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鋼鉄の空と、記憶の残り火

# 空にクジラが泳ぐ世界で

### ――前書き・登場人物紹介――


---


## ◆ この物語について


魔法が滅んだ世界で、クジラが空を泳いでいる。


蒸気と煤煙が空を覆い、人々は魔法の代わりに鉄と歯車で文明を作り直した。

そんな騒々しくて不格好で、どうしようもなく愛おしい世界を、一人の男がぶらぶらと旅している。


名前はサイラス・ハリソン。見た目は25歳くらいの、日焼けした旅人。

正体は、千年前に作られた「人工魔法使い」の生き残り。


魔法は使えない。飛べない。炎も出せない。

ただ、死なないだけ。


腹を刺されても再生する体と、千年分の旅の経験と、あとは少しばかりのスチームガジェット。

それだけを持って、彼は今日も見知らぬ街に降り立つ。


なぜ旅をするのか。

それは昔、死んだ誰かと交わした約束があるからだ。

「世界を見て回って、私に教えて」と笑った女性の言葉が、千年経った今も、彼の足を動かし続けている。


これは、終わりの見えない旅の記録。

空でクジラが泳ぐ、煤と蒸気と人情の世界で、男が歩き続ける話。


---


## ◆ 世界について――ヴェイパリスへようこそ


舞台は惑星ヴェイパリス。かつては魔法が満ちた美しい星だったが、今はちょっと違う。


千年前、魔法使いが生まれなくなって魔法文明が崩壊した。世界は一度、魔獣に蹂躙されて闇に沈んだ。

けれど人間はしぶとかった。


魔法が使えないなら、機械を作ればいい。


試行錯誤の末に生まれたのが「スチームパンク文明」。大気中のエネルギーを圧縮した蒸気機関が世界を動かし、巨大な飛行船が空を横切り、真鍮のパイプが街中を縫うように走っている。魔法のような優雅さはないが、煤と油まみれのその文明は、確かな熱を放っている。


エネルギーが富の基準となり、「ギルス(GSN)」というエネルギー本位制の通貨が流通する。覇権国家エーテルガルド連邦(モデル:アメリカ的自由主義)が牽引する現代の傍らで、魔核資源を独占するラスカーン凍土帝国(モデル:ロシア的権威主義)が対立し、「世界の工場」大龍魔導工廠(モデル:中国)が暗躍する。


旧時代の遺物「魔核」と、新時代の動力「蒸気機関」。

高価で強力な魔道具と、安くて量産できる機械の群れ。

その狭間で、人々は今日も必死に生きている。


---


## ◆ 登場人物


### サイラス・ハリソン(サイ)

**「千年生きた、失敗作の旅人」**


> 見た目:25歳前後。短髪、浅黒い肌、筋肉質。身長180cm強。

> 職業:放浪者・傭兵・便利屋・何でも屋


千年前の魔法文明が生み出した「人工魔法使い」の一人。

製作者の名はロレーナ・レイヴンシェイド。彼女が組み込んだ魔核によって、サイラスは老いず、致命傷を受けても再生し、千年を生き続けている。


ただし、魔法は一切使えない。「生きること」に全振りした設計のため、攻撃魔法どころか日常魔法すらゼロ。戦うときは鉄の拳と長年の経験と機転で、泥臭く、不格好に戦う。


好奇心旺盛でユーモアがあり、どんな人間にも自然に馴染む。千年の旅で培った達観と、なぜか消えない青年らしい純粋さが同居している。


彼には、定期的に記憶と感情を「あるもの」に預ける習慣がある。積み重なりすぎた感情は魂を腐らせる。千年分の喜びも悲しみも怒りも、一人の人間には抱えきれない。だから捨てる。生き続けるために。


感情をリセットした直後の彼は、まるで子供のように、あらゆる感覚を新鮮に受け取る。慣れたはずの味が、知っているはずの景色が、初めてのように感じられる。それは不思議な体験であり、少しだけ寂しいことでもあった。


---


### SiS-001「シス」

**「空を泳ぐ、世界の記憶庫」**


> 外見:全長50メートルを超えるシロナガスクジラ。空を浮遊している。

> 正体:千年前の魔核実験で生まれた観測生命体


ヴェイパリスの空を、今日もクジラが泳いでいる。

人々はそれを「雲」だとか「蜃気楼」だとか思っている。でも、そこにいる。ずっといる。


シスはロレーナが最初に関わった魔核実験から偶発的に生まれた存在で、無限に近い記憶容量と、物理的な干渉を受け付けない不死の体を持つ。

その能力を生かし、「世界を観測・記録し続ける者」として、千年を過ごしてきた。


サイラスが定期的に彼の異空間に転移してくるのは、感情と記憶を預けるためだ。

シスはそれを「世界の記録」として永遠に保存する。サイラスの喜びも、悲しみも、ロレーナへの想いも、すべて星のようにシスの中で瞬き続けている。


温和で老成した語り口。サイラスにとっては相談役であり、茶飲み友達であり、千年間ずっと傍にいてくれた唯一の同志。


---


### ロレーナ・レイヴンシェイド(レナ)【故人】

**「千年前に死んだ、サイラスの全ての始まり」**


> 外見:白金髪のゆるウェーブロング、白磁の肌、童顔。身長158cm。

> 正体:千年前の天才魔法使い。「神童」と呼ばれた研究者


もうこの世界にいない。千年前に死んだ。


それでも彼女は、サイラスという存在の根幹を作り続けている。

サイラスを作ったのは彼女だ。シスに命を吹き込んだのも彼女だ。「世界を見て回って」という約束が、サイラスを今も歩かせている。


天才肌だが、倫理よりも自分の知的好奇心を優先してしまうところがあった。夢見る乙女の気質で、サイラスへの愛情は深く、内心では「理想の旦那様を自分で作ってしまおう」くらいの気概でいた節もある。


サイラスが何度感情をシスに預けても、ロレーナにまつわる想いだけは、いつの間にか胸の中に戻ってきてしまう。それは記憶というよりも、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。


---


## ◆ 作品のキーワード


`#ロードノベル` `#スチームパンク` `#不老不死` `#千年生きた主人公` `#魔法が滅んだ世界` `#魔獣` `#旅` `#哀愁` `#空飛ぶクジラ` `#異世界ファンタジー`


---


*それでは、蒸気と煤煙の世界へ。*

*空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい星で――旅は、始まる。*

【見えないクジラと、灰色の港】


 世界は、音のない海に沈んでいた。


 上も下も、右も左もない。ただ無限に広がる闇の中に、凪いだ水面のような境界線だけが、鏡のように静寂を映し出している。そこは物理法則が支配する場所ではなく、意識と記憶が漂う情報の海、特異点としての異空間だった。


 その暗闇の海に、巨大な島が浮かんでいる。

 いや、島ではない。それは全長五十メートルを超える、圧倒的な質量を持ったシロナガスクジラだった。識別名SiS-001。かつて魔法文明の黄昏に生み出された最初の魔核実験生物であり、今は世界そのものを記録し続ける「観測者」、シス。

 彼の巨体は、闇の中でほのかに燐光を放ち、現実の生物にはありえない透明感と神聖さを帯びていた。


 その鼻先、海面から突き出た岩礁のような部分に、一人の青年が立っていた。

 サイラス・ハリソン。

 短く刈り込んだ黒髪に、日焼けした精悍な顔立ち。旅慣れた服装の彼は、巨大なクジラと対峙するように両手を広げ、静かに目を閉じていた。


 二人の間には、言葉は必要なかった。

 サイラスの胸の奥、心臓の位置に埋め込まれた魔核が、淡い鼓動を打つ。それに呼応するように、シスの巨体からも柔らかな光が溢れ出した。

 光の帯が生まれた。

 それはサイラスの胸から伸び、シスの額へと吸い込まれていく。きらきらと輝く粒子の奔流は、サイラスがこの数十年で経験した旅の記憶そのものだった。


 ――北の凍土で食べた、熱々のシチューの味。

 ――湯気にむせながら笑い合った、酒場の男たちの顔。

 ――スチーム・プレーンが初めて空を飛んだ日、整備士の少年が見せた誇らしげな涙。

 ――雨上がりの草原で嗅いだ、土と草の匂い。


 鮮やかな色彩を伴った情景が、次々とサイラスの内側から引き剥がされていく。

 記憶という名のデータは、それに付随する「感情」という熱量を伴って、シスのデータベースへと転送されていくのだ。

 心地よい温もりが、体から抜けていく。

 胸を締め付けるような切なさが、霧散していく。

 激しい怒りも、どうしようもない悲しみも、腹の底から湧き上がる喜びも、すべてが光の粒子となって、巨大なクジラの中へと溶けていく。


 サイラスは、その感覚を拒まない。

 ただ受け入れる。

 千年という長すぎる時を生きる「人工魔法使い」にとって、精神の摩耗は肉体の死よりも恐ろしい病だ。人の心は、無限の時間を記憶し続けるようにはできていない。積み重なりすぎた感情は、やがておりとなって魂を腐らせ、自我を崩壊させる。

 だから、捨てるのだ。

 生き続けるために。

 彼女との約束を守り続けるために。


 ふと、光の流れの中に、懐かしい白金髪の女性の姿がよぎった気がした。

 ロレーナ・レイヴンシェイド。

 サイラスの製作者であり、母であり、そして恋人のようでもあった女性。

 彼女が最後に浮かべた笑顔の記憶。そこに伴う、胸が張り裂けそうなほどの愛おしさと、二度と会えないという絶望的な喪失感。それさえも、光となってシスへと流れていく。

 (ああ、レナ……)

 心の中でその名を呼ぶが、その声に込められた熱は、瞬く間に冷めていった。

 大切な記憶であることに変わりはない。彼女が誰で、自分にとってどういう存在だったかという「事実」は残る。だが、その記憶を想起した時に湧き上がる、涙が出るほどの感情の揺らぎだけが、綺麗に削ぎ落とされていく。


 やがて、光の帯が細くなり、ふつりと途切れた。


 闇の海に、再び静寂が戻る。

 サイラスはゆっくりと目を開けた。

 その瞳は、先ほどまでの旅人のような活気ある光を少しだけ失い、どこか深淵を覗き込むような、静かで凪いだ色をしていた。

 体の中が、驚くほど軽い。

 そして、寒い。

 物理的な気温ではない。心の芯にあった焚き火が消え、冷たい風が吹き抜けているような空虚感。直前までシスに語って聞かせていた旅の土産話――とある村の収穫祭で踊った時の高揚感――を思い出そうとしたが、それはまるで他人が書いた記録文書を読んでいるかのように、平坦で無機質な情報としてしか再生されなかった。

 楽しかった、という事実は覚えている。

 だが、今のサイラスはもう、その時の楽しさを追体験して笑うことはできない。


 一抹の寂しさが、胸をかすめた。

 毎回のことだ。

 自分の人生の一部を切り取って捨ててしまったような、取り返しのつかない喪失感。だが、それもすぐに薄れていく。感情を失ったことに対する感情さえも、今の彼には希薄だった。


『……受け取ったよ』


 頭の中に直接響くような、重厚で、それでいて慈愛に満ちた声が聞こえた。シスのテレパシーだ。

 巨大なクジラが、わずかに身じろぎをする。それだけで仮想の海面に波紋が広がり、光の粒が舞い散った。


『また、いろいろなことを経験したね。喜びも、悲しみも、理不尽な怒りも。人間とは、これほどまでに脆く、傷つきやすく、それでいて本当に逞しいものだ』


 シスの言葉には、サイラスが手放したばかりの感情の余韻が含まれていた。彼はそれらを自身の膨大なデータベース「アカシックレコード」の一部として格納し、永遠に保存する。

 サイラスは口元を緩め、苦笑いを浮かべた。その表情には、達観した老人のような静けさと、青年の持つ純粋さが同居していた。


「みんな、必死なんだよ、シス」


 サイラスの声は、静寂の空間によく通った。

「千年前も、今も、そこは変わらない。魔法が使えなくなっても、蒸気機関がうるさくても、みんな今日を生きるために必死で、誰かを愛して、何かを守ろうとしてる。……滑稽なほどにね」


 そう語るサイラスの言葉には、かつてのような熱っぽい共感はない。ただ、事実を淡々と述べる観察者の響きがあった。

 それでも、彼の言葉が冷たく聞こえないのは、その根底に人間という種への深い肯定があるからだろう。感情はリセットされても、彼が長い旅路で培ってきた人格の根幹までは消え去らない。


『そうか。……君にとっては、それが救いでもあるのか』


 シスは大きな瞳をサイラスに向けた。物理的な視線ではないが、見透かされているような感覚がある。

 サイラスは肩をすくめた。

「どうだろうね。ただ、こうして君に預かってもらえなければ、僕はとっくに狂っていたと思うよ。千年分の悲しみなんて、一人の人間の器で抱えきれるものじゃない」

「そうだな」と、シスが同意の念を送ってくる。「忘却は、生命に与えられた慈悲だ。だが君は忘れることができない体で作られた。だから私が、君の忘却の代わりになろう」


 それは、千年前に交わされた契約であり、二人の間に流れる奇妙な友情の形だった。

 サイラスは旅をし、世界を観測する。

 シスはその記憶と感情を受け取り、世界を記録する。

 彼らは互いに、亡きロレーナが遺した歯車の一部として、悠久の時を回し続けているのだ。


 しばしの沈黙。

 この空間には時間という概念が希薄だが、サイラスの体内時計は正確に現世の時を刻んでいる。そろそろ朝になる。戻らなければならない。

 サイラスは旅の途中で借りた宿屋の一室から、このシスの異空間に転移していた。個室とはいえ、なるべく人々の活動が活発になる前に部屋に戻っておきたい。

『もう、行くのかい?』


 シスの問いかけは、少しだけ寂しげに響いた。

 この巨大なクジラにとって、サイラスが訪れるこの時間は、永遠に近い孤独の中での唯一の気晴らしであり、茶飲み話のようなものだ。

 サイラスは一度大きく息を吐き、足元の見えない地面を踏みしめた。念のためにと持ってきていた旅の荷物――背負い袋を手にして重みを確かめるように、肩を揺らす。


「行くよ」


 顔を上げ、サイラスは笑った。

 先ほどの苦笑いではない。もっと晴れやかな、旅立ちの朝にふさわしい笑顔だった。

「まだまだ見て回りたいところがいっぱいあるんだ。西の大陸の新しい蒸気鉄道も気になるし、東の島国では面白い料理が発明されたって噂も聞いた。同じ場所でも、時がたてばまた違って見える。旅の行先は尽きないよ」


 それは自分自身への言い聞かせでもあった。

 感情を失い、空っぽになった心に、新たな好奇心という燃料を注ぎ込む。そうやって彼は、明日へと足を踏み出すのだ。

 ロレーナとの約束。「世界を見て回る」こと。

 その約束が果たされる日がいつ来るのか、あるいは永遠に来ないのかは分からない。だが、歩みを止めるわけにはいかない。


 目の前の巨大なクジラの表情は、人間には読み取れない。

 しかし、その巨体から発せられる空気は、春の日差しのように柔らかく変化した。


『そうかい。……行ってらっしゃい、サイラス』


 優しい言葉が、サイラスの魂を包み込む。

 サイラスは深く一礼した。


「行ってきます、シス」


 その言葉と共に、サイラスの輪郭が揺らぎ始めた。

 実体が霧のように薄れ、闇の海へと溶け込んでいく。

 意識が急速に浮上していく感覚。重力のない世界から、重力と摩擦と、そして熱気のある世界へ。

 数瞬の後、サイラスの姿は完全に消滅した。


 後には、広大な闇と、一頭のクジラだけが残された。

 シスはしばらくの間、サイラスが消えた空間をじっと見つめていた。その瞳の奥で、先ほど受け取ったばかりのサイラスの記憶――人間の営みの輝き――が、星々のように瞬いている。

 やがて、彼はゆっくりと身を翻した。

 巨大な尾びれが仮想の海面を叩き、音のない水しぶきを上げる。

 彼もまた、自身の役割に戻るのだ。この世界のすべてを、ただ静かに見守り続けるという、果てしない役目に。

 巨体は波紋を残して、深い情報の海へと沈んでいった。


 ***


 古びた安宿の一室に戻った瞬間、最初に感じたのは「匂い」だった。

 鼻孔をくすぐる、古い油の酸化した匂い。石炭が燃え尽きた後のすすの香り。そして、どこかで鉄が錆びていくような、独特の金属臭。

 次に「音」が飛び込んでくる。

 シューッ、と遠くで蒸気が噴き出す音。ガシャン、ガシャン、と規則正しく刻まれるピストンの駆動音。人々の喧騒、荷馬車の車輪が石畳を叩く音。

 それらは決して心地よいシンフォニーではない。かつての魔法文明時代にあった、風が奏でるような調和のとれた静寂とは対極にある、騒々しく、無骨で、耳障りなノイズだ。


 サイラスはゆっくりと目を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、宿屋の天井のシミと、窓から差し込む薄汚れた灰色の光だった。

 力が抜けた手から背負い袋が転がり-ドサッ-とベッドから落ちた。

 体を起こし、古びたベッドの軋みを聞きながら、大きく伸びをする。

 関節がパキパキと鳴る。指先を握りしめ、血液が巡る感覚を確かめる。

 生きている。

 この不格好で、騒々しい世界で、今日もまた生きている。


 サイラスは窓辺に歩み寄り、煤けたガラス越しに外の景色を見下ろした。

 そこには、かつて「魔法」と呼ばれた奇跡が失われた世界の姿があった。


 惑星ヴェイパリス。

 千年前、この星はマナの光に満ちていた。空はどこまでも青く、人々は詠唱ひとつで火を灯し、風を操り、傷を癒やした。魔法使いは尊敬を集め、文明は優雅さと美しさを極めていた。

 だが、その輝きは永遠ではなかった。

 魔法使いの出生率低下、魔力の枯渇、そして起死回生を狙った「人工魔法使い計画」と「魔核生物実験」の暴走。

 それらが引き金となり、魔法文明は崩壊した。

 世界は一度、魔獣という名の異形の生物たちに蹂躙され、闇に沈んだ。


 しかし、人間はしぶとかった。

 サイラスが窓から見下ろす街並みは、その「しぶとさ」の象徴だ。


 レンガ造りの建物の隙間を縫うように、無数の真鍮しんちゅうのパイプが張り巡らされている。パイプの継ぎ目からは常に白い蒸気が漏れ出し、街全体を薄い霧のように覆っている。

 空を見上げれば、巨大な飛行船が重低音を響かせて横切っていくのが見えた。

 かつてのように風の魔法の力で優雅に飛ぶのではない。巨大なガス袋と、側面に取り付けられた無骨なプロペラ、そして船体後部から黒煙を吐き出す蒸気エンジンによって、大気を無理やり押しのけて進む「雲上の豪華客船」だ。

 その動力源となっているのは、かつて世界を滅ぼしかけた魔獣から奪い取った心臓――「魔核マカク」や大気中の真空エネルギーを圧縮して利用する蒸気機関技術のハイブリッド。


 スチームパンク。

 あるいは、魔導蒸気文明。

 それが、今のこの世界の形だった。


「……おはよう、ヴェイパリス」


 サイラスは低く呟いた。

 窓ガラスに映る自分の顔を見る。二五歳前後の、若々しい青年の顔。だがその瞳の奥には、千年の歴史を見つめてきた老人のような色が沈んでいる。

 心の中は、シスに感情を預けたばかりで、しんと静まり返っていた。

 ロレーナが生きていたら、この景色を見て何と言うだろうか。

 『なんて汚くて、うるさくて、素敵なのかしら!』と目を輝かせるかもしれない。彼女はいつだって、生命の必死な営みを愛していたから。

 あるいは、『私の魔法理論が、こんな風に使われるなんてね』と頬を膨らませるかもしれない。


 ふと、胸の奥に小さな痛みが走った。

 感情は預けたはずなのに、ロレーナのことを考えると、体の方が勝手に反応するらしい。それは記憶というより、魂に刻まれた傷跡のようなものなのかもしれない。

 サイラスは苦笑し、首を振って感傷を追い払った。


 彼は部屋の隅に置いてあった革製のバックパックを手に取った。中には、数日分の保存食と水、着替え、そして護身用の大型ナイフと、いくつかのスチーム・ガジェットが入っている。

 魔法が使えない「人工魔法使い」の彼にとって、これらは命綱だ。

 バックパックを背負い、ベルトを締める。

 その重みが、彼を現実に繋ぎ止めるいかりとなる。


「さて」


 サイラスは扉に手をかけた。

 一歩外に出れば、そこには煤と蒸気にまみれた日常が待っている。

 ギルスのために働く人々、路地裏でたむろするゴロツキ、市場で声を張り上げる商人、そして荒野を徘徊する魔獣の脅威。

 美しくはない。洗練されてもいない。

 だが、そこには確かな熱がある。


 サイラスは扉を開けた。

 廊下の向こうから、一階の酒場のざわめきと、誰かが奏でる調律の狂ったピアノの音が聞こえてきた。

 新しい旅が、また始まる。



【握りしめたギルスと、オイルの匂い】


 煤と油の匂いが、鼻腔の奥までこびりついている。

 宿屋の扉を開け放ち、一歩通りへ踏み出したサイラスを迎えたのは、視界を白く染める蒸気の幕と、鼓膜を震わせる轟音だった。

 シュゴォォォ……ッ! と、路上に張り巡らされた真鍮のパイプから、逃げ場を求めた余剰蒸気が噴き出す。

 ガシャン、ガシャン、ガシャン。

 街の心臓が早鐘を打つように、至る所でピストンが往復運動を繰り返している。それは生命の鼓動というよりは、巨大な機械時計の秒針が、無機質に時間を削り取っていく音に似ていた。


 ここはエーテルガルド連邦の辺境都市、バレストル。

 かつては静かな鉱山町だったと聞くが、今やその面影はない。連邦政府が推し進める「対魔獣防衛線」の一翼を担う兵器工場が誘致され、街全体がひとつの巨大な機関室へと変貌を遂げていた。


 サイラスはあふれ出る蒸気を手で払い、灰色の空を見上げた。

 太陽は厚いスモッグの彼方にあり、ただぼんやりとした白い光源として存在しているだけだ。

「……眩しくはないな」

 呟き、目を細める。

 つい先刻まで滞在していた「シス」の領域――あの静謐で、どこまでも透き通った闇の海を思い出す。そこには音も、重力も、そして痛みもなかった。

 だが、ここにはすべてがある。

 肌にまとわりつく湿気。肺を汚す煤煙。そして、生きるために必要な「金」という名の重力。


 サイラスは革のジャケットのポケットを探り、数枚の紙幣を取り出した。

 エーテルガルド連邦が発行する共通通貨、GSNグローバル・スチーム・ノート。通称「ギルス」。

 薄汚れた紙幣の中央には、透かしの代わりに極薄の金属箔で作られた「歯車」が埋め込まれている。アイゼン・ギルド連邦の職人が手掛けたというその超精密歯車は、光にかざすと複雑な噛み合わせを浮かび上がらせ、偽造防止の役割を果たしていた。

 手元にあるのは、五ギルス紙幣が二枚と、一ギルス紙幣が三枚。しめて十三ギルス。

 この街で安宿に泊まり、合成保存食を齧るだけなら数日は持つ。だが、旅を続けるために乗ることになる定期飛行船のチケットを買うには、桁が一つ足りない。

「腹も減ったし、懐も寒い。……生きるというのは、いつだって燃費が悪いな」

 サイラスは苦笑し、紙幣を再びポケットにねじ込んだ。

 胸の奥、心臓の位置にある魔核が、大気中のマナを吸って微かに脈打つ。彼の肉体は食事を摂らずとも活動を続けられるように設計されているが、空腹感という信号までは遮断できない。それに、人間社会に溶け込んで生きる以上、「食事」という儀式は不可欠だった。


 人波をかき分け、大通りを歩く。

 行き交う人々は皆、同じような目をしていた。

 忙しなく、何かに追われるように早足で、視線は常に前方か、あるいは腕時計の文字盤に向けられている。彼らの着ている服は実用一点張りで、油の染みが勲章のように張り付いていた。

 魔法文明の時代、人々はもっと空を見ていた気がする。風の色や、雲の形に一喜一憂していた。

 だが今の彼らが気にするのは、気圧計の数値と、ボイラーの圧力計だけだ。

(それもまた、逞しさの一つの形か)

 サイラスはそう結論づけ、目的の場所へと足を向けた。

 通りの角にある、一際大きな蒸気排気塔を備えた建物。看板には、錆びついた鉄板に『錆びたピストン亭』とだけ記されている。

 労働者たちが昼夜を問わず集まり、安酒と情報を交換する場所。そして、荒事専門の求人が集まる場所でもある。


 重い木製の扉を押し開けると、熱気と騒音が津波のように押し寄せてきた。

 店内は、仕事明けの工員や、流れの傭兵たちでごった返している。天井には無骨な配管が這い回り、そこから吊り下げられたガスランプが、紫煙の漂う空間を頼りなく照らしていた。

「おい、そこのバルブ! 圧が足りねえぞ!」

「規定値まであと〇・三! これ以上開けるとシリンダーが飛ぶ!」

「構わん、回せ! 停止ストールさせるよりマシだ!」

 飛び交っているのは、この世界の共通言語「スチーム・リンガ(工学共通語)」だ。

 感情を排し、事実と数値を伝達することに特化した、無機質な言葉の羅列。まるで人間そのものが機械の部品になったかのような会話だが、彼らにとってはこれが日常であり、信頼の証なのだろう。

 サイラスはカウンターの端、空いている席に滑り込んだ。

 カウンターの中では、禿げ上がった頭にゴーグルを乗せた初老の店主が、手動のポンプ式サーバーを操作してビールを注いでいる。

「注文は」

 店主はサイラスの顔を見ずに言った。

「ロットガット(混ぜ物)じゃないウイスキーを一杯。それと、何か腹に溜まるものを。……なるべく安くて、温かいやつがいい」

「なら『スチーム・パティ』だ。今日の肉は合成じゃねえぞ、昨日の朝に絞めたバイソンだ」

「豪勢だな。じゃあ、それを」

 店主は無言で頷き、奥の厨房へとオーダーを通した。

 数分後、ドン、と音を立ててショットグラスと皿が置かれる。

 ウイスキーは常温で、色は透明に近い。皿の上には、蒸気で加熱圧縮された肉塊が鎮座している。焼き目はなく、全体的に灰色がかっていたが、肉汁の匂いは悪くない。

 サイラスはナイフでパティを切り分け、口に運んだ。

 固い。そして、塩味が強い。

 肉の繊維を噛み締めながら、サイラスは記憶の糸を手繰り寄せようとした。

 かつて、ロレーナと共に食べた料理の味。

 北の凍土で食べたシチュー。雨上がりの草原で焼いた肉。

 ――思い出せない。

 事実は覚えている。「美味しかった」という情報も脳内にある。だが、舌の上でとろけるような感覚や、その時に胸を満たした幸福感は、きれいに消失していた。

 それらはすべて、光の粒子となってシスのデータベースへと格納されたのだ。

(……味気ないな)

 サイラスはウイスキーで肉を流し込み、小さく息を吐いた。

 感情を捨てることは、生きながらえるための処世術だ。千年という時を、狂わずに生きるための代償。分かってはいるが、空になった心の器に、この無骨な料理と騒音を注ぎ込む作業は、いつだって少しだけ寂しい。


「……でよ、聞いたか? 工場の『搬入口C』の話」

 隣の席から、声を潜めた会話が聞こえてきた。

 作業服を着た男たちが、顔を寄せ合って深刻そうに話し込んでいる。

「ああ。昨日の深夜だろ? 黒塗りの装甲車が入っていったって噂だ」

「ただの資材じゃねえよ。検問の奴らが、ガイガー・カウンターみたいな魔力測定器を持って走り回ってたそうだ」

「おいおい、まさか……」

「『魔核マカク』だよ。それも、とびきり純度の高いやつだ」

 サイラスの手が止まる。

 魔核。

 この世界において、最強にして最悪のエネルギー源。

 エーテルガルド連邦は表向き、魔核の使用を制限し、クリーンな蒸気エネルギーへの転換を謳っている。だが、それはあくまで建前だ。軍事兵器の心臓部や、高出力が必要な大型機械には、依然として魔核が使われている。

 特に、この街にあるような兵器工場では。

「馬鹿野郎、声がでかい」

 連れの男が慌てて口を塞ごうとするが、最初の男は興奮気味に続けた。

「しかもよ、正規のルートじゃねえらしい。封印処理が甘いまま運び込まれたせいで、漏れ出たマナが排気ダクトから街の外へ流れてるって話だ」

「マナ漏れだって? 冗談じゃねえぞ。そんなことしたら……」

「ああ。鼻の利く連中が寄ってくる」


 その時だった。

 ウゥゥゥゥゥゥ――ッ!!

 不快な金属音を伴うサイレンが、街中に響き渡った。

 酒場の喧騒が一瞬で凍りつく。

 それは火災の報せではない。蒸気機関の暴走を告げる警報でもない。

 この世界で生きる者なら誰もが知っている、最も聞きたくない音。

 ――魔獣襲来警報。


「クソッ、やっぱりか!」

 誰かが叫び、椅子を蹴倒して立ち上がった。

 同時に、酒場の扉が乱暴に開け放たれる。

「おい! 手持ちの武器がある奴は表へ出ろ! 手が足りねえ!」

 飛び込んできたのは、街の自警団員だった。顔面は蒼白で、肩にかけた旧式のスチーム・ライフルがガタガタと震えている。

「何が来た! ゴブリンか!?」

 客の一人が怒鳴り返す。

 自警団員は、絶望を吐き出すように叫んだ。

「ウェアウルフだ! それも群れだ! 工場の北側、廃棄区画から突破された!」


 ウェアウルフ。

 魔獣危険度ランクC、野生級。

 単体でも強化外骨格を装備した兵士が苦戦する相手だ。強靭な筋肉と、鋭利な爪。そして何よりリーダー個体がいた場合、統率のとれた連携で狩りを行う。

 それが、群れで。

「工場の警備隊は何をしてやがる! あいつらには最新の重機関銃があるだろうが!」

「工場長が門を閉ざしたんだよ! 『重要機密を守るのが最優先だ』ってな! 工場の中に立てこもって、街の方へ流れてくる魔獣を無視してやがる!」

「あの守銭奴どもが……ッ!」

 罵声が飛び交う中、男たちは次々と立ち上がった。

 彼らは兵士ではない。日々の糧を得るために働く、ただの工員や荒くれ者だ。だが、この街には彼らの家族がいる。守るべき日常がある。

 恐怖に顔を引きつらせながらも、彼らは腰のレンチを握りしめ、あるいは隠し持っていた拳銃を取り出し、出口へと殺到していく。


 その狂乱の中で、サイラスだけが静かに残りのウイスキーを煽っていた。

 苦く荒々しい液体が喉を通り過ぎていく。

 彼は部外者だ。旅人であり、ただの通りすがり。

 トイレにでもこもってから、シスの異空間に転移してやり過ごすこともできる。たとえ、戻ってくるときに建物がなくなっていても、サイラス自身は転移した状態、態勢で戻ることができるのだから。

(……なのに、どうして体は熱くなるんだろうな)

 サイラスは自身の胸に手を当てた。

 ドクン、と魔核が強く脈打っている。

 街の外から漂ってくる濃厚なマナの気配に、共鳴しているのだ。

 同族嫌悪か、あるいは本能的な闘争心か。

 いや、違う。

 脳裏に、シスの言葉が蘇る。

『人間とは、これほどまでに脆く、傷つきやすく、それでいて本当に逞しいものだ』

 そして、ロレーナの笑顔。

『いつか一緒に世界を見て回りたいわね、サイラス。そして、私に教えて。あなたがどんなふうに世界を見て、何を感じたのかを』


 彼女が愛した人間たち。

 必死に、泥臭く、不格好に生きる彼らを見捨てることは、サイラスの「旅」の定義には含まれていない。

「はぁ……まぁ、やるけどね」

 サイラスは空になったショットグラスをカウンターに置き、立ち上がった。

 椅子に掛けていたバックパックから、愛用の装備を取り出す。

 左腕に装着するのは、アイゼン・ギルド製の無骨なガントレット。真鍮と鋼鉄で編まれたその篭手は、肘の部分に小型の圧縮蒸気タンクを備えている。

 ベルトを締め上げ、指を動かす。

 シュッ、と微かな排気音と共に、鋼鉄の拳が握り込まれた。

 腰の後ろには、刃渡り三十センチのナックルガード付き大型サバイバルナイフ。その重みが、彼に戦いの始まりを告げていた。


「おい、あんた」

 カウンターの奥から、店主が声をかけてきた。

 見れば、その手にはショットガンが握られている。

「逃げねえのか。旅人風情が首突っ込むような話じゃねえぞ」

 サイラスは振り返り、ニカっと笑った。

 それは千年の時を生きた老人の笑みではなく、冒険に胸を躍らせる青年の笑顔だった。

「僕なら慣れてるよ。旅にトラブルはつきものだからね。それに、逃げられる保障なんてないでしょ」

「……ふん、物好きめ」

 店主は鼻を鳴らし、カウンターの下から小さな布袋を放り投げた。

 サイラスが片手で受け取ると、中にはジャラジャラと重い音がした。散弾の予備弾薬か、あるいは――。

「手付だ。生きて戻ったら、もう一杯奢ってやる」

「そいつはありがたい。純度の高いウイスキーを頼むよ」


 サイラスは袋をポケットにねじ込み、喧騒の渦巻く通りへと駆け出した。

 外気は先ほどよりも冷たく、そして生臭くなっていた。

 オイルと蒸気の匂いに混じって、獣の体臭と、鉄錆のような血の匂いが漂ってくる。

 遠くで、悲鳴と銃声が弾けた。

 スチーム・ライフルの乾いた発砲音が、断続的に響く。だが、すぐに野太い咆哮にかき消される。

 サイラスは風向きを読み、最短距離で戦場へと走った。

 身体能力強化の魔法は使えない。

 空を飛ぶことも、炎を放つこともできない。

 彼にあるのは、頑丈な体と、少しばかり長い人生経験、そして人間という種への、お節介なほどの愛着だけだ。


 通りの向こう、黒煙の上がるバリケードの影に、巨大な影が躍り出た。

 全長二メートルを超える、毛むくじゃらの巨躯。

 赤く充血した瞳が、獲物を求めてギョロリと動く。

 ウェアウルフ。

 その口元からは、涎と共に、青白い燐光が漏れ出していた。

 高濃度のマナに酔い、変異を起こしかけている。通常個体よりも凶暴で、厄介な相手だ。

「グルルルゥゥ……ッ!」

 魔獣がサイラスに気づき、低い唸り声を上げる。

 サイラスは立ち止まり、ゆっくりと左手のガントレットを構えた。

 タンクのバルブを全開にする。

 キィィィィン……と、高圧蒸気がタービンを回す甲高い音が鳴り響く。

「ご挨拶だな」

 サイラスは低く呟き、地面を蹴った。

「悪いが、通行料ギルスは持ち合わせがないんだ。体で払わせてもらうよ!」


 鋼鉄の拳と、魔獣の爪が交錯する。

 バレストルの灰色の空の下、新たな戦いの幕が上がった。



【魔核の拍動、あるいは死なない失敗作】


街を覆う鉛色の空気が、悲鳴と銃声によって引き裂かれた。


 バレストルの夜は、普段なら蒸気機関の低い唸りと、居酒屋から漏れる酔客の笑い声に支配されている。だが今、その平穏は鉄と血の臭いにかき消されていた。

「撃て! 撃ち続けろ! 奴らを中に入れるな!」

 バリケードとして積み上げられた廃材の山の上で、自警団の分隊長が声を枯らして叫んでいる。彼の持つセミオート・スチームライフルが、ガシュン、ガシュンと規則的な排気音を立てて鉛弾を吐き出す。銃身の下部に取り付けられた小型ボイラーが赤熱し、過剰な圧力が白い蒸気となって夜闇に噴き上がっていた。


 工場の北側、廃棄区画から溢れ出した黒い影の群れ――ウェアウルフたちが、その弾幕の中を縫うように疾走する。

 彼らは四足歩行の獣の姿から、瞬時に二足歩行の戦闘形態へと変化し、人間には到底不可能な跳躍力でバリケードを飛び越えていく。

「ひっ、速すぎる......! 照準が追いつかねえ!」

 若い団員の絶叫と共に、一頭のウェアウルフが防衛線の内側に着地した。その爪は鋼鉄をも容易く切り裂く鋭さを持ち、全身の毛並みは工場の排液と油で濡れて黒光りしている。口から滴る唾液には、明らかに自然界のものではない青白い燐光が混じっていた。


 マナ汚染。

 高濃度の魔力に曝された魔獣は、強力な力を得る代償に、通常よりも強い破壊衝動に支配された狂戦士と化す。

「グルァァァァッ!」

 咆哮一閃。若い団員がライフルごと薙ぎ払われ、石畳の上をボールのように転がった。鮮血がアスファルトに撒き散らされる。恐怖が伝染し、前線が崩れかけたその時だ。


「僕が前に出る」

 低い、だがよく通る声と共に、一陣の風が自警団員たちの間を駆け抜けた。

 革のジャケットをはためかせ、サイラスが飛び出す。

 彼の動きには、達人のような華麗さも、英雄のような輝きもない。ただ、無駄を極限まで削ぎ落とした、熟練工の作業のような実直さがあった。


 ウェアウルフが爪を振り下ろす軌道を見切り、サイラスは最小限の動きで懐へと潜り込む。左腕に装着された無骨な鉄塊――スチーム・ガントレットが唸りを上げた。

圧力解放パージ

 ガントレットの肘部分にあるシリンダーから、圧縮された蒸気が爆発的に噴射される。その推進力を乗せた鋼鉄の拳が、魔獣のみぞおちに深々と突き刺さった。


 ドォン!

 重い打撃音が響き、肋骨が砕ける感触が拳に伝わる。巨体がくの字に折れ曲がり、泡を吹きながら後方へと弾き飛ばされた。

「……硬いな。さすがはランクC」

 サイラスは左腕を振り、ガントレットの排熱機構を開放しながら呟く。シューッという音と共に、篭手の隙間から白い煙が立ち上る。


 魔法使いならば、指先一つで炎の槍を放ち、この程度の魔獣など灰にできただろう。あるいは、風を纏って空から一方的に攻撃することもできたはずだ。

 だが、今のサイラスにあるのは、人間が知恵と工夫で作り上げた鉄の塊と、少しばかり頑丈な自分の体だけだ。

(不便で、手間がかかって、泥臭い。……けど、僕にはこういうやり方しかできないんだ)

 倒れた魔獣が起き上がる前に、サイラスは腰の後ろからサバイバルナイフを引き抜いた。アイゼン・ギルド製の炭素鋼ブレード。刃渡り三十センチのそれは、武器というよりは工具に近い重厚さを持っている。

 彼は躊躇なく魔獣の頸動脈を断ち切る。続いて心臓付近に突き刺し、魔核を砕いて確実に息の根を止めた。


「す、すげえ……」

「あいつ、あの鉄拳一発でウェアウルフを……」

 自警団員たちが呆気にとられたようにサイラスを見つめる。だが、安堵している時間はなかった。バリケードの向こうから、先ほどの個体とは比べ物にならないほどの威圧感が押し寄せてきたからだ。


 周囲の空気が、ビリビリと肌を刺すような静電気を帯びる。スチーム・ライフルの照準器に使われているガラスレンズが、共鳴音を立てて微細なひび割れを起こす。

 濃厚なマナの気配。サイラスの胸の奥、心臓の位置に埋め込まれた魔核が、ドクンと強く脈打つ。

「来るぞ! 散開しろ!」

 サイラスの警告と同時だった。積み上げられた廃材の山が、内側から爆発したかのように吹き飛んだ。


 舞い上がる木片と粉塵の中、悠然と姿を現したのは、全長二メートルを優に超える巨躯のウェアウルフだった。

 リーダー個体。その全身は筋肉が異常なほど肥大化し、灰色の体毛の隙間からは、血管のように脈打つ青い発光体が透けて見えている。瞳は知性すら感じさせるほどに赤く澄んでおり、その視線は明確に「敵」を見定めていた。

「グルルルルゥ……」

 喉の奥で鳴らす低い唸り声だけで、周囲の自警団員たちが恐怖に足をすくませる。生物としての格が違う。こいつは単なる魔獣ではない。高ランクの魔核にあてられ、進化の階段を無理やり駆け上がった異形だ。


「撃てッ! 近づけるな!」

 誰かの叫び声と共に、一斉射撃が始まった。無数の鉛弾がリーダー個体に殺到する。

 だが、その怪物は避けることすらしなかった。皮膚の表面に薄く展開されたマナの膜――簡易的な魔力障壁が、弾丸を弾き飛ばしていく。あるいは皮膚に着弾しても、鋼のような筋肉に阻まれて致命傷には至らない。

「魔法障壁持ちか。厄介だな」

 サイラスは舌打ちし、ナイフを逆手に持ち替えた。スチーム・ライフル程度の物理攻撃では、あの障壁を貫くのに時間がかかりすぎる。その間に、この場にいる人間は挽肉に変えられるだろう。

 やるしかない。サイラスは地面を蹴った。


 彼が動いた瞬間、リーダー個体も反応した。

 巨体に見合わぬ恐るべき瞬発力。残像すら残る速度で、サイラスの目の前に迫る。

「ッ!」

 サイラスは反射的にガントレットを掲げ、防御の姿勢を取る。金属音と火花。リーダーの爪がガントレットの装甲を削り取り、強烈な衝撃がサイラスの骨格を軋ませる。

 重い。まるで走ってきた蒸気機関車と正面衝突したような圧力だ。サイラスの足が地面を削り、後方へと滑る。


 追撃は止まない。左右からの連撃、そして噛みつき。サイラスは紙一重でそれらを躱し、受け流す。ガントレットの蒸気噴射を利用して体を回転させ、遠心力を乗せた蹴りを放つが、魔獣の太い腕で容易く防がれる。

(速いし、賢い。こちらの動きを学習している)

 攻防の最中、サイラスは冷静に分析していた。千年の旅の中で、彼は数え切れないほどの戦場を潜り抜けてきた。ドラゴンから逃げ回ったこともあるし、古代遺跡のガーディアンと知恵比べをしたこともある。その経験則が告げている。このまま真っ向勝負を続けても、ジリ貧だと。

 身体能力強化の魔法が使えないサイラスでは、純粋なスペック勝負でこの怪物には勝てない。


「なら、賭けに出るしかないか」

 サイラスの瞳から、迷いの色が消える。彼はあえて、防御の構えを解いた。

 わずかな隙。だが、野生の本能と魔獣の凶暴性を併せ持つリーダー個体が、それを見逃すはずがなかった。

「ガアアアァッ!」

 勝利を確信した魔獣が、最大の一撃を放つ。右腕を大きく振りかぶり、五本の爪が槍のように突き出される。

 サイラスは避けない。避ければ、背後にいる自警団員たちが餌食になるという理由もあったが、それ以上に、これが唯一の勝機だったからだ。


 ドスッ、という鈍く湿った音が響いた。

「が、はっ……」

 サイラスの口から、どす黒い血が吐き出される。

 魔獣の鋭利な爪が、サイラスの腹部を深々と貫いていた。革のジャケットも、その下のシャツも、鍛え上げられた腹筋も、すべてを紙切れのように引き裂き、内臓に至るまで蹂躙する致命の一撃。

「おい、嘘だろ……!」

「旅人さん!」

 背後で誰かが絶叫した。誰もがサイラスの死を確信した瞬間だった。

 魔獣の赤い瞳に、嗜虐的な喜びの色が浮かぶ。獲物の命が消える瞬間を味わうように、爪をさらに深くねじ込もうとした、その時。


 バチリ、と青白い火花が散った。

 それは、魔獣の爪からではない。サイラスの傷口からだった。


 ドクンッ!!

 戦場の騒音を塗りつぶすような、重く、力強い鼓動音が響き渡る。それは生物の心臓の音というよりは、巨大なエンジンの始動音に似ていた。

 サイラスの胸の奥、心臓の位置にある「魔核」が、臨界点を超えて回転を始める。大気中に漂うマナが、渦を巻いてサイラスの体へと吸い込まれていく。魔獣達から漏れ出した高濃度のマナさえも、燃料として貪欲に飲み込んでいく。


「生きる力を――死を拒む力を、ひねり出せ」

 血に濡れた唇で、サイラスは無機質に呟いた。

 傷口から溢れ出していた鮮血が、逆再生するように体内へと戻っていくのではない。傷の断面から、無数の光の繊維が飛び出し、バチバチと火花を散らしながら、強引に肉を縫い合わせていくのだ。

 切断された血管が繋がり、引き裂かれた筋肉が編み込まれ、破れた皮膚が塞がる。そこには「癒やし」という言葉から連想される神聖さは微塵もない。あるのは、壊れた機械を溶接で無理やり修理するような、荒々しく、そして冒涜的なまでの「修復」の光景だった。


「グルッ……!?」

 魔獣が驚愕に目を見開く。

 手応えがあったはずの獲物が、自分の腕を貫かれたまま、死ぬどころか凄まじい熱量を発して再生しているのだ。生物としての本能が、目の前の存在に対する根源的な恐怖を感じ取った。

 こいつは人間ではない。人間の形をした、別のナニカだ。


 魔獣が慌てて腕を引き抜こうとする。だが、遅い。再生したサイラスの腹筋が、万力のように魔獣の腕を締め付けていた。

「逃がさないよ」

 サイラスは血にまみれた顔で、ニヤリと笑った。その笑顔は、どこか壊れていて、けれどどうしようもなく人間臭い、皮肉に満ちたものだった。

「さあ、お返しだ」

 左手のガントレットが、悲鳴のような蒸気音を上げる。タンク内の圧力が限界を超え、安全弁が弾け飛ぶ。サイラスは魔獣の腕を自らの腹で固定したまま、至近距離から左拳を振り上げた。


「吹き飛べッ!」

 轟音。圧縮された蒸気の爆発と共に、鋼鉄の拳が魔獣の下顎をカチ上げた。

 骨の砕ける不快な音が響き、魔獣の頭が大きくのけぞる。強靭な首の筋肉が伸びきり、胸部が無防備にさらけ出された。

 その瞬間を、サイラスは待っていた。

 右手に握りしめたサバイバルナイフ。その切っ先を、魔獣の左胸、心臓の鼓動が聞こえる一点に合わせる。


「そこにあるんだろう? 大事なモノが」

 ためらいはない。サイラスは体重のすべてを乗せて、ナイフを突き立てた。

 分厚い筋肉を裂き、肋骨の隙間を滑り込み、その奥にある硬質な核へと到達する。ガチリ、という硬い感触。

「ガッ、ア、ガアアアアアッ!」

 魔獣が断末魔の叫びを上げるが、サイラスの手は止まらない。ナイフをねじり、傷口を広げ、そのまま素手を突っ込む。高熱のマナが掌を焼くが、サイラスの再生速度がそれを上回る。指先が、熱く脈打つ結晶体を掴んだ。


「獲った!」

 気合一閃。サイラスは腕を引き抜き、魔獣の体内からその動力源――「魔核」を強引に抉り出した。ブチブチと血管や神経が千切れる音と共に、子供の拳大の赤い結晶が夜気に晒される。


 魔獣の動きが、糸の切れた人形のように停止した。

 赤い瞳から光が消え、巨体はゆっくりと、地響きを立てて崩れ落ちた。

 あとには、荒い息を吐くサイラスと、静寂だけが残された。リーダーを失ったことで統率を失ったウェアウルフの群れは、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げ去っていく。遠くで工場のサイレンが、事態の収束を告げるように鳴り始めた。


「ふゥ……」

 サイラスは大きく息を吐き、手の中にある魔核を眺めた。歪な形をした結晶は、まだ微かに温かい。

 彼はそれを無造作にポケットに突っ込み、腹部の傷を確認した。服はボロボロに裂けて血まみれだが、その下の皮膚には傷一つ残っていない。ただ、空腹感と急激な再生に伴う高熱で、周囲の皮膚が赤く火照り、白い蒸気を上げているだけだ。

「……終わったよ。怪我人は?」

 サイラスは振り返り、自警団員たちに声をかけた。だが、返ってきたのは歓声でも感謝の言葉でもなかった。


 沈黙。そして、畏怖。


 男たちは、スチーム・ライフルを下ろすことも忘れ、呆然とサイラスを見つめていた。その視線は、街を救った英雄に向けるものではない。腹を食い破られても死なず、傷口から火花を散らして再生し、素手で魔獣の心臓を抉り出した「化け物」を見る目だった。

「あんた……一体……」

 分隊長が震える声で呟く。その瞳には、明確な恐怖が宿っていた。

 人間離れした再生能力。それは、この科学と蒸気の時代において、もっとも忌避される「得体の知れない力」だ。魔獣と同じ、あるいはそれ以上に異質な存在。


 サイラスは苦笑し、破れたジャケットの裾で顔の血を拭った。

 この反応には慣れている。千年間、何度も繰り返されてきたことだ。人々を守るために力を振るえば、その力がまた人々を遠ざける。それは「人工魔法使い」として作られた彼の、逃れられない宿命のようなものだった。

「ただの通りすがりの便利屋さ。ちょっとばかり、頑丈なだけのね」

 サイラスは肩をすくめ、彼らの視線から逃げるように背を向けた。

 足元には、鉄と油と血の混じった黒い液体が溜まり、街灯の光を鈍く反射している。腹の傷は塞がったが、胸の奥には、ちくりとした小さな痛みが残っていた。それは再生能力でも癒やせない、古びた傷跡のような痛みだった。


「さて……報酬分は働いたな」

 誰に言うでもなく呟き、サイラスは蒸気の晴れない夜の街へと足を向けた。その背中は、騒乱の熱気が冷めていく中で、ひどく孤独に見えた。



【記憶のおり、記録の重み】


 騒乱の熱が引いていくのと反比例するように、街には日常の喧騒が戻り始めていた。

 シュゴォォォ……プシュッ。ガシャン、ガシャン、ガシャン。

 無機質で、しかし心臓の鼓動のように正確なリズム。バレストルの街中に張り巡らされた無数の真鍮パイプの中を、高圧蒸気が駆け巡る音だ。それはつい先刻まで響いていた魔獣の咆哮や悲鳴、銃声を塗り潰し、何事もなかったかのように夜の空気を支配していく。

 蒸気機関は止まらない。たとえ街の一角で命のやり取りがあろうとも、ピストンは往復し、歯車は噛み合い、エネルギーを消費し続ける。それがこの「蒸気機関の時代」のルールだった。


 サイラスは、瓦礫と化したバリケードの残骸を跨ぎ、ゆっくりと息を吐いた。

 白い呼気が、煤けた夜気の中に溶けていく。

 体は鉛のように重かった。魔獣の爪によって引き裂かれた腹部は完全に塞がり、傷跡ひとつ残していないが、急速な細胞再生リジェネレーションは大量のカロリーと精神力を消費する。

 腹が減った。

 その原始的な欲求だけが、今のサイラスを突き動かす唯一の動力源だった。


「あ……」

 瓦礫の撤去作業を始めようとしていた自警団の若者が、サイラスの姿に気づいて声を上げた。

 その声色は、先ほどまでの助けを求める必死なものではない。

 若者の視線が、サイラスの腹部に吸い寄せられる。裂けた革のジャケットと、血に染まったシャツ。その隙間から覗く肌は、あまりにも滑らかで、あまりにも無傷だった。

 若者は後ずさった。恐怖と、理解の及ばないものに対する生理的な嫌悪。

 サイラスはその反応を、ガラス越しに見る景色のように淡々と受け止めた。


(ああ、そうか。怖がっているのか)


 その事実に、胸の奥がざわつくことはない。

 以前の――数時間前のサイラスであれば、苦笑いと共に「驚かせてすまない」と肩をすくめ、一抹の寂しさを感じていただろう。人間を守るために戦い、その人間に恐れられるという矛盾。千年の旅の中で繰り返されてきたその光景に、慣れながらも傷ついていたはずだ。

 だが、今は違う。

 つい先ほど、シスに「それ」を預けたからだ。

 寂しさも、悲しみも、やるせなさも。すべては光の粒子となって、空に浮かぶクジラのデータベースへと格納された。

 だから今のサイラスにあるのは、純粋な観察眼だけだ。

 人間は未知のものを恐れる。それは生存本能として正しい反応だ。彼らは自分たちの理解の範疇を超える「再生能力」を目撃し、それを異物と認定した。論理的であり、生物として健全な反応だ。

 サイラスは若者の怯えた瞳を見つめ返し、学習したばかりの子供のように、頭の中で情報を整理する。

 ――この場合、僕はどういう顔をするのが正解だったかな。

 記憶領域アーカイブを検索する。過去の膨大な旅の記録。似たような状況。数千、数万の事例。

 最適解が弾き出される。「無害であることを示すための、穏やかな苦笑」。

 サイラスは顔の筋肉を操作し、口の端を少しだけ吊り上げて、目尻を下げた。

「……怪我がなくてよかったよ」

 声のトーンを調整し、優しさを込める。

 若者はヒッと短く息を呑み、逃げるように視線を逸らした。

 サイラスはそれ以上何も言わず、踵を返した。背中に突き刺さる無数の視線を感じながら、彼は重い足取りで石畳を踏みしめる。

 傷つかないということは、便利なことだ。けれど同時に、自分が世界のどこにも引っかからない幽霊になったような、奇妙な浮遊感を覚える。

 足元の水たまりに、ガス灯の頼りない光が映り込んで揺れていた。


          ***


 酒場『錆びたピストン亭』の重い木製扉を押し開けると、先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂が迎えてくれた。

 店内に残っていた客たちは、一斉にサイラスを見た。

 彼らは自警団の連中とは違い、戦場には出ていない。だが、外の騒ぎと、戻ってきたサイラスの血まみれの姿を見れば、何が起きたのかを察するのは容易だったのだろう。

 スチーム・リンガ特有の荒っぽいスラングが飛び交うこともなく、ただ蒸気配管のきしみだけが響く中、サイラスは騒動の前に座っていたカウンター席へと戻った。

 椅子に腰を下ろすと、革のバックパックがずしりと肩に食い込む。その重みだけが、自分がここに存在しているという確かな証拠だった。


 カウンターの奥で、店主がショットガンを手入れしていた。

 ゴーグル越しに見える瞳が、サイラスをじろりと一瞥する。

 彼は何も言わなかった。「大丈夫か」とも、「何があった」とも聞かない。ただ、オイルで汚れた布で銃身を拭い、それを足元の棚にしまうと、無造作に新しいグラスを取り出した。

 コトッ、と琥珀色の液体が注がれたグラスが置かれる。

 続いて、湯気を失った皿が滑るように差し出された。

「……約束だ」

 店主の声は低く、そして硬かった。

 皿の上には、灰色の塊が鎮座している。スチーム・パティ。

 騒ぎが起きる前に注文した、バイソン肉の蒸気圧縮焼きだ。放置されていた間に完全に冷めきり、表面には白く固まった脂が浮いている。

「ありがとう」

 サイラスは短く礼を言い、グラスを手に取った。

 一気に煽る。

 強いアルコールが喉を焼き、食道を滑り落ちて胃袋へと到達する。カッと熱くなる感覚。

 ――熱い。痛い。

 その感覚を、サイラスは新鮮な驚きと共に受け止める。

 味覚センサーは正常。粘膜への刺激も正常。脳が「これは強い酒だ」と認識し、それに伴って「酔い」という生理現象の予兆を検知する。

 だが、「美味い」とか「五臓六腑に染み渡る」といった感情的な評価は、すぐには湧いてこない。ただ「刺激が入力された」という事実だけが、クリアに処理されていく。

 まるで、初めて酒を飲んだ子供が、その味の意味を理解しようと分析しているような気分だ。

 サイラスは空になったグラスを置き、ナイフとフォークを手に取った。

 冷え固まったスチーム・パティに刃を入れる。ぎち、ぎち、と繊維が切れる感触が手に伝わる。

 一片を口に運ぶ。

 冷たい。そして、脂の層が舌にまとわりつく。

 塩気が強い。肉の旨味はあるが、それを覆い隠すように金属的な風味が広がる。おそらく調理器具の圧力釜の鉄分か、あるいはこの街の空気そのものの味だろうか。

 咀嚼する。顎が疲れるほどの弾力。

 飲み込む。

 腹の底に、重たい石が落ちたような感覚。


(……味気ないな)


 ふと、脳裏に浮かんだ感想を、サイラスは反芻する。

 味気ない。それは単に塩味が足りないとか、冷めているという意味ではない。

 何かが、決定的に欠落している感覚。

 サイラスはフォークを止めた。

 記憶のデータベースが自動的に検索を開始する。「食事」「温かい」「肉料理」。

 ヒットした映像が、脳裏に再生される。


 ――揺らめく炎。石組みのかまど。

 ――大鍋の中でぐつぐつと煮えるシチュー。

 ――立ち上る湯気の向こうで、白金髪の女性が振り返る。

 『サイラス、味見してみて。今度はうまくできたと思うの』

 ロレーナ・レイヴンシェイド。

 彼女がスプーンを差し出す。口に含んだ瞬間に広がる、ロックリザードの肉の濃厚な味と、香草の爽やかな香り。

 『どう?』

 『美味しいよ、レナ』

 『よかった! 魔法の火加減って難しいのよね。強すぎるとすぐ焦げちゃうし』


 鮮明な映像だ。音声もクリアで、色彩も豊かだ。

 千年という時間を経ても劣化することのない、完璧なデジタルデータ。

 だが、今のサイラスにとって、それは「他人が撮影した記録映像」を見ているのと何ら変わりがなかった。

 映像の中の「僕」は笑っている。胸が温かくなり、彼女への愛おしさで満たされている……と、記録にはある。

 けれど、現在のサイラスの胸には、その「温かさ」が再生されない。

 心臓の魔核が一定のリズムで脈打つだけだ。

 シチューが美味しかったという事実は知っている。彼女の笑顔が好きだったという事実も知っている。

 だが、その記憶を呼び起こしても、胸が締め付けられるような切なさや、涙が出そうになるほどの幸福感は、微塵も湧き上がってこない。

 なぜなら、それはもう「シス」の中にあるからだ。

 生き続けるために。狂わないために。

 積み重なり過ぎた感情に押しつぶされないように、さっきの自警団の若者のような対応に膿まないように。


 サイラスは、自分の胸に手を当てた。

 ドクン、ドクン。

 機械的で正確な鼓動。

 その鼓動が、なんだかとても空虚なものに思えた。

 空っぽの器。中身のない容れ物。

 僕は今、何を感じるべきなんだろう。

 かつて愛した人の料理を思い出して、比較対象である目の前の冷めた肉塊を食べて。

 本来なら、ここで溜息をついたり、あるいは孤独を感じて酒を煽ったりする場面なのだろう。

 サイラスは実験するように、小さく息を吐いてみた。

「はぁ……」

 演技じみた溜息。

 それによって感情が誘発されることはない。ただ肺の中の空気が入れ替わっただけだ。

 僕は、悲しくなりたいのだろうか?

 自問する。答えは出ない。

 ただ、この「分からない」という感覚だけが、妙に生々しく、今の自分に残された唯一の「感情」のような気がした。

 子供が積み木を積み上げるように、サイラスはひとつひとつ確認していく。

 冷たい肉。苦い酒。遠巻きにする人々の視線。

 それらに対する「不快」や「寂しさ」のラベルを、新しく貼り直していく作業。

 それは途方もなく面倒で、そして少しだけ、面白い。


「……食わねえのか」

 ぶっきらぼうな声に、サイラスは顔を上げた。

 店主が怪訝そうにこちらを見ている。

「いや、食べるよ。貴重なタンパク質だ」

 サイラスは努めて明るい声を出した。表情筋を操作し、人好きのする笑顔を作る。これはもう、千年の間に染み付いた反射のようなものだ。

 再び肉を口に運ぶ。

 よく噛んで、飲み込む。

 エネルギーが補給され、再生で疲弊した細胞が歓喜する微かな声が聞こえる。

 味は変わらず悪い。けれど、生きるための燃料としては上等だ。

「ごちそうさま。……助かったよ」

 皿を空にし、サイラスは立ち上がった。

 ポケットから、くしゃくしゃになった紙幣を取り出す。五ギルス紙幣と、一ギルス紙幣の束。

 魔獣のリーダーを倒した報酬は、まだ受け取っていない。自警団は混乱しているし、あの怯えきった彼らに「金をくれ」と請求するのは、今のサイラスの論理回路が「効率的ではない」と判断したからだ。

 今はただ、この場を離れたい。

 カウンターに紙幣を置こうとすると、店主の太い指がそれを制した。

「手付だと言ったはずだ」

「でも、これは酒代だろ? 飯の分は……」

「奢りだ。……とっとと失せな」

 店主は顔を背け、再びショットガンの手入れに戻ってしまった。

 その横顔には、恐怖とも嫌悪とも違う、複雑な色が浮かんでいた。おそらく彼なりに、サイラスという「異物」をどう扱うべきか葛藤し、その結果としての「奢り」なのだろう。

 それは、拒絶を含んだ感謝だった。

 もう二度と来るな、というメッセージと共に渡された施し。

 サイラスは数秒間、その背中を見つめ、それから紙幣をポケットに仕舞い込んだ。

「……ありがとう。いい店だったよ」

 嘘ではない。この無愛想な優しさは、記録する価値がある。

 サイラスはバックパックを背負い直し、店を出るために歩き出した。

 背後で、客たちが安堵の息を漏らす気配がした。


          ***


 外に出ると、夜風が少しだけ強くなっていた。

 煤とオイルの匂いは相変わらずだが、先ほどまでの血生臭さは風に流され、薄らいでいる。

 街は眠らない。工場の煙突からは絶えず黒煙が吐き出され、夜空を焦がしている。

 サイラスはジャケットの襟を立て、通りを歩き出した。

 行き先は決めていない。

 宿に戻る気にはなれなかった。あの狭いベッドの上で、天井のシミを数えながら朝を待つのは、今の「空っぽ」の状態には退屈すぎる。

 それに、街の人々の視線に晒され続けるのも、効率的な時間の使い方とは言えないだろう。

「さて……」

 サイラスは空を見上げた。

 分厚い雲とスモッグに覆われた空。星は見えない。月も見えない。

 ただ、雲の切れ間から漏れる街明かりが、空を不気味な紫色に染めている。

 その紫の海を、巨大な影が泳いでいた。

 人々が、幻影や雲として扱っている空を泳ぐクジラ。

 全長五十メートルを超えるシロナガスクジラ。

 識別名SiS-001。シス。

 今見えている彼は、異空間の本体を投影した姿だ。

 彼は悠然と、重力など存在しないかのように、蒸気が上る空を漂っている。

 その巨体には、つい先ほどサイラスが渡した記憶の光が、鱗のように微かに輝いているような気がした。

 僕が渡した感情。僕が手放した喜びや痛み。

 それらを抱えて、シスは泳ぎ続ける。永遠に。

「……重くないかい、シス」

 サイラスは誰に聞かせるでもなく呟いた。

 答えはない。シスはこちらを見ていない。彼はただの観測者であり、サイラスは地上の放浪者だ。

 けれど、その巨大な影を見上げていると、不思議と足取りが軽くなる気がした。

 僕の喜びも痛みも、今はあそこにある。

 消えてしまったわけじゃない。僕の代わりに、彼が覚えていてくれる。

 なら、僕はまた新しい記憶を積み重ねていける。

 空っぽになった器を、新しい景色と、新しい出会いと、そして新しい感情で満たすために。

 たとえその結末が、また同じような喪失と忘却であったとしても。


 サイラスはポケットの中で、冷たい数枚のギルス紙幣を握りしめた。

 指先に伝わる、精密な歯車の感触。

 それは今の彼を現実に繋ぎ止める、唯一の錨だった。

 風が吹いた。

 東から、新しい蒸気の匂いがした。

 サイラスは思いつくままに、バレストルの街の出口へと向かって歩き出した。

 夜明けはまだ遠い。だが、旅は続いていく。



【約束の空、次なる地平へ】


 バレストルの街を囲む高い煉瓦塀の向こう側、重厚な鉄扉が背後で鈍い音を立てて閉ざされた。

 金属と金属が噛み合う硬質な響きは、まるで一つの世界の終わりを告げる断絶音のように、夜明け前の冷たい空気の中へと吸い込まれていった。


 サイラスは一度だけ振り返り、巨大な蒸気機関の排気塔が林立する街の輪郭を見上げた。

 数時間前まで、そこには彼の居場所があった。酒場の喧騒があり、仕事があり、一時的ながらも仲間と呼べる男たちがいた。だが、ウェアウルフの群れとの死闘を経て、サイラスの腹部が引き裂かれ、そして瞬時に再生する様を晒した瞬間、その場所は失われた。

 畏怖、疑惑、そして生理的な拒絶。

 助けたはずの人々から向けられたそれらの視線は、刃物よりも冷たく、銃弾よりも重かった。だが、サイラスの胸中に湧き上がるのは怒りではない。千年の時を生き、幾度となく繰り返してきた別れの儀式に対する、慣れきった諦念と、わずばかりの苦笑だけだった。


「……ま、こんなものか」


 彼は革のブーツの踵で地面を叩き、居住まいを正した。

 街から伸びる街道は、踏み固められた土と砂利の道だ。街の中央を走る舗装路とは違い、ここには文明の保護色はない。街道沿いには、街へ蒸気を供給するための太い真鍮製のパイプラインが、まるで地を這う大蛇のように延々と伸びている。その継ぎ目からはシューシューと白い蒸気が漏れ出し、錆びた鉄の匂いと、荒野の乾いた土の匂いが混じり合っていた。


 サイラスは歩き出した。

 夜明けはまだ遠い。東の空はインクを流したような濃紺に沈んでいるが、街から放たれる無数のガス灯や工場の炉の光が、低く垂れ込めた雲の腹を照らし出し、空全体を不気味な、しかしどこか幻想的な紫色に染め上げている。

 紫煙の天井。

 それはかつて、ロレーナと共に見た高純度のマナが織りなすオーロラのような、魂を震わせる神秘的な輝きではない。もっと人工的で、毒々しく、けれどどうしようもなく人間の体温と欲望を感じさせる「生」の色だった。


 その紫色の海を、巨大な影が泳いでいた。


 全長五十メートルを超える、圧倒的な質量を感じさせるシロナガスクジラの幻影。

 識別名SiS-001。シス。

 もちろん、物理的にそこにいるわけではない。彼は異空間の住人であり、この世界の物理法則からは逸脱した存在だ。今、サイラスの網膜に映っているのは、彼が観測者としてこの世界に投影している影法師のようなものだ。

 それはこの世界の常識で、人々は空を見上げてもシスのことをただの雲か蜃気楼のようなものとして受け入れている。

 空にはヴェイパリスの空にはクジラが泳いでいるもの――それが常識なのだ。


 シスは悠然と、重力など存在しないかのように、蒸気が立ち上る空を漂っていた。

 その半透明の巨体には、鱗のように微細な光の粒子がまとわりつき、明滅しているようにみえた。

 あれは、つい先日、サイラスが彼に手渡した記憶の断片なのかもしれない。

 北の凍土で食べたシチューの湯気。

 整備士の少年が見せた、誇らしげな涙。

 そして、このバレストルの街で感じた、自警団の若者たちの恐怖と店主の不器用な優しさも、数十年後にはシスにわたすことになるだろう。

 それらすべてが、「感情」という熱量を伴ったデータとなって、シスの体を構成する光の一部となっているのかもしれない。


(僕が手放した痛みも、喜びも、今はあそこにある)


 サイラスは歩きながら、胸の奥、心臓の魔核が刻む律動に意識を向けた。

 かつて胸を焦がした感情の熱は、今はもうない。

 しかし、先ほどの戦闘で感じた恐怖や、傷が再生する際の不快感、人々から拒絶された時の寂しさの感情は、新たにサイラスの中に積み重なっている。

 今日からまた、どんどん感情を伴った思い出が増えていく。

 その思い出の重みに耐えられなくなる前にシスにわたす。

 それは少し切ないのだが、この永遠に近い生を歩み続けるためには、必要な処置だった。感情という重荷を背負ったままでは、千年の旅路は長すぎる。魂が摩耗し、やがては自分が何者かさえ見失ってしまうだろう。


「……重くないかい、シス」


 サイラスは誰に聞かせるでもなく、白い息と共に言葉を吐き出した。

 答えはない。シスはこちらを見ていない。彼はただの観測者であり、サイラスは地上の放浪者だ。その役割分担は、千年前に交わされた契約の通りだ。

 けれど、その巨大な影を見上げていると、不思議と足取りが軽くなる気がした。

 僕の代わりに、彼が覚えていてくれる。

 僕が忘れてしまっても、この世界に生きた証は、あの空を泳ぐクジラの中に永遠に保存される。

 ならば、僕はまた新しい記憶を積み重ねていける。

 空っぽになったこの器を、新しい景色と、新しい出会いと、そして新しい感情で満たすために。たとえその結末が、また同じような喪失と忘却であったとしても、その過程にある「生」の輝きまでは否定されないのだから。


 不意に、風が吹いた。

 街の遮蔽物がなくなったことで、荒野を吹き抜ける風が直接頬を打つ。その風には、バレストルの重たい油の匂いとは違う、どこか青臭い草の匂いと、冷たい夜露の気配が混じっていた。


(ねえ、レナ)


 サイラスは心の中で、亡き人の名を呼んだ。

 ロレーナ・レイヴンシェイド。

 千年前に死んだ、愛しい女性。彼女の記憶だけは、何度シスに預けても、決して色褪せることなくサイラスの根源に焼き付いている。あるいは、彼女への想いこそが、サイラスという存在を形作る核そのものなのかもしれない。


(君が見たら、きっと顔をしかめるだろうな)


 サイラスは苦笑を浮かべた。

 君が愛した美しい魔法は、今や煤煙にかき消されようとしている。

 君が心血を注いで研究した魔導理論は、効率化という名のメスを入れられ、無骨な鉄の塊を動かすための燃料になり下がった。

 空は汚れ、川は濁り、人々は空を見上げることを忘れて、足元の圧力計ばかりを気にしている。

 優雅さも、神秘も、ここにはない。

 かつて君が夢見た「魔法と人が調和する世界」とは、似ても似つかない歪な形だ。


(でもね、レナ。僕は思うんだ)


 サイラスは視線を、街道の先へと向けた。

 闇の向こう、地平線の彼方から、微かに蒸気機関車の汽笛が聞こえる。

 それは、魔法という恩恵ギフトを持たざる者たちが、自らの手で火を熾し、鉄を打ち、世界を切り拓こうとする産声だ。

 魔法使いが詠唱すれば済むことを、彼らは何千もの図面を引き、何万回もの失敗を重ね、油と汗にまみれて実現しようとしている。

 その姿は、不格好で、泥臭くて、騒々しいけれど――。


(今の人間たちも、なかなかどうして、面白いよ)


 世界は変わった。

 君がいた頃よりも、ずっと複雑で、厄介で、エネルギッシュな世界になった。

 魔法は煤煙に消え、愛した面影は鋼鉄のビル群に埋もれてしまったけれど。

 それでも、人々は生きている。

 君が愛した「生命の必死な営み」は、形を変えて、今もこの星のあちこちで熱を放っている。

 その熱量だけは、千年経っても変わらない。いや、むしろ不便になった分だけ、より強く燃え上がっているのかもしれない。


「だから、まだ終われないな」


 サイラスはポケットの中に手を突っ込んだ。

 指先に触れたのは、乾いた紙の感触。

 精密な歯車が組み込まれた数枚の紙幣。酒場のマスターが、別れ際に「釣りはいらねえ」と押し付けてきた報酬の残りだ。

 彼はその中から、一枚の紙幣を取り出し、街道沿いに点在する誘導灯の薄明かりにかざしてみた。

 アイゼン・ギルド連邦が作り出したGSN紙幣。その中央には、透かしの代わりに極薄の金属箔で作られた、精緻な歯車が埋め込まれている。

 光を受けて、微細な歯車が鈍く輝く。

 それは魔法の力ではなく、職人の執念とも呼べる技術の結晶だ。

 この小さな歯車一枚で、パンが買え、酒が飲め、そして旅が続けられる。

 指先に伝わるその硬質な感触は、浮世離れしそうになるサイラスの意識を、現実に繋ぎ止めるいかりのようだった。


 そうだ、生きるには金がかかる。

 移動するにも、食べるにも、情報を得るにも。

 千年前には必要なかったその「重り」さえも、今のサイラスには旅の醍醐味のように思えた。不老の肉体を持ちながら、日々の糧を得るために汗を流す。その矛盾した行為こそが、彼を「人間」の側に繋ぎ止めてくれているのだから。


 サイラスは紙幣をポケットに戻し、代わりに背負い袋のサイドポケットから折りたたまれた紙を取り出した。

 アイゼン・ギルド製の加工紙に印刷された、最新の広域地図だ。防水加工された表面は滑らかで、インクの匂いが微かに残っている。

 バサリ、と広げる。

 等高線の一本一本まで正確に描かれたその地図には、かつての魔法文明時代の遺跡の上に、新しい蒸気鉄道の路線が赤線で上書きされている。

 現在地、バレストル郊外。

 ここから東へ行けば、連邦の首都へ続く大動脈がある。最新の技術と欲望が渦巻く場所だ。

 西へ戻れば、国境を越えて大龍ロン魔導工廠の煤煙地帯へ。そこには古い因習と新しい技術の軋轢があるだろう。

 あるいは南へ下り、海を目指すか。


「どこへ行こうか」


 目的地は決まっていない。

 依頼も、使命もない。

 ただ、この地図の線の先、まだ見ぬ場所で、誰かが歯車を回し、蒸気を噴き上げ、笑ったり泣いたりしている。

 それを見に行くだけだ。

 空っぽになった僕の中に、また新しい「何か」を詰め込むために。


 サイラスは地図を丁寧に折りたたみ、背負い袋のポケットにしまった。

 そして、空を見上げた。

 頭上を覆っていた厚い雲が、風に流されて切れ間を見せ始めていた。

 その隙間から、紫煙の向こう側にある、本当の夜明けの光が差し込んでくる。

 シスの巨体は、その光の中に溶けるようにして、ゆっくりと泳ぎ去っていく。

 さよならは言わない。

 どうせまた、思い出がいっぱいになった頃に会うことになるのだから。


「行ってきます」


 短く呟き、サイラスは前を向いた。

 街道の先、地平線が白み始めている。

 その光の方角へ向かって、彼は一歩を踏み出した。

 背中の荷物は重いが、足取りは軽い。

 街に続くパイプから、微かに蒸気が噴き出ている。それは歩調に合わせて小気味よいリズムを刻んでいるようだ。

 旅は、続いていく。

 空にクジラが泳ぐ、この騒々しくも愛おしい世界で。



<第1章完>


作品の執筆にはAIを使用しています。

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