学校へ行こうその6、放課後のプールと、曲がる空間、水に濡れるのが苦手なオールインワンがレインコートを着ること
リリオンさんが大きな浮き輪にのって、プールに浮かんでいる。リリオンさんはスタイルが良いのもあって、もうお腹がだいぶ目立つ。
「すごいなあ」ベッコウがおっかなびっくりリリオンさんのお腹を撫ぜる。
「すごいだろ」
「動く? 動く?」コーラルがお腹にやんわり手を当てながら訊ねる。
「まだかなー、動いてるかもしれないけど、良くわからない」
「おーい、マルちゃん、聞こえますか?」ベッコウがお腹の近くで声を出す。
「聞こえてる、と思うよ。脳とか耳は、手足より成長早い」
リリオンさんは、ひとつひとつ、女の子たちの質問に答えている。ふと、プールサイドに腰かけるアイジュマルに目を向けた。
「なんか、ご機嫌だね。アイジュマル。そんなニコニコしてるの初めて見た」
「そ、そうですか」アイジュマルは言われて少し驚いた「何ででしょうね」
「楽しい?」
「ええ、とっても」
アイジュマルとリリオンは笑った。たぶん、それが答えだ。
ひと泳ぎして横たわっているユータの隣りにジャックが腰をおろした。
「いまさら、こんなこと聞くのも何だけど」ジャックは自分でも理由がわからぬまま予防線を張った「亜空間と超空間、これと空間が曲がっている話しってどう繋がるの?」
「どっちでも、使いやすいほう使えば良いよ」
「使いやすいほう?」
そう、と答えてユータは体を起こした。
「ガウス曲率が正の空間を超空間、負の空間を亜空間とすれば、だいたい似たようなもんかな」
「あ、ま、そうだね」
「でも、空間曲率だと虚数の扱いがしっくりこないから、ボクは超空間ー亜空間を統一して扱える複素次元空間のほうが好きかな」
「虚数の扱い?」
「空間曲率の基礎式って、2分の1メイトリックテンソル、イコール、4πGエナジーストレステンソルだろ。一階の偏微分方程式だから虚数が出てこないんだ。その点、複素次元空間理論だと、次数に複素数がとれるから便利だよ」
「…そういうものなの?」
「うん、そう。アインシュタインて、あまり虚数が好きじゃなかったみたい。ナヴィエ・ストークス方程式の粘弾性項は二階の偏微分なんで粘性項は一般的に虚数で表すんだけど、わざわざ剛体球モデルでアインシュタインの粘度式なんて考案してるぐらいだからね」
「アインシュタインの粘度式は、いちおう使えるんじゃなかったっけ?」
「使えるよ。ニュートン流体なら使える。でも非線形粘弾性挙動を説明するのは難しいね」
「…そうか」
「まあ、実数だけ見ていたとしても、世界の半分を見てるってことだから、困ることはそれほどない。世界はとても広いから、たとえ半分しか見ていないとしても、たいていの人間には大きすぎる」
「でも、ユータは、虚数…、複素数がないといろいろ不都合なんだろ?」
「まあね。数学的には複素数体でやっと代数的閉体になるし、普通に暮らしてるんなら、複素数は必要だと思うよ。ボクがいちばん個人的に使用頻度の高い例をあげると、亜空間走路の接続問題がある。接合点の相を合わせる必要があって、実数だけでは無理なんだ。交流電源を安全に接続するのと少し似てるかな」
「それでか、亜空間走路をうまくつなげられなかったのは。虚数のことまで見ていなかった」
「ああ、やっぱり、そのことを考えてたんだ」ユータは納得したように微笑んだ「手助けはあったけど、もう、一回通れたんだし、それがわかったんなら、次からは大丈夫だと思うよ」
ガヤガヤと、プールの入り口が騒がしい。
トッペンを先頭に、コイントス、メロゴールド、それにオールインワンが入ってきた。
「なんかねえ。法律が変わったから、学校に入って良いことになったのよ」
コイントスが、その辺を飛び回りながら、皆にしゃべりまくる。
「月見台には、日本の法律が適用されないから、もう、学校に関係者以外でも入れるようになったの。ヒスパニオラに引っ越せば、もっと法律は関係ない。アタシたちは無法者よ」
なんとなく無法者の適正な使用からかけ離れているような気もする。
わおー、と、トッペンがプールに飛び込み、果敢に犬かきをはじめる。あとから飛び込んだメロゴールドが、華麗なクロールで、あっという間にトッペンを追い越した。
「オ〜ルインワ〜ン」
アイボリーがオールインワンに笑いながら駆け寄る。アイボリーはヘアキャップをかぶり頭髪をしまい込んでいる。神経繊維束であるアイボリーの髪の毛は、水に濡れると導通してしてしまい、とてもくすぐったいらしい。だから、髪の毛が濡れないように、アイボリーはしっかりヘアキャップをつけているのだ。
ーーということは
オールインワンは、透明ビニルの雨がっぱを着ていた。オールインワンの外皮も神経繊維不織布で、アイボリーの髪の毛と良く似ている。ようするに濡れるとくすぐったいのだ。
オールインワンはトコトコ歩く。白いむくむくが、透明レインコートを着て歩くので、とても可愛らしい。皆いっせいに歓声をあげながらオールインワンに駆け寄った。
レインコートのまま、オールインワンを抱き上げたアイボリーは、あぐらをかいて、オールインワンが濡れないように気をつけながら、ひざの上に乗せた。
「ヒスパニオラに移設する施設の見学に来た」オールインワンが言った「こっちのプールは良いけどさ。となりのあのデカブツは何だ? あれも持って行くのか?」
「ああ、あの10メートルプール」ユータが答えた「もともと宇宙遊泳の訓練用も兼ねた施設なんだよ。実際に宇宙へ行くんだから、宇宙遊泳の訓練は宇宙空間でやればいいんで、地上訓練用の10メートルプールはいらないかな。それよりもトナカイのそりの発着ポートを移して欲しい。最終的に月見台は亜空間走路だけで行き来するようにするから発着ポートは必要ないんだ」
「そいつは大助かりだ」オールインワンが短い鼻を揺すりながら言う「発着ポートならバラして組み立てれば良いから比較的簡単なんだ。プールじゃそうもいかない。継ぎ目から水が漏れたら困るしな。トナカイのそりは宇宙空間でも飛べるんだな」
「飛べるよ。海中推進用のハイドロジェットをイオンプラズマ推進に換装するから宇宙でも大丈夫。もともと外壁の耐圧は深海用に造ってあるから真空でも大丈夫だ」
「それを聞いて安心した。あとは個室群と教室や保健室みたいな中型施設だけだ」
「どれぐらいかかる?」
「80…、いや85時間ぐらいか、4日半見ててくれ」
「スキーは?」アイボリーが訊ねる。よっぽど気に入ったらしい。
「それは、その後、まあ、落ち着いてからだよ。2週間くらいかな」
「うん、わかった我慢する」アイボリーはしょんぼり返事した。
「それはそうとさぁ」オールインワンが少し声を大きくした「海はどうする?」
海?
「海はいらないかなぁ。プールでいいよ」
「しょっぱくて、ぬるぬるしそう」
「屋根ないと、日焼けとか困りますね」
「魚は生け簀で良いと思うよ。うん」
オールインワンは、黙ったままのユータに、いいの? と訊ねた。
「当面、人間は入らないってことで」ユータはオールインワンに言った「水棲生物だけで良いから、気長にやって」
心得た、とオールインワンは気楽なものだ。




