束の間のワルツ
初投稿です。宜しくお願いします。
「僕は、君のピアノで踊ってみたかった」
不意にそんなことを言われて、一瞬、時の流れが止まったかのように思えた。けれどピアノの単調な音は止まらず、せせらぎの様に流れ続けている。ピアノしか入っていない小さな部屋の中で、月の光だけを頼りにピアノを弾いていた私は、黙ったまま彼の話を聞いていた。
「例えば学校の屋上にグランドピアノを置いて、大雨の中僕がそこで踊るんだ。まるで何かに憑りつかれた様に、狂った様に踊るんだ。とても幻想的じゃない?」
嫌な音が頭に響く。これはきっと、彼の声を聞いて喜んでいるピアノの音だ。耳障り、聞きたくもない。こんなピアノの音を聞くくらいならば、私は……。
「どうしてピアノを止めたの? いい振付を今思いついたのに。あーあ。キミってば、本当に気分屋なんだから」
私は何も言えなかった。言葉が出てこないのではない。私は、私のためにピアノを弾くのは辞めたのだと、そう伝えたいのに、いくら口を開けても喉が震えるだけで、音が出てこない。喋れない。話すことが出来ない。どうして、どうしてこんなに簡単なことが言えないのだろうか。
「……とうとう僕のことも無視するの? 参ったなぁ。でも僕は、そんなキミも嫌いじゃない。僕の傍にいてくれるだけでいいんだ。だから……」
そこで彼は声を出すのを辞めた。そうしてまた私は、ピアノを弾き始めた。さっき、弾く手は止めた筈なのに。脳みそはピアノを弾け、なんて命令を出していないのに、私は永遠に音を奏でている。まるでカセットテープの様に、弾いては巻き戻して、弾いては巻き戻して。
ワルツ 第十九番 イ短調 遺作 ショパンより
きっとこれは夢だ。私はこの曲が嫌いだから、絶対に弾きたくないから。でも私はそれを弾いている。夢でも弾くことを嫌悪するのに。夢でなければ一体何なのだろうか。夢でなければ……。
最終章に入ったその時、彼の声が聞こえた。可笑しいな、もう私の耳は聞こえない筈なのに。夢の中では彼の声が聞こえるのだろうか。神様ってなんて残酷なんだろう。なんて意地悪なんだろう。私が神様だったら、聴覚も奪わないし、人の命も奪わないし、大切な人から切り離すなんてこと、しないのに。
「なんて莫迦なことをしたんだ、どうして、耳が聞こえなくたって僕がずっと傍にいる、そう約束しただろう……? 弾くことを辞めるのは辛かったかもしれない、でも、生きていればきっと耳だって……。また聞こえる様になったかもしれない、なのに……、どうして自殺なんて莫迦みたいなこと、するんだよ……」
そうだ。私は、屋上から飛び降りたのだ。彼が夢見ていた様に、ピアノの音を録ったカセットテープを置いて、音を雨の様に降らせて、狂った様に踊りながら堕ちたのだ。最期まで雨の音は聞こえなかった。小さい頃好きだった雨の音も、カセットテープの巻いた音も、自分の音も、何もかも聞こえなくて、堕ちたのに。
神様はもしかしたらそこまで悪い奴じゃないのかもしれない。最期に、大好きな彼の声を聞かせてくれたのだから。
頭に鳴り響くワルツ。二分という短いショパンの遺作は、私を連れて行くには十分すぎる時間だった。今、私は人生で最高潮の気分だ。あんなに嫌いだったワルツが、頭の中で最期に流れる曲だと知った瞬間に好きになるなんて、死ぬ間際まで私は気分屋なんだな。彼は一番に私の音を聞いてくれた。いつだって、彼が一番だった。
あぁ、もう直ぐ終焉だ。束の間のワルツが終わる。最期は拍手で送り出してほしい。私が、初めてコンクールで賞を取った時の様に。
読んでくださりありがとうございました。