71.綺麗な涙
ベッドで眠るヘルフストさんの隣に、システィーナさんが座っている。
愛しい彼は未だ夢の中。
時折聞こえる寝言は悲しく、怯えているように見えた。
彼女はそっと、彼の手を握る。
「ヘルフ君」
眠っている彼は今、自身の内に秘めた思いを見つめ直しているのだろう。
それはきっと辛いことで、認めたくない事実かもしれない。
目覚めるその時まで、私たちは内容を知れない。
今はただ、じっと待つしか出来ない。
もどかしさを感じながら、優しく手を握る彼女を、私とエアル君が見守っていた。
そしてようやく、彼が目を覚ます。
「――ぅ……」
重たい瞼をゆっくりと動かし、虚ろな眼差して天井を見つめる。
「ヘルフ君!」
「……システィー」
二人の目と目が合う。
彼女が彼の名前を呼んでから、応えるまでに僅かな差があった。
まだ意識が朦朧としているのだろうか?
寝ぼけているようには見えない。
彼はシスティーナさんをじっと見つめ、徐に起き上がる。
そのまましばらく、黙ったまま俯いていた。
「ヘルフ君?」
「……スゥーハァー」
大きな深呼吸の音が部屋に響く。
意を決するように、彼はシスティーナさんの顔を改めて見る。
「システィー」
「はい」
「君は……料理が好きかい?」
「え?」
彼女も思わず唖然とした。
それは予想していなかった質問だっただろう。
当たり前のことで、聞く必要のない問い。
なぜならその答えを、彼はとっくの昔に知っているはずで、疑いもない事実だから。
「もちろんです。私は料理がしたくて家を抜け出しました。それからヘルフ君と出会って、秋風に拾われて、今も変わりません」
「……そうだよね。でも……辛いと、思ったことはないかい?」
「辛い? どうしてそんなことを聞くのですか?」
「……」
ヘルフストさんは口を紡ぐ。
言い辛いことなのは見ていてわかった。
彼は夢の中で、自分の本心と向き合ってきたはずだ。
私の予想が正しければ、それは彼だけでなくシスティーナさんにも関係することで。
反応を見る限り、どうやら予想は正しかったらしい。
そして彼女も気づく。
「ヘルフ君、もしかして私の所為で」
「そうじゃない。悪いのは……僕だ。僕は……君に負担を無理をさせていた。新しい味への期待と切望を、君一人に向けてしまっていた」
そうして彼は語り出す。
自らに見た思いを、己を許せないと罵りながら。
「僕の人生は料理と共にあった。新しい味を求めた放浪も、僕自身が最高だと思える味を見つけたかったからだ。でも中々見つからなくて、半ばあきらめかけていた……そんな時、君と出会った。君の料理を食べた時に確信したんだ。君なら僕の理想に近づける」
常に新しく、昨日よりも美味を。
美味しい料理を作ることは難しくない。
だけど、新しさを求め続けることがどれほど辛く苦しい道のりか。
それがわかるのは、同じ道を進む料理人のみ。
ヘルフストさんは思ったんだ。
彼女が孤独に、先の見えない険しい道を進んでいると。
それを強いてしまった自分が情けないと。
「僕は君の料理が好きで、料理をしている君の笑顔も好きだった。本当に楽しそうに料理をするから、見ていてこっちも楽しくなる。そんな君が時折見せる苦しそうな顔を知って、それでも何も言わなかったんだ。僕は僕の所為で、君が料理を嫌いになってしまう気がして……というのを建前にした」
「ヘルフ君……」
「僕は臆病者だよ。僕の所為で君が料理を嫌いになって、僕の元から離れてしまうのが怖かった。僕はただ、僕が好きになった君を失いたくなかっただけなんだ」
さらけ出した思い。
語りながら泣き出しそうな顔で、潤んだ瞳でシスティーナさんを見つめる。
彼が向き合った己の感情は……彼女への恋心に他ならない。
「僕は僕を守る為に逃げた。君を心配させたくないと理由を作り、思い浮かべたよくない未来から目を背けたんだ。最低だと罵られ――」
パチンッ!
綺麗にハッキリと、手と頬が反発した音が響く。
彼の頬は赤く腫れ、当たった手もほんのり赤く染まる。
「今のは……勝手にいなくなったことに対してです。私だけじゃなくて、みんなにも迷惑をかけたから」
「システィー……」
「でもそれ以外は怒っていません。だってヘルフ君の気持ちは……痛い程わかりますから」
彼女の瞳から大波のように涙がこぼれ落ちる。
僅かな時間で頬をつたり、ベッドの端に川を作りそうな勢いで。
その涙には一体、どれほどの感情が込められているのだろう。
愛情、悲しみ、憂い、切なさ……他人の私にわかるのはそれくらいか。
本当の気持ちは彼女にしかわからない。
その気持ちは彼にしか伝わらない。
「料理が……辛いって思ったことはありませんよ。悩んでいたとしてもそれは、ヘルフ君に美味しいと思ってほしいからで……私がそうしたいと思ったからです」
「それは君が優しいからだ」
「私だって、誰に対しても優しいわけじゃありませんよ? ヘルフ君が特別だから、大好きだからです」
「システィー」
お互いを思う気持ちが、涙と言葉になって溢れ出ていく。
もはや自分では止められないのだろう。
二人は手を取り合い、鼓動の高鳴りを確かめるように胸を合わせる。
「ユリア」
「……うん」
もう、私たちは必要ない。
後は二人の時間で、邪魔しちゃ駄目だと私も思った。
私たちは部屋を後にする。
去り際に見えた二人の涙が特に印象的で、記憶に残った。
涙とは悲しくて、切ないものだ。
私は生まれて初めて、あんなにも綺麗な涙を見た気がするよ。






