり、風が少し冷たくなってきた頃、エラが「夕食、食べてって」と言った。

 前払いはしないと最初に言ったのと同じ、飾り気のない口調だった。

 母屋の中は、牧場の外観と同じで実用一点張りだったが、食堂部分だけは温かみがあった。石組みのかまどに火が入り、大鍋が湯気を上げている。テーブルは分厚い木の板を削り出したもので、表面に無数の傷と染みがついている。長年使い込まれた傷跡だ。

 奥の椅子から、老いた男の声が聞こえてきた。

「エラ、今日の客人は?」

「ゴブリンの処理を頼んだ旅人だよ。サイラスっていうの」

 サイラスが見ると、松葉杖を脇に置いて椅子に座っているのは、七十代くらいの老人だった。白髪で、顎に短い白い髭を生やしている。エラと同じ太い眉だが、目元は穏やかだ。腰のあたりに、いかにも痛そうな固定具が巻かれている。

「コルディアです。娘がお世話になっています」

 老人は丁寧に頭を下げた。

「サイラスといいます。こちらこそ、仕事をいただいて」

「いや、こちらが困っていたところを。ゆっくりしていってください」

 夕食はシチューだった。

 大鍋から盛られた、濃い色の汁物。根菜と豆と、塩漬けの肉が入っている。パンが一つ添えられている。シンプルな料理だが、野菜の甘みと肉の旨みが合わさって、しっかりした味がした。

 感情がリセットされていても、温かい汁物の感触は体に正直に届いた。胃から内側が温まっていく、確かな感覚。

(美味しい)

 今度は迷わずにそう思えた。

 トムは夕食の間中、サイラスのガントレットについての質問を矢継ぎ早に繰り出してきた。エラが「食事中は静かにして」と何度か止めるが、そのたびにトムは「でもさ」と食い下がる。コルディア翁が苦笑しながら「まあまあ」と宥める。

 どこにでもある、家族の食事風景だった。

 サイラスはトムの質問に、淡々と、しかし丁寧に答えた。スチームの仕組み、ガントレットの構造、なぜアイゼン・ギルド製が良いのか。子供相手でも手を抜かないのは、別にそういう主義があるわけではなく、単純に質問が面白かったからだ。

「サイラスさんって、強いの?」とトムが聞いた。

「そんなに強くないよ」

「でもゴブリンを倒せるんでしょ?」

「倒せる。でも魔法は使えないし、飛べないし、普通の人間と大差ない」

「じゃあなんで強いの?」

 サイラスは少し考えた。

「長く生きてるから、かな」

「長く生きてたら強くなれるの?」

「転んだり、失敗したり、怖い目に遭ったりを、何度も繰り返してると、少しずつ分かってくることがある。次はこうすれば転ばないとか、こういう時は逃げた方がいいとか。それが積み重なって、少しだけ上手くなるだけだよ」

 トムは真剣な顔で頷いた。

「……ぼくも、そうなれる?」

「なれるよ、生きていればその内ね」

 エラが、そっと視線をサイラスに向けた。何かを言うわけではない。ただ、その目に、先ほどまでの警戒の色が少し薄くなっていた。


 夜になった。

 食事を終えたコルディア翁は腰の具合が悪いとのことで早めに休み、トムは「今夜は俺も一緒に戦う」と言い張ったが、エラに「だめ」と一言で押しとどめられ、不満顔のまま二階へ送り込まれた。

「あの子には、今夜は絶対に外に出るなと言ってあるから」

 エラは外を見ながら、サイラスに言った。

「分かった」とサイラスは答えた。

 夜気が深くなるにつれ、牧場の空気が変わってきた。昼間の温かみが消え、草の匂いに混じって、土と夜露の冷たい気配が漂ってくる。虫の音がしていたが、それもいつの頃からか止んでいた。

 サイラスは母屋の前に立ち、目を閉じた。

 胸の奥、心臓の魔核が、かすかな反応を示している。大気中のマナが、いつもより少し濃い。昼間に感じていた違和感が、夜になって強くなっていた。

(来る)

 思った瞬間、仕掛けておいた罠の一つが作動した。

 パン、と乾いた炸裂音が夜の静寂を引き裂く。圧縮蒸気が解放された音だ。それに続いて、甲高い鳴き声が上がった。

「来た」とエラが短く言い、玄関脇に立てかけてあったセミオートのスチームライフルを手に取った。父親の古い銃だが、整備は行き届いている。

 サイラスはガントレットのバルブをゆっくりと開いた。シュ、という微かな音と共に、カートリッジからタンクに蒸気がゆっくりと充填されていく。

 月明かりの下、牧場の北の柵の向こうから、影が動いた。

 一匹、二匹、三匹。小柄な影が、かがんだ姿勢で柵の下をくぐってくる。ゴブリンだ。体長一メートル前後、灰色がかった肌に鋭い爪。目が赤く光っている。

 エラが銃を構えた。

「右端から順番に。二匹目以降は僕が前に出る」

 サイラスが言った。

「分かった」

 パン、パン。エラの銃から蒸気圧縮弾が飛ぶ。乾いた連射音が夜気を叩く。一匹目が倒れ、二匹目が怯んで立ち止まった。その隙にサイラスが前に出た。

 ゴブリンは素早い。しかし素早さだけなら、千年の経験がある。動線を読み、先回りして、最小限の動きで対処する。ガントレットの一撃が二匹目を吹き飛ばし、三匹目をナイフで仕留める。

「あと四、五匹いる。仕掛けた罠で散らされているはずだから、バラバラに来るはずだ」

 サイラスが言いかけた時、エラが「待って」と声を上げた。

 柵の向こう。月明かりの中に、他の個体より一回り大きい影があった。四足で立ち、鼻をひくひくと動かしている。群れのリーダーだ。他の個体が罠と銃で混乱している間、じっとこちらを観察していた。

「賢い個体だ」とサイラスは呟いた。

 リーダーは動かない。こちらの出方を見ている。目が、赤く、しかし冷静に光っている。

 二分ほど、睨み合いが続いた。

 リーダーが方向を変えた。小屋の方ではなく、納屋の方へ向かって走り出す。

「小屋を囮にして、納屋に回った」とサイラスが言った。「そっちに補強は入れたか?」

「したけど……でも、あの、蒸気ランタン」

 エラの声が変わった。

「昼間、トムが納屋に置いてきてた。気になってるって言ってたのを、出してないか確認するの、忘れてた」

 サイラスは一瞬、「部屋に戻るように言ったんだろう」と言おうとした。

 しかしその時、母屋の方の扉が、内側からかすかに動いた気配がした。

 エラもそれに気づいた。同時に、二人の視線が納屋に向いた。

 納屋の小さな窓から、蒸気ランタンの弱い光が漏れ出していた。

「トム!」

 エラの叫びと、納屋の中からの短い悲鳴が重なった。

 サイラスはすでに走り出していた。


 納屋の扉は内側から押さえられていた。

 蹴破る。木材が軋み、蝶番が飛ぶ。中に踏み込んだ瞬間、暗闇の中に三つの赤い光が見えた。

「端の二匹、倒すぞ」とサイラスは言いながら、左の個体に向かって踏み込んだ。

 狭い空間での戦いは、体格の大きい相手より小さい相手の方が厄介なことがある。ゴブリンはその小ささと素早さで壁際や棚の裏を縫うように動き、照準を定めさせない。しかしサイラスには、それが分かっている。一匹目の動きに半歩先回りし、壁際に追い込んでガントレットで叩く。二匹目は転倒した一匹目に驚いた隙を突いて、ナイフで仕留める。

 納屋の奥の隅に、トムが蹲っていた。小さな体を縮めて、干し草の山に背を押し付けている。手に蒸気ランタンを握ったまま、声を上げることもできないでいた。

 その前に、三匹目がいた。

 他の二匹が処理された音に動揺したのか、動きが止まっていた。しかしすぐに振り返り、サイラスを見た。

 その目が、おかしかった。

 赤い光の中に、青白い光が混じっている。体の表面を伝う模様が、かすかに光っている。

 マナ汚染だ。軽度だが、はっきりと分かった。

(この個体が持ち込んだのか。だからこの群れが、通常より執拗に動いていた)

 考える間もなく、ゴブリンが動いた。

 トムに向かってではなく、サイラスに向かってだ。正確には、サイラスの胸の魔核の気配に引き寄せられているのだろう。マナ汚染された魔獣は、マナの気配を持つものに向かう習性がより顕著になる。

 サイラスは前に出た。

 爪が振り下ろされる。右に体を逃がしながら、左腕で軌道を受けた。

 金属とゴブリンの爪が交差した瞬間、ガントレットの装甲の隙間から爪が入り込んだ。

 チリ、という異質な感触があった。

 刺さった痛みではない。もっと奥に届くような、電気に似た感触。

 爪を引き抜こうとするゴブリンの腕を押さえ、サイラスは右手のナイフを腹部に突き刺して仕留めた。

 崩れ落ちる三匹目。

 「トム、大丈夫か」

 声をかけながら、サイラスは自分の左腕を見た。ガントレットの隙間、二の腕の内側が切れている。血が流れ出した。

 いつもなら、もうじき再生が始まる。

 だが、傷口がふさがらない。

 正確には、再生しようとはしている。しかし速度が遅い。ひどく遅い。傷の断面からかすかな光の糸が出かかっているが、すぐに消える。また出て、また消える。まるで水が滲むように、血がじわじわと腕に伝って落ちていく。

 (呪殺か。軽いが、再生に干渉している)

 サイラスはその事実を、静かに受け取った。

 死ぬほどではない。再生は疎外されているが、解毒と血液の増産は進んでいる。解毒が済めば傷の再生も加速するだろう。

 傷そのものもさほど深くない。しかし、じわじわと血が出続けていて、床に黒い染みが広がっていく。

 「サイラスさん……」

 トムが立ち上がりながら、その染みを見つめた。蒸気ランタンの光の中で、少年の顔が青くなっていく。

 そこへ、扉の向こうからエラが飛び込んできた。

「トム、怪我は」

「僕は大丈夫だよ」

 トムの返答を確認した瞬間、エラの視線がサイラスの腕に吸い寄せられた。

 床に広がる血。

 ふさがらない傷口。

「あなた、大丈夫なの?!」

 怒鳴るような声だった。

 しかし、サイラスが「平気だよ、すぐ治る」と答えると、エラは「そんな傷でそんなこと言うな!」と声を上げた。

 怒っているのではなかった。

 その声には、どうしようもなく、怖かったのだという本音が滲んでいた。



【手当てと、朝のシチューと、シスへの報告】


エラに腕を掴まれた。

 引っ張るというより、導くような力だった。有無を言わせない強さがあったが、その指先が少しだけ震えているのを、サイラスは感じ取った。

「こっち」

 納屋から母屋へ、早足で戻る。トムがその後を、大きな目をしたまま黙ってついてきた。

 母屋の食堂に戻ると、エラはサイラスを椅子に押し込んだ。テーブルの上の食器を片づけ、棚の奥から木箱を引っ張り出す。蓋を開けると、包帯と消毒薬、縫合針と糸が詰まっていた。年季の入った道具だが、手入れされている。

「見せて」

 サイラスは素直に左腕を差し出した。

 ガントレットを外すと、二の腕の内側に裂傷が見えた。長さにして十センチほど、皮膚と筋肉の表層が切れている。傷の縁は綺麗に割れていた。ゴブリンの爪は鋭い。

 血はまだ滲んでいた。

 ただ、先ほどより量が減っている。解毒が進んでいる証拠だ。呪毒の干渉が弱まれば、再生が追いついてくる。時間の問題だ。

 エラは傷口を布で拭い、消毒薬を垂らす。

 サイラスは顔色を変えなかった。消毒薬の刺激を、ただ黙って受け取る。

「包帯を巻く」

「分かった」

 エラの手が動き始める。無駄のない巻き方だった。農村の生活の中で、怪我の手当ては日常だったのだろう。縛り目が均一で、きつすぎず緩すぎない。

 巻き終わったエラが、ふと手を止める。

 包帯の端を抑えながら、小さく首を傾げる。傷口のあたりを、そっと指先でなぞった。

「……これ」

 包帯の下で、何かが起きていた。

 かすかな光の糸が、傷の縁から出ては消えを繰り返していた。呪毒が弱まるにつれ、再生が少しずつ軌道に乗り始めている。肉眼でも分かる、かすかな光だ。

 エラの手が止まった。

 彼女は包帯の端を持ったまま、サイラスを見た。

「……これ、何?」

 サイラスは少し考えた。

 バレストルでは逃げた。人々の視線から逃げるように、背を向けて去った。しかし今は、夜の牧場の中だ。エラは今日一日、共に作業をした相手だ。トムを助けて、そして傷を負った。

 同じように逃げることは、なんとなく、したくなかった。

「丈夫な体なんだ」とサイラスは言った。「生まれつき、傷がふさがりやすい。魔法じゃない。ただの体質だよ」

 半分だけ本当のことだ。

 エラは黙っていた。しばらく包帯の端を見つめ、それから顔を上げた。

「……怪物じゃない?」

 問いかけではなく、確認するような口調だった。

「怪物かどうかは、判断が難しいな」

 サイラスは正直に答えた。「少なくとも、君たちに害を与えるつもりはない。それは本当だ」

 エラはまた黙った。長い沈黙ではない。三秒か、四秒か。

「……よかった」

 小さな声だった。

「よかった。……ごめんなさい、さっきは怒鳴って」

「謝らなくていいよ。弟のことが心配だったんだろう」

「そうだけど」エラは包帯の端を留め、手を引いた。「あなたが怪我してたのも、怖かった」

 声のトーンが、昼間とも夜の戦闘中とも違った。命令口調が消え、素の声になっていた。そういう声が出せる人なのだ、とサイラスは思った。怒鳴り方と、素の声のギャップが、この人のそのままの姿なのだろう。

「ありがとう」とサイラスは言った。「手当て、上手いんだね」

「父がよく怪我したから」エラは立ち上がり、道具を箱に戻しながら言った。「昔は、自分でやれって言って、怪我したまま牛の世話してた。止めても聞かないから、自分でやるより先に手当てしてやることにしたの」

 その横顔に、小さな苦笑いのようなものが浮かんでいた。

 奥から、松葉杖の音がした。

「エラ、何かあったか」

 コルディア翁が、ゆっくりと廊下から出てきた。腰の固定具を巻いたまま、松葉杖を両脇に抱えて立っている。夜中に起こしてしまったことに、サイラスは少し申し訳ない気持ちになった。

「ゴブリンが納屋に入り込んだの。もう片付いたわ」とエラが言った。「トムが中にいたけど、サイラスさんが助けてくれて……サイラスさんが少し怪我した」

「それは……」翁はサイラスに目を向け、深く頭を下げた。「申し訳ありません。ありがとうございます」

「トムが無事だったんで。問題ないです」

「でも怪我を」

「これくらいは慣れてますから」

 翁はしばらくサイラスを見ていた。老いた目は穏やかで、しかしよく見えていた。サイラスの腕に巻かれた包帯、そして包帯の下でかすかに光る何かを、おそらく気づいていた。

 しかし翁は何も言わなかった。ただ、もう一度頭を下げる。

「今夜は泊まっていってください。エラ、客間を用意しなさい」

「うん」

「いや、宿に」

「宿まで歩くの?ケガしてるのに」とエラが遮った。「今夜はここで休んでいって。明日の朝、改めて報酬を渡すから」

 命令口調が戻っていた。しかし今度は、その命令の根っこに、さっきの素の声と同じ何かがあった。サイラスはそれ以上断わらなかった。

「ありがとう。では、お言葉に甘えます」

 トムが、隣でほっとした顔をした。それまでずっと黙っていた少年が、小さな声で「よかった」と言った。

「今夜は怖かったか?」とサイラスは聞いた。

「……ちょっとだけ」

「正直だな」

「でも、サイラスさんが来てくれたから」トムは少し間を置いてから言った。「ありがとう」

 エラが、横で何か言いかけて止めた。その代わりに、静かにトムの頭を一度だけ叩いた。叱るのではなく、ただ確認するような、軽い叩き方だった。


 客間は小さかったが、清潔だった。

 ベッドは硬めで、枕は薄い。しかし窓から牧草地が見えて、夜の草の匂いが入ってくる。

 サイラスは上着を脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。包帯を少し外して傷口を確認する。光の糸が増えていた。再生速度が戻ってきている。明朝には跡も残らないはずだ。

 (呪毒で再生が止まったのは、久しぶりだったな)

 そう思いながら、今夜起きたことを順番に振り返った。

 罠は機能した。群れをバラけさせることができた。リーダーが賢かったのは誤算だったが、それ以上に、トムが納屋に入り込んでいたことが計算外だった。

 しかし結果として、全員無事だ。

 ゴブリンは今夜で大半を仕留めた。リーダーも含めて六匹。残りは散り散りになって逃げた。群れとしての機能を失った個体は、縄張りを持つ習性に従って別の場所へ移る。少なくとも、この牧場への被害は止まるはずだ。

 窓の外で、風が草を揺らしている。

 月が出ていた。バレストルでは煤煙に遮られて見えなかった月が、ここでは水を張ったように澄んだ光を牧草地に落としている。

 サイラスは窓の外を見ながらベッドに横たわり、目を閉じた。

 胸の魔核が、静かなリズムで脈打っている。呪毒の干渉が完全に抜けたのだろう、鼓動が正確さを取り戻していた。

 準備が整った。

 サイラスは静かに意識を沈め、シスの異空間への扉を開いた。


 瞼越しの暗闇の中に、燐光がある。

 瞼を開き、それがクジラの輪郭だと分かるまで少し時間がかかった。今回は「記憶の引き渡し」ではない。ただ話をするためだけに転移した。サイラスの体は客間のベッドに横たわった状態のまま、異空間に移ってきた。

 転移直後は寝起きのように、意識に靄がかかる。真っ暗なこの情報の海に浮かび、たゆたっているような状態がやけに心地いい。

 シスがゆっくりと尾びれを揺らしながら、そんなサイラスに声をかける。

『来たね』

 サイラスは状態を起こし、その場に胡坐をかいてシスを見上げる。

「今夜は、少しシスと話したかったんだ」

『もう、記憶の引き渡しかい?』

「違うよ。う~ん……ただの茶飲み話、かな」

 シスは答えなかったが、その巨体から発せられる空気が少し和らいだ。暗闇の中で、燐光が柔らかく揺れる。

「今日、気の強い娘がいた」とサイラスは言った。「牧場を一人で切り盛りしてて、よそ者に対して最初から警戒して、前払いはしないって最初に言ってくるような娘」

『それは大変そうだったな』

「でも仕事は的確で、怒鳴り方は上手くて、弟の頭をまず叩く前に、ちゃんと目で見てた」

 シスは静かに聞いていた。

「ゴブリン退治の最中に、弟が納屋に迷い込んだんだ。マナ汚染の個体がいて、爪に呪毒が混じってた。トムを庇って腕をやられたら、再生が止まっちゃってね」

『珍しいな』

「軽い汚染だったから、すぐ回復したよ。でも少し、焦った」

 シスはわずかに身じろぎした。

『焦った、というのは』

「再生が止まったことについてじゃない」サイラスは少し考えてから続けた。「トムに、格好悪いところを見られた、っていう感じだったかな。なんでそう思ったのか、自分でも少し分からないけど」

『感情が戻ってきている証拠だよ』

 シスは穏やかに言った。

『引き渡しから日が経っていないのに、もう動きが出ている。それだけ、今日の出来事が君の器に鮮やかに刻まれたということだ』

「そうかもね」

『傷についてはどうだい。心配かい?』

「少しはね。でも死ぬほどじゃない。トムを助けられた。それで十分だ」

 シスはしばらく黙っていた。

 暗闇の海に、波紋が広がる。音はない。ただ光の揺らぎだけがある。

『君はいつも、自分のことを後回しにする』

「不死身だからね」

『完全には違う、と私は思っている』

 サイラスは答えなかった。

 「死なない」と「死ねない」は、千年の間、ほぼ同じ意味として扱ってきた。しかしシスの言い方は、その二つが別のことだと示唆していた。

 再生を上回る損傷を受ければ死ぬ。魔核を砕かれれば死ぬ。マナの薄い場所でも、再生の機能は低下する。それはサイラス自身がよく知っていることだ。そして今夜、呪毒で再生が止まった時、傷がふさがらないまま血が床に落ちていく光景を、サイラスは初めてではないはずなのに、どこか新鮮に受け取っていた。

(感情のリセット後だから、だろうか)

 あるいは……

 トムが蹲っていた納屋の奥の隅。蒸気ランタンの光の中で、少年の顔が青くなっていくのを見た時に感じた、焦りのようなもの。あれは、自分が死を恐れたのではなく、トムを守れなくなることを恐れたのかもしれない。

 感情リセット後の、まだ輪郭のはっきりしない気持ちだ。

「分かった」とサイラスは言った。「気をつけるよ」

『それで十分だ』

 シスが静かに答えた。

 尾びれが一度、深く揺れた。

『もう、眠った方がいい。人の体には休息が要る』

「そうだね」

 サイラスは再び真っ暗な空間にパタリと横たわり、目を閉じる。

 数秒後、客間のベッドの上で目を開けた。横になったまま、包帯を巻いた左腕を見る。包帯の下で光の糸が動いているのが、かすかに透けて見えた。

 窓の外で、月が牧草地を照らし続けていた。

 サイラスは一度起き上がり、上着を枕の脇に置いてからベッドに横になった。眠気がくるまで、しばらく天井の木目を眺める。節の形が、大きな楕円と小さな丸の組み合わせで、どこかシスの目に似ていた。

 目を閉じるとシスの異空間とは別の暗闇に包まれ、次第に意識はその闇の中に落ちていった。


 翌朝、目が覚めたのは鶏の声だった。

 バレストルでは、朝は機械の音で始まる。鼓膜を叩くような蒸気の轟音と、ピストンの駆動音。しかしここでは、鶏が鳴き、それに呼応するように別の鶏が鳴き、遠くで家畜が低く声を上げた。順番に生き物が目を覚ましていくような、段階的な夜明けだった。

 サイラスは起き上がり、包帯を外した。

 傷は塞がっている。跡すら残っていない。指先でなぞっても、昨夜爪が入り込んだ場所の感触は何もない。いつも通りだ。しかし今朝は、その「いつも通り」が少しだけ、ありがたいものとして受け取れた気がした。

 昨夜脱いだ上着にそでを通し、部屋を出る。

 廊下に出ると、かまどから煙が立ち上り、汁物の匂いが漂ってきた。一階に降りると、エラが大鍋の前に立っていた。昨夜と同じ作業着で、黒髪を後ろで束ねている。サイラスの足音に気づいて振り返った。

「おはよう。腕の傷はどう?」

「おはよう。治ったよ」

 エラは一瞬だけ目を細めた。信じているのか疑っているのか、判断がつかない表情だった。しかしすぐに「そう」と言って、鍋の中を木べらでかき混ぜた。

「朝飯、食べてってよ」

「ありがとう」

 しばらくして、コルディア翁がゆっくりと椅子に腰を下ろし、トムが二階から跳ねるような足音で降りてきた。昨夜の怖さはどこかへ消えて、目に好奇心が戻っている。サイラスの腕に視線が行ったが、包帯がなくなっているのを見て口を開けた。

「もう治ったの?」

「うん」

「すごい……」

「トム、手を洗ってきなさい」とエラが言った。

 食事が並んだ。

 昨夜と同じシチューの残りを温め直したものと、焼きたてのパンが一つずつ。それに、小皿に塩を盛ったものが添えられている。シンプルだが、温かかった。

 サイラスはスプーンを手に取り、一口食べた。

 昨夜と同じ味だった。根菜の甘みと、豆のほくほくとした食感と、肉の塩気。温め直しても崩れない旨みがある。

 (昨夜よりも、少し豊かな気がするな)

 感情が少しずつ充填されてきているのかもしれない。同じ料理が、昨夜は「美味しい」という情報だったのに、今朝はその言葉の手前に、何か温かい手触りのようなものがある。

 テーブルを囲んで、四人で食事をする。コルディア翁はトムの行儀を時折注意し、エラは黙って食べながら時々翁の椀にシチューを足した。トムはサイラスに昨夜の戦いの詳細を聞こうとして、エラに「食べ終わってから」と遮られた。

 何でもない、朝の食卓だった。

 サイラスはそれを眺めながら、ふと思った。

(ねえ、レナ)

 心の中で、亡き人の名を呼んだ。

 君がいた頃も、こういう朝があったかな。石組みのかまどと、大鍋と、誰かが誰かの行儀を注意する声と。魔法文明の時代だって、人が朝食を食べることは変わらなかったはずだ。詠唱で火を起こしても、蒸気かまどで熱しても、鍋の中で何かが煮えて、それを誰かが食べる。

 その繰り返しの中で、一日が始まる。

 形は変わっても、この光景だけはきっと千年前と変わらない。

(君にも見せてやりたかった。君は絶対、こういう朝が好きだったと思う)

 胸の奥に、小さな揺らぎがあった。

 感情リセット後の、まだ薄い感情だ。ロレーナへの郷愁というより、彼女が好きだったものを今ここで見ている、という、不思議な近さの感覚。

 サイラスは黙ってパンをちぎり、シチューに浸して食べた。


 食事が終わり、トムが皿洗いに追い払われると、エラは棚の引き出しから紙幣の束を取り出した。

「報酬よ」

 テーブルの上に置かれたのは、十五ギルス分の紙幣だった。五ギルス紙幣が二枚、一ギルス紙幣が五枚。それぞれの中央に精密な歯車が埋め込まれている。

「ゴブリン退治で十GSN。泊めてもらった分と食事を差し引いても十分おつりが来るのでは」

「それは関係ない」とエラは言った。「仕事の報酬は仕事の報酬。泊まったのはこっちが勧めたんだから。受け取って」

 即答だった。

 サイラスは紙幣を手に取り、枚数を確認してからポケットに入れた。

「ありがとう」

「こちらこそ」

 短いやり取りだった。しかしエラは続けた。

「……また何かあったら、来てもいいよ」

「旅人だから、また来るかどうかは分からないかな」

「そう……よね」

 エラは素直に頷いた。それ以上引き留めなかった。残念そうな素振りも見せなかった。ただ「分かった」と言って、立ち上がった。

 しかしその背中が少しだけ、何かを言いかけて止めたような気がした。

 サイラスはそれを聞かなかった。聞かなくても、この朝の食卓と、昨夜の彼女の声と、包帯を巻く指先の震えを、今の自分はちゃんと受け取っていた。

 廊下の奥から、トムが走ってくる。

「サイラスさん、もう行くの?」

「うん」

「また来る?」

「また来るかもね」

「絶対来てよ」

 トムは真剣な顔でそう言い、サイラスの手を両手で握った。子供の手は小さく、しかし力強かった。

「ゴブリンの退治、上手くなったら教えてあげる」とトムは言った。

「楽しみにしてる」

 コルディア翁が、松葉杖をつきながらゆっくりと玄関まで送り出してくれた。

「旅の安全を」と翁は言った。「あなたのような方が世話をしてくれる場所は、どこでもきっと助かります」

 サイラスは深く頭を下げた。

 門を出ると、朝の牧草地が広がっていた。柵の向こうで家畜が草を食んでいる。昨夜ゴブリンが侵入してきた北の柵も、今朝は何事もなかったように静かだ。

 空が青かった。

 雲はほとんどなく、風が牧草を渡っていく。風車がゆっくりと回り、羽根が朝日を反射して光っていた。

 (いい牧場だ、と思う)

 サイラスはそう思いながら、マキナ村の中央への道を歩き始めた。



【朝市の売り物と、燻製チーズと、次の街道へ】


 マキナ村の朝市は、再びサイラスを迎えた。

 昨日の朝と同じ通り、同じ木の台、同じ顔ぶれ。パン屋の女性がパンを並べ、雑貨屋の老人が台の後ろで煙草を吹かしていた。しかし昨日と少しだけ違うのは、サイラスが今度は「買い手」ではなく「売り手」の顔をして歩いているということだ。

 バックパックの中で、布袋がゴトリと重みを感じさせる。ゴブリンの魔核が十数個。

 雑貨屋の台に近づくと、老人が煙草から口を離してサイラスを見た。片方のレンズにひびが入った眼鏡の奥で、目が細くなる。

「ゴブリン退治、終わったのか」

「ええ、昨夜」

「牧場の方から聞こえてきたよ、音がな」老人は顎でバックパックを示した。「何か売りに来たのか」

「これを引き取ってもらえますか」

 サイラスは袋を開け、台の上に小型の魔核をいくつか並べた。くすんだ赤みの結晶。形はいびつで、純度も低い。昨夜の戦闘で新たに取り出したものも合わせると、十四個になっていた。

 老人は一つを拾い上げ、眼鏡の奥から眺めた。光にかざし、重さを確かめる。その手つきは、価値を見慣れた者のものだった。

「エーテルガルドの農村じゃ使い道はないが、行商が定期的に来るんだ。魔道具の部品屋に売ればいくらかになる。一個0.3GSNで引き取ろう」

「十四個で4.2GSNですね」

「そうだ」

 端数を切らず正確に提示してくるあたり、実直な人だとサイラスは思った。値切る気にもならなかった。

「ありがとうございます。お願いします」

 老人は引き出しから紙幣を取り出した。4GSN分の紙幣と、1GSN紙幣の端を器用に折って0.2GSN相当の受け取りを示した簡易な証書を一枚。「次に行商が来た時に差額を受け取れ」と老人は言った。村の中での信用が前提の、略式のやり取りだ。

(こういうやり方、久しぶりに見た気がする)

 サイラスは証書をポケットに入れながら、そう思った。電子取引や印刷された正式な紙幣だけが通貨ではない。人と人の間の信頼が、別の形で流通している。バレストルでは見かけなかったやり取りだ。

「もう一つ聞いていいですか。この村の特産品で、旅先でも売れるものはありますか」

 老人は少し考え、「食料品屋に行け」と言った。「燻製チーズと、乾燥薬草だ。あそこの燻製はインダラ方面じゃ高値がつく。薬草は大龍の商人が好んで買う。国に持ち帰って売るような商人が捕まれば、売れんだろうよ」

 サイラスは素直にそちらへ向かった。

 食料品店の軒先に、昨日の朝市では気づかなかった棚があった。棚の上に、小さな円形に整えられた燻製チーズが並んでいる。表面に黒い煤の縞模様が入った、素朴な見た目だ。隣には、紐で束ねた乾燥薬草がいくつか吊るされている。草の種類はサイラスには分からないが、乾燥させても色が鮮やかに残っているものは、保存がきく良質なものが多い。

「これ、旅の人間が買っていきますか?」とサイラスは店主に聞いた。

「たまにな」と店主は答えた。「チーズは一個2GSN。薬草は一束1.5GSNだ」

「チーズを二個と、薬草を二束ください」

 合計7GSN。財布の紙幣を数えながら、サイラスは手の中の感触を確かめた。アイゼン製の精密歯車が埋め込まれた紙幣。昨日コルディア牧場から受け取った十五ギルスから、今朝のこの買い物で少し減る。しかし老人から受け取った四ギルスと合算すれば、十分な路銀が手元に残る計算だ。

 店主が包んでくれた燻製チーズを受け取ると、包み紙の隙間から煙の香りと、乳製品の濃い香りが漏れてきた。

(行商みたいだな、そういえば)

 サイラスは苦笑いを浮かべた。傭兵の仕事をして、余った荷物を売り買いして、旅先で地元の品を仕入れて次の街へ持っていく。気がつけば立派な行商の動きをしている。もっとも、行商の最大の目的が「利益」だとすれば、自分の場合はそれが副産物に過ぎないのだが。

 目的は旅そのものだ。立ち寄って、見て、聞いて、そして次へ行く。

 バックパックに新しい荷物を詰め直しながら、サイラスは村の中を一度見渡した。

 朝市は終わりに近づいていた。昨日と同じように、人々が台を片付け始め、通りから少しずつ気配が引いていく。犬がどこかの日向を見つけて横になっている。子供が二人、犬の脇を走り抜けていった。

 特別なことは何もない。ただの朝が、次の朝に続いていくだけだ。

 しかしその「ただの朝」が、昨日の朝と比べてどこか少し鮮明に見えた。色が、少し戻ってきているような感覚。感情の充填が、また少し進んだのかもしれない。

 サイラスは停留所に向かった。


 村の入り口にある停留所は、昨日とまったく変わらない姿でそこにあった。小さな掲示板と、木の杭。時刻表の端が風で捲れている。

 時刻表を確認すると、次の便は二十分後だ。バレストルから乗ってきたのと同じ第七路線ではなく、さらに東の街まで続く別路線の乗り合い馬車が来る。行き先は、見たことのない地名だった。

(聞いたことがない名前だ)

 どんな街だろう。大きいのか、小さいのか。工業地帯か、農地か、漁港か。分からない。しかし分からないことは、別に不安ではなかった。ただ、純粋に気になった。

 停留所のベンチに腰を下ろし、サイラスはバックパックを足元に置いた。朝の空気は昨日よりも少し暖かい。雲は少なく、空が広かった。

 遠くで風車が回っている。コルディア牧場の方角だ。

 エラはもう、朝の作業を始めているだろう。牛の世話をして、柵を確認して、昨夜ゴブリンが入り込んだ納屋の修繕を進めている。トムは懲りずにどこかに駆け回り、エラに叱られながら何かをしている。コルディア翁は椅子で松葉杖を傍らに置いて、翁なりの速度で今日を過ごしている。

 サイラスには関係のないことだ。仕事は終わった。報酬も受け取った。もうここの人間ではない。

 それでも少しの間、風車の向きを眺めた。


 二十分は思ったより早く過ぎた。

 遠くから聞こえてくる蒸気の唸り。それがだんだんと大きくなり、地面を揺らす振動になって届いてくる。昨日のものとは別の馬車だったが、型はよく似ていた。真鍮のフレームと煤けた窓ガラス。六本の機械脚が石畳を踏みしめ、白い蒸気を吹きながら停留所の前で止まる。

 運転手は昨日とは別の人間だった。若めの男で、帽子を深くかぶっている。乗降口を開け、サイラスを見た。

「乗るかい?」

「ええ」

「1.5GSNだ。終点まで行くか?」

「どこですか、終点」

「フォストリア。工場と港のある街だ」

 サイラスは少し考えた。

 フォストリア。エーテルガルド連邦の内陸部にある港町だとすれば、川沿いか湖沿いの街か。大陸間の移動には使えないが、物資の集積地として人が集まる場所のはずだ。旅先としては、悪くない。

「じゃあ、終点まで」

 1.5GSN紙幣を一枚、運転手に渡す。歯車の浮き上がりが、朝の光の中でひとつ光って消えた。

 乗り込んだ車内は、昨日よりも空いていた。半分ほどの席が埋まっている。農村を出ていく人々、行商人らしき大荷物の男、窓の外をぼんやり見ている老人。誰も誰とも話していない。蒸気の駆動音が、その静けさに低音の下敷きを敷いている。

 サイラスは窓側の席に落ち着いた。バックパックを膝の上に置き、窓に額を近づけて外を眺める。

 馬車が動き出した。

 マキナ村の木造の家屋が、後ろへ流れていく。風車が遠ざかる。牧草地の柵が途切れ、荒野の草地が広がり始める。地平線が、また少し遠くなった。

 窓枠に肘をついたまま、サイラスは村が見えなくなるまで後ろを向いていた。

 やがて完全に建物の輪郭が消えた。代わりに広がるのは、どこまでも続く草原だ。電信柱が等間隔に立ち、鉄の細い線が空中を走っている。地平線の先に、また新しい何かがあるはずだ。

 サイラスは前を向いた。


 蒸気馬車がリズミカルな振動を刻みながら街道を進む中で、サイラスは心の中で声を出した。

(ねえ、レナ)

 亡き人の名前は、呼ぶだけで空気の味が少し変わる気がした。それが記憶の欠片なのか、あるいは胸の奥に染みついた何かなのか、自分でも判断がつかない。ただ、旅の途中でこうして呼びたくなる瞬間が、確かにある。

(僕はね、今ちょっと思ったんだけど、千年前よりも今の方が、旅が上手になった気がする)

 ガシャン、ガシャン。機械脚が街道を蹴る音が、規則正しく続く。

(魔法文明の時代は、転移魔法があったから、遠い場所でも一瞬で着けた。着きたい場所を思い浮かべて、詠唱して、瞬きをしたら別の場所にいた。それはそれで素晴らしかった。君が作ってくれたシスのところへの簡易転移術式にも、本当に何度も助けてもらった)

 しかし、とサイラスは続けた。

(今は違う。バレストルを出て、停留所の長椅子で夜明けを待って、老婆の隣で干し肉をもらいながら、がたがたと揺れる蒸気馬車でやっとマキナ村に着く。仕事をもらって、牧場の女の子と罠を仕掛けて、ゴブリンに腕をやられて、シチューをもらって、朝の牧場を一度振り返ってから次の便に乗る。そういう手順を全部踏んで、やっとフォストリアに向かっている)

 窓の外で、草が風に揺れていた。

(回り道みたいに思えるけど、その分だけ、マキナ村が特別な場所になった。停留所で見た星も、老婆がくれた干し肉も、エラの怒鳴り声も、トムの目の丸くなり方も、全部あの村の一部として残ってる。転移で一瞬で通り過ぎたら、なにも残らなかったと思う)

 ガシャン、ガシャン。

(不便って、案外悪くないな)

 その言葉を心の中で転がしながら、サイラスは少し目を細めた。

(君は言っていたよね『いつか一緒に世界を見て回りたいわね、サイラス。そして、私に教えて。あなたがどんなふうに世界を見て、何を感じたのかを』って。あの時の僕には、まだその意味がよくわからなかったけど、千年かかって実感したよ。レナがなんでそんな風に思っていたのか)

 ロレーナへの郷愁というより、遠くにいる誰かへの近況報告のような感覚だった。感情がリセットされた後でも、こういう言葉は自然に出てくる。それが不思議だとは、もう思わなかった。きっとそういうふうに作られているのだ、自分は。

 車内の誰かが窓を少し開けた。草の青臭い匂いと、乾いた土の気配が流れ込んでくる。

 バックパックの中で、燻製チーズが揺れた。乾燥薬草の香りが、かすかに鼻に届く。マキナ村の空気が、まだ一緒に乗っている。


 フォストリアまでの道のりが、どのくらいかかるかは分からない。

 時刻表によれば数時間の行程らしいが、途中でいくつか停留所があるという。どこかで追加の客が乗り込んでくるかもしれない。道が悪ければ時間がかかるかもしれない。

 サイラスはバックパックを膝の上に置き直し、背もたれに体を預けた。

 車内の振動が、体の芯まで届く。木製の座席のスプリングが微妙に頼りないのは、昨日の馬車と同じだ。しかし今日は不思議と、そのがたつきが心地よかった。揺れるたびに、体が確かにここにいることを思い出させてくれる。

 窓の外では、草原がどこまでも続いていた。

 電信柱の間を、鳥が一羽横切った。灰色の、小さな体。あっという間に視界の外へ消えていく。どこから来て、どこへ向かうのか分からない。それでいい。

(さて、次はどんなところだろうか)

 サイラスはそう思った。

 フォストリアの次は、また次の街へ。その次も、また次へ。どこかで仕事があれば立ち止まり、なければそのまま通り過ぎる。一年先も十年先も、たぶんそうやって旅をしていく。

 胸の魔核が、静かなリズムで脈打っている。

 空には、どこかにシスが泳いでいる。バックパックの底には、ウェアウルフの魔核が眠っている。ポケットには、稼いだ路銀の紙幣がある。行きついた先で何か売れば、少しだけ足しになる。

 すべては動いている。世界も、人も、蒸気馬車も、自分も。

 サイラスは窓に額を寄せ、流れていく草原を眺めながら目を細めた。

 機械脚の足音が、街道のリズムを刻み続ける。



<第2章 完>

この作品の執筆にはAIを使用しています。

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