王の従者
浅靄の中。
チャオは、歩いていた。
今日は大切な日だから、
母さんは言っていた。
5歳になる日、山の上の神さまに会うのが、村のならわしだった。
とは言っても、最近、こんなことは流行らないのだ。
右向こうの兄ちゃんは、そんなのしたことないと言っていたし、そもそも小姉ちゃんがやっていない。
左目が見えない。
それは、うすうすチャオも気づいていたし、白眼なので、みんなと遊んでいるときもからかわれていた。
チャオはとくに気にしてはいないが、母さんはことあるごとにチャオの目のことを近所のおばさんにこぼしていた。
いろいろあるんだろうな、とチャオも思ってはいた。
それにしても白い。
まわりが山羊の乳みたいに白い。
これだけ白いなら、白いほうの目で見たほうが楽かと思って右目を瞑っても、暗くなるだけ。
やっぱり、みんなの言うとおり、左ダメなのかなあ。
とりあえず目のことはいい。
山の上になかなか着かない。
そっちのほうが、問題だ。
山の上、いつもは、すぐに行けた。
いや、すぐでは、なかったかな。
着いたときはいつもへとへとだったから、遠いと言えば遠い。
神さまはいわだった。
こんないわを神さまとか、大人ばかみてぇ、といつも思っていたが、いわのことは好きだった。ことによると、母さんより好きかもしれなかった。
父さんのことはよくわからない。
他の家には、父さんがいるらしかったが、あれは、どう見てもおじさんで、父さんではないと思う。爺ちゃんに聞けばいいのかもしれないが、こういうことを聞くとムスッとするので、爺ちゃんに聞くのは嫌だ。
みんな、白い、しろい、しろい。
こんなに歩いたことはなかった。
だれかが死んだ、と聞いたことがある。
死ぬ、というのはよくはわからないが、みんな悲しそうだった。
死ぬのかなあ、と思った。
寝るのはイヤだった。またあしたと言うけど、あしたがくるかわからない。
死ぬのかなあ、と思った。
よくわからない。
白は、薄くも、濃くもない。
白だった。
目の前で、女の人が叫んでいる。
ずっと話していた。何か言っていた。
まわりはもう白くなかった。
緑だった。草がぼうぼうと生えていた。
見たことない草だ。
よく見ると、小さな花も咲いていた。
お姉さんは、言葉をくぎって、何回も話かけてくれる。
お姉さんはメガネをかけていた。
村でメガネをかけている人は少なかった。子どもでかけている子はいなかった。
お姉さんは、眼鏡をはずして、じっと、チャオを見つめた。
そして、
「あなたは誰?」
とはっきり尋ねた。
「チャオです」
チャオの周囲が歪み、お姉さんを中心に渦巻きが回り出した。
嗚呼、チャオは思った。
やっと、着いたのだ。
「いきなり、でくわしたんだよ。外歩いてたら、この子が亜空間から出てきて。話しかけたんだけど。なかなか通じなくて、タイ語使ったら、チャオ、って言ってた」
興奮気味にベッコウがユータに話す。いや、興奮気味というか、興奮している。はじめてふつうの人間を見たのだから無理もない。
「タイか、確かに、この民族衣装はタイのものかと思うけど…」ユータはシノノメに指示を出した「先生呼んでくれる?」
え? とあからさまにシノノメはイヤな顔をした。
「あ、違う、違う。そっちの先生じゃなくて保険室の先生」
保険室の先生と聞いて、顔の曇りがいっきに晴れたシノノメは、にっこり微笑むと踵を返した。
「おーい、ジャック連れてきたぞぉ」
コーラルだ。
「へえ、かわいい顔してんじゃん」コーラルは気を失っている少年の顔をのぞきこんだ「こいつ、目覚したら動くの?」
「ワタシが見つけたときは動いてたよ」
「ああ、それで…」
「なに? どうゆう意味?」
「なに、って、ベッコウ見た途端気絶したんだろ?」
「ちーがいーますー」ベッコウはいきりたった。心底コイツは気に食わない。
「で、どう思う?」コーラルとベッコウは無視して、ユータはジャックに訊ねた。
「タイの子供だと思う」ジャックは答えた「北方民族の特徴ある衣装だ。チエンラーイ辺りかな」
ジャックの言葉に呼応するように、
横たわっていた子どもが目を開けた。
「王子さま」
その子は、ジャックをまっすぐに見て、そう言った。
「ああ、よく来たね」意識もせずにジャックの口から言葉がすべり出た。誰よりジャックが驚いた「もう大丈夫だ。ここには驚くことは何もない」
「チャオって言うんだっけ?」言いながらユータは、片目ずつ、チャオの目蓋を指で押しひらいた「力を抜いて、そう、そんな感じ、怖がらなくて良いよ。キミを見つけたのはベッコウ」
ハーイ、とベッコウはチャオの眼前で手をふった。
「キミは目が悪いんじゃないかとベッコウが言っていた。ベッコウはなんでも見える。見え過ぎてこまるから、いつも眼鏡をかけている。キミの瞳、もう少し、よく見せてくれるかな」
神さま、とチャオは言い、ユータにされるがままになっていたが、ユータがチャオの顔から手を離すと、また、ジャックのほうを向いて、言った。
「王子さま、王子さまは、神さまになったんですね」
「あ、ああ」ジャックはとてつもなく戸惑いを覚えた。眩暈のようにジャックを襲う感覚とはまったく別に、その口はジャックの意思とは無関係に言葉を発した「そうだよ。チャオ、神さまになったんだ。だからキミは何も心配しなくていい」
よかった、そう言いながら、チャオの両目から、はらはらと涙が流れた。ほんとうによかった。チャオは何度もよかったを繰り返した。
「誰か怪我人なの? その子?」
シノノメと一緒にストレッチャーを押しながら、保健室の先生が来た。ユータはタイ語をやめて、普段どおり日本語で先生に話しかけた。
「ああ、先生。急で申し訳ないけどNMRの準備を」
「NMR?」
「あ、ごめん、医療用だと、なんだっけ、MRI」
「MRI、ね。わかった」
「あとSSSね」
う、と先生の顔色が変わった。
「…SSS」
「SSSだよ。眼底が白い、神経芽腫の疑いがある。掻爬する必要がある」
「ユータちゃんのお母さんに頼んだほうが…」
尻込みする先生に、ユータははっきりと言った。
「ダメなんだよ。もうボクらでやらないと、これが最初だ。ボクも初めてだから、どうしても先生に手伝ってもらわないと」
「わかった」
何かを思い切るように、先生が言った。
ジャックがチャオを抱え上げ、ストレッチャーに載せた。そしてみんなでストレッチャーを押して、保健室にむかう。
「ジャックが混乱してるな。無理もないけど」
コーラルのつぶやきに、アイジュマルが不思議そうに訊ねた。
「ジャックが混乱? どうしてです?」
コーラルは問いには答えず、逆にアイジュマルに訊き返した「チャオはジャックに会ったことあんの? 顔知ってたみたいだけど」
「タイでは王族の写真をよく家に飾っています。ジャック・スレイは王族の中でもとくに人気がありましたから、それで知っているのでしょう」
「なるほど、よくわかったよ」コーラルはかってに納得した「すごい王道教育だな。自分が神になったときの言葉がすらすら出てくるんだ。言ってる本人すらわからない潜在下に叩き込まれてる。王っていう商売もなかなか大変なシロモンなんだな」
「よくわかりません」
「わからなくていいよ。まあジャックもたいへんそうだけど、ユータほどたいへんってワケじゃない」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」コーラルはクスっと笑った「アイジュマルも気をつけたほうがいいよ」
なにをでしょう? と真顔で訊き返すアイジュマルに、コーラルは立ち止まって、しげしげとその顔を見つめ直した。シノノメが一言クギを刺したくなる気持ちもわかる。
「アイジュマルは愛される神様になれるよ」コーラルは屈託なく笑った「オレだのベッコウみたいなのはこわがられるだけだ。アイジュマルみたいな神様は、やっぱり必要なんだろうな」




