【5】聖なる胸騒ぎ、そして朝のコーヒー。〜天使、恋に堕ちる五秒前〜
「……ルシアン……びちょびちょ……きもちわるい……ルシアン……」
ルシアン……ルシアン……
アンジュ――大天使ガブリエル――の、初めて聞いた甘ったるい声。
ルシアンは、これ以上ここに居たら大天使として予想不可能な事態が起こり得ると判断し、素早くアンジュの帯を解き、着物を脱がして襦袢姿にすると、タオルで濡れた顔と首筋を拭いてやった。
そしてアンジュを横にし、羽根布団をしっかりと首まで掛けてやった。
アンジュは襦袢しか身に付けていないが、このスイートルームの空調は完璧だし、風邪などは引かないだろう。
ルシアンは聖なる儀式を終えた気分で、そそくさとアンジュの部屋から出ようとした。
その時。
アンジュの「……ルシアン……!」という小さな叫び声と共に、パサリと何かが落ちる音がした。
ルシアンが振り返る。
アンジュがベッドから出ようとして、足元がもつれる。
ルシアンは走ってアンジュの元へ戻っていた。
――瞬間移動できるのに、なぜ私は走っているのだ?
自分でも疑問に思いながら、必死に走り、アンジュを抱きとめる。
痛いーー
とルシアンは思った。
痛みなど感じないはずの大天使の胸が、
理由の分からぬまま強く疼いた。
ルシアンは安堵の息を吐くと、「アンジュさま、あなたさまは泥酔しています。急に起きては危険です。さあ、寝て」と言って、アンジュをベッドに戻そうとすると、アンジュがルシアンにしがみついてきた。
「アンジュさま?」
「……やだ……」
囁くような呟き。
「え?」
「……ルシアン……なんで……行ってしまうのだ……」
そう言うアンジュの声は涙を含んでいて、ルシアンは焦った。
アンジュを抱き上げて膝に乗せ、慌ててベッドに座る。
「アンジュさま? 一体どうなさったのですか? 苦しいのですか?」
アンジュが顔を上げる。
アンジュは瞳から、ポロポロと大粒の涙を零していた。
「……わたしの……そばに、いろ……」
「アンジュさま……?」
「……わたしが……きらい、か……?」
「アンジュさま……!」
ルシアンは堪らず、アンジュの頭の後ろを掴み、自分の肩に引き寄せた。
アンジュの泣き顔など、見ていられない。
「……あなたさまは……なぜそのようなことを仰るのです?」
「……わたしが……きらい……?」
「アンジュさま、お願いですから!」
ルシアンがアンジュを強く抱きしめる。
「私をお試しにならないで下さい……!」
一瞬の間の後、アンジュがポツリと呟く。
「……ルシアン……ためす……なにを……?」
そして、しゃくり上げる。
「……アンジュさま」
「……そばに……いろ……ルシアン……」
「……あなたさまは、ひどく酔っている。もう寝て下さい」
ルシアンがアンジュを腕から解き、ベッドに寝かせる。
アンジュとルシアンの目と目が合う。
アンジュは、まだ子供のように泣いていた。
「……ルシアン……」
ルシアンの胸が、ズキンと痛む。
「さあ、目を閉じて下さい。アンジュさま」
ルシアンが、涙で濡れた頬を手で拭ってやると、アンジュがその手を掴んだ。
「……どこにも、行くな……ルシアン……」
「………」
「……わたしが……きらい、じゃ……ないなら……」
アンジュの長い睫毛から、またひとつ、涙が零れる。
ルシアンは、もう限界だった。
「失礼いたします……!!」
そう言って、アンジュの額に手を翳した。
翌朝は、ホテル内のイタリアレストランでバイキング形式の朝食を取った。
このレストランで朝食を取れるのは、セミスイート以上の部屋に泊まった客だけだ。
スイートルームに朝食を運ばせても良かったが、ロクシーは皆の好みの食事が取れるようにと、あえてバイキング形式のレストランにしたのだ。
ロクシーとアンジュは、いろんな料理を試しに食べては「美味しい!」を連発している。
ルチアーノも、好みの料理を片っ端から頬張っていた。
そんな中、ルシアンはイタリアンローストのコーヒーだけを飲んでいる。
ロクシーとアンジュが料理を取りに席を立つと、ルチアーノが「まだ落ち込んでるのか?」と小声でルシアンに話しかける。
ルシアンも小声で、「今も心の中で贖罪の祈りを唱えている」と答える。
ルチアーノが、小声だがルシアンを叱り飛ばす。
「あーもう、辛気臭いヤツだな! お前にだって今は味覚はあるだろう? 少しは料理を楽しめ! 俺様がいたたまれないだろうが! それにアンジュちゃんは酔っ払って、気持ち良い夢を見たと思っているだけだ! お前のことは覚えていないんだろ!?」
「それはそうだが……。私はアンジュさまに無断で恩寵を使ってしまった……」
「だから〜!! それは二日酔いを直してあげたの!! アンジュちゃんは感謝こそすれ、お前に怒ったりしないぞ!?」
「だが……」
「シッ! 二人が戻ってきた」
ロクシーがニコニコと笑って「話が弾んでるね〜!」と言い、トレイをテーブルに置くと、椅子に座る。
続けてアンジュもテーブルに戻って来る。
アンジュは、ちょっと不貞腐れたように唇を尖らせる。
「ルチアーノは良いな! あの後も祇園を満喫したのであろう!?」
ルチアーノが笑顔で答える。
「アンジュちゃん、当たり〜! ロクシー、昨夜は良い夜だったよなあ?」
するとロクシーが、うっとりと話し出す。
「まあね。夜中の祇園の秘密の夜は最高……!! アンジュちゃん! 電気を使わないで、ランタンみたいなので踊ってくれるの! 儚くて……あれぞジャパニーズファンタジーよ!!」
「良いなあ……。飲みすぎるんじゃなかった!!」
そう言って、悔しそうにパスタを口に運ぶアンジュ。
ルシアンは、どんどんうつむいていった。
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