隣は何を思うひと
大嫌いな男に会った。嫌いも嫌い、嫌いなんて言葉も生温い、最早憎んでいる男に。その日、会ってしまった。
小、中学生の間、執拗に私を虐め抜いた同級生。二度と会いたくなかった。一生憎んでいく男。
なのに、そんな男が今私の目の前にいる──────……
* * * *
私は小、中学生の間ずっと虐められてきました。きっと私の何かが気に入らなかったのでしょう。虐めのターゲットになるのはそんなものですよね。学校生活はいつもビクビクしていました。楽しかった思い出などひとつもありません。いつも痛みと悲しみの渦に呑み込まれていました。
私の鞄はいつもパンパンでした。置き勉でもしようものなら、二度と手元には戻ってきません。もしくは破壊されました。辞書も、上靴も、毎日持って帰りました。
給食もまともに食べられたことはありません。ゴミや虫など、いつも何かを混入されました。母が作ってくれた運動会のお弁当は砂まみれにされました。この時ばかりは涙を堪えることは出来ませんでしたね。
お笑い芸人の真似をさせられたり、トイレに突っ込まれたリコーダーをその場で使わされたり、雑巾で顔を拭かれたりしました。生理日がばれた日には、生理用品を全て開封され、捨てられました。登山のレクリエーションでは小川に突き落とされたこともあります。
主犯格は狡猾です。自分からは手出しをしません。周りを煽って、自分が意図したように周りが動くように巧妙に誘導していました。自分では手を汚さないのです。泣いている私の顔を一番後ろからニヤニヤと嗤って眺めていました。
別のクラスになれても、わざわざ私のクラスにまで来て虐める毎日。中学生にもなれば知恵も体格も小学生より大きくなります。便乗して虐めてくる連中はみんな私を見下し、ストレスや鬱憤の吐け口にしていました。
執拗に続く虐めに、どうしてこんなことをするのか、私が何かしたのか、と思い切って訊いてみたことがあります。返ってきた答えは、理由なんてない、でした。名字が似ているから気に食わない、とそっぽを向いて吐き捨てられました。
毎日が本当に辛く、毎日が地獄でした。遠い高校に進学して、やっと解放されました。就職してからも碌に地元に帰っていません。なのにどうして、この悪魔は私に関わってくるのでしょうか───
「佐藤 彩葉さん」
私の名前を呼ぶ男。小、中学生の虐めの主犯格。少年だったころの面影を僅かに残して、虐めの加害者は爽やかな青年に成長していました。
下げられた眉、細められた目、微かに窪むえくぼ、嬉しそうに弧を描いた口元……十人中、八~九人くらいからはきっと格好良いと評価される青年です。そんな青年が私にはにかみながら笑い掛けてきました。
私は混乱しました。なぜ、この青年が自分に話し掛けてくるのか判らない。唯一親しくしていた友人に頼み込まれて仕方なしに一緒に出席した同窓会。会いたくもない人と会うかもしれないと覚悟はしていましたが、こうもにこやかに話し掛けてくるとは思いもしませんでした。
「久し振りだな……元気だったか?」
警戒しつつも頷きを返します。過去、返事をしないと殴られていたのです。されたことは忘れていません。
「そっか。なら、良かった」
社交辞令ならばさっさと切り上げて自分の昔の仲間の元へ戻ればいいのに、と思っていると、目の前の青年、伊藤 隼人は気不味そうな表情を浮かべました。
「その、さ……昔のことだけど。ごめんな、悪かった」
驚きました。謝ってくるなんて。私が何も言えずに黙っていると、伊藤は私の腕を取り会場の隅に押し込み、捲し立ててきました。
「ごめん、ガキだったんだよ。今ならちゃんと面と向かって言えるんだけどさ、昔は本当にガキで。照れ隠しにちょっかい出すしか出来なくって」
一体何を言い出すのか、私は茫然とその告白を聞きました。両肩を掴んでくる手の強さに鳥肌が立ちました。
「佐藤。俺、昔からお前のことが好きだった。今もだ。だから……」
だから? だから、虐めた?
「俺と、付き合ってくれませんか」
「はぁ?」
突拍子もない申し出に、全く予想もしていなかった私は気の抜けた声を出してしまいました。私の声に周りの注目も集まります。
「お、何だ隼斗! もう告ったのか!」
「何だよ、終わってから言うって言ってたのに、待ちきれなかったのかよ!」
伊藤の仲間が周りに集まり囃し立てます。この展開は何。伊藤も冷やかしてくる周りに文句を言いつつもどこか嬉しそうにしています。断られるとは思っていないのでしょう。唇が震えそうになるのを堪えていると、胸に何かが広がっていきました。
───私を虐めていたのは、好きだったから?
本当に辛い小、中学生時代でした。楽しい思い出など何ひとつなかった。それもこれも目の前のこの悪魔が虐めてきたからです。
周りが無責任に囃し立ててきます。頭がガンガンしてくる。私は気が付いたら了承の返事をしていたようです。周りは一層騒いでいます。いい大人同士なのに、同窓会という特殊な場に居るからか、みんな子ども時代に戻っているようです。
頭が痛い。頭が痛い。
既視感。昔に引き戻されます。蹲って泣く私を嗤いながら見下す同級生たち。誰からも救いの手など差し伸べられません。心に刻み込まれてしまった傷がぱっくりと口を開き、真新しい血が流れていきます。
好き? 私が好きだった? 好きだから虐めた。伊藤にはその大義名分があったのかもしれません。けれど周りはそれに便乗した。周りからの悪意を忘れたことはありません。
付き合ってみたら何かが変わるのでしょうか? 辛かった過去を乗り越えられるのでしょうか?
憎むだけの生き方が、変わっていけるのでしょうか───……
付き合うことになった私と伊藤 隼斗は、様々な所に出掛けました。私は楽しいのかどうか、自分のことなのによく判りません。
「なぁ、彩葉。お前ペンギンの小物好きだったよな」
「そうね」
好きでしたが、持っていたペンギンのキーホルダーを伊藤に壊されてからは持ち歩くのを止めました。
「昔こういうの持ってなかった?」
出店で伊藤が手にしたのは壊されたのとほぼ同型のキーホルダー。返事もせずに見ていると、伊藤は支払いを済ませていました。
「はい。ごめんな、確か俺が壊したよな」
手の中に押し付けられたキーホルダー。けれど、好きだったあのペンギンではありません。戻ってきたわけではありません。
「俺の分も買った。彩葉とお揃いだな」
屈託のない、爽やかな笑顔。
「……どうして私が好きなの? どうして私なの?」
不思議で堪りません。あんなに虐めてきたのに。実はドッキリを仕掛けられていた、と言われた方が余程説得力があります。
「何だよ、まさか信じてない? まぁ、昔イジメてたけどさ。良くあるじゃん、素直になれなくて好きな子をイジメちゃうってヤツ。俺は典型的なそれだったんだよ」
好きだからイジメる。すべてが軽く感じます。
「そう……そんなに昔から好きだったんだ」
「ちゃんとさっさと口に出してればこんなに遠回りしなくてもよかったんだよな。本当、ガキだったな、俺」
私を虐め抜いた男の子は、成長して大人の男になって私の前に姿を現しました。自分の心は清らかだと信じて。
私の心に何かが広がっていきます。
肩を抱こうとしてきた腕を避けます。まだ、そんな深い触れ合いは早いでしょう。
「あ、ごめん。嫌だった?」
表情を僅かに曇らせて、行き場のなくなった手を持て余しています。
「……まだ、こっち」
私はそう言い、手指を絡めました。途端に伊藤の表情も緩みます。
「そうだな。少しずつな」
もう子どもではありません。もう立派な大人。勿体ぶるような女でもありません。けれど───まだ、全部は晒せません。
私は家に戻ったあと、日記を書きます。日付も正確に、どこに行ったか、どんな会話をしたか。どんなことを言われたか。きっちり、正確に。こんな風に日記を書くのは、虐められていたころ以来です。どんなことをされたか、どんなことを言われたか……記録は証拠になります。
腹の中がモヤモヤする。これがどんな感情なのか判りません。どんな感情か判らないこれは、どこに行き着くのでしょう。
付き合いは意外にも長くなり、どうやらこれが仕掛けられたドッキリではないようだと判りました。過去のことはどうすればいいのか、胸に広がるモヤモヤした感情は何なんでしょう。
「あ、隼斗じゃない」
一緒に街を歩いていると、誰かしら知り合いに合います。伊藤は随分顔が広いようです。それについて特に何も思いません。
「あら、その子なの?」
伊藤の後ろに立っている私を覗き込むように見てきました。そして私の顔を見るなり、見下すような視線を投げてきます。
「ドラマみたいね。昔から片想いされてたなんて。羨ましい。全然気付かなかったの?」
「おい、止めろよ」
気付かなかった? 何を?
「それとも気付いた上で隼斗を振り回していたのかしら?」
「おい、変なこと言うなよ!」
馬鹿馬鹿しい。馴れ馴れしいこの人は、私がどれだけ伊藤に虐められてきたのか知らないからこんなことを言えるのでしょう。
「何よ、隼斗がいつもこの子のこと話してたから、どんな子なのか興味あるじゃない」
「もういいから、帰れよ」
伊藤は私の肩を抱いて足早にその場を去ります。
「悪い。あれ、大学の時の同期生なんだ。色々お前のこと相談してたから……」
色々。相談。私のことを、誰か他のひとに? 昔、好きな子を虐めたって? 好きなのに虐めたって?
肩に置かれた伊藤の手を払います。払われてやっと、伊藤は肩を抱きっぱなしだったことに気付いたようです。僅かに傷付いたような表情をしましたが、それが何だというのでしょう。
帰ってから、この日のことも日記に書き留めました。何を言われたか。言われて私がどう思ったか───……
まだ早いと思っていたけれど、付き合いを進めてあげることにしました。男の性なんでしょうね。唇を許してあげた日は感極まった様子で苦しいくらいに抱き締めてきました。
その時、初めて───私の胸のモヤモヤしたものの正体を理解しました。理解したならば、行動あるのみです。やっぱり日記を付けていたことは正解でした。
取り敢えず、相談だけでも実績を作っておかなければなりません。前々から相談していた、という事実が必要です。
きっと、これで解放される。楽しみになってきました。
* * * *
同窓会で再会した初恋の女の子と付き合えるようになった俺は有頂天だった。
何年越しの恋が実っただろう? 我ながら執念深いとは思うが、どうにも忘れられなかった。くそガキだった俺は、恋心を抱いたその子に告白するんじゃなくてちょっかいを出した。周りも俺が好きだからちょっかい出してるなんて思いもしなかっただろうな。
とにかく、何としてでも佐藤 彩葉の記憶に残りたかった。俺の記憶の中に居る彩葉はいつも泣いていた。笑った顔が見たかったのに、俺はどうすればいいのか判らなかった。そんなに好きだった子が成長して、恋人として俺の隣に居てくれる。奇跡に感謝だ。昔の俺のちょっかいも水に流してくれたらしい。
でももうちょっとでいいから、触れ合いたい。そう思うのは俺が欲望まみれの男だからかな。でも男だったら好きな女の子に触れたいと思うのは自然なことだ。
だから、ちょっとぎこちないながらもキスをした時は本当に天にも昇る気持ちだった。抱き締めた彩葉は良い匂いがして、唇は柔らかくてふわふわして。もっともっと、貪り尽くしたい衝動に駆られて。暴走しそうになる欲望を必死に理性で押し止めた。早く、彩葉の全部を俺だけのものにしたい……
焦りは禁物。反応を見る限り、どうやら彩葉は経験はない。俺が初めての男になるわけだ。最高だ。怖がらせちゃいけない。
初キスを交わしたあとは、何度もキスをした。それこそデートのたびに、隙あらば。本音はそれ以上に進みたいけど、彩葉を傷付けるのは本意じゃない。ただでさえ俺は昔ちょっかい出して泣かせてるし。
そんなある意味、生殺しの幸せな時間を過ごしている中、ちょくちょくすれ違うことが増えた。居る、と言っていた時間に彩葉のアパートの部屋を訪ねても留守。時間を間違えたか? ドアノブを廻してみても鍵が掛かってるし、あんまりガチャガチャしてたら隣の住人に胡散臭そうな目で見られた。スマホに電話してみても出ない。メッセージを送っても既読にならない。何だ?
彩葉、どうかしたのか? 何かあったのか?
「彩葉! どこに居るんだ?」
やっと連絡が取れた時には詰問調になっても仕方がないと思う。
『ごめん、急に休日出勤になっちゃって。今日はちょっと会えない』
「だったらもっと早く電話出てくれよ」
『ごめん、とにかく急だったから』
仕事なら仕方がない。俺だってたまに休日出勤する時もある。会えない淋しさと、すっぽかされたほんの僅かな腹立ちを押し込めて、次は会いたいことを伝えた。
俺と彩葉の気持ちには、温度差がある───……
そう確信してしまったのは、何度かそれを繰り返されたころ。デートの約束をしたはずの日に、彩葉が不在の度に、箍が外れた様に電話とメッセージを大量に送り付ける。自分でもどうしようもない。
彩葉の心は、もしかして俺には向いていないのかもしれない。一度そう思ってしまったら、不安で仕方がなかった。やっと手に入れたのに。やっと恋が叶ったと思ったのに。
焦りは執着になり、俺はいつでも彩葉と連絡が取れないと狼狽えた。何てざまだ。こんなざまじゃいつか彩葉に愛想尽かされてしまう。だけど、会うと彩葉は嬉しそうにしてくれる。俺はもどかしくて嬉しくて、抱き締めてキスしたくて……そしてそれ以上は拒否される。
その日は彩葉の部屋で夕食を食べる約束をしていた。本当に部屋に居てくれるのか、内心ビクビクしながら待ち合わせの時間に行くと、彩葉は部屋に居た。優しく迎え入れてくれた。良かった。
彩葉の部屋に入ると、良い匂いが漂っている。テーブルを見ると、その元があった。もう用意してくれていたんだな。あれ、でも……ひとり分? どうして?
「彩葉? 一緒に食べるんじゃなかったのか?」
聞きながら振り返ると───彩葉が包丁を構えていた。
「彩葉!?」
キッチンに包丁があるのは判る。それを彩葉が握っているのも判る。だけど、その刃の切っ先を俺に向けているのが判らない。
「彩葉……危ないだろ!? それを下げろ!」
思わず怒鳴り声を出してしまった。再会した彩葉に絶対に声を荒げないと密かに決意していたのに。でもそれどころじゃない。額から、背中からブワッと汗が吹き出す。何だ!? 彩葉は何を考えている!?
「お、落ち着け……彩葉。話なら聞くから」
切っ先が蛍光灯の光を反射させて鈍く輝く。よっぽどの何かがあったんだ。それを取り除いてやらないと。
「何があったんだ? そんなに辛いことかあったのか? な、話聞くから。そんなの仕舞って、何でも言ってくれよ」
必死に捲し立てる。思いもよらない展開で、情けないことに脚が震えている。彩葉は至って冷静だ。冷静そうに、見える。
「彩葉!」
彩葉が俯いた。よし、俯いた隙に包丁を取り上げて……と思ったところで、ふ、と笑った気配がした。肩を揺らして笑い出す。
「い、彩葉?」
彩葉が顔を上げる。その顔は本当に楽しそうに笑っていた。彩葉?
「あははははは!」
声を上げて笑い、躊躇うことなく自分の左腕を切りつけた。
「彩葉!」
1回、2回……あっという間に彩葉の左腕は血だらけになる。
「止めろッ!」
どうしてこんなことをする!? どうして、どうして!?
「止めろ、彩葉! 止めろッ!」
右手を叩いて包丁を叩き落とす。
「彩葉、傷を見せろッ!」
包丁を手放したことで終わったと思ったのに。彩葉の手には、もう1本包丁が握られていた。その切っ先は、やはり俺に向けられていて───
彩葉の左腕の具合を見ようとして近付いた俺の腹部に……差し込まれた。
え……?
え……? え? 何で? 彩葉が俺を刺した? 何で? 何で俺、彩葉に刺されてんの? 恋人なのに?
一瞬茫然としたあとに、猛烈な熱が襲ってきた。まるで真っ赤に焼けた鉄の棒を突っ込まれたみたいだ。脈に併せて熱が暴れまわる。
「い、彩葉……ッ、何でッ!?」
腹を押さえて膝を着いた俺を見下ろす彩葉の顔は、見たことのない表情を浮かべている。別人のようだ。
「何で……? 理由、判らないの?」
表情を動かさないまま呟き、包丁が俺の左肩をかすった。ビリッとした痛みが走る。
「彩葉……ッ!」
「判らない? あんたのことが、心底憎いからよ」
じわりじわりと、腹が赤く染まっていく。憎い? 彩葉が、俺を? 何で?
「何、で……」
「何で? 判らないの? 馬鹿なの?」
目眩がする。本当に目の前に居るのは、彩葉なのか?
「あんた、私に何をしてきたか忘れたの? 私がどんな地獄の日々を送ってきたのか知らないの」
腹は灼熱の嵐が暴れまわっているのに、背中は大きな氷の塊を放りこまれたようだ。
「俺、が……」
「あんたはちょっかいだなんて軽い言葉を使ってたわね。子どもだったから好きな子にちょっかい出してたって。それをされてた私は毎日が地獄だったわよ!」
そんな。
「二度と会いたくなかったあんたに再会して、昔から好きだった? ふざけないでよ!」
落とした包丁を拾い、彩葉はまた自分の身体を傷付ける。
「あんたなんか大ッ嫌い。目の前から消えて」
俺を見る彩葉の目は、何の感情も浮かべていない。
「俺を……殺すのか?」
恨みか。例えそんなことをしても、彩葉の人生も終わりだ。
「これは正当防衛だもの。罪には問われない」
何を言っている?
「あんたは私を小、中学に渡って執拗に虐めた。同窓会で再会して、それから私をストーキングするようになった」
俺は耳を疑った。何を言っているんだ!?
「彩葉!?」
「あんたなんかに好かれたくない。二度と会いたくなかった。私はいい加減あんたから解放されたいの。だから、あんたは消えて」
「お、俺を殺したってすぐ捕まるぞッ!」
「だから正当防衛だって言ったでしょ」
俺を見る彩葉の目は侮蔑の目だ。俺は、そんなにも彩葉に嫌われていたのか?
「日本の警察から逃げ切れるわけないわ。完全犯罪を達成出来るとも思わない。だったら曝け出してしまえばいいのよ」
嬉しそうに呟く彩葉から目が放せない。
「あんたは私のストーカー。再会してしまったあの日から私を付け回した。電話の強要や、家への押し掛け、無理矢理連れ回す……そんなストーカー行為を行った」
一瞬痛みも忘れて立ち上がり、彩葉の両肩を掴んだ。油断していたのか彩葉は驚いた顔をしながら、それでも包丁をかざして俺の頬を切る。力が抜けた隙に突き飛ばされた。その衝撃で腹に刺さったままの刃の向きが変わったのか、痛みが脳天に走る。
「挙げ句に独り暮らしの私がひとりで夕食を摂っている時に部屋に押し入ってきた。襲われると思った私はキッチンにあった包丁で抵抗。誤って刺してしまったけれど、身を守るための正当防衛よ」
「ふざけるな! 俺はそんなことしていないッ!」
ただ好きだっただけだ! それなのに……ッ!
「……あんたはそれぐらいのことをしてきたの。私に。謝罪も満足にしないで、好きだったから? ふざけてんのはあんたよ」
突き飛ばされてそのまま動けない俺に近付き、彩葉は笑顔で囁いた。
「あんたなんか大ッ嫌い。完全犯罪は無理だけど、私の正当防衛だから」
振り上げられる包丁をただ茫然と見る。
「ストーカーの汚名を着て───死んで」