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使われなくなった井戸

作者: みづかつ
掲載日:2025/09/15

徘徊が趣味になった私は、マンションとマンションの間に細い道を見つけた。

その先の廃家の井戸から、男の歌声が聴こえた。

 飲み会がない金曜日の夜は、近所を徘徊するようになった。


 これを始めたのは6月からだ。夏の夜は涼しくて歩きやすい。11月になり、今の気温は7℃。厚着をしてきたつもりだが、常に動いていないと寒い。それでも徘徊はやめられず、クセになっていた。


 今日は紫雲山の近くを歩いている。国道には何台か車が走っており、街灯が眩しい。国道からテキトーに脇道に入った。


 少し歩くと、ここには立派なマンションが二つ並んでいる。どっちも10階以上あるように見える。マンションには灯りがついているが、当然、この辺りを歩く人は私しかいない。


 このマンションとマンションとの間に、人が一人通れるくらいの細い道があるのに気付いた。何回もここを通っているが、初めて見つけた。私は吸い込まれるようにそこに入った。


 アスファルトで整備された道の先に、少しの草で覆われた廃家があった。薄暗くてよく確認できないが、一目、庭を含めて100平米くらいあるだろうか。いや、もっとあるかもしれない。


 庭に入ってみると、レンガが積まれたようなものがある。そこから微かに、男の歌声が聴こえる。


 近づいてみると、それは使われていない井戸であった。乱暴に置かれた朽ちた竹の蓋に、そっと耳を近づけると、ギターで弾き語りをしているようだった。その歌詞もメロディも聴いたことがないものだった。しかし私にとっては心地の良いものである。


 30分くらいだろうか。彼の歌を夢中で聴いた。社会への不平不満や自分自身の情けなさをどこかに隠しながら、それを愛や日常に乗せ、うまくポップスに昇華している。これは、普通にヒットチャートに載っていてもおかしくないクオリティである。


 そっとスマホを取り出し、AWAというアプリを開いた。このアプリに音楽を聴かせると、それの曲名を探してくれる優れものだ。


 私は彼の歌を何回も検索したが、全く引っかからなかった。これは完全なオリジナル曲だ。こんな名曲を隠しておくのは勿体無い。私は彼と話してみたくなった。


 慎重に、壊さないように竹の蓋を取り、井戸の中を見てみる。真っ暗である。スマホのライトで照らしてみるが、光は吸い込まれていく。それでも井戸から歌が聴こえる。私は声を掛けてみることにした。


「おーい」


「……」


 返事はなく、歌は止んでしまった。数十秒後、もう一度声を掛けたが、返事はなかった。


 近くにやけに長い紐のついた、錆びれたバケツが転がっている。私は紐を持って、そのバケツを井戸に投げ入れた。


ポチャン。


 井戸は枯れていないが、浅かった。そして彼の声が聞こえた。話し声は同年代のように聞こえた。


「この中の水は泥水だぞ」


「そうか?確かめてみる」


 私はそう言うと、紐を引いていった。


 バケツにはちゃんと水が入っている。水は濁っておらず、ライトで照らすと泥水に見えなかった。私は井戸に話しかけた。


「泥水なんて嘘じゃないか。綺麗に見えるぞ」


「当たり前だ」


「どういうことだ?」


「お前は初対面の人間に、仮面を被って接するだろう」


「まぁ、多少は」


「それと同じだ。だから綺麗に見える」


 私にはさっぱり訳が分からなかった。しかし井戸の男と話すことができた。さっき聴こえていた音楽について聞いてみよう。


「そういえばさっきまで、何か弾き語ってたな。あれは自分で作ったのか?」


「……。その通りだ」


「詞もメロディも素晴らしいじゃないか。ネットに出したりしてないのか」


「ネット?」


「知らないのか?YouTubeとかインターネットに出したりしてないのか?」


「していない。しかし、一時期世の中に自分の歌が流行ったことがある」


「そうなのか!なんて言う歌だ」


「教えない」


「なんで?」


「なんでもいいだろう。お前は歌を書くのか?」


「書くけど、そんなに大したものじゃない」


「何か、聴かせてくれないか」


 私はスマホのファイルを開いた。そこには100以上の歌がある。色々なジャンルの歌がある。


「どういうのが聴きたい?」


「お前が一番気に入っているやつを聴きたい」


 私は一番自信のある歌を聴かせた。





 井戸は聴き終えるとこう言った。


「そうか、お前は俺の本当の姿に興味があるか?」


「もちろんだ。あんなに素晴らしい歌を歌っているんだから、それは、気になる」


「でもお前はきっと、俺を理解できない」


「それは聞いてみないと分からない」


「いや、お前は普通の人間だ。耐えられない。でも試してみるのもいいだろう」


 一瞬、春の訪れのような生暖かい風が吹いた。すると、井戸の外見は小綺麗になり、井戸の蓋も、バケツも紐も少し綺麗になった。というより、昔を取り戻したという方が正確かもしれない。


 私が急な変化に戸惑っている中、井戸は話を続ける。


「お前には覚悟があるか?これは俺の姿でもあり、真のお前の姿でもある」


「えっと、この、綺麗になったこと?」


「違う!いいからそのバケツで水を掬ってみろ!」


 私はバケツの中の水をそこら辺に捨て、バケツを井戸に落とした。


……、……、……、ポチャン。


 井戸はさっきよりも深くなっていた。私はロープをうまく動かし、水を掬った。


 もう少しでバケツが手元に届く頃、井戸からはほんのり異臭がした。


 井戸の縁にバケツを置き、その中をライトで照らした。すると茶色く泡立っており、ちゃんと泥水であった。


 しかし異臭は少しずつ強くなっていく。


 目が痛くなっていく。


 涙が出てくる。


 鼻水が出てくる。


 頭が痛くなっていく。


 お腹も痛くなっていく。


 咳が出てくると、私は耐えられなくなり、泥水を井戸に戻し、バケツを放り投げ、走って小さい道の出口に出た。


 あの臭いは消えていた。


 この時私は、私が並の人間であることを知ったのである。

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― 新着の感想 ―
拝読させて頂きました。 村上春樹の暗喩的なことを表現したいと感じ取れました。 自己との向き合いを井戸の中の人にたとえているのですね。井戸の中の歌は自分の歌。 村上作品では井戸はメタファー何度も使われ…
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